東北大震災の余震も止まない3月中旬、郷里で活躍していたひとりの幼なじみが、数カ月の闘病の末亡くなった。過去40年、親友であり続けた男が逝ってしまった。
訃報を聞いた時、約束の仕事で西日本にいたため、ご葬儀に駆けつけることもできず、お母上にお電話にて非礼を謝して、数日後、ようやくご自宅にて霊前に向き合った。この家郷の街で、40年間、互いのホンネを語り、お酒をくみかわした男が今はいない。お母上とご妻女に問われるままに、40年間の交流を、2時間余お話申し上げた(お子さんはいない)。お二人が初めてお聞きになった話柄も少なくなかった。少年時代の本当に楽しい思い出、青春期の酸味の強い語らい、互いに家庭を持ってからは、ほろ苦いおとなどうしの相談の数々である。それにしても、彼の明るいお人柄を映してか、服喪の慎みを思わず忘れるような愉快痛快な出来事も数々あった。
1年か2年に一度は、彼とそうしたことを夜更けまで語り尽くしたものだった。その翌朝は、いつも私を最寄り駅まで送って行くとご妻女に言いながら、やはり前夜来の話も尽きず、新幹線の止まる隣町まで車で送ってくれたのだった。途中、心配されたご内儀から、「道が混んでいるの?」と携帯電話がかかって来るのも常であった。「いやなに、いろいろ話の続きがあってね」。もうそれらを語る事もできない。互いの人生を、真に語れる友など、そう簡単に得られるものではない。
ご内儀のご配慮にて、数カ月前からの闘病は私を含む親友達には知らせていなかった。そして年賀状は全くいつも同じ調子だった。私はその日、遺影の前で声に出して語りかけた。互いに子供の頃から交わした地元の方言である。「おめえ、さぞかし、つらかったんべなあ・・・・・。また来るからな。さびしがんなよ・・・・・・。そっち側から、お母さまと奥様をしっかり守ってくんなよ。頼むよ・・・・・」
辞去する時、お母上が、「本当に、ご立派になって」とご落涙された。言葉もない。しばし黙したのち、「また参ります、どうかおすこやかにお過ごしください」と小声にて申し上げた。
この日は、もはや隣町の新幹線の駅まで送ってくれる友はいない。とっぷりと日も暮れた。運転間引きの在来線の駅の構内は、節電して薄暗く人影もまばらでだ。同行したもうひとりの友人と、その寒々しい待合室で、50分ほどの待ち時間、お通夜の代わりに、冷たい缶ビールを飲んで、懐かしい3人共通の思春期を語った。
早春は、どこかもの哀しい。
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