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  • ご挨拶 面接道の考究に向けて(2025.8) 

    ■深謝

    独立してマネジメントフロンティアを設立してから、あっという間に14年目になった。ここまでご支援をいただいた、クライアント並びに、アソシエイツとも言うべき関係者の方々に、改めて深く感謝申し上げたい。

     特にこの何年間かは、現場の仕事が繁忙で、ホームページに記事を載せるいとまがほとんどなかった。もともと私は現場が大好きで、間接的な活動に時間を費やすことをあまり望まなかったので、私にとっては好適だった。だが、ぼつぼつ、いくらなんでもと思い、また関係者にも言われて、ここで筆を執っている。ともあれ、余計なことを考えずに仕事に打ち込んで来られたと言うことは、誠にありがたく、幸せなことであった。

     現場が好きだということは、特定のクライアント企業の、特定の人物達の、特定の出来事、問題、その特定の解決プロセス、そしてその特定の方々の変化と成長に深い関心があるということでもある。この仕事にあっては、関わった人が成長したあかしを目にするほどの喜びはない。

     と言って、著書にもホームページにも、そういう特定の内容をじかに書くわけにはいかない。一般化、抽象化した表現を取らざるを得ない。やはりありがたいことに、そのような表現に対しても、一定のご支持を頂けることができたので、長い歳月を、コンサルタントとして歩むことができた。関係の皆様に、再度にわたり深く感謝申し上げたい。

     この間、たった10年あまりの間でも、世の中が随分変化したことにより、人材マネジメントや人材教育の分野も大きく変わったものだと思う。

    ■振り返り面接

     現在の私が、一番時間を割いているのは、面接である。振り返り面接、動機づけ面接とでも称すべき面接となる。対象となるのは、もちろんクライアント企業の役員、管理職、専門職、中堅社員等である。今さらカタカナのネーミングをするのもどうかと思い、振り返り面接などと呼んでいる。

     ある程度定例的に行うと言う側面では、コーチングに近い。が、上述各種「特定」のことにだいぶ踏み込んでいるという意味ではかなり違うのだろう。質問をして、相手の人に深く省察して考えてもらい、問題を解決する勇気を醸成することを支援するのは、もちろん最も基本的に重要なコンサルタントのスキルではある。が、その人が迷い悩んでいることに対して、仮説であってもこのように考えてはどうだろうかと踏み込んで勇気づけることが、必要ある時にはできなければ、コンサルティングとしては不十分である。
    また、私のひとつの領域である、コンピテンシー面接とも、少し趣が異なる。アセスメント的な目的はあまりないということだ。この場合の私にとっての主眼は、評価ではなく、相手の人たちが成長することにある。もちろん成長のための支援をするためには、相手の人が、今どの位置にいるかという正確な「測定」という意味での評価は必要となる。それは人事的な処遇につながる評価を意味しない。

     なぜそのように推移してきたかは、またの機会にゆっくり述べたい。ここでは、そうした面接をどのように行っているか、さわりだけを述べたい。

     一番大切なことは、面接対象者が、そうした面接を通じて自分の言動を、普段はできない深いレベルで振り返ることができたかということである。この点が、繰り返すが、コンサルタントに求められる最も基本的スキルである。

     そうした振り返りは、つまりは学びということであり、その人の啓発や成長にとって、必須のことである。教育とは、つまりは振り返りをもたらすことである。それも定期的継続的に。普段は実務とノルマに追われてなかなかそれができない。よって、何らかの仕組み、仕掛けの中で、自分の言動を鏡に映すように振り返ることが必要となる。ここで言う振り返り面接は、そのもっとも強力なツールだと思っている。
    本当に抜きん出て力量優れた人は(知的に優秀な人と言う意味ではない)、普段から深い自問自答をして、そういうことを自己完結的にできてしまう。が、一般的に言って、そんな人は百人に1人もいない。

     面接後に、「今日は、普段忙しくて、よく考えていなかったこと、見落としていたことを振り返るとても良い機会になりました。次の面接の日程はいつですか。」などと相手に聞かれれば、そういう効果が強く作用していることがわかる。あるいは、こうした面接の結果を、守秘義務と不問責の原則のもとに、人事担当役員や経営者などに報告した後に「ぜひこうした深い振り返りをもたらす面接を、ほかの社員にも続けていっていただきたい」などと言われると、コンサルタント冥利に尽きるというものでもある。

