(2012.02.18)
たわむれに、前々回にご登場頂いた今年の大河ドラマの主人公平清盛を、この18能力要件でもう一度評してみよう。よく知られている彼の後半生の行動と事実から採取したい。
1159年暮れ、42才の清盛は、熊野詣に出かけた。そのすきをねらって、都で藤原信頼、源義朝が京で挙兵して御所を占拠し、多くの役人、女官を殺傷した。平安遷都四百年の中でこんな蛮行をした者はいない。平治の乱の始まりである。むろん清盛の留守をねらっての挙兵である。
南紀でわずかな供しか連れていない清盛は窮地に立った。清盛は日頃から、信頼の無能や義朝の粗野を軽蔑していたことは間違いない。が、その仮想敵が、先例なしとは言え、このような暴挙に出るとは読んでおらず、のんびりと一族で物見遊山をしていた。だから、リスク感知という意味での「判断力」は少し甘かったかも知れない(結果的は相手が自滅し、彼の権勢が築かれると言う幸運を招いた)。このあと、取って返してどうにか堺まで戻ってきた清盛は、情勢を掌握しかねた。敵の威勢を恐れる余り、自信なさげに「四国にわたって兵を整えたい」と言った。これは武将としては、「説得力」や「インパクト」も不足気味だった。
そう言えば、この3年前の保元の乱の時も、うっかり日本一の豪傑源為朝(鎮西八郎)の持ち場に攻めかかってその強弓に射すくまされ、どうせ勝ち戦なのだからと別な持ち場に「転進」したことがある。いかにも清盛らしく勇気と言う意味での「決断力」は欠いているように見えるが、この場合はむしろ「柔軟性」に富んだ態度であると評価するほうが至当か。為朝ひとりがいくらがんばっても、勝ちはこちらだから、きちがいじみた豪傑を相手に大切な家の子郎党を損じてもつまらないという「判断力」もなかなかしたたかかも知れない。こうしたちゃっかりした処世が、清盛のいちばんの特色である。今日サラリーマンをやっても立派に勤まりそうだ。
つい少し前で、私は、同じ判断力でも、リスク感知の面はやや弱いと言った。同じ人物が、同じ能力要件において正負両方の行動が現れることは少しも珍しくなく、大切なことはその人物の行動を総合一貫して捉えることである。
しかし、さて、堺でのことだが、「今回はここで逃げては平氏も終わりだ、覚悟を決めて都に上るべきだ」と言う息子や弟の進言を結局は聞き入れて、上京を決心した。「決断力」はあまり得意とは言えないが、それを「人材の活用」で補っていたようである。それでも清盛は都に行くことがよほどこわかったと見える。なぜそんなことが私にわかるかと言うと、彼はこのとき堺の大鳥神社と言う古大社にいて、歌を一首詠み、その歌碑が残っているからである。
かいこぞよ 帰りはてなば 飛びかけり 育み立てよ、大鳥の神
今は、かいこ、つまり幼虫のような平氏であるが、京の都に帰ったあかつきには羽化した蝶のように空かけて飛べるように、大鳥神社の神よ、育んで欲しい、と言う意味である。都にはなみいる源氏の荒武者達が待ちかまえている。その恐ろしさを何とか打ち消そうと必死な思いがよく伝わってくる。そういう意味で、「ストレス耐性」は、武将としてはさほど強い方ではなかった。
しかし、それにしても何とまずい歌だろうか。かたわらにいたに違いない、嫡子重盛も、教盛、頼盛などの弟たちも、思わず下を向いて笑ったかもしれない。和歌の巧拙はマネジメント能力とは直接関係はないが、どうみても「創造力」があるようには思えない。そう言えば、この平氏一門は、歌舞音曲と和歌などに優れた人材を輩出したが、清盛はその経済的政治的基盤を整えただけで、自分はそうしたものにとんと関心が薄かったように見える。創造力はやはり薄いか、少なくとも恵まれてはいない。
まずい歌を、不安を隠せぬ正直な表情で、と言ってなかば虚勢ながら「おれの命はおまえたちに預けた」と言う態度を示されて、むしろ「こんな心のおやさしい棟梁だからわれわれが盛り立ててゆかないと」と結束を高めたかも知れない。その意味では、結果的に「人材の活用」もしくは「統率力」に転化したと言える。少しお人好しで臆病で、しかし、ちゃっかりと実利を取って、それを気前よく配分し、血縁者や家来を大切にする壮年までの彼は、よく人に慕われた。
