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  • 実戦問答No.19:人事考課における上司の度量と納得性

    ~人が育つ上司の、評価における態度的特色~

    今回も人事考課の話を続けたい。
     
    この数年、人事考課研修をお手伝いして感じることがある。それは上司の度量と言うことだ。だいたい「度量」「広量」と言った美しい日本語も使用頻度がだいぶ減ってきて残念に思う。せいぜい「包容力」であるが、これはいまだ意思的であり、度量、広量と言えば、もはや自然に身についた語感だから、マネジャーとしてより習熟成熟が進んでいるように思う。「力量」、「器量」と言うことばもあるが、こちらだと、業績を上げる能力、戦いに勝つ抜きんでた能力を濃厚に含むだろうから、資質才能に左右される範囲がずっと大きくなる。だが「度量」なら、努力だけでもかなり身につけられるのではないか。

    ■部下の落ち度を見つけたくてしかたのない上司Aタイプ
    人事考課研修は、通例ケーススタディを用いる。そのケースの人物の行動や成果を評価するわけだ。そのケースのどのポイントに着眼するかは人の自由と言えばそうなのだが、どうあっても部下の落ち度が見つけたくてしかたない人は、一定割合必ずおられるものである。私はこの仕事を始めて20年たつが、その割合は残念ながら?少しずつ増えてきたように感じる。昔の上司に比して上述「度量」や「包容力」が少し足りないわけだ。
     
    仮にこの種の上司を上司Aと名づける。ことわって置きたいのは、別にこれは全人格にタイプのレッテルを貼っているわけではない。むしろお人柄なら、この手の人は、温かみがあって他人に親切なことも少なくない。ところが部下を見るときの態度が違って来るので、その部分だけを指して言っている。
     
    どんな立派な人物でも、弱点のない人などいないだろう。ましてや、発展途上の未成熟な部下だ。ケーススタディを読んで、欠点短所を探せばいくらでも出てくる。そんなに欠点短所が多ければ、評価も低くてよいではないかと感じられたかも知れない。欠点短所を探すなとは言わないが、かんじんなことは、長所利点を探すエネルギーを、それと同じ程度以上に注いだか、である。だいたい上司Aは、短所を探索する半分の力も長所を探すために用いない。それでは公平な評価にならない。
     
    仮に同じだけ力を注いだとして(既に上司Aには大変難しいのだが)、なにがしかの長所が見つかったとしよう。今度は、先に見つけた短所と長所とのいずれが大きいかと言う、きわめて当たり前な比較衡量を行わなければならない。ただ、上司Aは、今度は、自分が気になってしかたのない弱点をついつい過大に見積もる。それが客観的にいちばん重要な点なら問題ないが、気になってしかたない点と言うのは、だいたいにおいて上司の情念が色濃く表出される箇所だから、結果としてたいていそうはならない。情念とは、好悪とほぼ同じ意味だからである。
     
    要するにハロー考課である。ハロー考課と言う言葉と概念を説明するのはさして難しくない。何が難しいかと言えば、それに陥っていることを自分で気づくことである。人は誰しも経験に根ざした価値観を持っている。価値観と言うと、ミッションステートメントに、これが我が社の価値であり、信条だと、普通は美しいしらべを伴った文脈で語られるかも知れない。しかし、価値観は良い面ばかりではない。特にこうした評価の場面では、むしろ限られた経験に限局された価値観は、視野の狭さ、判断の誤り、固定観念につながることが多い。

    ■より大局的に部下を見る上司Bタイプ
    自分で気づかなければ、他人が気づかせるしかない。以下のような会話をあるある会社の人事考課訓練のグループ討議中に横にいて聞いていた。ケーススタディの主人公は、セールス専門職的営業係長である。  「顧客からのこのような値引き要請を社に持ち帰らず、上司の事前承認なく、受け入れたのはおかしい。」と言ったのは、上司Aタイプのようだ。それに他の上司が反論する。こちらを上司Bとしよう。
     
    「あんた、この場合にそんなこと言っておったら、商売にならんと違うんかい?」
     
    「しかしこの額の値引きは、通例管理職の権限と思いますが。」
     
    「そやからそれを言うたら、『そんなもたもたした会社やったらもうええわ』と言われてしまうで。この商談、落としてもええんかい。」
     
    「いや、それは困ります。」
     
    「だからそんなもん、あとで追認したらええのや。おまえ、ようその場でまとめて決着させてきよったと言うて。」
     
    ケーススタディにおける状況は、実は相当さし迫っていた。従って、事例の主人公は、自律的に判断し、やむなく自分の責任で、すぐさま要求を受け入れていた。少なくともそう言う剣が峰に立った状況であると理解していた受講者の割合のほうがずっと多かった。
     
