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  • その28:18の標準マネジメント能力要件…積極性

    積極性は人に先んじて行動することである。イニシアティブと言えばもう少しもっともらしい。

    いちばん原初的な積極性は、ともかく人よりも前に出たがること。これはこれで大切なことだ。が、どう言うわけか、この種の積極性は、日本人が中心の多くの会社ではいまだにあまり好まれないようだ。人事考課要素には、たいてい「積極性」が入っているにもかかわらず、である。だいたいにおいて私たちは、他人を見る時に、成果に裏打ちされていない積極性をあまり好まない。しかし必ず成果を伴う積極性などと言うものはない。あくまで行動の傾向のことを言っているはずである。

    この初期的積極性が、会議などで実質議論の呼び水となるわけで、組織運営に与える影響はさほど小さくない。それに最初に口火を切って物を申せば、それだけ賞賛、批判いずれであっても受け取るフィードバックは深くなり、その人の実質成長をもたらす。

    先般ある会社の管理職候補の30代の若手の研修の末尾で、これが講師としての最後の質問だとして言った。

    「今日のケーススタディから自分は何を学びどう活かしてゆきたいか、誰か発言していただけませんか。もちろんこんな質問に正解などはないので、自由に自分の考えを述べてもらえばよいのです。」

    場がしんとして誰も発言しない。うしろに数人すわっていたオブザーバーの役員の中には祈るような顔をしている方がいたのが印象的だった。 

    「どうかだれか進み出て立派な意見を言って欲しい。」

    とお顔にくっきり書いてある。が、手が挙がらないので語調をゆるめて私がぼやいた。

    「さてこれでは研修が終わりませんねえ、遠くから来た人は大変だ。」 

    すかさず、誰から見ても、力が一頭抜きんでた受講者が手を挙げて所論を述べた。

    そのご意見は、そして発言のご態度は言うまでもなく誠に立派なものだった。が、私にはやや不満である。彼ほどの力があれば、やや緊張感を残していた私の最初の質問に対し、間髪入れずに同じ応答ができたはずだった。そうしなかったのは、やはり同僚達の前で自分だけが目立つような振る舞いはどうなのかと言うためらいがあったからだ。そうした「感受性」は別な時に用いればよいのだ。ともあれ積極性と言うのは、発揮のしかたが難しい。

    もう少し質の高い積極性は、いわゆるチャレンジ精神になる。困難な事には挑戦せずにはいられないと言うことだ。この辺は「決断力」の範疇に入るリスクテーキングとの境界は流動的になる。あえて分ければ、テーマ選択の困難さをいとわないのがチャレンジ精神であり、それを遂行するうちに、大きなリスクを伴う意思決定を迫られた時に、いたずらに避けずにそれを行うことがリスクテーキングである。

    しかし、いつまでも成果が伴わないのでは困る。ただ、長い目で見れば、全くの安全志向で守りにしか意識が向かず、変化を忌み嫌えば、人も組織も必ず衰亡することはさまざまな歴史が教えてくれる。どの段階の積極性にせよ、積極性の高い人は、必ず人より多くの失敗をする。そこで大切なことは何も行動しない人よりもはるかにみのりのある深い経験が蓄積されて、次から一層質の高い行動が取れることだ。この差は少し長い目で見れば決定的なのである。

    最高のセールスマンは最も断られた回数の多いセールスマンであると言う至言はこの場合正しい。それはセールスと言う仕事の特殊性だと言うのは当たらない。研究開発でも、多くのの試行錯誤を経由しないで、一発必中でヒット商品になるなどと言う話は聞いたことがない。

    もちろん致命的な失敗はいけない。それを避けるのは、「判断力」の働きである。が、取り返しうる失敗の積み重ねなくして、一度も傷を負わずに大きな成果を得る道などと言うものは残念ながらないのである。そう言う苦難を少しもいとわない行動を「積極性」が高いと言うわけだ。

    何もみずから行動しない人は、書評を読むように他人の行動を知識としては知り得ても、実はほとんど何も学び得ない。他人の経験から学び得るのは、自分も程度は別にして、似たような行動を取っている場合である。

    こうして、当初は、人目に立ちたいと言う程度の積極性であっても、やがては自分と組織を衰退からしっかり守るためのものとなるのである。

    もちろんいくら経験をしてもそれに学ばない人もいないではない。しかしそう言うことを繰り返すと、もはや積極性そのものがやがて全く通用しなくなってしまうだろう。

    あるいは、いわゆる悪い意味でのパフォーマンスとして、擬似的なイニシアティブ行動を取る例がないとは言えない。そのあとの地道なフォローアップ活動を遂行する意思がないのに、人の注意を引き評価を高めるために、あたかも進取の精神を謳い上げるような場合だ。そう言う積極性をながめることを楽しまない人は少なくないだろう。が、そう言う行動は、実は誰しもわかっているので、あまりここで論じる必要もないとは思う。

    ただし、正確にいえば、そのような場合であっても「積極性」は少々評価してよい(議論の呼び水にはなっているのである)。が、他の能力要件が足りないとされることが少なくないだろう。たとえば、はなばなしく花火は打ち上げたがその後の具体的構想が何もないなら「計画組織力」を欠く。言ったはいいが、うしろを見たら誰も着いて来ていないと言うなら「統率力」が足りないのだろう。気に入らない事柄に、ひとつ瑕疵を見つけたからと言って何もかもに多重に減点するのは、典型的な「ハロー効果」というもので、フェアーではない。能力要件体系は、それを行動ごとに正確に区分けするためにある。

    「そういうことは、いつもいっしょにいるからわかるので、2、3日のアセスメント研修でそんなことがわかるのか。わからなければ、そうしたパフォーマンスに幻惑された評価(アセスメント)の妥当性に問題が残るのではないか。」

    などとよく聞かれる。わかる理由を、分析的に述べようとすれば紙数はいたずらに増え、読者は興を失うだろう。もう一度言うが、そんなことは少しばかり組織の中で人間関係にもまれた経験がある人なら誰にもわかるのである。それがわからないようでマネジメントの先生など1日も勤まらないと言う理由がいちばんわかりやすいだろう。

    ついでに言えば、私も含め、私が活用するアセッサーに組織経験がない人と言うのはいない。人に使われ、人を使い、人と競争して勝てば少しは良い気分になり、負ければ嫉妬も浮かぶ。すばらしい職務機会もあったかも知れないが、とんだくだらない仕事もさせられたこともある。組織経験とは、ありていに言えば、そう言うことだろう。だからよその団体のことまでは知らないが、私の場合にはそうした経験が活きている。

