投稿者: 横山太郎

  • 実戦問答No.30:人事考課における全社的絶対考課基準の効用…部門間甘辛(あまから)調整など

    全社的絶対的考課基準または評価の相場観のことを前回述べた。これを反復的な人事考課者教育を通じてしっかり構築することにより、私たちは真に客観的で公平な人事考課を行うことができる。特に一次考課者が、自信を持って妥当な判断と評価をくだすことは、組織の活性化に必須不可欠な要件である。従って、全一次考課者が、良識に照らして適切に評価を行うスキルと基準を身につけていることが決定的に重要である。

    これがどれほど重要かは、人事担当者の実務のいろいろな面に反映される様子を述べた方がもっとわかりやすいかもしれない。今回はその代表的な例を幾つか挿話風に述べておきたい。

    ■評価の部門間甘辛調整

    まず、部門間の公平さ、ひらたく言えば部門間の評価の甘辛(あまから)の調整に対して大変有効である。

    この甘辛調整は、人事担当者にとって悩ましい問題のひとつである。人事側、会社側が、これをきれいに調整するモノサシは開発することは実際は不可能である。と言って言われるがままにしていたら、部門側は、どんどん甘い点数をつけたままにしておくに違いない。これは別段人間性の問題ではない。上司であれば、自分の部下の利益になることを少しでも行いたいと言うのは、むしろマネジメントに携わる者として自然な動機の発露である。管理職に対し、「なるべく部下の悪い点を見つけて減点しなさい」とはどんな会社でも決して言わないだろう。

    だから調整が必要になる。

    しかし、モノサシのない中での調整は、消耗戦のようなものだから、しだいにうんざりしてくるかもしれない。するとしだいに機械的になってくる。どの部門も定められたABCなどの評語の割合は、びた一文狂わないよう、ぴったり合わせてくださいと言うような方法である。

    これで2度と手を着けなくてよければ人事担当者としてはこんなに楽なことはない。しかし、これも長続きはしない。今度は、等級ごとに被評価者の母数の少ない部署から言われる。話をわかりやすくしよう。部下が2人しかいない部署で、1人がすばらしく優秀だからS評価をつけたいとする。とすると平均をBにするよう機械的に帳尻を合わせるためにはもう一人をDにしなければならない。そこの部署の部長や課長は、人事担当者に言うだろう。

    「いくらなんでもそれは困る。」

    「いえいえ、ルールですから。」

    「そんなルール守っていたら社員がやる気をなくす。柔軟に考えて欲しい。」

    「おたくの部署だけ例外と言うわけには・・・・ところでもうひとりの方のできばえはどうなのですか。」

    「こっちの人はまったく普通かちょっとましというところ。だから絶対にBにはしないと説明がつかない。」

    「そうはおっしゃっても・・・・・」

    「じゃあ、あいつがSを取ったから割を食ったおまえはDになったのだと言えばいいのかね。」

    「いえ、それは困ります。」

    「じゃあ、いいだろう、こういう時は実情に応じて、と言うことで。」

    「しかし・・・・・ではどうですか、たとえばもう少しゆるめてAとCにしては。」

    「それではどっちからも不満が出てしまう。」

    「いや、困りましたね・・・それにしてもSは高すぎるのではありませんか。」

    「いや、この人は評価に不満を持てば同業他社に転職してしまうかもしれず、そうなったら、当社のシェアや利益を奪う商品開発ができる人だよ。そうなってもいいのかね。」「そうならないようにするのが上司のお役割かと・・・・・」

    「だから評価の比率の調整を認めてくれとお願いしているんだ。きれいごとで優秀な社員を引きとめてゆくことはできないよ。」

    「困りましたね。この件は、そちらの部門の役員はご承知ですか・・・・・」

    誰が悪いわけでもないのに本当に困ったものである。

    先に言うと、根本的解決を図る道があるとしたら、もしもいつもSを取るような社員が、その等級にずっと滞留しているのが何よりおかしい。それが人事制度や昇格考課の運用が硬直しているせいだとしたら、そちらをなおすと言う根本を忘れてこうした現象にばかり追われ続けるのは生産的でない。

    まあそれは別論として、上記のような問題が、被評価者母数の少ない部署から次々持ち込まれるから、せっかくの効率的な機械的配分もすぐに崩れる。と言うよりもともとそのような事務効率だけを優先した機械的配分を永続させるのは、当然ながら人材マネジメントの原理に反する。限度程度はあるにしても、個々別々に調整をするのは、むしろ人事部門の本来の役割だろう。と言いながら、上述のようにそれがどれほど疲労感を伴う仕事かはわかって言っているつもりだが。

    ■比率を守らないのは不公平であると言われたら

    少しは調整をするようになると、今度は人数の多い部門や労働組合が文句を言いに来るかもしれない。被評価者母数の多い部署はこう言うだろう。

    「私たちの部署は、ABCの比率をきちんと守らせているのに、そうでない部署があるのは不公平だ。」

    実際人数が多いのはたいてい製造や販売などで、少ないのはその他の管理間接部門、研究開発部門などである。部署の数だけで言えば後者のほうが多く、つまり比率を守らなくてよい?部門の方が多くなってしまうのがふつうである。だが、人事担当者としては、母数が多い部門くらい比率を守ってくれないと運用が完全に崩れるから、そこは譲れない。

    しかし、人事の担当者が不公平だと言われて、特に労働組合に言われてはあとには引けない。どうすればいいのか。また機械的配分比率に戻すのか。それは永久に同じ問題を循環させるだけになる。

    ここで、もし、「実質的な公平は十分に図られていますから問題ありません。」と言えればいちばんよいわけである。

    「実質的公平」と何か。それが前稿から言い続けている「全社的絶対考課基準」すなわち「相場観」である。人事担当者としてはこう言えばいい。

    「当社では人事考課者全員が、全社的な絶対考課基準に照らして、部下の評価をくだす能力を持っています。そのためにここ数年だけを取っても、考課者訓練を繰り返し行って来ました。会社としてはそうしたマネジャーの方々を基本的には信任して人事考課を行って頂いています。」

    これでだいたいはおさまるものだ。

    相手がマネジャーならこう続ける。

    「あなたもそうした討議に参加して十分にそのような基準が共有されたことはご理解頂いていると思います。」

    これは、研修が前稿で述べたように活気のあるものであった場合にはとりわけ有効である。組合の幹部が、そうした研修にオブザーバー参加することもあるから、その場合には、これは同じように言えばよい。最後にはこう言えばいい。

    「もちろん、明らかにおかしいと思われるものが生じれば、こちら(人事部門)でもチェックし、必要によりご再考をお願いします。ですから、いちばん人数の多いそちら様は、基本的には原則比率を守って頂きたいのです。」

    こうした、部門間の甘辛の論議において、相手を納得させるためには、適切なケーススタディに基づく考課者研修など、全社的絶対考課基準を構築するための努力が日ごろから図られていなければ、説得力を欠くことは明らかである。

    ■それでも不公平な上司がいると言われたら

    組合幹部だとさらに言うかもしれない。

    「考課訓練をやっているのは結構だけれども、資質的にどうにも不公平な評価から抜け切れない上司もいる。だから、せめて比率くらいは全部門一律で運用してもらわないと困る。」

    こういう問答の成り行きは、人事制度運用の成否を分ける。最悪なパターンはこういう要請を鵜呑みにして運用規制強化を図ることである。それだと大多数のまともに取り組んでいる管理職はたまらない。実際このような話は、立場上言っているだけで、具体的事実を踏まえない観念的な主張または風聞に過ぎないことも少なくない。従ってまずはこう言うべきである。

    「それは、それは。会社が任命した管理職にこれだけ教育を行っているのに、そんなに問題のある者がいるとは知りませんでした。まずは徹底的に個別指導しますから、その者の名と、具体的にどれほど不公平でひどいのか、ご教示願えませんか。」

    「いや、そこまでは・・・・・」

    と言うのが私の経験上たいていの場合である。実体のない煙に驚かされて制度をしょっちゅういじっていたら、社員のほうはたまらない。

    たまには、具体的に告げられることもあるだろう。そこで初めて問題になるのだが、それは基本的に個々人のマネジャーとしての資質の問題である。そういう人がぞろぞろと、管理職のうち1割も2割も指摘されたなどと言うことは聞いたことがない。だから上述セリフは別段相手を黙らせるために言っているのではなくて本当にそう思うから迫力を生じるので、具体名と具体的事実が出てきたら、言葉通り事実を確認の上、必要なら本当に徹底的に個別指導するのである。それでも治らないなら、専門職に切り換わってもらうなどするしかないだろう。繰り返すがそこまでしなければならない確率はよほど低い。


    なお付け加えると、最初に「特例扱い」を求めてきた部下が2人しかいない部署との会話も一層実り深いものとなる。もし、日常から全社的絶対考課基準の形成と言う意味での人事考課者育成に努力が払われていたら、次のように質問できる。


    「さて、このS評価がついた方は、先般の人事考課研修のケーススタディの主人公と同等以上の貢献をしているのですね。」


    こういう臨場感のある質問には正直な反応が得られる。


    言下に「その通り」と言うこたえが帰ってきたら、その評価はまずは信頼に値する。「・・・いや・・・いくらなんでもあそこまでは・・・・」と言うような反応だったら、「ではどの程度ですか。」「その程度なら、今回はAにとどめておいてよいのではありませんか。」と話の間合いが詰まる。

     

    ■相対評価と全社的絶対考課基準


    ところで、絶対評価と相対評価のいずれにすべきかと昔から論議が尽きない。が、この場面のように、現実的に昇給賞与の額まで決めなければならない時には、最終的な評語(ABC)の配分比率は、多くの企業では現時点では現実論としては原則として維持するしかしかたないだろう(つまり相対評価)。全社的絶対考課基準とは、このできばえなら会社じゅうどこへいってもAで通用する、せいぜいBだと言う客観的相場観をつくることだから、それに基づき、最後に相対的に序列づけることとは少しも矛盾しないのである。


    「原則」が維持だから、ここまで述べたように、うまくゆかないところでは個々の調整が生じることはやむを得ない。と言うより、その方が、人材マネジメントの原理にかなっているのは、上述の会話から明らかだろう。私の考えは、相対序列づけが止むをえないと言ったので、本質的に重要なのは全社的「絶対考課」基準だから、全部署が必ずきれいに割合通りになる必要はないのである。配分原資はむろん有限だが、それを社員の活性化に最大限に活用するための調整活動は、繰り返すが人事担当者の本来の役割なのだ。