    ■心理的安全性

     そのコンサルタント側の基本的スキルは、ある側面を今風の言葉で言えば、心理的安全性を感じさせるということだろう。心理的安全性とは、空気のようなものであってはならず、面接対象者を保護するしっかりとした防具でなければならない。面接をする側に、この人には何を話しても「だいじょうぶだ」と感じさせるキャリアや感受性が伴っているということだ。この場は安全ですと、口先で言うだけでは不十分で、それを保障できる力があると思われなければならない。
    その上で、よく言われるように、適切な質問のスキルが重要になる。しかし、そうした人間力なり人生経験を感じさせない相手から、何かのハウツー本から切り取ってきたような質問をされても、誰しも本心から答える気にはならないだろう。その上に構築すべき、質問の具体的技術については、以前の拙著にもずいぶん述べたし、この短い原稿にて書き尽くすことはできない。またの機会に改めて述べたい。

     ごく最近発見された概念のように、あるいは流行のように、心理的安全性ということが論じられている。けれども、その種の考えは、私がコンサルタントになった頃から、優秀な先輩達はしっかりとそういう技量を持っていた。私の守備範囲の一つであるアクションラーニングの創始者のレグ・レバンスは、マネージャーたちを啓発する討議の場は、絶対に安全が保障された場でなければならないと言っている。レバンスがそのように述べたのは、もう何十年も前である。原理がシンプルであることと、それが容易に実行できるかには、天地の差があると、かのコーチングの神様ゴールドスミスも述べている。これもその例だろう。私達は、マネジメントの進歩とは関係のないはやりすたりに右往左往せず、本質を執拗に追求し続ける必要がある。自分を磨き、かつ、部下と社員の成長を望むのならば。

    ■面接道

    「だいじょうぶだ」と思われるという意味は、突き詰めて言えば、今、話していることが、さまざまなところに伝わっていって、あとあと変なことにならないという意味だ。あとで、上司その他からおとがめを受けるかもしれないと言うのに、わざわざホンネを述べる人はいない。正直言って、ここでしっかりとクライアント側に影響力を行使できないコンサルタントが少なくない。

     そういう影響力が持てないと、何でも守秘義務だと言って、面接対象者との対話内容を、厳重に鍵をかけて閉じ込めておくべきだと主張することになる。それでも、幾分かの効用はあるのだろうが、随分もったいない話である。そういう形式的な守秘義務だけを強調しても、目的に照らして不十分である。そういう場で交わされた対話は、何らかの形で、その本人の啓発と成長はもとより、組織の活性化に通じていったほうが一層望ましい。適切に活用すれば大いに効用と成果がもたらされる。守秘義務というのは、面接内容を悪しき目的に用いてはならないという意味であって、面接で話し合ったことを良き方向に活用してはいけないという意味ではない。そこを誤解している人が多い。

     もちろんそうした活用には、さまざまな配慮や注意深さが必要である。その詳細の方法を、今ここで述べ尽くすことはできない。が、ひとつだけ言うと、私はクライアント関係者に対して、「不問責」ということを徹底的にお願いしている。文字通り責任を問わないということだ。ある人が何をどのように感じたかと言う事実は尊重されねばならず、そのこと自体を責めても何の意味もない。そういうことを各クライアントの中で、相当にしつこく、コンサルタントとして経営者、役員などに申し上げている。

     ある人が感じたことを、すぐに正しいとか間違っているとか、意識レベルが高い低いと、評価したがる人もいる(存外に実務的に優秀な人に多いから厄介でもある)。それに対してもう一度言う。正しいか誤っているかを評価することよりも、その人がなぜそのように感じたのかを振り返って考えることの方がはるかに重要であり、はるかに値打ちのあることだと。

     単に質問のスキルではなく、面接者自身の人間的側面や、クライアントに対する影響力を含んだ面接技術を、最近私は、関係者と一緒に「面接道」などと呼んでいる。もうしばらく、その面接道を極める修業を積んでゆきたい。

  • 論文3点をアップしました。

    論文その一:「育成型コンピテンシー面接の活用」
    論文その二:「人事考課の3つの目的」
    論文その三:「人事考課問答」

    ❖上記論文を、アップいたしました。ダウンロードファイルにてご覧いただけます。コンサルティング&研修メニューからどうぞ!