    むしろ重要なことは、私も含め、世の上司の、そのようなくすんだ積極性ではない、若芽のような清新な積極性に対しての態度だ。「あいつは前向きでいいじゃないか」となかなか言わないものだ。それよりも「あいつはまだ未熟なのになまいきだ」と言って、せっせと他の欠点を探す確率のほうが一般にずっと高い。これは本当に気をつけないといけない。これは、何十年もマネジャーの方々と研修そのほかのさまざまな場面でごいっしょすると、自分も含めた上司の「習性」と言うより「通弊」がよくわかるから言っている。人と言うものはやっかいで、自分と同程度に相手が苦心惨憺して来ないと認めたくないわけだ。それと積極性とは何の因果関係もない。

  • その27:18の標準マネジメント能力要件…活動性

    年度末の繁多のため、この稿がすっかりお休みになってしまった。読者の皆様におわび申し上げたい。

    今回以降しばらくの間、標準18のマネジメント能力要件の内容を述べる。

    その第一は活動性。これはどう考えてもあらゆるマネジメント活動の原点である。エネルギーが感じられない言動に他人が影響されると言うことは起きない。また一定のエネルギーを注ぎ込まなければ、物事が結晶して果実となることもない。

    体力、気力旺盛な人は、この活動性には資質的に恵まれていると言える。そうしたエネルギーに富んだ人の行動が、活動性の高い第一の典型である。歴史に名を残した人物にはこれに恵まれた人が多いことは言うまでもない。

    と言って、エネルギーに恵まれた人が誰しもそれを有効活用しているかは全然別問題である。いつも最後のがんばりでどうにか帳尻を合わせている人もいるかも知れない。そういう人は、活動性は高くとも「計画組織力」が苦手なのだろう。逆にあまり考えずに膨大な分析に真っ先に取り掛かったが、多大な時間をロスしてから実はむだなことをしていたと気づかされる人も時にいる。これは活動性は高くとも、「判断力」が不足した。自分が体力気力に恵まれた人の中には、つい長時間の活動が苦にならないから、きっと誰しもそう言うものだと思い込むくせを持った人もいる。そう言う上司を持っては部下はたまらない。こうなると「感受性」「人材の活用」も少しあやしくなるかも知れない。

    もう20年も前だが、あるアセスメント研修の終わりぎわにアセッサーミーティングを行った。これは各受講者のプロフィルや評定を確定する専門アセッサーどうしの会議である。私が担当したある受講者は、部長兼務の役員だったが、ともかくバイタリティがあり、熱心そのもので、諸事飽くことをやまない。よって、その人の最強点を「活動性」としたら、深く尊敬していたその時の上席のアセッサーがなかばつぶやくように言った。

    「活動性ですか・・・・・役員になっていつまでも活動性で仕事をしているって言うのはどうかな・・・・・」

    役員にもなるような人は、バイタリティがあるからなる。たいていそうだろう。しかし、能力要件は18あって土俵が広いのだから、いつまでも活動性だけが表看板では仕事の進め方が狭くなるかも知れない。どうか活動性に恵まれた人は、3年後、5年後には、別な強みのほうが自分の看板になるよう工夫して欲しいものだ。逆に言うと活動性だけがたよりの人は少しでも体力が落ちるととたんに輝きを失ってしまう。私はその意味でこれは入り口能力要件だと言っている。

    エネルギーそのものは資質に近い。それが少し不足している場合には、どんな補い方になるだろうか。たとえば有名な例では、松下幸之助氏は健康に恵まれなかったことがよく知られている。と言って、氏の活動量が少なかったなどと言う人は誰もいない。虚弱な体質なのに物に憑かれたように事業を進めることができたのは不思議と言えば不思議だ。それも少々な成功ではない。日本を代表する企業グループを育て上げたのだ。これを詳しく書き出すと、氏の一代の伝記の模倣になってしまうからそれはやめておくが、ここで言いたいのは、そのように資質恵まれない人でも、工夫次第で活動性を高めうると言うことだ。

    工夫は、突き詰めて言えば執着と集中だろう。

    松下幸之助氏の場合の執着は、深い深い使命感に裏打ちされたものであった。私たちは、氏のように「産業報国」と言う使命感までは持てないかも知れない。しかし、少なくとも家族や大切な部下の生活を守ると言うような使命感は持てる。だいたいにおいて、始めから生活がかかっていない人の仕事ぶりは手ぬるく、粘りを欠くものだ。どうあってもキャリアを上げてゆきたいと言う執着は、最近は中国人韓国人の後塵を拝する感もするが、それでも実際はまだ多くの日本人が持っているだろう。そうした粘り強い仕事ぶりを続けていればやがては生活のためと言うより、自分ならではの仕事ぶりやプロセスには執着を持つことができる人は少なくないだろう。

    もうひとつは集中力。高い成果をあげ続ける人は、節目の時を心得ている。そしてその節目の時に力を尽くす。日経新聞の経済人の「私の履歴書」を読むと、ああした方々には、不思議なくらい、2度や3度は、ここが勝負どころと、寝食を忘れて打ち込む時が出てくる。たとえば日清食品の創業者安藤百福氏が、毎日わずかな睡眠時間で数カ月を過ごし、ついにチキンラーメンの開発に成功したのは、47才の時である。昭和30年代前半の47才は今と違って、だいぶ引退も近づいた年令感覚だし今日のように快適な生活環境の背景などないから、凄まじいものだ。と言っていくら安藤氏でも、ずっとそんな過ごし方をしていたらあのようなご長寿を保てたとは思えない。活動性が高く保てる人は息の抜きどころも心得ている場合が多いのである。

    ちなみに、その創業者安藤百福氏を継承した二代目安藤宏基氏の「カップヌードルをぶっつぶせ!」は、マネジメントの勉強のためには誠に活きた題材を数多く提供していただいている。中でも面白いのが、前半百ページほどである。そこには、けた外れたご力量の創業者にして実父の百福氏と、著者とのなまなましいやり取りが描かれているからである。

    百福氏の「私の履歴書」は経済人としては、例外的なくらい部下が登場しない。よほどご自身の力量、エネルギーをもって成し遂げた割合が高い証拠でもある。ご本人も、自分は現場の人間で組織だったことに向いていない旨を述べている。氏の七転び八起きの人生は、ふつうの人の幾百倍も活動性、ストレス耐性、独自性に満ちている。

    私たちは、安藤氏のまねはできなくても、ここが商品開発やプロジェクト成功の切所だと言う節目には時として巡り合う。そうした時にがんばりぬくかどうかは、資質と言うよりは自分の意思、つまりはマネジメント行動の問題に近くなる。その時々の勝敗は運の要素にも左右されるが、そう言う折々に自分の力を出し切らないと、まず次の機会が巡って来なくなってしまう。