    「しかし、それではけじめと言うものが・・・・・」
     
    「これだけ力のあるベテランの係長を、あんた、そないに信頼できへんの?」
     
    「・・・・・それにしても、その場で値引きの幅をもっと狭めるとか、そう言う努力をしていない。」
     
    「この状況でそんなこと言うたら、商談全体が御破算(ごわさん)になるんとちゃうの?」
     
    「・・・・・いや・・・・・そんなことにならないように、うまくやらないと・・・・・」
     
    「こんなせっぱつまったところで、あんたそんなことできるんかい?わしはようやらんわ。」
     
    「・・・・・」
     
    どうやら二人は、それぞれ、関東出身と関西出身らしい。そして会話が本質に近づいた。この場合の係長の行動が○になるのか×になるのかは、会社の方針によって結論が異なってもよい。ただしどちらを取っても、上司の態度は一貫していなければならない。不公平な評価と言うのは、最後に上記のように「あれもこれもうまくやってくれないと困るのだよ」と言う語尾がくっつくことが少なくない。この場合の公平さと言うのは、係長の立場に対してどれだけのレベルの期待や責任を課してよいかと言う意味だ。この例だと上司は何もリスクを負わなくてよいと言うことだ。そんなうまい話はない。相手は、営業担当役員でも営業部長でもない。1係長である。この場合×をつけるなら、一貫して部下に以下のように言えなければならない。
     
    「君ね、お客様の言いなりになって値引きをしてはいけないので、ひとねばりふたねばりしてこないといけない。それが営業と言うものの本質で、そうでないとお客様ともよい関係が構築できない。それでもし結果として失注になるなら、それはそれでしかたない。それは君の責任ではない。」
     
    この考えと、かなり難しい事柄を「あれもこれもみんなうまくやってくれ」とでは、どれほど公平さに差があるか、どうか味わって頂きたい。そして、部下への動機づけに至っては天地の差となる。
     
    さて仮面を取ってみると、もっと評価と言うことの本質に近づける。この場の上司Aは、現職の営業所長、上司Bは、工場長であった。普通なら意見が正反対になってもよさそうだが、なぜか逆になった。ひとつはっきり言えることは、この営業所長は、自分の過去の経験に基づく価値観から逃れられないまま評価をくだした。工場長は、そう言うものから解脱して自由かつ素直にストーリーを受け止めて評価を付した。会社としての結論的正解をどちらにするかは別として、評価者個々人の取るべき態度としては、周囲で聞いていた人には学びの多い会話となった。
     
    さてもう少し会話が続いた。上司Aはまだ納得できないのだろう。今度は少々周辺的なことを指摘した。上司Bは言う。
     
    「おいおい、そんな細かいことはどうだってええやないか。」
     
    「細かいと言うことはないでしょう。」
     
    「おまえさんの部下になるのは大変だな。成果を上げるよりも、いつもハシのあげさげ、一挙手一投足に気をつけとかんといかん。」
     
    「そんなことはないが・・・・・」
     
    「さぞ品行方正な立派な部下が、毎度育つのやろうなあ(笑)」
     
    こうなるとまわりの他のメンバーもげらげら笑うことが多い。さしもの上司Aもばつが悪い。  

    さて以上の会話において上司Aにいろいろ指摘した上司Bは、より抽象化、標本化すると、部下の成果や行動をより大局的に見る上司、つまりは度量のより大きい上司と言えよう。結果論で言うと、評価の正確さは極端な差にはならなくとも、部下の育つ度合いがぐっと変わる。これが大きな違いだ。上司Bにはどんな態度的特色があるか。以上からぬき出して行くと以下5点である。
     
    ■部下の行動と成果を大局的に見る
    第一に、評価する前に、その枠組みを大局的に確認している。上記会話で言うと、係長が、差し迫った状況下で自らの責任で最悪(失注)を回避するために行動したことを是と認め、成果極大化の面、手続厳守の面、交渉方法の細部の面などの、何もかもうまくやると言うようなことは、一般の係長としての期待役割を超過したものと判断している。ここは目立たないが恐らくいちばん重要な点なのである。もちろんそのような差し迫った修羅場を自らの過誤で招いたなら評価は別だが、このケーススタディはそうした種類のものではない。
     
    少なからぬ割合で、上司は、こうした前提を確認する前に、設定した目標のできばえ、つまりは達成率、打率を測る。プロ野球とアマチュア野球で、同じ打率を残したからと言って同じ値打ちと思う人は誰もいない。与えられた課題が係長相応だったか、難し過ぎたかやさし過ぎたかを考えないで、打率だけで評価したらそれは当然不公平である。全ケーススタディを読んでいない読者にとっては、難し過ぎたかやさし過ぎたかはわからないかも知れないが、上司Bにそれを判断しようとする観点があったことはご理解頂けると思う。ここで言いたいのは、そうした観点を持って評価に臨む上司の方が少ないと言うことである。