    ■部門内調整にも有効


    最初に人事担当者にとってのメリットを挙げたほうがわかりよいと思ってこうした例を述べてきた。「部門間」の調整も難しいが「部門内」の調整がふつうは先にある。たとえば営業部で、各営業課の評価の甘辛を調整し、部門として、社員の評価序列を決定する場面である。こちらは難しいと言うより、被考課者との距離がぐっと近くなるから、ぐっとなまなましく、日ごろの情念がぶつかりあう。ひらたく言えば、一層、無意識の不公平が起きやすい。こうした時の、全社的絶対考課基準の効用も、これまで述べてきたこととほぼ同じである。


    2次考課者の部長は、自分がよく知らない一般社員に高い評価がついていると、部下の1次考課者の課長にこう聞くかもしれない。


    「君、この人そんなにいいのかい。」


    これに対し「ええ、いいのです」ではあまり説得力はないだろう。と言って部長もあまりよく知らないのだから、日常の細かいことを説明してもたいして聞いてはいないかも知れない。「この間の研修のケーススタディの人と同等か、それ以上やっていますよ。」と言えれば簡潔ながらだいぶ重みが増すと言うものだ。こうした積み重ねの結果、2次考課者以上の方々が1次考課者のつけた評価を従来以上に尊重し、もしそれを変更しなければならない必要性を感じたとしても、熟慮をもって1次評価者と意思疎通するようになれば、組織の活性度は一層高まるのである。

  • 実戦問答No.29:人事考課における全社的絶対考課基準、相場観の重要性

    ■全社的絶対考課基準とは


    人事考課教育の目的は、全社的絶対考課基準の確立にある。ひらたく言うと、会社全体に共有された相場観である。もっと砕いて言えば、「当社の係長ならこのくらいはできている、当社の4等級社員ならこれくらいがふつうだ」と言う実質判断の共通基準である。つまりは、これが客観性、公平性の本質でもある。


    人事考課において最も重要なことは、客観性と公平性だと言うことに異論を唱える人はまず少ないだろう。納得性と言うのがまだ残っているし、それが同じくらい重要なことは確かだ。が、それには、客観性、公平性が絶対の前提条件である。大事さに差はないとしても、客観性と公平性が先に問われるのである。


    さてこういう本質的基準はいくら書いても文字に表しきれるものではないし、もし書けてもそれを印刷して配ったからと言って決して十分に浸透するものでもない。


    多くの企業は、人事考課基準をなるべく客観的にするために精密に細かくつくりこみ、さらに公平に運用するためその定義の解釈を説明する。そこまではまあよいとしよう。しかしこうした文書主義的方法だけで終わりがちで、それでは最終的かつ本質的な客観性、公平性は構築されていない。


    そうした書面主義の「教育」をいくら受けたとしても、そのあとで何らかのケーススタディを見たときに、考課者が20人も集まれば、どのような会社でも、同じ事例を同じ会社の管理職が読んでいるのに、評価結果は2段階や3段階、場合により4段階にも分かれるものだ。程度の問題もあるが、同じ行動を見たときに、ポジティブに見る人と、ネガティブに見る人が真っ向対立?することもある。これは放っておくのは少々問題だとわかる。


    ケーススタディ事例が示された時、なぜ同じ会社の管理職なのに評価がまちまちになるのか。彼ら個々人の「相場観」が異なることがいちばん大きな原因である。相場観とは、「ウチの会社のこの等級ならこんなものだ」と言うものだ。評価者は個々のマネジャーだから、個々の人生観、価値観はどう異なっていてもかまわないが、この相場観はなるべく大きな差がないほうがよいに決まっている。が、最もスキル未熟な評価者は、そういうことをあまり顧慮しない。


    たとえば野球ならば、最高年俸をもらうエースと、未勝利初出場の新人投手とでは、同じ先発ピッチャーを任されたとしても、責任、期待されるレベルがはるかに懸絶する。前者なら完投勝利を挙げて欲しいし、後者なら何とかゲームをこわさないように持ち味を出して欲しい、と言うくらい異なる。まさか初マウンドの新人が、いきなり快刀乱麻のピッチングができないからと言って、「あいつはだめだ、資質能力不足だ」とは誰も言わない。


    ■客観性、公平性確保のために上司に必要な自問自答


    そんなことは当たり前ではないか、と自分とは別世界の事なら誰でもわかる。ところが自分の目の前のたとえば5等級の社員に、それがあてはまらなくなる上司がとたんに多くなるのはどうしてなのだろうか。少なからぬ上司が、部下の行動を感じたままに評価する。「この部下の行動は、当社の5等級として、ふつうだろうか、よいほうなのだろうか、たりないのだろうか」などとはあまり自問しないで、そのまま評価してしまうと言う意味である。「全社的絶対評価基準」「相場観」と言った意味がおわかりいただけたろうか。


    こうした時、上司はむしろ情念の渦に巻き込まれていて、そのような冷静さを欠いていることが少なくない。たとえば手痛いロスをこうむった時に、「あの時、彼(その部下)がもっとがんばれば、あるいは深く注意していればこのような事にならずにすんだ」などと考えていることが多いと言うことだ。「彼の資格等級、キャリアから言ってそうしたことができたのだろうか。私はそれを期待するのが公平と言えるだろうか」などとは、あまり自問自答しない、と言う意味だ。人材活用の優れたマネジャーなら、なおこう自問するかも知れない。「そのような事柄は、管理職である自分自身が、先んじて彼に十分な注意を与えておくべき事柄ではなかったのか」。


    極端に本質を突き詰めれば、評価要素と言うのは、そうした自問の1か条だけでよいのだ。「この部下の行動は、当社の〇等級として、ふつうだろうか、よいほうなのだろうか、たりないのだろうか」と。まあいくらなんでもそれでは、と言うことで、責任性、協調性から始まって数々の評価要素をつくる。だが、それらをどれだけ精密に定義づけても、この種の事は解決できるものではないし、やり過ぎると「複雑すぎてわからない」と言われてかえって混乱を招くのがオチである。成果主義の失敗例の多くはこれに属する。


    上記の「相場観」は、書類の読み解きではなく、ここが肝心だが、同僚管理職との討議、対話の中でしか形成されえないものだ。そのためには討議されるケース、事例が適切でなければならないことは言うまでもない。その上で、同じ事例、行動を見たときに、ある人はAだと言い、他の人はBなりCなりだと言うのは、各人が、全社的でない自分だけの「相場観」──これは個人の「価値観」と言うべきものだろう──で評価しているからである。


    価値観と言う言葉は、会社や個人の哲学を語る時には良い意味で使うのが普通である。その通りで、仕事そのものは、大いにおのおのの価値観で進めればいい。が、こと評価を公平に行わなければならない時に、個々人の価値観ほどじゃまになるものはない。


    ■個人的価値観と客観的相場観

    以下のような人事考課研修中の討議を考えてみよう。

    山田:「この人は、上司と約束したことができていないね。これじゃよい評価はつけられないよ。」

    鈴木:「君ねえ、うちの会社の5等級だったら、このくらいできたら、まずはいったんよしとしなければ、先に進まないんじゃないの。」

    山田:「だって目標設定で言ったことができていないではありませんか。」

    鈴木:「だから、それは考えてみれば難し過ぎることを期待したのではないかな。」

    山田:「そうかなあ・・・・・でも多少難しいとしたって、この人は大きく育つよう期待されてこれだけの役割を与えられ、やると自分で言ったのだから、もっとやって欲しいのよなあ。」

    鈴木: 「まあ期待するレベルをどうするかは上司個々人の自由かもしれないが、今日は、まずは評価がどこが妥当かと言う話でしょう。」

    山田:「あなたの部署の5等級は、こんなものですか。」

    鈴木:「いや、恥ずかしいけどここまで行っていない人も少なくないですよ。だから、うちの会社の5等級なら、この例はまあがんばっているほうではありませんか・・・・・」

    こんな討議を、具体的事例を置いて徹底的にやって欲しいわけだ。鈴木さんの最後の「うちの会社の5等級なら、この例はまあがんばっているほうではありませんか」と言うのが、本稿で言う全社的絶対考課基準へのアプローチである。考課者教育にあっては、せっかく忙しい管理職を集めるのだから、人事考課表の定義を読み上げ説明するのはほどほどにして、こうした討議が徹底的に行われるよう、設計運用することが何より大切である。


    少しくらい難しくても期待されて担った役割ができなかったのだから、評価は低くても仕方ない、と言うのが、上述の個人的価値観である。その課題が、本人の資格等級を踏まえ、結果から見てどれほどの難しさやボリュームがあったかを判断するのが、全社的絶対考課基準であり客観的相場観である。


    個人的価値観と客観的相場観が混同される典型が、上述会話のような、「評価と指導育成の混同」である。この二つをごちゃごちゃにしてしまうと、評価はたいてい客観的でも公平でもなくなる。せっかく預かった部下だ。誰だって情熱を傾け、大きく育って欲しいと思うだろう。それはよい上司たる必須要件でもある。しかしその指導育成上の理想水準レベルを評価基準にしてしまったら大変である。そういうものは、上司によってまったくばらばらなのだから、どれほど不公平なことになるかは容易にわかる。


    だいたい資質有望な部下ほど試練を与えるのが普通であり、それは正しい。だが、同じ資格等級にいる同僚に比して評価基準までもそれにつれてどんどん高まるのでは部下もたまらないだろう。育成においては理想を追うのはよいが、評価は現実に基づくほうが妥当である。この区別とコントラストを微妙かつたくみに描けるのがすぐれた上司だと思う。


    ■「これだけがんばっとる人に」


    先日ある会社から依頼を受けてつくった、被評価者が係長級の「オリジナルケーススタディ」を、さっそく管理職研修にて討議して頂いた。当然ながら当初の評価は一致しない。個々の評価要素ごとのすりあわせが続き、研修も後半になった。頃合いを見たように、ある課長が私に向かっていった。


    「横山さん、うちの会社にこんなにがんばっとる係長なんておらへんと思います。そやから、私は、迷うことなくS(最高評価)をつけたのですが、横山さんは、このケースの作者としていかがですか。本当に、こんなにできるやつがうちの会社にふつうにおると思うてはりますか。」