  • 3月公開セミナーの感想から

    先週から今週にかけて、東京、大阪にて『真に効果的な人事考課者教育の進め方』セミナー実施いたしました。ご参加いただいた皆様には、心から感謝いたします。お蔭様にて、以下のようなお声やアンケートを多く頂戴いたしました。

    • 「人事考課におけるこれまでにない新しい観点を受け取った」
    • 「考課のケーススタディ討議がとてもおもしろかった」
    • 「考課者教育の重要性や継続の必要性がよくわかった」
    • 「人事考課の機会を通じた人材活用、育成がまだ十分に進んでいないことを痛感した」

    こうした反響を受けて、名古屋でも、5月17日に同内容のセミナーを計画いたしました。中部地方周辺の方々のご参加を心からお待ち申し上げます。

    また当社代表の横山の宿論でもある、人材の評価の主体としての二元的役割区分〜会社側による節目のアセスメントと、ライン部門の上司による日常の人事考課〜のうち、前者に焦点を当てた内容が、4月16日、24日に大阪、名古屋で計画した「昇進昇格前後の人材評価と動機づけ、行動変容の進め方」セミナーです(主催は中部産業連盟で、横山が講師を勤めます)。こちらの側面にご関心のある方々のご来駕をお待ち申し上げます。

    セミナーにご参加くださった方々のご健勝、ご発展を心からお祈り申し上げます。

  • その26:マネジメント能力要件からみる平清盛 その2

    さて平治の乱を乗り切ってしばらくの間、御所の内で、清盛は「あなたこなたしける平中納言殿」とあだ名された。つまり、院、朝廷、公卿のあちこちに気を回し、いっしょうけんめい政治的調整を図る日々が続いた。そしてどんどん位階は出世した。やはり「柔軟性」、そして「活動性」が相当高いとみて間違いない。あたかも平治の乱後は、清盛は独裁権力を得たかのように言われる時があるが、それは全く後世のイメージから来た錯覚である。せっせと二条天皇、そして天皇崩御ののちは「治天の君」となった後白河上皇に、こまめに奉仕した。この柔軟性は「組織感覚」と言い換えてもよい。

    ところで、十訓抄(じっきんしょう)に出てくる清盛の有名な逸話がある。朝早く目覚めたら、宿直(とのい)の郎党がうたた寝をしている。清盛は、彼を起こさないようにそっと寝室を立った。武家の棟梁の護衛である。普通なら手打ちにされるか少なくとも殴打されてもよい場面である。このように、弟、子息、郎党ら一門の人々をことのほかかわいがった様子は随所に伺える。彼のいちばんの持ち味は実はこうした「感受性」のようである。

    ブログに以前書いたが、後に平氏の棟梁を継ぐ次男宗盛は、武将としてはことのほか不決断な人物で、実は出入りの職人の子を、男の子に恵まれない正室時子がもらいうけてきたのだと言う風聞が当時からあった。これを聞くや清盛は、宗盛は間違いなく自分の子であり、そうした風聞を語る者は以後厳しく罰すると言った。これも深い「感受性」であるし、ここまでくれば「統率力」でもある。

    多くの弟や血縁者を次々殺していった頼朝と較べると違いがよくわかる。

    宋との貿易により巨利を得ようとしたのは、門閥貴族にはない「積極性」「計画組織力」が見て取れよう。これも若き日に海賊討伐を進め、西国の国司、要職を兼ねた頃からずっと積み上げて進めて来たものであり、営々と今の神戸港を開き、福原の新都を建設した。「統制力」「活動性」もまず高い。清盛の活動性は、源氏武者と違って、戦働きよりもこうした面に出る。まさに脂がのりきった。

    さて、あなたこなたして一門の春を築いたが、そのおこぼれに預かれない側には不満と嫉妬が宮中に黒く渦まいた。1177年、後白河法皇も加わった平氏転覆の密謀が発覚した。鹿ヶ谷の変である。今回も、こうした陰謀がだいぶ進んでから知るなど、やはりリスク感知と言う面においての「判断力」は弱点なのだろう。と言うことは、存外にお人好しで人を信頼するたちであったと言うことでもある。特に後白河法皇には、「これほどお尽くし申し上げてきたのに」と、本当に悔しかった。怒りのあまり法皇を幽閉しようとした。これを諫めたのは、この時既に家督を継いでいた嫡男重盛と言われる。

    この時の親子の対面は、平家物語の中でも最も有名な場面のひとつである。法皇の身柄にまで事が及ぶのを見過ごすことは、「親(清盛)に孝ならんとすれば君(法皇)に忠ならず、君に忠ならんとすれば親に孝ならず」と名句を吐き「かくてそれがしの進退はきわまった」と重盛は涙ながらに父の暴挙を諫めた。最後にはどうしても法皇を押し込めると言うなら「この重盛の首をはねてから父上のお好きになさればよい」と言った。清盛は屈せざるをえない。

    どうも義母、池禅尼に頼朝助命を迫られた時と言い、このたびと言い、まなじりを決して迫る相手に困惑しかねて「わかった、もうよい」と言わされる場面がこの人の生涯には多い。活力旺盛で頼もしい棟梁だが、一族へのごく凡夫らしい情愛からつい失敗をする。このたびも武士の権力の構築と言う面から見れば不徹底な行動に終わった。「決断力」がやはり得意とは言えないのである。後白河法皇の平氏に対する行動は、平氏に支えられた院政を維持してきた前後関係から公平に見て、とうていほめられたものではない。

    実際、この会話の40年数年後、やはり乱を起こした後鳥羽上皇(後白河法皇の孫)を、鎌倉幕府が隠岐島に流して生涯ついに都に戻さなかったことを不敬のきわみと言って批判する人はむしろ少ないだろう。そうしたバランスを見ないで清盛の意図や行動を評するのは不公平であろう。

    こうした平家物語の会話内容の史実性の程度の検証は学者の範疇として、ここではっきりわかることは、息子重盛のほうがずっと雄弁で態度が立派であったことだ。清盛はどちらかと言えば、言説が非論理的で一貫しない。つまり「コミュニケーション能力」や「説得力」は息子の方が上だった。しかし、事件処理の全体を通じての政治的着眼は、清盛の方がずっと現実的で、つまり「判断力」は父の方が上だったと私は思う。重盛の言動は、文学的には立派でも、何千何万の一族郎党の命を預かる者の判断とは言い得ない。今風に言えば「ひとりええかっこしい」と言うものに見えるがどうだろうか。

    しかし清盛は、けむたいながらもこのしっかり息子を頼りにしていたことは間違いない。その重盛は2年後に親より先に亡くなる。その後さらに後白河法皇に、政治的に冷酷な仕打ちを続けざまに受けて怒り狂った清盛は、ついに法皇を幽閉する。これは、一般に暴挙とされるが、評価はさほど単純にはできないのは上述の通りだ。武士の至高権力を普遍的に確立する結果が伴えば、たいへん優れた「判断力」、「決断力」だった言われたのだろう。しかしまたしても不徹底だった。