    ■評価と改善の混同を避ける
    以上の延長に出てくることでもあるが、第二に、その部下の行動を見るときに、上司Bは、過去の評価と未来の改善を混同しない。仕事の改善のネタは、よく言われる通り無限にある。それを指摘したり要望したりすることと、過去の事実を評価することとは全く別次元である。が、上司Aは、そこが癒着してしまう。つまりは後講釈が多い。「この時こうできたはずだ、あの時ああすればよかったのだ」と言うのが言い出すといくらでも出てくる。この場合で言えば、「値引きの幅を交渉すべきだった」がその例だ。
     
    自分の行動をふり返ることはとても大切だが、評価のように自分以外の他人の行動をふり返るときに、冷静、公平を堅持できる人はさほど多くない。聞いていると、その多くは、その時点の枠組み、制約条件では、あまりほかにやりようがなかったことが多い。その枠組みを変えるための将来に向けての改善なら明るく前向きに話せる。が、その時点ではなしえなかったことを指摘されマイナス評価されると、部下は、次から努力することそのものをあほらしくなってやめてしまう。それはそうだろう、やってもやらなくても低い評価なら「やらないほうがトクだ」と誰でも考えてしまうではないか。ここが2タイプの上司が、部下の心理の理解に大きな差が生じる点だ。そして何もしなければ失敗も起きないから、減点も食らわずかえってトクをしたと言うことが、上司Aのもとでは起きやすいのだ。  

    ■育成の途上のステップ
    第三に、上司Bが持っている態度は、評価と言うものは、本来、未成熟な部下を一層育てるために、現時点の人物像を正確に捉える途中のステップに過ぎないと考えていることである。上司Aは、精密な評価をもってプロセス完結と思っているふしがある。評価と言うのは、枝葉末節は別にして、本質において正確公平であればよいので、むしろ問題はそれを部下が深く受け入れ、自らの向上に役立てようとするかどうかが最後に重要である。上司Bはそこを見ている。上記の例では「こんなにがんばってる係長を信頼しないのか」と言う旨の発言にそれが現れている。この実戦問答の前号では、同じ部下を預かり続けるなら、評価が正確になるのは当たり前なので、部下が伸びて成長してナンボであると言う旨を述べた。上司Aは、逆に、評価が正確であれば、もしそれを受け入れない部下がいたとしたら、相手の性格や人間性の問題に帰したがる。
     
    時にはいくら努力してもわかりあえない部下もいるだろう。何か根本となる背景が全く異なる場合だ。だが、そこまで上司が努力しているならば、周囲の誰しもがそれを肯定的に見ているものだ。
     
    ■微細な行動は論じない
    上司Bの第四の態度的特色は、本質と関係ない微細な行動は、プラスマイナスを問わず、ばっさり捨ててしまって論じない。人の評価は、3つないし多くて5つくらいの最重要な事実に基づいて決めるのがよいだろう。細かいことをあげつらって全部帳簿に載せて帳尻を合わせようとしたら、時間がいくらってもできないし、説明の時混乱してかえって説得力を損なう。上記の会話の最後の方の「あなたはずいぶん細かいことを言うのだね」はその好例であった。
     
    いろいろな事柄が気になってしかたのない上司Aには、次の自問自答を行うことをお勧めしたい。「今、あなたが気になってしかたのないことは、彼を評価する上で、口に出して言わねばならないほど重要な事柄なのだろうか」と。そうでないのに言いたいがために言えば、あなたの上司としての権威と信頼を高めるゆえんとはならないだろう。最初の方で述べた情念考課、ハロー考課は、なるべ避けたい。  

    ■しっかりと受け止める
    第五に、これは上記会話からは看取できないが、私の経験上明らかな点として以下述べておきたい。上司Aは、評価のフィードバックにおいて、もしも部下から反論があれば、どうあってもそれを論破し、言い負かそうとする。そうしなければ自分の地位が冒されると、途中から錯覚してしまっている時もある。ほとんどの場合、部下は上司に甘えて依存したいに過ぎない。それを全部はそのまま肯定しないとしても、何も本気になって言い負かし、屈伏させる必要など少しもない。
     