    研修所は東京だったが、この方は近畿地方からいらしたようだ。


    「さて・・・・・部外者の私の思いはいったん置いて、討議してみてまわりの皆さんはどうでしたか。」


    「いや、それが、私と同じでSの人もおったけど、合わせればAとBの人の方が多い。『あんたら、これだけがんばっとる人に、まだケチをつけとったら、うちの会社は若手が誰もおらんようになるか、反乱起こされまっせ』と言うたんですわ。」


    「それで・・・・・」


    「まあ、しかし、私の説得力が足らへんのか、グループ見解は結局Aに落ち着きました。『だいたいわしら(管理職)の中で、係長の時、これだけがんばれたやつがどこにおるのや』と言うたら、同じグループの田中さん(仮称)が、『あんた、それとこれとは別ですがな。昔は昔、今は今や。今の方が経営環境が厳しいんやから、部下への期待水準も昔より高うなるんはあたりまえやで。そのぶん、あいつらのほうがしっかり教育も何も受けとるんやから。』と言わはりました。先生、今日の勉強会、わしらはそんな意識でええんでしょうか。」


    教室中が大笑いになった。

    受講者であるこの方が、講師として締めくくるべき事柄も何割か話してくれたので、研修はとても参加型のポジティブな雰囲気のもとに終わった。この方の発言の冒頭のほうの、「うちの会社にこんなにがんばっとる係長なんておらへん」と言う考え方がここまで繰り返し述べてきた「全社的絶対考課基準」であり、「相場観」である。その水準を(この人の主張通りにはならなかったとしても)、管理職どうしで十分討議して妥当なコンセンサスを形成することは、人事考課者教育の最大の眼目である。こうした発言が受講者のほうから出てくる時は、評価スキルも相当習熟が進んで来ている証拠と言ってよい。


    こうした大局的な見地を抜きにして、被評価者の部分部分の一個一個の行動を、いきなり評価表の細部の定義と照らし合わせる作業をすると、たいていは妥当な結果にならないものである。評価はマネジメント上の判断であり、科学的機器による実験測定ではない、と私はこの仕事に就いてからずっと言い続けてきた。人事考課力はマネジメント能力であり、とくに判断力である。こうした大局的相場観を養うには、繰り返すが、同じ会社の管理職どうしで討議をするしかないのである。


    こうした、マネジメント能力、判断力の本質は、そうした対話を通じて本人が体得するしかなく、紙に書かれた判断力の定義や絶対考課基準を丸暗記したところでそのマネジャーの評価能力はさして高まらない。繰り返すが、それは書き文字からは決して伝わらない内容だからだ。当の管理職達自身が、経営環境の変化に合わせ、いつも深く考え、探り当てていなければならない実感としての基準である。だから時々討議をして発見しなおし認識を深め、共有の暗黙知にするしかないのだ。人事考課者教育を、何年かに一度などと定例的に行う会社が多くなったのは、このあたりに本質的意義を見出している。


    そこにはキャリア豊富なマネジャー同士の暗黙知と呼んでもよい評価基準のエッセンスが積み上げられる。そうした全社的絶対考課基準は、現時点において未成熟なマネジャーが視野を広げる最高の教材である。もちろんふだんからそのように視野を広げる努力はもちろんしたほうがよい。が、日常お忙しいからなかなかその気になってもらえない。そういう方はたいてい「そんなよけいなことをいちいち考えていたら、いつまでたっても評価が終わらないし、時間がかかってしかたがない」と思っているからである。そういう意味で、適切なケーススタディを用いた考課者研修は、そうした公正な評価判断基準形成の必要性を痛感する良い契機となる意味が大きい。

  • その33:18の標準マネジメント能力要件…インパクト

    ■インパクト

    人に強い印象を与える能力である。対面影響力とも言う。

    どんなになかみの良いことを言ったとしても、印象に残らなければ決してそれが実行に移されることはない。つまりその人にとって成果が上がらない。たとえば会議を開いて多くの人が発言する。肩書による影響は別にして、不思議と何を言ったか記憶に残る人とそうでない人がいる。前者の方が目的を達する上で有利なことは明らかだろう。そこでふつうは、懸命にキャッチフレーズを練ったり、きれいな資料をつくる。もちろんそうしたものは、インパクトの補助具なのだが、そうした工夫に富むのは、どちらかと言えば創造力分析力の守備範囲である。マネジメント行動としてのインパクトは、基本的には、人間そのものの存在感である。

    どうしたらインパクトを高めることができるのか。

    第一はキャリアである。

    例えば西郷隆盛のような人がインパクトが強いと言うことは誰でもわかる。ではインパクトとは彼のように、巨顔巨躯とならねば得られないのか。そうだとすればインパクトはまったく天与の資質となり、学びようがない。しかし、西郷のインパクトの本質は、彼の高潔な人格、至誠一貫な信念、他人をいたわる仁慈から生じているのである。ただ巨躯であるからと言って大勢の有能な明治維新の志士たちが彼につき従うはずがない。そしてその本質の方は、どう考えても生得のものではなく、大変な克己と努力つまりキャリアに依ったものである。

    このように、私たちのまわりにいるいわゆるインパクトの強い人は、例外なく、そうした自助のプロセスを経てそのようになったはずである。そこにマネジメント能力要件としての意義がある。

    ではなぜ西郷はそのように高潔な人格たり得たか。無数の要因があるとしても、最も重要なのは、彼が若年時に志を得ず、奄美大島、沖永良部島と、二度も島流しにあったことである。特に環境劣悪な二度目の遠島から鹿児島に戻った時の西郷は、誰が見ても別人の観があったのではないか。その間彼は、自己の生死と向き合い、放下(ほうげ)の境に入り、天の命ずるところを待った。そして天はあたかも彼のそうした変容を待っていたかのように、革命家としての使命を改めて西郷に与えた。

    西郷と言えば、相棒は大久保利通である。この人のインパクトは、一般論で言えば西郷には及ばないだろうが、やはり常人を抜きんでる水準ではあったようだ。会う者をしておのずと粛然とさせる威厳は、まさしく「静かなること林の如し」と言う強いインパクトを人に与えた。西郷のインパクトがどちらかと言えば、慈愛からもたらされる親和性インパクトの典型とすれば、こちらは威信性インパクトの典型だろう。

    大久保のこれもまた生得のものではない。むしろ青年期までの大久保は、胃弱でむしろひよわな印象すら与えたかもしれない。彼が私たちの知る大久保利通へと変容を遂げてゆくのは、父親が藩の政変に連座して役職を解任され、一家が塗炭の苦しみにあってからである。

    より多くの艱難辛苦、今日風に言うなら自らリスクを取ったキャリアを、より多くくぐりる抜けるほどインパクトは向上するようだ。

    キャリアは、ただ年数が長ければ良いと言うものではないが、あまりにも短期間では形成できないのは明らかである。

    そこで、第二に、すぐに取り組めることはないかと言うことになる。

    自分の言った言葉に信念を込める、自分が心を込めたことしか言わない、自分の言葉が相手に届くよう深く意を用いる。これならそう思ってそうすればよいのだから今日からでもできる。言い方を変えれば、思いつきをすぐ口にする、長々と不必要な説明をする、と言った行動がインパクトをとても削いでしまうことは明らかだろう。言葉に信念を込めるには、深い思案が必要である。深い思案がこもった短い言葉と揺るぎの無い冷静な態度がインパクトを形づくる。もっともこうした時に「感受性」のない人だと誤解されないように気をつけなければならないが。

    最近はテレビに政治家や経営者がたくさん出てくる。こうした信念が言葉にこもっているかどうかは、われわれ国民の目から見ると、キャスターの質問が適切である限りは、彼らの表情、反応の言動からたやすくわかるからテレビと言うのは便利である。つまりは、それがインパクトである。

    男子は四〇才を過ぎたら自分の顔に責任を持たなければならないと言ったのはリンカーンである。一般にマネジャーの顔には、上述のようなキャリアの集大成が、ありありと現れている。その度合いがインパクトなのである。

    塩野七生先生の作品に「男の肖像」と言うのがある。「中年以上の男の顔を観察するほど面白いものはない。」と言っていた。「それは美醜の問題ではなく、その人の生きざまそのものが現れてるからなのだ」と言う。塩野先生に観察されてはたまらないが、インパクトと言うことの本質が良く現れている。

  • その32:18の標準マネジメント能力要件…独自性その2

    さて、せっかくの独自性だから、少しだけカリスマ経営者の行動例に学んでみよう。上述渡辺美樹氏ご自身の例を挙げてみる。氏が最も独自性を発揮した場面は、それにふさわしく2度の真の自立を果たした場面であると思われる。

    一度目は、大学を卒業して会社設立の資本金300万円をつくるとき。彼ほどの才弁があればセールスマンをやって稼いでもよかったし、実際それは容易にできただろうとご本人も言う。しかし、どうあっても起業資金は自分が手を汚し、体を酷使してつくりたかったのだと言う。そして勤務条件の酷烈なある宅急便会社のセールスドライバーを勤めあげおカネをつくった。このくだりはベストセラーにもなった高杉良先生の小説「青年社長」に詳しい。読むと渡辺氏の凄まじく強靭な意志がよく伝わってくる。現代版「臥薪嘗胆」の趣である。

    「ガシンショウタン」とは、敗戦の屈辱を忘れないために、硬くごつごつした薪(まき)を枕にして眠り、苦い苦い肝(きも)をなめて、日夜その恥をそそぐことを自らに誓ったと言う中国古代の故事である。経営者としてその後数十年、難局に立ち向かう時には、この時の苦しさと志の原点を渡辺氏はいつも思い出されたに違いない。まるでわざわざそのようにしたかのようである。

     こうした渡辺氏は、自分には起業資金はまったくないがアイデアならあるなどと称して持ち込んでくる輩には絶対に会わないのだと言う。自立心(独自性)のない人物とはつきあわないと言うことだ。

    その後、居酒屋「つぼ八」のフランチャイジーとしてそれなりの成功を遂げ、かつ、つぼ八本部に、違う業態だからと言って今の「和民」(ワタミ)を立ち上げることを念願かなって了解してもらった。ところが、ある和民の店の近くのつぼ八の売上が激減してしまった。驚いたつぼ八側は態度をひるがえし、和民を続けるなら、つぼ八のフランチャイジー13店舗の看板はすべて返せと迫ってきた。上記はたまたまそうなったが、その時点では和民はまだ全体としては赤字なのに対し、つぼ八13店では、年間3億5千万の利益が出ている。それをすぐ取り上げられたら、時をおかずして会社がつぶれてしまうではないか。