    そして誰しも免れ得ない老耄の陰が深く差し込んできた。娘徳子の産んだ幼児の安徳天皇を立てて溺愛し、一門だけで高位高官を独占して、相当独善的な印象が濃くなっていった。こうした晩年には、上述のこまやかな「感受性」ははげ落ちていってしまったようだ。そして、藤原摂関家のように、結局はあくまで朝廷内部に自らの権威と勢力を保持しようとした点においては「独自性」(自主独立性)が頼朝より劣ると言うのは、しばしば言われるところである。

    赤直垂(あかひたたれ)の禿(かむろ)と言うわらべを京の街々に放ち、平氏の悪口を言う者をいちいち捕え、その居宅を打ち壊したりしたのは、壮年期までの彼には考えられないような「柔軟性」「感受性」の喪失である。こうして平氏の繁栄にのみ心を奪われて地方武士の利害をすっかり忘れ、「統率力」はみるみる失われた。

    1180年、頼朝を含む各地の反平氏勢力が旗揚げをする。手を焼いた清盛は、その年の暮れ、近畿の反対勢力の代表でもあった南都(奈良)の寺院に攻撃をかけた。折からの冬の季節風にあおられ、聖武天皇の天平の御世以来の東大寺大仏殿を始めとする、多くの大寺院の伽藍が焼け落ちてしまった。むろん僧俗の死者無数である。直接攻撃をしたのは、清盛の四男重衡である。が、攻撃命令はむろん清盛がくだした。凱旋した重衡に「大仏殿までは焼かずに賊徒をこらしめることはできなかったのか」と益のないくりごとを言ったようだ。こうした事後評価は今日のまずい人事考課といっしょで、まったく「説得力」を欠く。

    この一挙は、当時においては巨大であった寺社勢力と2度と妥協できない関係に陥ることとなり、このばくぜんとした南都攻撃命令においては、若き日に調整の人だったことが信じられないくらい情勢に対する「分析力」やそれに基づく「計画組織力」が落ち込んでしまった。老いが深い。「人をやたらと殺傷せず名刹伽藍には火をかけるな」と言うなら、若い重衡には当初から厳命しておかなければならなかった。あの飛鳥時代の蘇我入鹿ですら、聖徳太子の嫡男山背大兄皇子を討ち果たした時に、兵達に法隆寺にだけは指一本触れさせなかったのだ。

    清盛が急病に倒れ亡くなるのは、この2か月あまりのちである。平氏の滅亡を見ずに黄泉路に旅立てたのはまだしもの幸運であろうか。

    以上が、清盛の世人に広く知られた事蹟、行動に基づく私流のアセスメントである。アセスメントの全体像の半分である行動の評価の面を、てっとり早くご理解頂くため、このような稿を著した(もう半分は、自分で気づいて動機づけ、行動を変えることである)。

    人生の時期によって異なるとしても、総括すれば、清盛の強みは、判断力、柔軟性、感受性であり、弱みは、決断力、説得力、ストレス耐性と言ってよいだろう。読者のご意見があればお伺いしたい。

  • その25:マネジメント能力要件からみる平清盛

    たわむれに、前々回にご登場頂いた今年の大河ドラマの主人公平清盛を、この18能力要件でもう一度評してみよう。よく知られている彼の後半生の行動と事実から採取したい。

    1159年暮れ、42才の清盛は、熊野詣に出かけた。そのすきをねらって、都で藤原信頼、源義朝が京で挙兵して御所を占拠し、多くの役人、女官を殺傷した。平安遷都四百年の中でこんな蛮行をした者はいない。平治の乱の始まりである。むろん清盛の留守をねらっての挙兵である。

    南紀でわずかな供しか連れていない清盛は窮地に立った。清盛は日頃から、信頼の無能や義朝の粗野を軽蔑していたことは間違いない。が、その仮想敵が、先例なしとは言え、このような暴挙に出るとは読んでおらず、のんびりと一族で物見遊山をしていた。だから、リスク感知という意味での「判断力」は少し甘かったかも知れない(結果的は相手が自滅し、彼の権勢が築かれると言う幸運を招いた)。このあと、取って返してどうにか堺まで戻ってきた清盛は、情勢を掌握しかねた。敵の威勢を恐れる余り、自信なさげに「四国にわたって兵を整えたい」と言った。これは武将としては、「説得力」や「インパクト」も不足気味だった。

    そう言えば、この3年前の保元の乱の時も、うっかり日本一の豪傑源為朝(鎮西八郎)の持ち場に攻めかかってその強弓に射すくまされ、どうせ勝ち戦なのだからと別な持ち場に「転進」したことがある。いかにも清盛らしく勇気と言う意味での「決断力」は欠いているように見えるが、この場合はむしろ「柔軟性」に富んだ態度であると評価するほうが至当か。為朝ひとりがいくらがんばっても、勝ちはこちらだから、きちがいじみた豪傑を相手に大切な家の子郎党を損じてもつまらないという「判断力」もなかなかしたたかかも知れない。こうしたちゃっかりした処世が、清盛のいちばんの特色である。今日サラリーマンをやっても立派に勤まりそうだ。

    つい少し前で、私は、同じ判断力でも、リスク感知の面はやや弱いと言った。同じ人物が、同じ能力要件において正負両方の行動が現れることは少しも珍しくなく、大切なことはその人物の行動を総合一貫して捉えることである。

    しかし、さて、堺でのことだが、「今回はここで逃げては平氏も終わりだ、覚悟を決めて都に上るべきだ」と言う息子や弟の進言を結局は聞き入れて、上京を決心した。「決断力」はあまり得意とは言えないが、それを「人材の活用」で補っていたようである。それでも清盛は都に行くことがよほどこわかったと見える。なぜそんなことが私にわかるかと言うと、彼はこのとき堺の大鳥神社と言う古大社にいて、歌を一首詠み、その歌碑が残っているからである。

    かいこぞよ 帰りはてなば 飛びかけり 育み立てよ、大鳥の神

    今は、かいこ、つまり幼虫のような平氏であるが、京の都に帰ったあかつきには羽化した蝶のように空かけて飛べるように、大鳥神社の神よ、育んで欲しい、と言う意味である。都にはなみいる源氏の荒武者達が待ちかまえている。その恐ろしさを何とか打ち消そうと必死な思いがよく伝わってくる。そういう意味で、「ストレス耐性」は、武将としてはさほど強い方ではなかった。