    これに対して上司Bは、そうした場面で概して鷹揚(おうよう)である。部下とは今後もずっと密接に意思疎通して協働してゆかなければならないのだ。その部下が少しはまともなところがある人間なら、上司である自分とのキャリアの差はわかった上で反発しているに過ぎない。そんなことをいちいち真に受けて斬り結ぶ必要など少しもない。しっかりと部下の感情を受け止め、傾聴する。上記第三の育成的態度の結果、自然にそうなる。「まあ、君、言いたいことはよくわかったよ。」と言う姿勢が基本にある。「君の努力は誰より私が知っているよ。その君でも今回は力が及ばなかったのだね」と言う人もいる。上司にそうした態度をされていつまでの一句一節の評価評語にこだわり続ける部下がいるだろうか。もちろん日常の部下への支援は、こうした意思疎通を成り立たせる絶対の前提だ。
     
    このような情景は、つまり何だろうか。
     
    そう、評価と言うのは、誰しも言っている通り、最後は「納得性」だけが問われるのである。人事制度論から言えば言い尽くされた平凡な事かも知れない。だが、この凡事を、ひとりの上司として貫くのは、さほどたやすいことではない。表現を変えれば、どのマネジャーも、空気を吸うようにこれが自然にできるという会社はまだ見たことがない。ゆえに、人考課研修のお手伝いを引き受けると、いつも終盤には焦点をここに移したフィードバック面接等のトレーニングをする。意を通じない評価は、たとえそれが「正解」であったとしても、残念ながら値打ちを生じないのだ。誰しもそれを改めて知る場面である。会社の体力を高めるのは、新奇なローマ字の手法ではなく、こうした基本の鍛練である。

    ■部下が動機づけられる度合の大差
    もう一度念のために言うが、以上は、上司が2タイプしかいないと言う意味ではない。評価と言う問題に直面した時に現れるふたつの標本パターンを述べたので、たいていの人は、その間のどちらか寄りに位置することになる。
     
    さて、私の経験上、評価そのものの客観性、公平性は、ハロー効果やいわゆる厳格化傾向が薄い分だけ、上司Bの方に少し分があるだろう。しかし部下が動機づけられる度合いとなると、以上のように大変な差を生じる。大変な差が1年ならまだいい。それが3年、5年10年となったらどれほどのことになるだろうか。ここがこの小稿の訴えたかった点である。
     
    私たちは、さらに精密な評価よりも、評価と動機づけにおける今一層積み増した度量を求められるステージに差しかかっているように思う。

  • 実戦問答No.18:どのような考課要素がよいのか

    ~人事考課要素と社員の活性化の関係~

    人事考課に関する課題でお悩みの会社は多いと思う。
     
    かのコーチングの神様、ゴールドスミスのホームページをのぞくと、フリーに読める彼の基本的な考え方に関する論文が10編ある。その中で、人事考課、業績評価に関して彼の言及が2カ所あり、とても面白いので、ご紹介したい。前後関係も含め意訳すると以下のような趣旨である。
     
    「多くの会社で、ひどく厳密に業績評価フォームづくりを毎度のように行っていると思う。実際、多くの社員達の労力が評価フォームの言葉づかいを完璧なものとするために用いられていると思う。なんとむだなことであろうか。社員達の業績が向上するようはかるよりも、書式づくりにエネルギーが投じられているのだ。私が関与したある会社では、これまで少なくとも15種類もの異なった業績評価フォームを用いてきた。そしてなお、変更改訂を企図しているのである。なぜなら、現在のフォームが、『うまく機能していない』からなのだと言う。もし、書類上の言葉を変えて業績管理プロセスが向上すると言うなら、どんな会社の評価システムだって、これまでにもうとっくに完全なものになっているはずではないのか。事の成否は、いかなる時も、書類上の言葉でなく、人々そのものにあるのだ。」
     
    「多くの会社で定期的に業績評価表を改訂していることと思う。こうした業績評価フォームの変更は、管理職達を混乱させるだけで、無益な年中行事と化しているように思える。フォームをいじると物事がどうにか前向きに変わるのだろうか。真の問題は、マネジャー達が、評価プロセスを正しく機能させるための強い意思と勇気を欠いていることなのである。」  

    彼は言うまでもなく、コーチングの神様だから、人事考課のプロジェクトなどあまり手がけたことはないに違いない。しかし、以上のように論じていると言うことは、よほどこっけいに思ったからだろう。
     
    ひるがえって、私は、人事考課を含めた広い意味での人材評価のセミナーや研修会を行うことが多い。そうした中でしばしば質問を受けるのが、端的に言えば、「これからはどのような考課要素がよいのか」と言う点である。それに直接答えるなら、「普通に設計するのがいちばんよい」と言うしかない。普通に、とは、能力、成果、情意などの配分バランスを、自社流に階層別に素直に考えればよいので、こうしたところで奇をてらうとまず必ず失敗する。「能力と言うよりはコンピテンシーと言った方がよいのでしょうか。」とか「情意と言うのは古いので、役割行動と表現した方がよいでしょうか」などとも聞かれる。実はそのようなことはどちらにしても実効に差は生じはしないのだ。カタカナが好きならそうすればいいし、素直な日本語の方がしっくり来るならそちらを選べばよいと言う好みの問題に過ぎない。そんなことでかんじんの上司たちの評価力、指導力が左右されるわけがない。つまり社員の活性化とは関係ないことだ。だからそうした議論はほどほどで止めないといけない。その上で続ける。
     