後に源頼朝は、大江広元や三善康信といった京にいてはうだつのあがらない下級公卿のテクノクラートを現実政治に大いに活用し、また梶原景時のようなある種の毒物も、その能力面だけを見事に使いこなした。こうした組織的で冷徹な人材活用なら頼朝のほうが一枚上手だ。清盛の人材活用は、当時としてはきわめて普通だが血縁姻戚が多く、情感のこもった活用である。そう言う包容力、つまり「統率力」は清盛が上だ。頼朝の特徴は、何と言ってもそうした情感を排して統治機関になりきった「統制力」の方にある。
さて、この時実は、敵の信頼は決定的なミスをする。義朝の長男義平が、「自分が阿倍野(大阪府)まで進み出て、清盛の首を挙げてまいろう」と進言したのを退けたのだ。信頼にとって絶対に生かしてはおけない仇敵はまずは信西入道だった。まっさきにその信西を討ち取った以上、「清盛も自分に従うならそれでよい、事を無理に荒立てなくてよいのだ」。恐るべき「判断力」の甘さであった。清盛が、信頼、義朝コンビに最終的に従うわけがないではないか。
それにしても、上記の鎮西八郎為朝亡き後この時点の日本一の豪傑は、この鎌倉悪源太こと源義平である。わずか数百でも完全武装の兵に待ち受けられたら、まず間違いなく義平の言う通り、清盛は、義平の薙刀のさびとなっていたであろう。ここで、少しはまともな武将なら、悪源太義平のように考えるのがふつうである。従って四国に逃れたいと言った清盛の「理解力」、情勢「分析力」、状況「判断力」は、実はまず普通かそれ以上だったのである。重盛ほかの平氏一門の人々は、清盛ほどは責任がないから、積極策を主張した。それをついに容れて好結果を産んだ。人間の運命は古来こうした運命の分かれ目で、理知の判断を超えて怯懦を避けた時に光芒を得る。「決断力」は得意でないが、行動としては不決断ではない。
清盛は京都に戻ってからは、恭順を装い、信頼に家の子郎党の名簿を差し出してそのあかしとした。信頼はまんまとだまされた。その上で、警備のすきをついて敵の「玉」、すなわち二条天皇を奪取し、本拠地六波羅に迎えた。いろいろな物語ではこのあとの合戦開始以降が華々しいが、実質の勝負はこれでほとんど着いた。天皇を擁した側に弓引いて勝った例など日本の歴史に一例もない。日和見をしていた多くの武士が、清盛側に着いたことは言うまでもない。信頼の性格的な甘さを読み抜いての策略であり、機に応じての「柔軟性」、物事の先を読み通す「判断力」、術策をやり抜いた「統制力」はいずれも見事である。どうやらリスク感知が少々甘くとも、清盛の判断力は総合的には相当高いと言ってよさそうだ。
それでも、源氏勢は、天皇のいなくなった御所から、清盛の六波羅館まで攻め寄せてきた。驚いて思わず兜を前後さかさまに着けたと言う逸話はこの時のものである。その真偽は別にして、やはり「ストレス耐性」がさほど強くない清盛をよく物語っている。この時清盛は「背後の奥の間に主上がおわすのでご無礼ゆえかぶとをうしろ向きにかぶったのだ」と言ったという。この機知も「柔軟性」の一種である。
戦そのものは、数ではるかにまさった平氏が勝つ。例の悪源太義平は、戦に敗れたあとも単身清盛をつけねらい、彼ひとりを捕らえるために清盛自身ずいぶん大騒ぎをする。やはり「ストレス耐性」は苦手だ。義平はむろん捕らえられて、何の思案もなくすぐ斬られたが、三男頼朝は助けられた。人の運とは不思議である。
前々回述べたように、継母に押し切られ、頼朝を助け、他方、常磐御前の美貌に魅せられてその子牛若(義経)など三兄弟を助けてしまった。これは、「決断力」が足りないと言えば一応その通りだ。が、何しろ、ああした壮大な歴史絵巻上のかたき討ちは、この清盛と源氏兄弟がわが国で最初だから、それを先々まで読み通せと言うのは無理かもしれない。つまり当の本人にはそれほど重大な意思決定だと言う意識がなかったように思える。だからマネジメント能力を評価すべき行動としては除外したほうが、本当は公平とも思える。よって、ここで評価すべきは、マネジメントではなく、情けの厚い清盛の人柄だろうと言うのが私見である。しかし、結論は一応「通説」に従って、「決断力」の不足としておく。
長くなったので、平治の乱後の続きは次回としたい。