    しかし、それにしても何とまずい歌だろうか。かたわらにいたに違いない、嫡子重盛も、教盛、頼盛などの弟たちも、思わず下を向いて笑ったかもしれない。和歌の巧拙はマネジメント能力とは直接関係はないが、どうみても「創造力」があるようには思えない。そう言えば、この平氏一門は、歌舞音曲と和歌などに優れた人材を輩出したが、清盛はその経済的政治的基盤を整えただけで、自分はそうしたものにとんと関心が薄かったように見える。創造力はやはり薄いか、少なくとも恵まれてはいない。

    まずい歌を、不安を隠せぬ正直な表情で、と言ってなかば虚勢ながら「おれの命はおまえたちに預けた」と言う態度を示されて、むしろ「こんな心のおやさしい棟梁だからわれわれが盛り立ててゆかないと」と結束を高めたかも知れない。その意味では、結果的に「人材の活用」もしくは「統率力」に転化したと言える。少しお人好しで臆病で、しかし、ちゃっかりと実利を取って、それを気前よく配分し、血縁者や家来を大切にする壮年までの彼は、よく人に慕われた。

    後に源頼朝は、大江広元や三善康信といった京にいてはうだつのあがらない下級公卿のテクノクラートを現実政治に大いに活用し、また梶原景時のようなある種の毒物も、その能力面だけを見事に使いこなした。こうした組織的で冷徹な人材活用なら頼朝のほうが一枚上手だ。清盛の人材活用は、当時としてはきわめて普通だが血縁姻戚が多く、情感のこもった活用である。そう言う包容力、つまり「統率力」は清盛が上だ。頼朝の特徴は、何と言ってもそうした情感を排して統治機関になりきった「統制力」の方にある。

    さて、この時実は、敵の信頼は決定的なミスをする。義朝の長男義平が、「自分が阿倍野(大阪府)まで進み出て、清盛の首を挙げてまいろう」と進言したのを退けたのだ。信頼にとって絶対に生かしてはおけない仇敵はまずは信西入道だった。まっさきにその信西を討ち取った以上、「清盛も自分に従うならそれでよい、事を無理に荒立てなくてよいのだ」。恐るべき「判断力」の甘さであった。清盛が、信頼、義朝コンビに最終的に従うわけがないではないか。

    それにしても、上記の鎮西八郎為朝亡き後この時点の日本一の豪傑は、この鎌倉悪源太こと源義平である。わずか数百でも完全武装の兵に待ち受けられたら、まず間違いなく義平の言う通り、清盛は、義平の薙刀のさびとなっていたであろう。ここで、少しはまともな武将なら、悪源太義平のように考えるのがふつうである。従って四国に逃れたいと言った清盛の「理解力」、情勢「分析力」、状況「判断力」は、実はまず普通かそれ以上だったのである。重盛ほかの平氏一門の人々は、清盛ほどは責任がないから、積極策を主張した。それをついに容れて好結果を産んだ。人間の運命は古来こうした運命の分かれ目で、理知の判断を超えて怯懦を避けた時に光芒を得る。「決断力」は得意でないが、行動としては不決断ではない。

    清盛は京都に戻ってからは、恭順を装い、信頼に家の子郎党の名簿を差し出してそのあかしとした。信頼はまんまとだまされた。その上で、警備のすきをついて敵の「玉」、すなわち二条天皇を奪取し、本拠地六波羅に迎えた。いろいろな物語ではこのあとの合戦開始以降が華々しいが、実質の勝負はこれでほとんど着いた。天皇を擁した側に弓引いて勝った例など日本の歴史に一例もない。日和見をしていた多くの武士が、清盛側に着いたことは言うまでもない。信頼の性格的な甘さを読み抜いての策略であり、機に応じての「柔軟性」、物事の先を読み通す「判断力」、術策をやり抜いた「統制力」はいずれも見事である。どうやらリスク感知が少々甘くとも、清盛の判断力は総合的には相当高いと言ってよさそうだ。

    それでも、源氏勢は、天皇のいなくなった御所から、清盛の六波羅館まで攻め寄せてきた。驚いて思わず兜を前後さかさまに着けたと言う逸話はこの時のものである。その真偽は別にして、やはり「ストレス耐性」がさほど強くない清盛をよく物語っている。この時清盛は「背後の奥の間に主上がおわすのでご無礼ゆえかぶとをうしろ向きにかぶったのだ」と言ったという。この機知も「柔軟性」の一種である。

    戦そのものは、数ではるかにまさった平氏が勝つ。例の悪源太義平は、戦に敗れたあとも単身清盛をつけねらい、彼ひとりを捕らえるために清盛自身ずいぶん大騒ぎをする。やはり「ストレス耐性」は苦手だ。義平はむろん捕らえられて、何の思案もなくすぐ斬られたが、三男頼朝は助けられた。人の運とは不思議である。

    前々回述べたように、継母に押し切られ、頼朝を助け、他方、常磐御前の美貌に魅せられてその子牛若(義経)など三兄弟を助けてしまった。これは、「決断力」が足りないと言えば一応その通りだ。が、何しろ、ああした壮大な歴史絵巻上のかたき討ちは、この清盛と源氏兄弟がわが国で最初だから、それを先々まで読み通せと言うのは無理かもしれない。つまり当の本人にはそれほど重大な意思決定だと言う意識がなかったように思える。だからマネジメント能力を評価すべき行動としては除外したほうが、本当は公平とも思える。よって、ここで評価すべきは、マネジメントではなく、情けの厚い清盛の人柄だろうと言うのが私見である。しかし、結論は一応「通説」に従って、「決断力」の不足としておく。

    長くなったので、平治の乱後の続きは次回としたい。

  • その24:マネジメント能力要件

    さて次に、体験学習としてのアセスメントの進め方は以上述べた通りである。深いふり返りをもたらすには、自分の行動に自分で気づき、同僚間で相互にフィードバックをするとよいことを述べてきた。そうした事実そのものが雄弁に何事かを物語っているのだから、それを示すだけできわめて大きなインパクトはある。ただ、その上でさらに、そうした行動を取った個々の事実が、マネジメント能力のどのような部分のどの程度の過不足を示しているのかが明確になるならいっそう便利であり、有用である。

    ここまでマネジメント能力とかリーダーシップとかあえてばくぜんと言ってきたが、そういう意味で、ここでそれをばらばらにする必要が生じて来たようだ。マネジメント能力要件体系は、この必要から生じた。私のところでは、前述した名古屋大学大学院の若林先生に監修していただいた18の標準能力要件体系を用いている。もちろん標準であるから、お手伝いを依頼された組織に固有のマネジメント・コンピテンシー等があればそれを用いることもある。