  • 10分か20分の真実の瞬間

     私のような人事や人材に関するコンサルタントをやっていてうれしいことがひとつある。クライアント企業における、研修や会合の後、見計らったように、「ちょっとよろしいでしょうか」と尋ねて来る人がいることである。たいていは部下をたくさん持っている部長や課長であり、要するにその組織の中ではばりばりやっている脂の乗った人たちだ。しかし、部下の活用や育成に悩んでいる。それをズバリ相談したいわけだ。

     少しだけ説明が要る。実は、たいていの場合、質問に来たその人自身と、その部下を、私もある程度、場合によってかなり知っている。私も前職時代に比べると独立後は、ひとつの会社にて、人材改革なり、組織風土改善なりが結実するまでじっくり見届けるというか、支援申し上げることが多くなった。要するに、その会社の老若男女のキーパーソンと、コーチングや面接やその他の研修にて、濃い密度にて行き来をする。

     だから、そういう場面でも、「最近彼(彼女)の言動にこういうことがあったのですがどう思われますか」と問われ、私はあまり余計な質問をせずに、多くの場合すぐさま本題に入れる。

    ただしこういうときはまた、次の旅程の移動が差し迫っていることもまた少なくない。ぎりぎりの時間まで、なるべく濃縮して相談するように心がけている。

     人材の育成指導に関し、原則論を述べる書物とセミナーは、星の数ほどあるのであろう。この私も実はそのごく末席を汚すひとりに過ぎない。しかし、この世でただひとつの、上司と部下とその組織の組み合わせの中に起きてくる事柄には、原則論だけ述べても、全く役に立たないというわけではないが、どうももどかしい。

    また、当事者の苦衷を、私の側が共有していなければ、踏み込んだ助言はできない。それにはふつう時間がかかるのだが、この場合その前提が上述のように概ね整っている。その基盤の上で、具体的に速やかにホンネで意見交換ができる。つまり、この種の話の場合、たいていは相手(部下)の能力や意思の問題にしてもしかたないので、「上司であるあなたが今できることは何か、今やっていることはほぼ妥当か。」という本題に互いにずばりと踏み込めるわけだ。

    そうした真実の瞬間───たいていは20分以内くらいだろう───こそ、何やらコンサルタント冥利に尽きる気もする。

    私が最も長い時間を費やすのは、手法の研究開発や著述ではなくて、何よりもクライアント企業の方々との接触である。そこで得られた背景、脈絡、マネジメントの環境そして当事者の本心と動機などの分析である。そうしたことに、たぶん私は同業の人たちよりずっと多い割合の時間をかけているのだろう。

    その末の結びとしての、この10分か20分の対話が、相手の心に色々なものが深々と響いてゆくことがあるのだとしたら、これが学者の言う、私のささやかな内発的動機に基づく自己実現なのかも知れない。

  • 会社設立4年を経過して・・・・・いつまでも現場(フロンティア)に立ち続けていたいと

     早いもので、会社設立から4年がたちました。

     クライアントほかの関係者の皆様、スタッフの皆様には大変お世話になりました。文字では書き尽くせませんが、ここに改めて深く感謝したいと思います。

     お陰様にて、私はほとんどの日々を、現場の仕事か、その計画や報告に追われています。これはコンサルタント冥利に尽きる事で、これまた有難いことだと感謝致しております。学者でもビジネスマンでもないコンサルタントにとっては、研究でも内部組織運営でもなく、現場でクライアントの皆様にいかにご満足頂くかがすべてだからです。

     そうした有難い感謝報恩の日々とは思っています。少しばかりの悩みは、セミナーを開いたり、本を書く時間が今は取れていないことです。特にセミナー開催は、いろいろな方からご催促を受けたりして申し訳なく思っています。近い将来には必ず実施したいと思っていますので、もうしばらくご猶予くださいませ。