    むろん、渡辺氏の夢は、自社ブランドとしての「居食屋」業態として上場企業となり、日本一の外食チェーンをつくることである。それを社員にいつも語っていた。つぼ八の優良フランチャイジーにとどまり続けることではない。だから、つぼ八で上がる利益を確保しながら、和民への投資を続け、これをじっくり大木に育てる。そういう皮算用だったはずである。しかしここで二者択一をいきなり迫られてしまった。運命の神はこうした時、真のアントレプレナーには、安全な道を許さず、なぜか非情な試練をお与えになることが多い。

    ここで氏の取った決断は、尋常なものではなかった。会社がつぶれるつぶれないより大切なことがある、和民が和民らしくなくなったら存在する意味はない、社員は皆自分をうそつきだと見透かすだろう。自分の言行を一致させる決心をして、次々つぼ八の看板を下ろし、いま私たちが知っている和民になった。独自性が問われる意思決定は、このように、主体の人格と運命そのものが問われる。そして渡辺氏は賭けに勝った。

    繰り返すが、このような行動は、独自性が最高レベルな状態である。そして子供のように、人に何か言われるたびにふらふらと影響されるのが、独自性の原初状態である。私たちはたいていのその途中のどこかにいることになる。そして組織上の役割の遂行において独自性が必要な程度は、置かれた環境により異なるようである。

    まとめると独自性には、幾つかの要素があり、その総合の程度となる。第一に自責性。これは既に述べた。第二に、自律性。これが最高度になると、渡辺氏のように使命感になる。自分が何に深くコミットメントするのかが不明確では、自主独立は完結しない。

    第三にそれを支える、生活力である。渡辺氏の力量がけた外れであるのは別にして、いくら自主独立の人でも、一人だけで仕事はできないのだから、業績を上げる力が裏打ちされていないと、誰も協力する気にならない。なぜなら自責、自律、使命感に富んだ主張や言行は、その種のものを見聞する人にとってはひどく違和感を与えることが多いからである。そうしたとき、業績を上げる力が人から感じられないと、誰もついてゆかない。変人奇人と独自性の差はここである。

    伊藤忠商事の経営改革を成し遂げた丹羽宇一郎氏は、ひどく端的に「カネの匂い」がしないようではビジネスマンとしては半人前だと述べておられた。表現はともかく、自主独立を成立させる不可欠の要素である。

  • その31:18の標準マネジメント能力要件…独自性その1

    この稿の執筆を、ずいぶん時間をあけてしまった。ひとつには少し忙しかったこともあるが、主たる理由は、この独自性と言う能力要件の説明の難しさである。

    私たち組織人やサラリーマンが最も発揮しにくいのがこの独自性である。独自性とは、深い経験に裏打ちされた自身のマネジメント上の信条に基づく揺らぎのない自主独立の意思決定と実行である。だいたい組織の中で、社長や重役でもないのにそうした主張をすると、よほどの条件が整っていないと、まず大変な目にあう。「出る杭は打たれる」ことはほぼ間違いない。場合により排除されてしまうかもしれない。その主張や言動の妥当性とは全く別次元である。物の本に何と書いてあったとしても、出る杭を望む上司は、せいぜい百人に一人だろう。どう見てもこの独自性が抜きんでて高く見える、セブンアンドアイホールディングスの鈴木敏文会長は、その自著に「私のように物をはっきり言う者は、大度量の伊藤雅俊オーナーのもとでなければ3日でクビになっていただろう」と言う趣旨をおっしゃっている。至言である。

    そういう行動がどれほど「危険」かは別にして、組織というものは、時にはそうした行動が現れないと、危機を克服できず、やがて衰亡することは確かだろう。先の福島の原発事故処理の初期段階で、やや軽率と思われる国の指示に断固従わずに自らの信念を貫いた現場の所長がいたことは、私たちの心に強く残った。あのような自主独立性に裏打ちされた行動がなければ、今も収束できないこの問題が、一層の混迷を深めていたであろうことは想像に難くない。

    かつて、アサヒビールの頽勢を救ったのは言うまでもなくメガヒット商品のスーパードライだが、 辛口でキレのあるビールと言う当時としては全く独自性に富んだ商品コンセプトを主張したのは松井康夫氏だった。当然、常識に反したそんなものは売れないと言う反対がたくさんあったが、それを乗り越え、文字通り救世主の商品となった。

    このように、組織の歴史を紐とけば無数の事例があるが、危機や衰亡の淵に瀕した時、組織には真に自主独立の行動が求められ、受け入れられる。本当は危機や衰亡に瀕しない、普通の時や成長期にそれが現れた方がよいに決まっている。かつて成長期だったソニーやホンダの物語のうち質の良いものを1冊2冊読めば、ああした風土にあってはそういう行動がごく普通であったことがよくわかる。

    起業家、アントレプレナータイプを自認する人だったら、この独自性はふつうの人より飛びぬけて高くないと事業成功の見込はまずないだろう。たとえばスティーブ・ジョブスや孫正義氏の独自性が尋常でないことは、誰が見てもわかる。こうして独自性の典型的事例と言うのは、どうしてもパイオニア的にあらゆる困難を打ち破ってきた創業的大経営者によるものが多くなる。そうしたストーリーはもちろん痛快ではあるが、私たちの日常とは少々異なるようだ。そうした内容を書いても、この稿にあってはあまり実戦的ではないかもしれないと迷い、それでペンがつっかえていた。何とかふつうの会社員の日常に置き換えられないものかと思っていた。

    そう考えると、独自性は、その発露の初期段階では、ふつうの組織人が、まっとうな目的のもとに自分を守るためにも用いうる。

    比較的若手(と言っても30代後半くらいの人まで含めて)の研修をお手伝いしていてよく出てくるフレーズが、「上司にこういう言い方をされたからちっともやる気がしない」である。その気持ちはよくわかる。そしてこういう時は独自性の分かれ目である。

    「やる気がしない」から本当にやらない、力が入らないと言うことだとしたら、残念ながらその人の独自性は、現在は少し低い。これは典型的な他律性である。つまり自律性の正反対だ。

    自律性が高い人はそうは考えない。上司が何であれ、何を言おうと、自分が行うべき仕事や役割、追求すべき専門分野が変わるわけではないのである。つまりぶれない。だから上司にいろいろつまらないことを言われたらおもしろくないし、そういう上司を尊敬できないと言うところまでは誰でも同じだが、その先が違う。自分を磨く行動をいささかも変えないのである。もっと自立心の強い人なら「早くあの上司を追い抜こう」と思うだろう。

    話を上司の側に転じると、これを悪用して「やる気になるかどうかは部下自身の自己責任だ」などと言ってはもちろんいけない。上司はあくまで相手の状況、能力に応じて、動機づけを図らなければならない。これは当たり前である。プロ野球の名物監督だった野村克也氏は、やたらと選手をほめないと言うことをひとつの信条としておられた。が、それはサラリ-マンの世界とは前提の根本が異なることに注意が必要である。プロ野球なら、昔ほどではないにしても、入りたい人はいくらでもいるのだし、入った以上速やかに不可欠な戦力にならなければやってゆけない。そうした人たちをいちいち小さなことを見つけてほめて動機づけるなど言うのは、とりもなおさず相手を一人前扱いにしていないと言うことだ。他人から動機づけられなければ努力しないと言うような選手が第一線で活躍できる見込みはまずないのである。この場合、自律性は、職業の前提要件である。

    しかし私たちがごく普通の組織でごく普通の部下、つまり自律性が完成していない部下を預かったら、細心の注意を払い、動機づけ、励まし、時に注意したり叱責したりしながら使いこなし育ててゆく以外にない。

    話を戻すと、それほどやすやすと上司に言いたい放題の雑言を言われるのだとしたら、上司の人格の評価を論じる前に、自分の自立、独自性が足りないことに思いを致したほうがずっと生産的である。こうした場合、たいていは、部下のほうが、準備不足、思案不足、覚悟の不足等々、要するにすきだらけである。上司と部下とで、すきをうかがいあうのがよい関係だとは私も思わないが、そういう上司ならしかたない。まずは自存自衛のために、防衛的独自性を構築するしかない。それで自分の注意深さが高まれば、そんな上司でも、自分の向上に結果として益したのだ。

    以上に関連して、ワタミ創業者の渡辺美樹氏の著書「強運になる4つの方程式」に、面白い場面があったことを思い出した。読者からの質問に答える場面である。

    その質問は、要するに、いろいろあって上司とうまくゆかなくて悩んでいるがどうしたらよいかと言うことである。こういう悩みを持つ人は、日本中に何百万人もいるに違いない。こんな時多くの評論家、行動科学者、教育の先生は、「その上司の悪い点ではなく良い点はどこか」「相手を変えるのは難しいので自分を変えられる面はないか」などとアドバイスをするのが常である。こうした助言は、一時の気休めにはなっても、たいてい問題の根本解決にはならないと、実はほとんどのサラリーマンは感じている。お経のようなもので、何十年もそう念じていればその本当のありがたみがわかるのかも知れない。なかなかそこまで待ってもいられないので、「まあいずれ上司か自分かどちらかが転勤するまでのことだ」とそのくらいには割り切って勤務できれば、前稿の「ストレス耐性」はまずは普通以上に強いとは言える。人と人とは、特に利害と好悪の感情がからんだ時には、そう簡単にわかりあえるものではないのだ。

    しかし、渡辺美樹氏のアドバイスは、いかにも氏らしく、上記のような評論家的なものとは、およそかけ離れた雄渾なものだ。「上司のレベルがあまりにも低いために悩んでいる場合も、そういう上司しかいない会社を選んだあなた自身の責任なのです。レベルの低い上司が悪いわけではありません。」と、まず問題の本質を一刀両断している。そういう人ができることはふたつだ、と言う。第一に、その上司と戦い、2段上の上司と話し合い、自分のポジションを構築すること。第二に、そういう会社を選んだ過ちを認め辞めること。どちらにするかは、自分が決めればよいのだから「悩む必要などなにもありません。」「悩んでああでもないこうでもないと言っていること自体が人生の無駄なのです。無駄な時間を過ごせば過ごすほど、負のエネルギーがたまり、運が逃げてゆくのです。」