    「今日のように情報があふれている時代には、どんな会社でも、まずもって明らかに誤った考課要素の選択、設計はしていないものです。大切なのことは、もはや考課要素の選択ではなくて、人材評価の理念を活かす運用なのです。そのためには、上司自身が、期末に考課表が配られた時だけでなく、日常の中で、評価、育成、動機づけにどれだけ関与できるかが肝要です。同じ部下を、2年3年と預かったら、評価は正確につけたが、能力は最初の頃と変わっていないと言うのでは困るのです。会社としての人事考課の課題は、新奇な評価要素の浸透などではなく、そこなのです。その課題を解決するためには、実戦的で定期的な人事考課者訓練などが非常に重要となります・・・・・」
     
    さらにこう加える時もあった。
     
    「だいたい成果主義の失敗例とされる会社は、人事考課要素を入れ替える頻度が高かったものです。そうしょっちゅういじっていると、ライン部門の方は、わけがわからなくなってきてもう勝手にやってくれよ、とだんだんしらけてきます。人事部門とライン部門にもしも反目が起きれば、どんな最新鋭、崇高な人事制度、評価制度も絶対に成功しません。長い組織というものの歴史の中で、人事考課要素を精密に研究したから社員が活性化したと言う例はありません。大切なのは社員を使いこなすリーダーの能力の方です。」  そんな中で、何年前か、上記のゴールドスミスの論文を読んだときは、誠に我が意を得たりと思ったものだった。
     
    人事部門の優秀なスタッフは、どうか、書式や概念の研究はほどほどにして、自組織の社員の活性化そのものに向けてそのエネルギーをうまく配分して欲しいと思う。ライン部門のマネジャーに方々は、人事部のつくった書式のできばえいかんによって、じかにあなたの部下の動機が上下するなどと思っている人はまずいないだろう。そう、目の前にいる部下がやる気になるかならないかは、あなたの方が人事部の何百倍も責任を負っているのである。人事部や教育部は、マネジャー達の、その代わりのきかない使命遂行の支援をすることが、この場合、もっとも大切な役割だと思う。その支援のしかたは、今ここで数百文字にて意を尽くすことはできないので、いろいろな折りにご質問頂けたらと思うし、また機会を改めて論じて行きたい。

  • 月刊人事マネジメント連載記事その5:アクションラーニングの成否を分ける質問力

    〜連載:横山太郎が語る現場のアクションラーニング〜

    第5回 アクションラーニングの成否を分ける質問力

    アクションラーニングの入り口は、とりあえず問題解決である。質問力の効用はまずそこにはっきり現れる。

    問題解決と言うと、すぐにロジカルツリーを書いたりする論理的思考などを思い浮かべる。あれは分析の道具としては有用かもしれない。しかし、分析と言うのは問題解決の半分でしかない。もう半分は、意思決定と実行であり、一般にこちらの方がずっと難しい。適切な質問力はそのどちらにも有用である。そればかりか、実はその前半の分析ですら、そうしたツリーなどの道具が、私たちが冷徹に現実と向き合うことを、十分に助けているかと言えば、心もとない場合が少なくない。質問はそこでも威力を持つ。

    例えば、読者にとって今いちばん重要な問題を思い浮かべて欲しい。それを分析する時に、他人に指摘されて初めて、自分が気づいていない所に本質的原因が見つかったと言う経験はないだろうか。自分にとって一番いやな事実、見たくない事実を、原因の第一としてそうしたロジカルツリーに自発的に必ず挙げているだろうか。根本と思われる原因を、上司が聞きたくない、聞けば機嫌を損じるとわかっている時に、報告書に明確に書くだろうか。このような状況から常時脱却した真の自律自在の人材は少ない。私たちは、ひとりぼっちでは、自分の立場、利害、固定観念から離れて問題だけを見つめる事は(本当はそれこそが長い目で自分の立場や利害を守る道なのだが)まず難しいのだ。まして、問題解決後半の意思決定、実行となると、そうした従来の手法は、あまり効力を持ち得ない。

    こうした人間性の本質に根ざした状況に対してほとんど唯一有効なのは、共有、支援、誠実、友情などに富んだ仲間、同僚からの質問なのである。私たちが人生の節目において大きな影響を受けたのは、肉親、親友、教師、上司その他、本当に親身になってくれた方々の自分への真摯な問いかけである。アクションラーニングは、その状況を、仕事そのものを題材にして現出させるのだと言ってもよい。