     若いころからほぼ同じ専門分野だったとしても、計30年近くを組織の中で過ごした経験や実務的現実感が、クライアントの皆様からご信頼、ご愛顧を頂ける源になったのかと存じています。皆さんと全く同じごくふつうの喜怒哀楽は、たくさん味わって来たつもりです。組織で長い時間を過ごした私にとっては、物事を美しく論じるのもよいが、どのように自分の組織に合った成果や決着につなげるかを考え、物事を図る方が、ずっと自然に身に着いたスタンスだったのかと思います。そういう意味では、人事制度や評価システムから取り組んでゆく例が多いとしても、最近は、キーパーソンの個々人の成長、能力開発に焦点を合せたミッションが増えて来ました。セミナーなどで、人事制度や評価要素をどう変えた所で、人が成長しなかったら値打ちが出ない、そうなるように制度を変え、しつこく運用しなければならないと私は言い続けて参りました。そう言うのなら、そうなるまでつきあってくださいよと、言われるケースが増えて来たのでしょう。

     コンサルタントは現状を容認せず、否定破壊して創造せよなどとよく言われます。その当否は別として、まずその会社、組織にどっぷりと漬かり込めるかどうかが先だと思います。私は状況が許す限りそうしたことに多くの時間を使っています。その組織のひとびとの歴史や痛みをある程度共有して初めて何かを言う資格が生じるのだと思います。

     それでも、私の分野の場合は、人の努力や貢献をやみくもに否定する所から事がスタートするということはあまりありません。もちろん、改善改革の結果、従来の評価を維持できない社員が生じたりするのは、この時節やむを得ないことです。しかし、それをもって成果としたがるような空気にはあまり喜んで同調する気持ちにはなれません(そうした結果を招いてしまった悲しみを関係者が共有しないと同じことを繰り返してしまうのではないでしょうか)。それよりも、経営幹部も含め、資質が普通以上の人がどれだけ成長したかのほうがはるかに重要です。もちろんコンサルタントが直接人を育てるのではありませんが、そうなるようにどれだけ場を整えるための働きかけができたかが分かれ目です。そういう働きかけを受け入れてもらうためには、その組織にどれだけ深く入り込めているかが鍵となります。

     そう言えば人の成長の分野では世界一のグル、マーシャル・ゴールドスミス先生の「トリガー 自分を変えるコーチングの極意」がつい最近翻訳出版になりましたね。もうお読みなった方もおられることでしょう。私は少し前に、原書を苦労して読破したと、友人達に少々吹聴していたらこうなりましたので、少し変な、がっかりです。まあ、あれだけの大家の著作が、まもなく翻訳されるのではと思わなかったのは、全くマネジメントとしてのリスク管理不足でした。でも先に原書で読んで、あとで訳書を読めば、先生の神髄が一層伝わるだろうと、自分を慰めています。要するに、人材マネジメントに携わる人にとって、先生の他のご著書と併せ、これまた素晴らしいものと思います。

     ともあれ、クライアントの人材の活性化という当社の使命遂行のために、力が及ぶ限りいつまでも現場(フロンティア)に立ち続けていたいと思っています。

    マネジメントフロンティア代表取締役 横山太郎

  • セミナー実施のご報告

    この1月23日に、日本CHO協会主催の会員対象セミナーが行われ、弊社代表取締役、横山太郎が講演を担当させていただきました。

    主催は、パソナグループがスポンサーとなった人事部長・人事課長層の会員制交流組織「日本CHO協会」様です。

    テーマは、「~社員の活性化をめざす~人材評価の質的向上の進め方」です。

    ①一般的人事考課 ②昇格考課、能力考課 ③格付け考課

    上記の3ポイントについて具体的事例を含めた説明と、ご参加者によるグループ討議を行いました。

    考課事例をもとにしたディスカッションでは、現場でのリアルな問題なども提示されており、各企業様における人事課題の奥の深さが感じられました。当たり前のことながら、人事の課題は尽きることがありません。