    これを読んで、「なるほど何と自分はつまらないことを悩んでいたのだ、明日から、いや今日からでもそのようにしよう。」と実行し、何らかの成果が挙がれば、それは独自性が少なくとも4点、いや5点に近い行動と言ってもよいかも知れない。

    しかしほとんどの人は、そうは思わないだろう。この質問者も、「上司とうまくやってゆく方法を知りたかったのだ」と感じているかもしれない。しかし独自性が高い人はそのようには考えないのである。「そんなことはもとより無理だし、無意味だ」と考える。なぜなら上司はパワーを持っているのであり、別段無理に部下である自分とうまくやってゆく必要性などは、特にこのような場合感じていないのが常である。だから自分が力を着けて局面を打開する以外にない、と。独自性の高い人は、状況に合わせようとはしない。状況を変容させるか、みずからつくりだそうとする。よって、「積極性」の高い人はなまいきなやつだと思われる程度で済むが、独自性が高いと一般に危険視されるのはそのゆえである。会社方針に「変化、挑戦、現状打破、破壊的創造」などといくら書いてあっても、独自性が高い人は煙たがられる方が、割合としてははるかに多い。住み慣れた職場環境をやたらとつくりかえられたり、壊されたりしたらたまらないではないか。その場合、決まり文句としてそして協調性を欠いた人物だと評される。しかし、これは協調性とは何ら関係ない次元である。

    力量が常人とかけ離れた渡辺氏が気づいていないか忘れてしまっているのは、そうした上司でさえ、今の自分よりはキャリアが上だから簡単には追い越せないし、そうである以上2段上の上司の支援も期待できない。と言ってそんなに簡単に会社を辞めるわけにはゆかないと感じている人がいちばん多いことである。

    ならばどうするか。一歩一歩力を蓄え、上司にほしいままに振る舞わせることをまずはやめさせたいと今までよりは深く決心すれば、「独自性」の入り口に立ったと言うことだ。

    堀場スプリングの創業者堀場雅夫会長がおもしろい事をご著書で言われた。「たたくやつより上回ればいいものを、半身に構えて少しだけ出ようとするから、すぐねらいを定めてガツンとやられる。」「たたく人間の背より高くなったら相手もたたく気がしなくなる。」だから人は「出過ぎた杭」になれば打たれることはないと。「半身に構えて」と言う表現が独自性の不足をうまく言い当てている。

    なお、渡辺氏の「あなた自身の責任なのです」と言うフレーズは、要するに「自責性」だが、これは独自性のひとつの基礎である。基本的に他責的な行動が多い人の独自性は高まらない。

  • 実戦問答No.28:同じ会社の管理職がまったく同じものを見て正反対に評価が分かれました・・・・・

    活きた人事考課者教育の運営

    人事考課者教育、人事考課訓練を行う理由は、私の場合は、この実戦問答26で述べたように、3つの目的がある。正確に言えば、その3つの目的に、管理職の方々に深く気づいていただくことである。その3つを、もう一度だけ題目のみ挙げておく。

      ①公正な(客観的で公平な評価に基づく)配分

      ②適切な評価の伝達とその受入・納得による行動の変化

      ③部下の能力開発

    上記いずれにも関わるような活き活きとした討議が研修の場においては折々生じる。つい先ごろは以下のような管理職どうしの議論の例があった。

    私がつくったあるケーススタディの主人公は、グループリーダー(係長格)の開発技術者である。新規開発商品を行っている。だから、大型の現行主力商品ではない。従ってその立ち上げに、必要な関係部署の協力が、ごく円滑に得られると言うわけにはゆかなかった。要するに、まだ今は物が小さいからあまり支援を期待できない。そこで、立ち上げ時に混乱がつきものの品質管理や生産管理の問題解決に、上司の許可を得て、工場に長期駐在し、じかに関与して推し進めたのであった。時には重要外注先にも出向いた。

    当然ながらすいすいとは進まない。数々の葛藤と軋轢を乗り越える必要がある。関係者を、熱意を込めて巻き込み、時間をかけてどうにか新規立ち上げを完了することができた。個々には書ききれないが、それはそれは苦労の連続だった。ただし、こうした混迷の影響で、次の開発案件への着手は遅れてしまった。

    本当は、活き活きとした会話の場面がたくさん含まれるもっと長いケーススタディになっているのだが、要旨を言えば以上であり、この主人公の行動をどう評価するかとか言う話である。

    これが正反対2つと玉虫色とに、きれいに3つに参加者各グループの意見が分かれてしまったのだ。

    まず、A班は言う。

    「この主人公は、技術者として自分の定められた役割を越えてやり過ぎである。その結果自分の動きも効率的になっていないし、外注先を含め、人間関係上の葛藤を招いた。次期開発案件への着手も遅れ、計画的でない。よって一連の行動は評価できない。」

    これに対し、B班は反論した。

    「最初の役割の範囲など守っていたら、いつまでたっても開発は完了しなかっただろう。彼の積極果敢な行動があって初めて物事が完結したのであり、大いに評価すべきである。そもそも当社にはこうしたチャレンジ精神に富んだ社員が少ないから、いつも会社方針に挑戦せよ、現状打破せよと書いてある。そういう人をこういう時に評価しないでどうするのか。」

    少し考課者研修全体の空気が引き締まった。どちらの立場にたつとしても、次に発言する人には少しストレスがかかる雰囲気でもある。私は言った。

    「さあて、研修がおもしろくなってきましたね。同じ会社の管理職どうしが、まったく同じものを見て、正反対に評価が分かれました。これからどうしましょう。」

    こう、少しだけ諧謔味をこめて言うと、一層前向きな論議が活発になると言うのが私の経験上のコツである。

    さっそくA班が再反論した。

    「そうは言っても、次期案件が遅れたことは明確にマイナスだ。」

    「彼の資格等級(係長)を考えた時には、当初の開発立ち上げ案件が困難を来した時からすでにオーバーフローだから、それはノーカウントだ。もともと一係長がなしうるすい範囲ではなかった。」

    「やり過ぎて、いろいろな関係者と葛藤を起こした。」

    「では品よく物静かに振る舞えば、開発が完了できたかと言えば、そんなことができたはずがない。自分の任務への熱意の表れと見るべきだ。そして最後には、協力してくれる人も多くなった。リーダーシップがある証拠である。」

    こうしてA班B班は活発な議論をした。ひとりC班は沈黙を守っている。私がどう考えているのか聞いてみた。

    「この人の所定の役割を踏み出してゆく行動は積極性を評価しますが、その途中で和が乱れたのは、リーダーシップの不足と見ます。」

    「つまり、是か非かどっちなのですか。」

    「いえ、今お話ししたように、どっちでもあるのですよ。」

    ここで会場が大笑いした。私が「玉虫色」と言った意味がおわかり頂けただろうか。そして、この日は、絵に描いたように、同じ行動を見る態度が、是と非と玉虫色に分かれた。同じ会社の管理職において、である。

    実は、考課者訓練を行う意義は、こうした活きた討議を行う局面に集約されるのだ。人事部やコンサルタントの仕事は、こうした煮詰まった場面を、1日研修を行うとしたら何度かつくりだすことだ。つくりだすためにはその会社に符合した適切な状況設定(教材、ケーススタディ)が前提として必要となり、その上で、全体討議を適切に運営するファシリテーション技術を要する。

    さて、この稿の読者は、ABC3班のいずれの見解を妥当と考えられたろうか。もちろん、あらゆる業種、事業構造、企業規模、風土、主人公の職種、前後の状況を超越した普遍的正解などというものはないだろう。だから読者の個々に置かれた環境によっていずれを支持したくなるかは、当然違うだろう。

    しかし、同じ会社の管理職どうしだと、正反対のまま終わりにはできない。だからこのあとも、もう少し時間をかけて討議して頂き、その会社の現在の状況にとっては、着地点が見えてきた。この場合は、ややB班の主張に機軸が置かれた結論になっていったし、呼ばれた講師としての私も、その会社のそれまでの経緯に照らした時、おおむね妥当とだと感じた。

    しかし、何より重要なことは、正解を確定し、印刷して配って覚えてもらうことではない。真実は、結果論のプリントではなく、上記の活きた討議への参加の中にあるのだ。この種のものは、これが正解ですと公式に紙に書いた瞬間に、古文書になってしまう。そういうものを読まされて、一層に部下の評価と育成に動機づけられるマネジャーなどはいないからである。かのジャックウェルチ(GE前CEO)の表現を借りれば「死んだ書類」である。

    人事考課者教育を行うのは、上述のような、活きた討議を深め、誰しもにある自らの判断・評価の特徴、傾向、癖をくっきりと自覚するためである。それはまったく個々人の積み上げた性格、経験、役割、職務に基づくものだから、当初は、「これで同じ会社の管理職なのか」と言うくらい評価の着眼や結論が大きく異なるのは、むしろ普通なのである。

    上述の例でもそうだったが、ここで初めて受講者は思う。同じ会社の管理職なのだから、個々人の性癖や好みがいくら異なったとしても、人事評価と言うような重要場面では、物事を判断する方向性の基本は共有していたほうがよいと。そのような意識が前向きな雰囲気の中でおおむね共有されればまず教育は大成功である。

    「どうも人事考課教育がうまくゆかない」とよくご相談を受けるが、その多くは、こうした真の討議が行われず、制度の細部や考課要素の解釈の説明などにとどまっている。それなら、管理職達も忙しいのだから、書類を配って読ませればそれで済む。と言ってそれで評価力や、マネジメント能力が向上するわけではない。真の討議になるためには繰り返すが、適切なケーススタディとファシリテーション技術を要するのである。

    ところで、普遍的な正解はないが、「玉虫色」のC班の態度は、どうなのだろうか。今回は結論だけを述べておきたい。これは拙著「ポスト成果主義のせ人づくり組織づくり」にも書いたが、人事考課で基本的には行ってはいけない同一事実の「正反対考課」である。より俗な表現でいえば部下にとっては「股裂き考課」、上司にとっては都合の良い「ふたまた考課」である。なぜ基本的に禁じ手なのだろうか。折を見てまたここに所見を書くので、読者にもいったんお考えいただきたい。それとこの禁じ手は、知的能力、分析力などに自信のある人のほうが犯す確率が一般に高いことも併せ述べておきたい。