    3つの重要な質問タイプ

    私は、拙著「リーダーの質問術17手」において、こうしたアクションラーニングの本質を支える質問を17種に類型化した。それらをここで全部説明する事は到底できないので、17のうち、重要な3つの質問タイプを取り出して述べたい。

    その第一は、セッション序盤での「最重要事実特定質問」。どう言うわけか、経営者、マネジャーと言うのは「Why質問」と「べき論質問」が好きである。それが嵩じると、事実をちょっと聞きかじっただけですぐに「それはなぜか」「ならばこうすべきではないか」とつながってゆく。「なぜ」と聞くのが悪いわけではないのだが、「Why」が好きな人は、多くの場合「何(What)」が起きたのかを十分聞き取らないうちに「Why」を連発する。そうすると、出てくるものは、問題提示者と質問者それぞれの本人の限定された経験の範囲での主観や情念、当て推量、が多くなる。それらは、セッションの中盤以降ではむしろ重要なのだが、この段階では、問題解決の道筋を大きく狭めてしまう。「なぜその部下はあなたの言う事を聞かないのですか」と問う前に、「あなたがいちばんまずいと思う、その部下の行動例を教えて頂けませんか」と言うような質問の方が序盤でははるかに重要である。が、経験を積んだコーチが促さないとなかなか出にくいものだ。

    そう聞いたからと言って、すぐに最重要な事実を語る人の方が少ないかもしれない。誰しも肝心な事を聞かれたらぺらぺらしゃべれないものだ。だから守秘義務があるのだが、それでもすぐさま円滑にならない場合もある。だからそう言う事を語ってみたいと思わせる雰囲気が、質問者に備わっていないといけない。そう言う意味では、質問力は表現力ではなくて実は人間力である。世の多くの質問のノウハウ本はそこを語っていない。質問された人は、その言葉よりも、相手の、人間性や意図を見ているのだ。次に述べるタイプの質問には、そのことが如実に現れる。

    最重要事実はたいていホンネとセットになって語られる。そうしたものが出てきた時に、「なぜそんなことをしくじったのですか」などとすぐにそれを評価、判断する質問をするとどうなるか。「よくぞ聞いてくれた」となる時は少ない。それよりずっと多くの場合「何とぶしつけな」と相手に感じさせ、彼が心を閉ざす方に作用するだろう。だからそこではまず、「感情移入質問」を投げかけるのが重要である。ひどい事実や失敗が語られた時には、まずせめて「そうですか、それは大変でしたね」と言っているだろうか。いや、口にする必要もないのかもしれない。「それは・・・・・」とじっと相手の目を見つめ、痛みを共有して沈黙してもよい。だいたいにおいて必要な沈黙を欠いた対話には深みが出ない。

    感情移入ができたら、「視点切り換え質問」が重要になる。これがたぶん技術的にはいちばん難しい。逆に前号で述べたような優れた資質を持つコーチは例外なくこれがじょうずである。事態を定義し直すことは、問題解決にも行動変容にも非常に重要である。「大変お苦しいご様子ですが、つまり、あなたの能力をもってする以外、この事態が解決できないと誰しも認めているのですね。」などとタイミングよく聞けると、ぐっと雰囲気が変わる。

    日常的場面なら、部下が、全体としては不満足な結果に終えた場合、動機づけがじょうずな上司は「何ができていないか」とはすぐ聞かない。「今回できたことは何か」を先に問う。それが今回初めてできたことだったらなおよい。「そうか、それができるようになったのだね、努力したのだね」と追加して聞ける。その上で「さて、このあとどうすればよいか」と聞く。結局同じ内容を話しているはずなのに数十秒質問を回り道するかどうかで、結果が随分異なる。こう言うのが視点切り換え質問である。

    経営の神様松下幸之助氏は、このたぐいの質問が、文字通り神様のようにじょうずであった。ある部署を預かった部下が松下氏に報告に行く。「こんなにひどい問題があって大変です。どうしようもありません。」あなただったら部下にこう言われたら何と質問するだろうか。松下さんは、こう聞いたと言う。
    「君、問題は、これだけしかないんか。もっとあったらよかったな。」
    部下が目を白黒させる様子が、私たちにも目に浮かぶ。なぜもっと問題があったらよかったのか。その部下の預かった部署を一気に改革できるからである。若年(と言うより幼年)から修羅場をくぐり続けた人には、平然とこうした質問ができるようである。