    熱心にディスカッションしていただきましたご参加の皆様に感謝いたします。

    また、こうした機会をいただきました日本CHO協会のご担当者様に心からお礼申し上げます。

  • 記事掲載のお知らせ〜人事マネジメント8月号〜

     皆様にお知らせ申し上げますが、人事マネジメント8月号に拙稿記事が掲載されます。

     お陰様にて当社はその後繁忙気味で、私も仕事に追われ、もろもろの記事アップが遅れがちとなり、日頃ホームページを お訪ねいただいている皆様には恐縮いたしております。
     そんな折り、 人事マネジメント様からのメイン記事のご依頼をいただきました。よい機会と思い、喜んでお引き受けさせて頂き執筆に着手しました。
     以下の仮題で、掲載を予定しております(8月25日刊行予定)。
     人材評価に関し、日頃セミナー等で私が訴えているナマの声がかなり表現できそうに思います。皆様のヒントになりましたら、幸甚に存じます。

    【 仮題 】

     自社に適した人材評価の進め方

      ~ハンドメイドな制度設計・運用で全社員の強みを引き出そう~

  • 実戦問答No.31:成果評価における事前事後

    以下最近ある場所で書いた文章の一節を引用する。

    「ひとつ重要であったのは成果評価における態度でした。多くの受講者が、事前の目標設定に載っていない重要達成事項を成果評価に加え、ポジティブに処理していました。これは事前基準のみによる誤った機械係数的評価手法が数多く流行し、かえって評価の妥当性を維持できなくなっている例が多い中では、むしろ珍しいほどです。従ってこれは、これからも大切に維持してゆかなければならない姿勢であり文化です。今後目標管理などを導入することの当否を論ずる際、かえってこの活力を損ねないよう留意が必要です。」

    これは、ある組織における人事考課者研修の際の情景の点描である。


    本当に珍しいと思った。必ずと言っていいくらい、今どきはどこの会社でも、事前の目標設定が何であり、それが何パーセントできたかを、ほぼ反射的にどの受講者も計算する。そしてそれで終わりになってしまう場合も少なくない。ざっと半分の人はそうだろうか。残りの半分の人は、上記のような変化に富んだごくふつうの事例に遭遇した場合、「何か変だな」と思っていったん迷う。たとえば期中に入ってから、大変な問題が生じ、その解決に大きく貢献したが、それは事前の目標シートには書いていないと言った場合だ。どちらの会社でもきわめてふつうに起きる事態である。迷った人のうち過半は、「まあしかし、ルール上そうなっているのだからしかたない。」とあきらめる。こうした評価の運用が、どれだけ公平でないか、納得性を欠くかはこれまで随分論じてきた。


    何か変だと言ってくる人がいても、会社側の回答は、「何が何でもルール通りにしてください」と言うのはやや少ないにしても、「ルールを尊重しながらうまく解釈、運営してほしい」とまで言うのがせいぜいである。言われた方はどうしていいかよくわからない。よくわからないことをいつまでも考えているには多くの管理職は繁忙すぎるだろう。結局うやむやになって、つまりは不公平な結果になる(だからそれを避けるために考課者研修が大切なのだが)。


    ところが上記の組織では、逆にほとんどの受講者が事前目標に何と書いてあるかは、参照した程度で、ごくおおらかに被考課者(管理職でなくて一般社員)が期間中に成し遂げた総量を事後的に見積り、総合的な判断に基づき結論をくだした。当然ながらたいへん妥当な結果となった。


    この場合考えさせられるのは、この組織が、成果主義が流行した時期も、理由はいろいろあるにしても、それを追わず、あわてて「最新」の評価システムを導入したりしなかったことである。だからマネジャーたちは、他人が与えた(不必要に精密な)モノサシによらず、自分の意思で自律的、主体的に判断をする。考えてみれば、成果主義以前には、それが年功主義か何主義かは別にして、すぐれた上司は皆そのようにしていた。その判断が狭くなるといけないから、時には客観的に比較してみようと言う事で研修が開かれた。誠に健全な研修開催動機である。