  • 実戦問答No.27:人事考課の客観性ということを

    ■客観性の保持はマネジメント能力そのものである

    人事考課の客観性と言うことをもう少し述べておきたい。

    客観性こそは、公平性と納得性の基礎をなす原点であり、客観性がなければ絶対に公平も納得もあり得ないからである。

    「私は客観的に部下の評価をしているつもりだ」とあるマネジャーが口にしたとしよう。これはほとんどの場合、実際は「公平にやっているつもりだ」という意味であり、「好き嫌いで人を評価してはいない」と言う意味のようだ。そのような意識だけで、真の公平性を保てるかはもちろん課題が残るが、少なくともこれは客観性とは直接関係はない。

    客観性とは、そのような態度の問題ではなく、マネジメント能力、その中でももっとも重要と言ってもよい判断力と密接に結びついた人事考課における必要条件である。経験の浅いマネジャーは、一般に客観性を、人事考課要素や人事考課表その他、会社のしくみのほうから与えられるものであり、それに乗っかっていればおのずと客観性が具備されると思い込みがちである。ある程度まではそう言える。しかし、客観性というのは、そんなに底の浅いものではない。客観性は、多くの部分を、マネジャー個々人が自分の主体的な判断力により構築しなければならない要件である。

    拙著「ポスト成果主義の人づくり組織づくり」にて述べたように、人事考課の客観性をもっとも簡単に測れる質問が次の2問である。

    その第一は以下である。

    「あなたのある重要な部下の、この1年間の評価を今から行うとして、評価の上で重要な事実を、重要な順に5つ、すぐに言えますか。」

    第二の質問が以下である。

    「重要な事実が言えたとして、その点が重要であると、少なくとも8割がたは、部下と認識が一致していますか。」

    ■客観性を確認できるのは当事者だけである

    客観性の有無は、会社や他人が決めるのではなく、まず何より上司部下の当事者の間で客観的でなければならないのだ。そして上司と部下は立場や観点が異なるから、最後の評価が異なることがあるのはしかたないが、「何を評価すべきか」が当事者間で一致していなければ、そもそも話にならないのだ。ある特定期間に具体的に何に重きを置いて評価すべきかは、当事者間でしかわからないし、「客観的な第三者」には決してきめられないのである。

    ここが初期の成果主義の大きな誤りのひとつだった。ある特定の上司と部下との間において何が重要な事実であるか、当事者以外の誰がわかると言うのだろうか。目標シートや評価表などを、誰が見てもわかるように書きなさいなどとよく成果主義の導入期に言われたものだが、その仕事のことを知らない他人がそれを見て何か重要なことがわかるのだろうか。わかるのは、評価ルールにのっとった足し算や掛け算が合っているかどうかだけである。それと客観性は何も関係がない。客観性とは、どこまで行っても事柄の中身の問題である。

    より正確に言えば、客観的な第三者がわかるのは、これこれが評価上重要な事実であると、具体的に説明され述べられた時に、その判断が妥当であるか否かだけである。そういう手間ひまのかかることを、進んで社員ひとりひとり全員に行うわけにはゆかない。だから、評価の不服申し立てと言うイレギュラーな状態に制度的にどう備えるかを考える一方で、基本は上司の評価力、判断力に信頼を置かなければ運営できるものではない。それゆえ、教育や訓練が大切になるのである。

    何が重要で何が重要でないかを決定する能力は、マネジメント上の判断力そのものである。なぜならこの世でただひとりの特定のある部下の、この世で1回きりのある行動や成果をどう評価するかは、人事部が何百ページマニュアルをつくっても、それに基づき機械的に測定することはできない。自分が主体的に判断決定しなければならないのである。こうした応用、適用を行うためにマネジャーがいるのだと言うことを、マネジメントをスキル、技能の一種のように考える方には、このプロセスがアナログに過ぎて、なかなかわかってもらえないことがある。ここは権威の力を借りよう。かの碩学ミンツバーグも言った。「すぐれたマネジャーほどアナログを好む」。考課者訓練をやっていても、その時点における実力の分かれ目は、まずこうしたあたりに出るものだ。キャリアの浅い人ほど言う。「そんなややこしいことを討議するより、基準を決めてくれ。」と。

    ■事実を重要な順に言う

    まあ、重要事実を5つと言ったのは理想で、3つか4つでも、すぐに出でてくればまず十分である。これが数分以上かからないと出てこないようでは、客観性は入り口で早くもあやしくなってしまう。

    「事実」であるから、「彼は私の方針をよく理解していない」「目標設定が挑戦的でない」「問題解決における状況判断が適切でない」というような抽象的なものではない。これらは評価の結論そのもので、そう評価する前提が具体的で妥当なものでなければならないと言う話が客観性である。上司と部下とでつむいできた、重要なストーリーの中から抜き出してきた、活きた事実でなければならない。

    実際に人事考課訓練などを行うと、「重要な順」ではなく「思い出した順」に言う人も出てくる。もっと言うと、少なからぬ上司は、「気になる順」に言う。気になる順とは何かと言えば、ありていに言えば「気に入らない順」である。どうして上司というのはこうも気に入らないことはしっかり覚えているのだろうかとおかしみを禁じ得ない時がある。しかし、私もひとりの上司としては笑えない。

    「気に入らない順」が、「重要な順」に偶然合致すれば何も問題は生じない。しかしそういうことは残念ながらまず起こりえない。だから、ここで冷静に判断力を用いなければならない。「今自分が取り上げている事実は、彼の評価に大きな影響を与えるほど重要なものだろうか。」

    ■軽微な事実を評価対象にしない

    この判断プロセスは、言い換えれば、「軽微な事実を評価対象にしない」と言うことでもある。軽微な事実とは、つまりはどうでもよいことである。どうでもよいことを指摘することほど効果的に人のやる気をなくさせる方法はない。そしてむろん客観性が損なわれる。

    ついでに言うと、これは、私が部下や頼まれたクライアントを、評価の専門家、つまりアセッサーとして育成するときに、初期段階において強調する点でもある。細大漏らさず事実を拾って来るのはよい。しかしここで言う軽微な事実はある段階で捨て去らないと収拾がつかなくなってしまうのである。

    人事考課において、こうした軽微な事柄が大きく響いてしまうのは、ほとんどの場合上述のように、自分の気に入らないことにこだわっているからである。

    こういう点が、評価者研修などを行っていると、効果が如実に現れる点でもある。「おい、君、そんなこまかいことはどうだっていいじゃないか。」と同僚の管理職から言われるのがいちばん心に響くのである。さらに言われるかもしれない。「そんなことまでいちいち気をつけていなければならないのでは、君の部下をつとめるのは本当に大変だね。」

    偉い役員に呼ばれてそう言われたらその時は直立不動で聞いているだろう。が、汗をかきながら内心では「偉い人は現場をご存じない」と思っているかもしれない。人事部員に「マニュアル通りやってください」と言われたら、「はい、わかりました」とふつうは言う。が、実は、重要顧客のクレームを思い出してうわの空で聞いているかもしれないのだ。似たような日々喧噪の修羅場の中にいる同僚マネジャーに言われるといちばん響くわけだ。

    ■仕事熱心さと評価の客観性の区別

    以上のように、人は自分の都合、好悪や情念がはさまると、とたんに評価に関する判断力が低下する。情念情熱は、もちろん上司自身の仕事の達成、任務の遂行には大いに用いればよい。しかしここは場面が違うと言うことが、仕事熱心な上司ほど区別がつかないことが少なくない。さらには、自分の立場上の都合、利害からいったんは離れて部下の行動を見ることは誠に至難である。

    ここまで来ると、客観性と公平性の境界がだいぶあいまいになってくる。実際両者は、本質において重なり合うものである。が、ここでは一応事柄の軽重に関する評価力の程度を客観性、人間(部下)の性格や行動傾向に対する好悪の癖を公平性と区別しておく。

    ■客観性とは単純な結果ではなく脈絡である

    客観性はなお奥が深い。

    重要な事実とは、目標管理の件名や、単なる出来不出来の結果とは、幾分異なるものである。ある重要な目標が達成できなかったとしたら、それ自体は何もしなくてもわかる。そういう結果になった背景、原因、プロセスがここで言う重要な事実である。もちろん役員や上級管理職の評価なら結果だけで十分だろう。が、人事考課が問題になるのは、実際の多くは一般職と初級管理職である。

    もしも部下がなまけていて、あるいは必要とされる能力が明確に不足したため達成できなかったのなら重要事実としてはそこでおしまいでいい。しかし、そういう単純な事例はさほど多くはない。

    たとえば、与えた課題や、目標が、その部下の資格等級に比して難しすぎたならどうだろう。逆にやさし過ぎたらどうなのだろうか。あるいは、課題以前に、普通の人の5割増しも日常業務のボリュームがあったらどう見るのだろうか。

    多くの場合これらを論じることすらしない。それでいて当初の目標の何%できたかとそちらばかり見る。そういうのは、繰り返すが、客観性ではなくて算数の確認である。目標や課題の大きさなど、人によってきれいに同じにそろうはずがないのだから、それを無視して達成率だけ論じるのはほとんど意味がない。

    あたりまえだが、難し過ぎたら評価を1段上げ底にするしかない。そうしなければ、算数の帳尻が合っているだけで、評価結果は誠に不公正と言わざるを得ない。意図は別として、係長に課長レベルの課題を与え、やや不十分な結果ならB評価(普通)とすべきである。こういう時、仕事の面で優秀な上司ほど、評価と育成がごちゃごちゃに混同しがちである。「彼の資質やチャレンジ精神を期待して難しい課題をあえて与えたのになぜがんばりきれないのだ・・・」と言うわけだ。その「期待」というのが、さきほどから言う「情念」であり、仕事には絶対に必要だが、評価には不要だと言った意味がご理解頂けたろうか。評価の場面で必要なのは、レベルの違う課題を与えたと言う物言わぬ重要な事実のほうである。

    「本人が自分でやりぬくと約束したのだから」と言う話もあくまで指導育成上の観点だ。「一度口にしたのなら最後までやりぬきなさい」と言うのは、部下をより育てたいから言うのであって(言ったほうがよいのだろう)、どう評価するかは別次元なのだ。

    もちろんひどく不十分な結果ならC評価でよいのだが、このあたりは繰り返すが、よくよくよく判断してつけないと、次から部下がチャレンジする気持ちをなくすだけの結果になる。難し過ぎる課題に対して、普通の結果が出たならA評価である。逆にやさし過ぎる課題だったら、結果がよくても普通の評価に戻す。