    人事制度論としては、実は、問題はそうした体系の設計方法の巧拙にあるのではない。いまどきは情報も豊富だし、この手の仕事に任じるスタッフも昔よりずっと深く勉強している。だから奇をてらってわざとでもやらない限りは、そう的はずれなものはできないのである。

    真の問題は、会社として常にそうしたものを、本気で浸透させようとしているかどうかなのである。標準でも、オリジナルでも、そう大きく趣旨が異なるわけではない。たとえば、判断力や決断力を例にとると、その内容を何と表現するかは別にして、マネジャーにそう言うものは必要ないと言う組織にはまずお目にかかったことはないからである。マネジャーとして求められるマネジメント能力は、かなりの程度まで普遍的なのだ。だから、小さな違いをいちいち論じるよりも、大きな趣旨が自社の管理職、専門職、リーダー候補達に、深く浸透しているかどうかこそが問われれるべきことがらである。人材アセスメントの研修を行うこと自体が、会社として、本気で浸透させようとしているひとつの大きなあかしとなるのである。

    そういう前提なので、私のところでは、ごく普通に個人特性、対人影響力、業務遂行能力の3本立てにしている。

    個人特性と言うのは、多少資質に近いものも含んでいる。行動科学で言うリーダーシップの特性論の系譜を継承する用語でもある。と言って努力によって開発可能な範囲も充分ある。と言うより、企業変革のカリスマ型のトップマネジメントになるのだと言うことでもない限り、通常必要とされる範疇は、啓発による習得が可能である。活動性、積極性、ストレス耐性、インパクト、独自性の5つである。

    この個人特性がベースになって、次の局面では、人に影響が与えられなければ仕事は進まない。だから個人特性の上に対人影響力が乗っかっている。ここになると、資質よりも、たいぶ習熟可能なスキルが入ってくる。状況は千変万化だが、効果的な対人行動はある程度まで類型化できるし、それは、経験、書物を通じて学べるからである。この範疇には、感受性、柔軟性、コミュニケーション能力、説得力、統率力の5つがある。

    さらに、具体的に問題解決、意思決定をするとなると、他人に影響を与える前に、広く着眼し、深く考え、自分の内面と向き合い、決心しなければならない。業務遂行能力である。これは、理解力、計画組織力、統制力、人材の活用、分析力、創造力、判断力、決断力の8種類である。

    以上で18種類である。 

    これらは相互に掛け合わさって最終成果になる。どんなに立派な分析力を持っていても説得力がなかったら実際の効用にはならないだろう。どれだけインパクトと積極性が強くても、まるきり計画性がなければ周囲を振り回すだけで実を結ばない。そう言う意味では、本来マネジメント能力要件と言うのは、立体的構造的に掌握されるべきものである。しかし実戦上はそれでは不便なので、以下では並列的に説明する。

  • その23:ふたたび、性格と行動の区別

    ■ふたたび、性格と行動の区別


    少々閑話休題をゆるされたい。

    前々回、性格と取るべき役割行動が混同されることは、マネジメント上、なるべく避けた方がよい旨を書いた。日本の歴史の中で、この面の最大の失敗をしたのが、今年の大河ドラマの主人公である平清盛であったことを思い出した。今テレビで放映されている清盛像は、まるでのちの織田信長や豊臣秀吉のような武士による天下取りの先駆者であるがごとく、勇ましく、行動的で、実に荒々しい。清盛は後の言葉で言う統一された天下取りを指向したことなどなかったろう。院、朝廷、摂関家、有力寺社、力量ある地方武士、宋の大商人等の一切の重要関係者とうまくやってゆく中で平氏がイニシアティブを取りたかったのだと考えられる。中世と言うのはこうした混沌、多元、多層が特色で、ある面ではむしろ戦国期より今日のマネジメント状況に類似する。  

    まあ、ドラマのストーリーは脚本家の自由だから置いておくとして、史家の論ずるところの共通項の清盛は、そのように、慎重で熟慮に富み(つまり勇敢とは言えない)、バランスの取れた判断をする一方で、しっかり物事を積み上げてゆく人物であったとされる。もっとも、藤原氏と同様、安徳天皇の外戚となった晩年の清盛には以上の評は少しあてはまらなくなっているかもしれないが。

    つまり、何事も力づくでの解決を図り柔軟性の足りないライバル源義朝などに比したとき、今日ふうな意味でもマネジメント能力がとても優れていたと言ってよいと思う。その清盛の最大の失敗が、平治の乱(1159年)で勝利した後、敵将義朝の嫡男頼朝の命を助けたことであるとしばしば言われる。のちに頼朝が平氏を滅ぼすことになったのは言うまでもない。

    この助命の経緯も、実に謎めかしく、このあと大河ドラマがどう描くか楽しみではある。が、大失敗を論じる前に、清盛が、かなりきわどい窮境であった平治の乱で勝ち抜けたのは、彼の政治力、マネジメント能力に負っている面がとても大きいことを見逃してはならないだろう。何しろ大きく先手を取られて、御所と天皇、上皇を先に義朝側におさえられてから、策と手順を尽くしての逆転勝利であったのだ。

    だから、戦いが終わって捕らえられた頼朝を当然斬るつもりでいただろう。それは当時の価値観として非情とかそう言うことではなく、ごくあたりまえなことだった。しかし、物語によると、ここで清盛の継母つまり亡父忠盛の後妻の池禅尼(いけのぜんに)が、頼朝を見て「自分が産んだ亡き一子とよく似ているから、供養と思いどうか助けてやっておくれ。」と言ったことになっている。その一子は、清盛にとっては母違いの弟にあたり、亡父もこの弟をとても愛しかわいがっていた。生きていれば、どちらが総領になったかわからなかったと言われる。むろん清盛は、「母上、武門の子は長じれば仇をなします。怖いものですよ」と言ってとりあおうとはしなかった。ところが、池禅尼はヒステリーを起こし叫んだ。「清盛殿は継母だと思って、わたしを軽んずるのですね。ああ、亡き殿(忠盛)がおわせばこのようなはずかしめは受けぬものを。」と袖を濡らせてわんわん泣き出したからたまらない。手に負えなくなってしまった。

    そして結局、頼朝を助命した。「こどもひとり助けたところでさしたることもあるまい。継母の願いを無視して、14才のわっぱを斬ったのでは、世の聞こえも悪かろう」と自分に言い聞かせた。こうした家族、一族郎党との情実、恩愛を大切にし、世間の風評をしっかり気にかけるのが、源氏一族にはない清盛の大きな長所とされる。他方、現代の価値観に照らして古代中世の人物の行動を評することもまたあまり適切ではないかもしれない。清盛の平安末期の「マネジメント」としての立場と役割は、ヒューマニズムや博愛社会の実現ではなく、どこまでいっても平氏一門の繁栄とそれを通じた朝廷と世の平穏安定だったはずである。鴨川原や羅生門に餓死者や行き倒れ人が累々重なっていたこの時代、それが精一杯だ。しかし、こどもひとり助けたために、20数年後、彼の妻、子息、その他の多くの一族は、一ノ谷や屋島で討たれて散り、最後はことごとく壇の浦の藻屑となって滅び海底に沈んだ。