    さて、他の有効な質問を含め、これらを波状的に繰り返していると、必ず問題提示者本人が、自己とまっすぐ向き合う時が必ずやって来る。「つまりは問題は自分自身の内側にあったのだ」と深くふり返る。適切に質問を活用すれば、こうした省察は必ず生じるのである。アクションラーニングは問題解決と言う入り口をはるかに越えて、意識改革、行動変容に有効と言われるゆえんである。それは、他メンバーの深い共有に基づく質問力により生じる。これがアクションラーニングの成否を最後に分ける。

    組織の運命を変えてしまう偉大な質問力

    さらに言えば組織の運命を変えてしまう偉大な質問力と言う事もある。これは経営者の領域である。経営者の仕事は、毎日が自組織の命運を賭けた自問自答である。その意味で、研修室にはあまり行かないだけで、常住坐臥がアクションラーニングである。そうした数々の事例から、私たち一般の者が、自分の仕事に、人生に関し、深く学ぶことができる。

    例えば誰でもご存じのホンダと言う会社がある。創業者は言うまでもなく天才技術者本田宗一郎氏である。しかし、誰しも必ず老いる日が来る。本田社長がいつまでもエンジンの開発技術に口を出し過ぎて若いエンジニア達が困り果ててしまったことがあった。彼らは藤沢武男副社長に何とかしてくれと泣きついた。こちらは経営の天才かもしれない。藤沢氏は本田氏を訪ねたが、技術的な事は一切聞かず、ただひとつだけ質問をした。「あなたは社長なのか技術者なのか、どちらかはっきりした方がよいと思う。どちらなのか。」本田氏はしばし沈黙ののち「自分は社長だ」とぼっつり答えたと言う。技術の問題から手を引くと言う意思表示である。

    「ホンダと言う会社が、ついに宗一郎から手離れした瞬間だった」と後に藤沢氏は語った。実際、見事な引き際と言われ、二人共に完全リタイアしたのはこのわずか数年後である。当時は最後発の4輪車メーカーだったホンダが、今日のエクセレントカンパニーになったことには無数の要素があるだろう。ただ私には、その源流に、この藤沢氏の偉大な質問があったように思えてならない。

    この本田・藤沢問答を初め、上記の松下幸之助氏も含め、真に力量優れた20余名の人物達の質問の偉大な影響力を、拙著「カリスマな質問力」に描写させて頂いた。この稿にご興味頂いた方にはご参照頂きたい。

  • 読書日誌2:「リストラなしの年輪経営」塚越 寛著

    著者は、伊那食品工業の事実上の創業経営者(現在は会長)で、同社は48年間増収増益を続け、寒天の製造では世界シェア1位の優良企業である。

     ■会社は社員を幸せにするためにある
    「会社は社員を幸せにするためにある。そのためには永続することがいちばん重要だ」と本書冒頭近くで著者は述べる。同時に財務偏重の世の風潮を強く批判する。社員を幸せにするためには、「いい会社」であると仕入先、販売先、地域社会から認められなければならない、利益を独り占めするような行動は決して取ってはならないと続ける。そのような会社は、人に尊敬されず、社員はその会社に所属することを幸せに感じないからだ。
     
    ここまでは、多くの企業で額や記念碑に飾ってある経営理念と、内容的にはそれほど大きくは変わらないかも知れない。しかし、それがぴたりと言行一致しているのが、経営者としての著者の強い説得力となる。
     
    「人の犠牲に立った利益は利益ではない」「人件費はコストではなく会社の目的そのものである」とさらに信念は深まる。「会社は運命共同体です。私は(社員を)家族とさえ思っています。」だから、なぜ、そうした方々の人件費が少なければ少ないほどよいと思うのか不可思議だと問う。松下幸之助だってここまでは言わなかったろう。
     
    しかし会社が「仲良しクラブ」ではいけないので、「いつも喧々諤々の議論が巻き起こっている方が望ましい」。ここが、労働組合ばかり強い会社とは違うようだ。
     
    こうした人材観に至った背景は、著者が若年時、貧困と病気に苦しみ、その悲哀の中で、他人の苦痛を理解できるようになり、人のなさけけも身に沁みてわかるようになったからだと言う。だから経営を預かってからは、「お世話になった方々や社員を置き去りにするようなことは、決してやるまいと心に決めていた」のだ。加えて、経営者となってからの前半20余年は、余裕などは全く持てず、死に物狂いでやってきたとおっしゃっているから、そうした厳しい経験が、一層磨き上げた人材観であろう。艱難汝を珠となす(かんなんなんじをたまとなす)とはよく言ったものである。