    こういう調整をせずに、どうあっても事前計画の達成率だけで評価したがる人を、口の悪いジャック・ウェルチ(GEの前CEO)は、著書で「単なるバカ」と呼んだ。目標設定と人事考課とは、本来別次元のものなのである。私は、上級管理職は結果だけの評価でもいいと裏腹なことを言ったが、実際は、結果数値至上の権化のように見えるウェルチですら、幹部社員の評価におけるこうした微妙さを認めているのだ。

    以上のような脈絡は、結果が定まってからでないと、まずわかるものではない。

    上述のように、「この部下にはまだ難しいがあえてやらせる」と前もって意図的にしている場合は、私たちが思っているほどは多くはない。現実により多いのは、繁忙と切迫の中で、「よくもあしくもこうするしかない」と言う待ったなしの取り組みがずっと続く場合である。当然当初の想定とはひどく異なるプロセス展開になっているはずだ。そんな時には、プロセスをふり返ってみて初めて難し過ぎた、やさし過ぎたと言うことがわかるのだ。

    ■機械的評価のもたらす無益と徒労

    難易度だとか、ジョブサイズだとか何やらの事前尺度を精密に検討するのは、ほぼ徒労であると、この実戦問答10にて述べた。要するにこの種の努力は、なるべく評価を機械的に行いたい、それが、恣意が入らず公平だと言う考えに基づくようだ。起こりうる重要な変化をすべて先に読み込むのは不可能である。それを無視して内容や実態を把握しない機械的な評価を行うなどは、考えられないくらいばかばかしいものだ。そしてさまざまな現実の臨床結果から見ても、この種の間違った精密さの追求が、成果主義の典型的失敗例につながったことももはや明らかである。

    この種の係数を精密にすればするほど、人はそのおおもとをあいまいにする。やさしい目標を設定し、これは困難だと上司にいっしょうけんめい説明する。上司は疑問に思い、いろいろ質問する。部下はまた難しさを証明しようと熱弁をふるうかも知れない。これほどの時間のむだが世の中にあるだろうか。そういう無益の論議をしている時間があったら、少しでも多く顧客を訪問しその声に真摯に耳を傾け、あるいは現場に出てコストや品質の改善に努めるほうが、いったいどれほど建設的であり、会社と社員自身に資することができるだろうか。こうした時間の空費は、やがて大変なロスとなりツケとなってはねかえるだろう。

    ■事前目標に載っていない重要な成果

    もうひとつ、評価者訓練をしていていつも問題となるのだが、事前に目標設定した事項以外のことで、達成された重要な事実があったらどうするのだろうか。これも、多くの場合、まったく無原則でまちまちに委ねられている。しかし、これを無視したら、評価の客観性などはまったく失われてしまう。基本的には、重要な事柄が達成され、それが組織や職場に役立っているなら評価すべきである。

    そうすると「それは勝手にやったことか、上司の承認を得てやったことか」と言ったことを気にする人もいる。私はそういうことが問題になるほど、日本の上司は、組織運営力のない人ばかりとは思っていない。部下が自分のあずかり知らない事項に取り組んでいれば、ごくすふつうに「何をやっているのだ」と質問するだろう。部下がきちんと説明できてなるほどと思えば続行させる。無益と思えばやめさせるだろう。まあしばらく様子を見るかと判断して黙って待つうちに成果が出たと言うこともあるだろう。

    テーマアップをどっちが先に口にしたかなどは、多くの場合どうでもよい事ではないだろうか。つまり「重要な事実」ではない。何となれば上司も職場もその成果を享受しているではないか。それでも気にいらないと言うなら、評価には加えず、かつ事実も、部下の改善以前に戻すべきである。つまり出てきた成果は、非嫡出だから承認しない、もとに戻せと言うことだ。そうでなければつじつまが合わない。

    以上の客観性は、評価の本質に関わることであり、折を見てまた述べたい。

  • その30:18の標準マネジメント能力要件…ストレス耐性②マネジメントにおける段階

    逆に言えば、人の力量は、つまり経営者やマネジャーの能力は、大きなストレスがかかった時に問われるのだと言ってもよい。引き続き、もう少し程度の高いストレス耐性を述べよう。

    ある会社で、アクションラーニングの研修をした時のことだ。ある営業課長の問題は、以前見積もった価格で受注が内定していたが、その後材料費高騰により、正式契約前の案件では、改めて値上げをお願いし、利益を確保しなければならないと言うものだった。こうきれいに言えばなんでもないが、現実はずっと苛烈である。

    ある重要顧客に出かけ、この値上げの旨を申し上げた。周囲に数十人は顧客企業の社員が執務していようかと言う大部屋の中の打ち合わせテーブルで、相手の購買担当の部長に、「ふざけるな、このヤロー、どのツラさげてきたんだ」と大声で面罵されたと言う。別段地方の零細企業の応接間での話ではない。どちらもごく普通の上場企業である。

    この営業課長は、これを半分にやにやしながら私を含むメンバーに語った。「こんなひどい目にあった私に同情してくれ」と言う態度ではない。つまり葛藤した事態をどう解きほぐすかなかば楽しんでいるのだ。私は感心した。こう言うストレス耐性の強い人はたいてい問題を解決できる。

    かつてドコモを立て直した大星公二氏の自伝的著書にも、こうした場面が出てくる。安易にソフトウエアの仕様追加を要求する顧客に、追加費用を請求すると言うと、相手の重役に

    「すぐ手を出す乞食の大星。このバカが。てめえなんかだめだ。」

    この重役は、相手の業界では名の通った人物らしい。大星氏はむろん逆ギレなどはしないし、むしろ相手の人格力量を見切って楽しんでいる風が見受けられるのである。これもストレス耐性がなせるわざである。

    戦争でも互角に布陣して対峙したときには先に動いた方が負ける例が多いと言う。将棋がお好きな方はよくわかるだろう。昭和期最大の将棋指しの故大山康晴名人は、相手の失着をじっと待つのが実に得意だった。必要もないのに先に動いてしまうのは、つまりストレスが少なくとも相手より弱いと言うことだ。

    重要な交渉事が煮詰まった時もまた同じである。今は中国大使になられた丹羽宇一郎伊藤忠元社長の著書を読むと、西友からファミリーマートの株を買う時に、相手の和田繁明西武百貨店会長(当時)との価格交渉が折り合わず、互いにひとこともしゃべらなくなった場面が描かれている。「絶対に動くもんか」と丹羽氏は思っていたと書いている。「辛抱しきれずに動いた方が負けだ」と思っていたと言う。結局丹羽氏の望みの額で交渉は妥結した。これなどは高度なストレス耐性の成せる至芸である。

    話を転じると、同僚よりも昇進が遅れたと言うような経験をした読者はいるだろうか。そんな時どうして過ごしたろうか。実は歳月が過ぎるほど明らかになるが、人生の分かれ目はむしろそうした時にあるのである。

    「なんだっておれが」とごく親しい人や信頼できる人にぐちを聞いてもらうために飲みに行くくらいはよいかもしれない。しかし、これとて、自分からでなく、状況を察知した相手から誘われる方がよい。

    もっと大事なことは、昇進遅れが明らかになったあとでも、あなたが以前と同様に、いや、以前以上に熱意と誠実をもって職務に打ち込んでいるかである。周囲の人はそうした様子を決して見逃さない。そのような時、怒りっぽくなったり、ぐちっぽくなっていたら、そこまでゆかなくとも明らかに熱意がうせてしまったら、「ああ、あの人はあそこまでの人だ」と昇進遅れにさらなる追認が加えられ、それがやがて定着してしまうだろう。

    しかし、言葉にこう書いても、実際にはそのような態度をとるのはむろん容易ではない。昨日まで親しくしていた人たちがよそよそしくなったり、距離を置いたりし始めるのだから。しかしストレス耐性を日頃から鍛えてあれば何とかできるかも知れない。いや、逆に、これこそストレス耐性、つまりは人間力を鍛え直し向上させるにはまたとない機会なのかも知れない。そのように「雌伏もまた楽し」と感じれば、ストレス耐性は卒業だろう。

    ここはパナソニック創業者松下幸之助翁にもう一度学びたい。氏は、第二次大戦後、軍需産業と関係なかったのに財閥解体、公職追放の指令を受け、個人財産も凍結された。つまりこの時点で丸裸になりかかった。丁稚奉公を振り出しにナショナルグループを築いた氏も既にこの時才。現在の年令感覚ではない。このまま追放されれば、のちの日本の家電産業の隆盛は、もっと小ぶりだったか、よほど違った形で現出したに違いない。

    この時、むしろ労働組合が公職追放の解除に立ち上がったのは有名な話で、その経緯はストレス耐性とは別に、氏の統率力」や「感受性」がいかにすぐれていたかを物語っている。が、この前後の氏の胸中にあっては、この生涯の難局と立ち向かうストレス耐性が試された。「宇宙根源の法則に乗って素直になることが大切だ」とその後ずっと言い続けた氏の信念は、このとき一層深く涵養されたように見える。

    氏は虚弱体質であったことや、その怒りっぽい気質からは、どう見てもストレス耐性の天分が恵まれていたようには見えない。しかし若いころからの克己の鍛練と、運も味方してこの試練を乗り切った後には、誰から見ても大経営者、経営の神様の風貌となっていった。ストレス耐性が、資質ではなく涵養されるものであるよい例である。

  • その29:18の標準マネジメント能力要件…ストレス耐性①初級的段階

    最近、ごく若手の研修を時に引き受けて感じるのは、日本人のストレス耐性の平均点が、たとえば私が新入社員だった時と較べたら明らかに下がってきたのではないかと言うことだ。

    原因は単純ではないだろう。

    情報技術の進歩、人手不足と人件費高止まりで、かつてより、新入社員で入った時からいきなり難しい仕事をさせられることが増えたから、若手にストレスがたまっていると言われる。不思議なものだ。昔は、ITが恐ろしく不備だったから、それゆえの下積みのつまらない仕事が山ほどあって、それを日々耐えるストレスは相当なものであった。私の同世代の方々が若手社員だったころは、いかにしてこの下積み仕事から脱するかが、たいていの人の実践的目標ではなかったか。