    そう言う意味では、一代の意思決定を間違えた。あるいは正しい判断(頼朝を斬る)にいったん至りながら、継母の反対と言うきわめて家族的な理由で決断がつかなかった。つまり彼の優しい性格、好戦的ではない穏やかな人柄が、この場合、当時の武士としはごく普通の措置を取らせなかった。現に、清盛の轍を踏むまいと、酷薄な話だが、このあと敵将の忘れ形見を許した武将など誰もいない。

    こうした清盛の性格には、私を含め、あたたかみを感じる人は多いだろう。なかなか性格と行動を区別するのは難しいことだ。そしてこうした運命の岐路ともなるような場面で、いっそう、人の性格と言うものは表面に出てくるからやっかいである。

    六波羅に行くと今でも「池殿」と言う町名がある。池殿とはこの池禅尼のことである。きっと清盛が彼女のために建てた亭があったのだろう。800年を経て地名に残ると言うことは、やはりそれなりに立派な屋敷だったに違いない。継母思いな、あるいは浮世の当然の情義として、亡父の愛した後妻に礼を尽くした清盛であったようである。

  • その22:問われるのは行動である③動機と行動の区別

    ■問われるのは行動である③ 動機と行動の区別 

    性格のもうひとつ外側には「動機」がある。動機は、行動に直接つながる接点である。その「動機」もまた、気質、性格の影響を受ける。内向的な性格の人は控えめな行動を取ろうと言う動機となり、外向的な性格の人は、積極的な行動への動機に結びつきやすい。ただし、前述のように、マネジメントを行う人は、性格のままの行動への動機でよいかどうかを、判断しているのである。

     
    この動機も、マネジメント行動との関係において、考えさせられる点がある。

     
    例によって面接演習もしくは日常の様子を思い浮かべてみよう。あなたが、能力はそれなりにあるが、性格的に少々やっかいな部下を持っていたとする。いろいろと日常話し合うこともあるだろう。意見が合わないこともあるに違いない。ともあれ、あなたはその部下に少しでも上司としての考えを理解してもらいたいし、その上で、一層意欲を持って仕事に取り組み成果を挙げて欲しいと思っているだろう。その思いがここで言う「動機」である。もしもこの時、似たような立場に置かれた同僚の管理職が、「日頃から気にいらない男だが、よい機会がめぐって来たので、ここはひとつがつんといためつけてやろう」と思って臨んだとしたら、あなたはどう思うだろうか。少なくとも感心はしないだろうし、あまり好ましいとは思わないだろう。

    誰しも、部下の意欲と能力の向上を願う。つまりマネジメントを論じる時は、その濃淡は別として、動機はほぼ適切であると言う前提に立たないとあまり話にならないのである。もしも明確に否定的な動機を持って臨めば、マネジメント以前の話になってしまう。かりに部下のやる気をなくさせてやろうと思って面接場面に臨むのであれば、それはマネジャーとして基本的な物の考え方(つまりは動機だが)が現時点では欠落していると言われてもしかたないだろう。

    まあ、そう言うことはまずあまりない。目の前に部下がいるとする。ついついやりあっているうちにカッカとしてくることはあるかもしれない。それは文字通り性格的な面が無意識に作用してそうなる。まあ、あまり適切ではない行動と言うことで、否定的な動機と言うほどではない。しかし、温厚沈着で決して事に臨んでカッカと感情的にはならない読者でも、時には天を仰いでこう言いたくなったり、実際に言ったことはないだろうか。

    「君ね、ぼくはそんなつもりで言っているのではないのだよ。どうしてわかってくれないかなあ・・・・・」

    つまりいくら言っても部下に上司の意図が浸透せず、適切な行動につながっていないようだ。私もこう言いたくなる上司の気持ちは痛いほどよくわかる。しかし、ここはまったく第三者の目から、つまり他人の目からこの情景をながめてみよう。そして端的に問いたい。この情景で、いったい悪いのは上司なのか部下なのか。

    「私はそんなつもりで言ったのではないのだ。」

    と言いたくなる気持ちは私も上司のひとりとして痛いほどわかる。その「つもり」と言うのがここで言う「動機」なのだが、それは上述のようにみな、基本は同じ方向なのである。動機がほぼ同じなのに、部下がどれだけやる気になったかと言う結果が時に厳然として違うのである。そうである以上、その結果を受け止め、なぜそうなったかを考えることが、マネジメントを行う者にとって大変重要なのだ。「動機」はさして変わりない以上、つまりは「行動」のありようが違うからそうなったのである。マネジャーは、動機ではなくて、結果と行動が問われるのだ。
     

    そう、この情景において、課題は上司の側にあるとしか言いようがない。いかなる時も意図を浸透させる責任は上司の側にあるだろう。このことは体験学習のふたつめの要素のところで述べた。大事な点だからもう一度言う。マネジャーや、リーダーと言うのは、その言葉が関係する人々からどう受けとめられたかがすべてなのであって、そんなつもりでなかった、実はこう言う意味だったなどとあとから言うのは益のないことなのである。

    以上が動機と行動の区別である。

  • その21:問われるのは行動である②性格と行動の区別

    ■問われるのは行動である②性格と行動の区別

    行動でないものの第二は、自分の内面である。内面は、単純に言えば、より内側から気質、性格、社会的性格、動機がある。


    人の行動は、言うまでもないが、その人の気質や性格に大きく影響を受ける。人間の内面のいちばん奥側にある「気質」と言うのは、その人そのものであり、生来のものだから変えようがなく、したがってよいもわるいもないものである。


    もうひとつ外側の「性格」は、一般に幼少期の生活環境に大きく影響を受けて形成されると言われる。が、これも良いオトナになってから今さらコロコロ変わるものではない。さらに外側になると「社会的性格、職業的性格」などと呼ばれるものがある。これは職業や長年の仕事を通じて形成されるいわば第二性格である。学校の先生らしい人、商売人らしい人などとよく言う。サラリーマンの場合は、サラリーマンらしい人でもいいが、その会社の社風、つまり企業風土に大きく影響を受けていることもある。これらは、皆行動の前提であり、行動そのものではない。