    人事制度は、運用の方がずっと重要であることがこうした時に痛感される。幸いこの組織のマネジャーの方々は、おおむね妥当な判断プロセスを経て部下を評価し、指導している様子が伺えた。もしめいめいに判断させたら、当社には未成熟なマネジャーが多いのだから、不公平極まりないことになると言うことを前提に置き、そうしたブレをなくすために「最新」の「精密」な評価システムを導入し、「勝手な解釈」をさせないほうが方がよい、と言うのが、成果主義流行時代に限らず、今もやや主流に近い考えではないか。


    実際にはそんな未成熟なマネジャーばかりの組織にはまず遭遇しないものだ。もしそういう組織があったとしたら、仕事がちゃんと回っているのか、が何より優先なので、評価のことなど論じていてよいのかと言うほどこっけいな話になってしまう。それとスキルが未成熟だからと言って手足をがんじがらめに縛ると、未来永劫に習熟はしない。それは他の仕事と全く同じである。その上、前述のように、従前には、アナログ的ながらそれなりに健全で妥当な評価の判断をしていたのが、不必要に精密なデジタルシステムにしたため、かえって、混乱し公平性を損ねかねないと言う例の方が多くなってしまった。よく聞かされた上記の前提は、事実の上でも理屈の上でも根本的に誤りなのである。


    これも毎度言うのだが、評価は計測処理と言うデジタルの世界ではなく判断と納得と言うアナログの範疇のテーマである。だから訓練がいる。これをデジタル化、つまり機械化して手間を省こうと言うのは、会社の中から人間性や情熱を排除しようと言うほど味気なく、むなしい話になる。


    「おおむね」妥当な判断プロセスと申し上げたように、全員が成熟して完成されたマネジャーであると言う組織もまた、まず現実にはあり得ない。だから練習してある程度そろえる。そういう事を繰り返し努力した上で、「さて、考課者のほうばかりでなくて、人事制度もそろそろ改善だね」と言う順序にするのが大切である(実際この組織ではそういう軌跡をたどった)。

    そういうプロセスを経ないでやたらと制度や評価要素をいじりたがると、そういう精密な道具を与えられた現場の方が全く受け身になってしまい、「使いにくい、合わない」と言い、つくったほう(会社、人事部)は「理解が足らないのでは」と言う。不毛の論議の最たるものと言うべきだろう。 


    さて、話を最初の点景に戻す。


    政治家の行動の評価は後世の史家がすべきであるとか、人の評価は布が棺(ひつぎ)を覆った時に定まるなどとよく言われる。至言と思う。


    組織の中の人事考課はそこまで気の長いことを言ってはいられない。と言って、何もかも事前基準を決めて即時に機械的評価しようなどと言う事がどれほど無益であったかはもう十分実証は済んだ。そんなにあわてる必要、実益がどこにあるのだろうか。


    変化が生じない組織や職場などはない。高位の役職者が低業績の弁明のために環境変化をやたらに用いるべきでないのは当然だが、考課訓練の対象となる一般社員の行動は、それこそ毎日が自分の意思では抗しえない変化に押し流されてゆく。事前の目標設定は、ごく特殊な組織を除き、評価の上ではふつうは参考にしかならない(では何のために目標設定をするのかと言えば、ドラッガー先生の教科書に書いてある通り、人と組織を成長させるためであり、精密な評価のためではない)。


    3月31日の期末を終えて、ほんの数日、1年間をふりかえって、所期の目標と、重要な変化と想定外の事柄を加え、事後的に冷静に評価すればよいだけのことだ(これに「成果」という言葉を使うと機械的な目標管理を連想するから、私は、なるべく「貢献度」「実績」その他の、事後的判断を連想させる言葉を用いている)。部下も、上司がそのように、大局的かつ公平に部下の行動を見ていることに安心感があるから、引き続き仕事に打ち込んでゆくことができる、と言うのが理想の納得感であり信頼関係である。妙ちきりんな事前計算式を与えられて電卓やエクセルと首っ引きになり、加減乗除とその確認を繰り返して幾日も費やしてしまうより、ずっと上司も部下も、そして会社にとっても健全きわまりない。評価と育成に関しては、そうした組織運営を指向したいものだ。