    他方、上司のほうが年功主義の時代のように時間的ゆとりがないから、ついつい部下にがちがちに枠にはめた行動や、厳しい成果管理を求めると言う面も感じられる。より正確に言えば、上司の力量や包容力の個人差がくっきり現れてきたようにも見える。それにしても若手にとっては、最初の頃に当たった上司次第である。あまり度量のない上司にあたってあれこれがちがちに言われると、一般にストレスに過敏になる。つまり視野が広がらない。

    それと、やはり感じるのは、少子化やゆとり教育のせいなのだろう、若手自身が評価や競争に慣れていないと言うことだ。ちょっと相手に評価的なニュアンスを嗅ぎ取ると過敏に反応してしまう。

    こうしてみると、作家の渡辺淳一先生の「鈍感力」と言う造語は本当に見事なネーミングだった。鈍感なだけで会社の中で成功するわけではないが、ここに述べたようなどちらかと言えば事柄にはあまり敏感でないほうが、少なくとも健康にはよい。

    特に最後の、若手自身の側の点である。残念ながら、この世は評価と競争から逃れられる日は1日もない。つまりストレスのかからない日は1日もないので、ストレスから逃れるのではなく、どう処理し扱うかが問題である。言い方を変えれば、ストレス耐性は慣れの問題に過ぎないとも言える。だから本当は少年期から親によって取り組まれるべきことだろう。慣れなのだから、早く慣れてしまえばよいのだ。たとえば、「計画組織力」を鍛練しようとしたら、マネジメントの場に身を置くことが不可欠だが、ストレス耐性は、子供の頃からの日常生活でいくらでも向上可能である。が、おとなになって急にそれに取り組むと、とてもつらいことになる。

    人間世界では力量相応に勝ったり負けたりするのが当たり前なのだが、負けて自分の非力さを見るのがいやだと言う人が昔より目立つわけだ。こうした態度の持続は、一般にその人のキャリア向上に益しない。だから勝ったり負けたり、負けた時にはくやしくて眠れないことも時にあるのがあたり前なのだと早く慣れたほうがよいに決まっている。

    ストレス耐性がある意味で重要なのは、これが弱い人は、ストレスがかかった時には、他のよい持ち味まで消してしまうと言うことだ。要するにあがりやすい、緊張しやすいタイプの人は、本番で本来の力を出しにくいと言うことである。それならまだ他人様には迷惑を掛けていないが、たとえば緊張するといらいらしてやたらと他人に攻撃的になるような現れ方をするパターンもある。どんな上司でも、そういう部下を重要な局面で使おうとは思わないに違いない。つまりストレス耐性が弱いと、仕事を有効にこなせる範囲がその分狭くなる。それも程度によっては極端に狭くなる。

    あの名物監督野村克也氏は、選手が長髪にしたり、ピアスを着けたりすることをひどく嫌った。「野球選手は野球で目立てばよい。野球で目立てないから他のところで目立とうとするのは全く間違っている」といつも著書に述べている。これなども私の分野から見ればストレス耐性が弱い行動のある種の典型例である。だいたいにおいてサラリーマンの世界もいっしょで、会社の中での奇抜なファッション、容装は、概ね上記と同じと見てよい。いたずらに奇をてらう言行もまたほぼ同じである(前稿の積極性との区別は多少専門的観察を要するにしても)。

  • その28:18の標準マネジメント能力要件…積極性

    積極性は人に先んじて行動することである。イニシアティブと言えばもう少しもっともらしい。

    いちばん原初的な積極性は、ともかく人よりも前に出たがること。これはこれで大切なことだ。が、どう言うわけか、この種の積極性は、日本人が中心の多くの会社ではいまだにあまり好まれないようだ。人事考課要素には、たいてい「積極性」が入っているにもかかわらず、である。だいたいにおいて私たちは、他人を見る時に、成果に裏打ちされていない積極性をあまり好まない。しかし必ず成果を伴う積極性などと言うものはない。あくまで行動の傾向のことを言っているはずである。

    この初期的積極性が、会議などで実質議論の呼び水となるわけで、組織運営に与える影響はさほど小さくない。それに最初に口火を切って物を申せば、それだけ賞賛、批判いずれであっても受け取るフィードバックは深くなり、その人の実質成長をもたらす。

    先般ある会社の管理職候補の30代の若手の研修の末尾で、これが講師としての最後の質問だとして言った。

    「今日のケーススタディから自分は何を学びどう活かしてゆきたいか、誰か発言していただけませんか。もちろんこんな質問に正解などはないので、自由に自分の考えを述べてもらえばよいのです。」

    場がしんとして誰も発言しない。うしろに数人すわっていたオブザーバーの役員の中には祈るような顔をしている方がいたのが印象的だった。 

    「どうかだれか進み出て立派な意見を言って欲しい。」

    とお顔にくっきり書いてある。が、手が挙がらないので語調をゆるめて私がぼやいた。

    「さてこれでは研修が終わりませんねえ、遠くから来た人は大変だ。」 

    すかさず、誰から見ても、力が一頭抜きんでた受講者が手を挙げて所論を述べた。

    そのご意見は、そして発言のご態度は言うまでもなく誠に立派なものだった。が、私にはやや不満である。彼ほどの力があれば、やや緊張感を残していた私の最初の質問に対し、間髪入れずに同じ応答ができたはずだった。そうしなかったのは、やはり同僚達の前で自分だけが目立つような振る舞いはどうなのかと言うためらいがあったからだ。そうした「感受性」は別な時に用いればよいのだ。ともあれ積極性と言うのは、発揮のしかたが難しい。

    もう少し質の高い積極性は、いわゆるチャレンジ精神になる。困難な事には挑戦せずにはいられないと言うことだ。この辺は「決断力」の範疇に入るリスクテーキングとの境界は流動的になる。あえて分ければ、テーマ選択の困難さをいとわないのがチャレンジ精神であり、それを遂行するうちに、大きなリスクを伴う意思決定を迫られた時に、いたずらに避けずにそれを行うことがリスクテーキングである。

    しかし、いつまでも成果が伴わないのでは困る。ただ、長い目で見れば、全くの安全志向で守りにしか意識が向かず、変化を忌み嫌えば、人も組織も必ず衰亡することはさまざまな歴史が教えてくれる。どの段階の積極性にせよ、積極性の高い人は、必ず人より多くの失敗をする。そこで大切なことは何も行動しない人よりもはるかにみのりのある深い経験が蓄積されて、次から一層質の高い行動が取れることだ。この差は少し長い目で見れば決定的なのである。

    最高のセールスマンは最も断られた回数の多いセールスマンであると言う至言はこの場合正しい。それはセールスと言う仕事の特殊性だと言うのは当たらない。研究開発でも、多くのの試行錯誤を経由しないで、一発必中でヒット商品になるなどと言う話は聞いたことがない。

    もちろん致命的な失敗はいけない。それを避けるのは、「判断力」の働きである。が、取り返しうる失敗の積み重ねなくして、一度も傷を負わずに大きな成果を得る道などと言うものは残念ながらないのである。そう言う苦難を少しもいとわない行動を「積極性」が高いと言うわけだ。

    何もみずから行動しない人は、書評を読むように他人の行動を知識としては知り得ても、実はほとんど何も学び得ない。他人の経験から学び得るのは、自分も程度は別にして、似たような行動を取っている場合である。

    こうして、当初は、人目に立ちたいと言う程度の積極性であっても、やがては自分と組織を衰退からしっかり守るためのものとなるのである。

    もちろんいくら経験をしてもそれに学ばない人もいないではない。しかしそう言うことを繰り返すと、もはや積極性そのものがやがて全く通用しなくなってしまうだろう。

    あるいは、いわゆる悪い意味でのパフォーマンスとして、擬似的なイニシアティブ行動を取る例がないとは言えない。そのあとの地道なフォローアップ活動を遂行する意思がないのに、人の注意を引き評価を高めるために、あたかも進取の精神を謳い上げるような場合だ。そう言う積極性をながめることを楽しまない人は少なくないだろう。が、そう言う行動は、実は誰しもわかっているので、あまりここで論じる必要もないとは思う。

    ただし、正確にいえば、そのような場合であっても「積極性」は少々評価してよい(議論の呼び水にはなっているのである)。が、他の能力要件が足りないとされることが少なくないだろう。たとえば、はなばなしく花火は打ち上げたがその後の具体的構想が何もないなら「計画組織力」を欠く。言ったはいいが、うしろを見たら誰も着いて来ていないと言うなら「統率力」が足りないのだろう。気に入らない事柄に、ひとつ瑕疵を見つけたからと言って何もかもに多重に減点するのは、典型的な「ハロー効果」というもので、フェアーではない。能力要件体系は、それを行動ごとに正確に区分けするためにある。

    「そういうことは、いつもいっしょにいるからわかるので、2、3日のアセスメント研修でそんなことがわかるのか。わからなければ、そうしたパフォーマンスに幻惑された評価(アセスメント)の妥当性に問題が残るのではないか。」

    などとよく聞かれる。わかる理由を、分析的に述べようとすれば紙数はいたずらに増え、読者は興を失うだろう。もう一度言うが、そんなことは少しばかり組織の中で人間関係にもまれた経験がある人なら誰にもわかるのである。それがわからないようでマネジメントの先生など1日も勤まらないと言う理由がいちばんわかりやすいだろう。

    ついでに言えば、私も含め、私が活用するアセッサーに組織経験がない人と言うのはいない。人に使われ、人を使い、人と競争して勝てば少しは良い気分になり、負ければ嫉妬も浮かぶ。すばらしい職務機会もあったかも知れないが、とんだくだらない仕事もさせられたこともある。組織経験とは、ありていに言えば、そう言うことだろう。だからよその団体のことまでは知らないが、私の場合にはそうした経験が活きている。

    むしろ重要なことは、私も含め、世の上司の、そのようなくすんだ積極性ではない、若芽のような清新な積極性に対しての態度だ。「あいつは前向きでいいじゃないか」となかなか言わないものだ。それよりも「あいつはまだ未熟なのになまいきだ」と言って、せっせと他の欠点を探す確率のほうが一般にずっと高い。これは本当に気をつけないといけない。これは、何十年もマネジャーの方々と研修そのほかのさまざまな場面でごいっしょすると、自分も含めた上司の「習性」と言うより「通弊」がよくわかるから言っている。人と言うものはやっかいで、自分と同程度に相手が苦心惨憺して来ないと認めたくないわけだ。それと積極性とは何の因果関係もない。