    ふつうは、生(き)のままの性格で仕事をしてもうまくゆかない。従って私たちは、愉快ではないがどうにか自分を環境に適応させようとする。本来の性格のまま振る舞っても、仕事が立派に勤まっている人がたまにはいる。お幸せな人と言ってよいだろう。しかし、仕事が変わればもはやそれは通用しない。一生自分の性格に合った専門職を貫ければとてもハッピーである。が、そういう人はごくわずかだから、私たちは好悪にかかわらず物事を「マネジメント」しなければならない。マネジメントを行うと言うのは、きれいに言えば多様なミッションに取り組み、転変常なき変化に適応し、必要な役割行動を取ることである。より平易に言えば種々雑多な混乱のるつぼに我が身を置くことでもある。よって、性格と役割行動とを、なるべく混同させないことが、一般にすぐれたマネジメントの前提であろう。もちろん、卓抜した力量を示す行動の中に、その立派なお人柄がしのばれると言うのが理想の境域である。しかし、なかなかそうはゆかないから、ここでは性格と行動はいったん区別する。単純な例を挙げよう。


    あなたの目の前で、とても不適切不具合な行動を取り、周囲の同僚にその場で迷惑をかけている部下がいたとする。あなたはどうするだろうか。考えるまでもない。注意して即刻やめさせるしかない。そうしないのだったら、上司として必要な、統制力、決断力を明確に欠いていると言われてもしかたないだろう。こんなときに、「自分は、人にネガティブなことを直接指摘するのは好きでないから、しばらく様子を見よう。そのうちやむかも知れない。」などと言う判断はまずあり得ないことである。こう言う状態が、性格と、役割として取るべき行動とを混同した例である。


    逆に言いたいことはすぐに言わないと気が済まないと言う性格の人だっているだろう。しかし、部下が大変な繁忙で混乱している時に、些細なミスを全部その都度その場で指摘して注意していたら、混乱に拍車をかけ、生産性も効率も一層落ちてしまうだろう。これもまた性格のまま行動して判断を誤った例である。


    性格と役割行動の混同とは以上のようなものだ。あえて単純な例を挙げたが、現実には、難しい意思決定の際、私たちが、性格と行動を区別峻別するのは存外に容易なことではない。人は困難な問題解決に直面し、苦しい時ほど、性格に密接に結びついた弱みが表に出やすいからだ。つまり、採るべき道を選ぶより、自分の好悪に従い選択をしてしまう。優れたマネジャーは、そう言う自分の心理状態をいつも自覚している人だと言ってもよい。私は、いつでも自分を殺すべきだなどと言っているわけではない。任務から離れた時、家族や友人と話す時には、自分らしくすればよいのである。しかし役割を与えられたら、それを遂行する時にはそれになりきるのがマネジメントの前提である。そういう意味では、マネジメントは、すぐれた役者、俳優と同じである。

  • その20:問われるのは行動である①結果と行動の区別

    ■問われるのは行動である①結果と行動の区別                 

    さて留意点を踏まえた上で、ひとつだけ研修上の「約束」ごとがありますと言っている。それは問われるのは行動であると言うことだ。

    正確に言えばマネジメント能力が問われるのだが、マネジメント能力と言っても目に見えない。それを可視化するには行動で表すしかない。繰り返すがその状況、節目の場面に最も適切な行動を選び、実行できることがマネジメント能力そのものなのである。

    問われるのが行動であると言うと「そんなことあたりまえではないか」となる。だから、マネジメント能力を論じる時に問われないもの、つまり「行動でないものは何か」と問われた時にそれが明確になって区別していないといけない。

    第一に、単純な結果や、一切のプロセスを見ない業績そのものは行動ではない。もちろん、日々の会社の実務で何より問われるのは結果であり業績である。これは当然である。

    会社ではまず大事なことは業績である。しかし、もっと大切なことは、長い間、安定的に立派な業績を上げ続けることである。そのためには、しっかりしたマネジメント能力を築き、堅忍不抜な態度で適切な行動を取り続けるしかない。ほんのちょっとだけ中期的に見れば、必ず適切な行動を取り続ける会社と個人が高い業績を上げる。逆に、この10年、「あんな立派な会社がこんなことになってしまったのか」と言う例を、読者は幾例でも思い出せるだろう。こうした企業は、例外なく目先の帳尻を糊塗するために奔命してしまった。ごく刹那的行動に陥り、長年の信用を一瞬で失うのである。

    しかし、現実には適切な行動を取るとすぐさま業績が上がるわけではない。逆に適切な行動を取っていないのに業績が上がることもある。アセスメントにあっては、ここをよく見通さないといけない。ここは実は受講者どうしの相互フィードバックがやや難しい点でもあり、アセッサー(講師)が必ずよく観察していなければならない。日常の例で言おう。たとえば読者が4月1日に転勤してある営業所長に着任したとする。知らない土地で、部下も全員初対面であり気心が知れない。お客様のことも何も知らない。であるのに、目標だけは、景気も冷え込んだ中で、前年比20%アップの20億円を売ってきなさいと厳命され、「困ったなあ」と途方に暮れていたとする。る。

    ところが、4月2日以降、何もしていないのに次々向こうから注文が舞い込み、あっと言う間に目標を達成してしまったとする。

    これが読者自身のマネジメント能力や適切な行動に基づく業績だとは誰も思わないだろう。では何のお蔭なのか。お客様に特需が生じた偶然かもしれない。競合会社が勝手に転んだのかもしれない。もっとも蓋然性が高いのは、きっと前任者が、粘り強く長年にわたりこつこつと種まきに努力していた結果なのかもしれない。あなたはちょうどその花が開いたときに転任してきたわけだ。それで賞与の評価が高くなったとしても、それは格別不公平とかそう言うことにはならないだろう。会社の中には、お互いさまのこんなことはありふれているからである。

    しかし、アセスメントにおいてマネジメント能力を論じるときにはこれではいけないのである。あくまで状況に対して適切な行動を取ったか、だけである。この場合、まだ何も行動していないのだから何も論じることはできない。

    ごく短期的な結果は偶然と運不運、外部環境に大きく左右される。しかしマネジメント能力とそれを表現する行動は、そのような次元を超えたより本質的な境域にあるのだ。しかし日常の環境は、以上述べたように人によって全く異なり、同一基盤に立ったマネジメント能力の比較は、膨大な労力をかけて情報収集と分析をしない限りまず不可能である。

    この人材アセスメント研修にあっては、そうした環境を共通の演習教材と言う形で同一に設定してある。そうなると、正解と言うのはないとしても、行動がマネジメント的に適切であったかどうかが、相互にひじょうに観察しやすくなるのである。しかしケーススタディ上の「勝ち負け」と言う単純な結果が、ここで言う行動の適切さとイコールではないことはすでに述べた通りである。

    ともあれ、まず、結果は行動ではない。