  • 昇進昇格の評価と「真実の瞬間」に基づく実戦力の評価

    先般あるクライアントで質問された。昇進昇格試験の論文が評価しにくくて困っているとのことである。いわば人の一生がかかった場面でそれは困ったので様子を聞いてみたが、なるほどそうかと思った。事前に時間無制限で関係者の知恵を絞りつくしたワープロ作成の図表入り論文を評価しているとのこと。それだと、こうした仕事を何十年もやっている私にもよくわからない。

    少し前だが「真実の瞬間」と言う経営書があって読まれた方も少なくないと思う。評価はその各人にとっての「真実の瞬間」をいくつか具体的に捉えなければならない。そうでないことをどれだけ多く積み上げても結局よくわからない。かんじんかなめの節目の判断決断行動をどのように行ったかの瞬間を捉えれば、それでその人のすべてがわかるとは言わないが、かなりの程度が評価できる。しかし、365日その人と昼食をともにして気軽な雑談をいくらしたところで、評価としてはわからない。ご自分がリスクを取って行動したことのない想念概念を、きれいな図表入りで論じられた文書は、極端に言うとそれと同じくらい人材の評価の上では、素材になりにくい。

    実際のラインの上司は、自分の部下のふだんの人事考課をする際、「真実の瞬間」は、ありあまるほどを見ている。だからこの場合は、どれだけ「公平」な判断(重要度の順位づけ、取捨選択)を行い、当の部下に「納得」させるかと言う問題になる。しかし、人事部や会社がこうした場面で評価を行うには、そもそも手元に確かな感触を伴う原始情報たる「真実の瞬間」がない。それをどう集めるかのためにさまざまなアセスメントの手法が発達した。そんな面倒な事を考えるくらいなら、昇進昇格の時には部門の評価の通りすればいいかと言うと、こういう節目の評価は、いろいろな意味で利害当事者たる部門だけでなく、会社側も関与すべきであることは今の時代では当然であろう。

    論文試験をアセスメントに使うなら、この例ではっきりしているのは、無制限自由の準備をして頂いた内容には、まず「真実の瞬間」は現れない。学校のようであっても、なるべく同時に時間を決めて一気に書いていただく必要がある。そういう時の文脈には虚飾のない本人の判断、決断、行動が現れるからである。

    しかし実際この方法は主流とは言えないかもしれない。これだと、ストレスがかかった状態で手書きされたものだから、おえらがたにとって読みやすいものではないからだろう。さてここが思案のしどころだが、人事部門でこうした面の評価を担当する方が、そうしたおえらがた同じことを言っていてはいけないと思うのである。見やすい、聞きやすい、読みやすいと言う事と、評価の公平性はあまり関係ない。このことは実戦問答5に随分と書いた。「真実の瞬間」は、そうした受け身な姿勢ではまず手に入らない情報である。

    こちらの感覚器を十分に鍛えていないのに、ふだんよく知らない人間を評価しようと言うのは無理と言うより、困った話である。そして慣れてしまえばきれいに清書された、逆にたいくつきわまりない総花的な文書を読まされるより、そうした原始情報の方が、この目的のためにははるかに読み取りやすくなるものなのである。

    これは面接の場合も同じで、昇格したら何をやりたいかなどと聞いても、能力評価としてはあまりわからない。過去に取った行動の動機、方法、結果、それをどう思ったかを徹底的に、つまり誠実な態度で根掘り葉掘り聞かなければ、その人の実戦力は決してわからないものだ。

    この場合、私が評価する対象として想定しているのは、知識の多寡、パワーポイントの表現力ではない。どこまでいっても実戦力である。国営企業でもない限り、会社の中で実戦力以外の何の能力を評価するのだろうか。そして昇進昇格の評価だから、当然ながら誰もが満足する結果などというものはあり得ない。だから誰もが最低限、「ああ、あの人が上がるのならしかたない」と言う受け止め方をされる必要がある。今日、それは実戦力以外にはないのである。

  • 人事考課のオリジナルケーススタディを書き終えたとき

    人事考課用のクライアント固有のオリジナルケーススタディを書き終えた時には、大変僭越ながら、少しだけ作家気分のようなもの味わっています。

    どうしてそう感じるのかと考えてみると、いちばんの理由は、会話を組み立てるときの作業にあるのだと思います。魅力ある小説や物語は、会話が活き活きしていて臨場感や現実感がとても高いものです。優れた作品は情景や心情の描写もさることながら、何と言っても会話の流れに迫真の力があり、感動を与えます。逆に言えば、場所がら立場がらや、状況の上で、こんな物言い、こんな言葉づかいがあり得るだろうかと読者に感じられるようなものは読んでいてもちっともおもしろくありません。

    人事考課のケーススタディも同じ原理なのだと気づいたのは、この仕事を20年以上前に始めて少したった時です。会社のビジネスや操業の現場と言うのは生き物ですから、なるだけそれをフレッシュなまま人事考課教育の教室に持ち込まなければなりません。食物の鮮度を保つ冷凍保存に当たる原理と技術が、この場合にも幾つかあります。

    そういうものを踏まえて、会社が選んでくれたインタビュー対象者に向き合います。最初の幾つかの質問を発し、活き活きしたお話が出て来るまでの、あのお互いぞくぞくとした気持ちと言うのは、私たちのような仕事にとってはまさにひとつの「真実の瞬間」です。活き活きしたストーリーと言うのは、たとえばコンピテンシー面接の社内面接官を行ったことがある方ならわかるでしょうが、そう簡単に機械的に出て来るものではありません。そういうことを話したい、ぜひ聞き置きたい(もちろん守秘義務厳守です)と言う相互の一心不乱なものが符合した時に糸が紡がれるように感じます。

    活き活きしたお話は、ここではまだ素材ですから、それら様々な素材を組み合わせ、味付けを工夫して編成し、物語(ケーススタディ)にしてゆかなければなりません。ここは本当に苦しくて楽しい作業です。今度は「専門職の瞬間」とでも言えばよいでしょうか。

    こうした真実の瞬間を経ないまま、抽象的な概念の講義やあるべき論、昔の大学者の学説的統計などを聞かされるのは、私も昔は会社勤めだったからわかりますが、たいへん退屈なものです。

    ケースが、会社の置かれた事業環境、当事者たちの立場や心情を踏まえ、本当に活きた会話、活きたストーリーになっている時、教室での討議は、受講者の方々に大変深いふり返りをもたらすことになるのです。

  • 最近のセミナーを振り返って

     お陰様にて、会社設立からあっと言う間に1年以上過ぎました。個々のクライアント現場の仕事が相当忙しくなってしまい、ホームページ上の諸コーナーの書きかけがなかなか進まず、読者の皆様には申し訳なく存じています。公開セミナーの計画も、これから改めてペース配分を考えてと言うところです。

    その公開セミナーにてこの1年間ご質問頂いた内容をふり返ると、やはり気がかりに思うのは、行き過ぎた成果主義の残滓とも言うべき現象です。簡単に言えば「細密すぎる評価システムをつくったがうまくいっていない、どう考えたらよいのだろうか」と言うことです。

    評価制度が精密である分だけ、社員のやる気が高まっていると言う論証があるならよいのですが、私はこの世界に30年身を置いてみて、そういうことは決して起きていません。むしろ逆ではないでしょうか。社員や部下がやる気を起こすのは、立派な上司や経営者に直接接触するからです。人事制度は自分の会社の構造や背景に合わせて普通(細か過ぎず、粗過ぎずに、そして何より奇をてらわずに)につくればよいのです。問題はその運用です。運用とは、突き詰めて言えば、仕事の面でも評価の面でも、人を十分に動機づけ使いこなせるマネジャーを選び、育てることです。これからの人事部門の最重要なテーマはそこにあるのではないでしょうか。そうでなければ大変な労力をかけて何のために人(正社員)を雇っているのかと感じます。

    と、こんな要旨を1年間(と言うよりこの10年あまり)話し続けて来たように思います。となると「上司によって考え方に差(ばらつき)がある、どうすればいいか」と続きます。これ以上書くと、セミナーで数時間話すことをここに全部書かなければならなくなりますのでやめておきます。

    これからも人材マネジメントや評価や人材開発の分野において、私流儀に、活動を展開してまいりたいと思います。皆様のご指導のほどをよろしくお願い申し上げます。皆様のご健勝、貴社のご発展をお祈り申し上げます。