    ■社員のモチベーションを上げることが最大の効率化
    どうしてもコストや効率が気になる人にはこう語りかける。「機械はカタログに記載された能力しか期待できません。」「人間はやる気になって知恵を出し、体を動かせば、2倍、3倍の能力を発揮します。」資金繰りに苦しんだお蔭で「最大の生産性向上策は、社員のやる気アップだ」と確信したのだと言う。「社員のモチベーションを上げることが、実は経営の最大の効率化」であり、「ケチは悪循環の始まり」と語る。自分の会社が欲得のためにケチって社員や仕入先の正当な利益を搾り取ろうとすれば、それはずっと無限に連鎖し、世の中全体に悪循環をもたらすと考える。誠に胸がすく論旨である。
     
    日本電産の創業者、永盛重信氏は、「人の能力の差は、せいぜい2倍か3倍、しかし努力の差は、5倍10倍あるいは無限大」と言う趣旨をご著書でよく述べられていた。同じ趣旨だが、それぞれのお人柄の違いが、倍数の表現の違いに現れて面白い。 

    ■仕入先とはともに繁栄
    転じて仕入先にも温かな目が注がれる。「当社は利益ではなく『永続』に価値を見出そうとする企業です。だから一時の利益のために良好な仕入先を失うような愚かな真似は冒したくありません。」「仕入先とはともに末広がりに繁栄できるような関係でありたいものです。こちらがそう考えていると、不思議なことに仕入先もこちらの繁栄を願ってくれるようになります。」誰しも他人とこのような関係を築きたいものだ。もちろん、塚越会長は、人を欺こうとするような会社とはつきあわない。
     
    以上により、「利益なんかカスですよ。」なぜなら健全な経営をしていれば自然と残るのだから、と論旨は続く。

    ■追い風を自分の実力と勘違いすると
    そのようになるには、堅実な低成長をずっと続ける必要がある。題名の「年輪経営」はここから来た。年輪は、風雪に耐えた幅の狭いところの方が強靱で、気候がよくて急成長した幅広なところの方がもろく、これは会社の経営も同じなのだと言う。
     
    2005年に寒天ブームが起こる。堅実に身の丈に合わせた成長しか指向してこなかった塚越会長は、この時も、単なる利益追求の増産要請にはあとでひずみが出るのはわかっているので、首をたてに振らなかった。しかし、福祉医療関係者から、人助けのためだからぜひ増産して欲しいと言われて、ついに信念を曲げて急拡大に踏み切る。しかしブームが去ると、売上利益ともに減少し、材料高等の後遺症が残った。そればかりか粗悪品が市場に流れ込み、消費者との信頼関係まで崩れかかった。連続増収増益が48年で途切れたのがこの時である。こうした、一時のブーム、流行に乗っかった経営行動を著者は最も好まないわけだ。こうした単なる「追い風を自分の実力と勘違いすると取り返しのつかない事態を招きます」。私も耳が痛い。
     
    ではブームが来たらどうするのか。われ関せずと「孤塁を守って知らんふり」もできないので、「ブームで得た利益は、自分の力で得たものではないから、人様から一時的に預かっているもの」であり、「将来必ず出て行くもの」と心得なさいと言う。どうしたらここまで達観できるのだろうか。このように心根を据えられたら、日々どれだけ落ち着いて仕事に取り組めるだろうか。 

    ■遠きをはかる者は富み近くをはかる者は貧す
    年輪経営は、長期的観点の経営である。そのお手本として二宮尊徳を尊敬し、言葉を引用する。「遠きをはかる者は富み、近くをはかる者は貧す」「近くをはかる者は春植えて秋実る物をもなお遠しとして植えず・・・・・ゆえに貧窮す」。これは2百年近く前の言葉なのに、まるで今の世相を言い当てているようではないか。塚越会長の信念に誠にぴたりとした言葉である。
     
    どこの会社でも、何か実行するたびに「成果はどうだった」とひどく気短かに尋ねられることがあまりに多くなってしまった。上場企業では、3カ月おきに決算をして株主に報告しなければならない。が、著者は、それはずいぶんとむだなことで、そんな社員の労力を、もっと創造的で生産的なことに向けられたらどれほどよいだろうかと評する。「決算など3年に1回くらいでちょうどいい」と言われる。ここは心ある多くの社長が快哉を上げたいところではないか。
     
    だから、会社の基礎が固まった時期には上場を検討もした。が、結局やめた。「莫大な個人資産や多額の資金を得られる反面、まことに不自由な・・・意思に反した経営を行わなければならなくなる」からである。そこで「自分でメシが食えて、病気になった時に病院に行けるくらいのお金があればいいと覚悟を決めたわけです。」これは、何も著書で初めて言ったわけではないだろう。常日頃の考えとして社員たちにはとっくに伝わっていたに違いない。こうした経営者の言葉を聞いて、多くの社員がどう思ったかは想像に難くない。

    ■「人間のあるべき姿」を追求した商品開発
    そんな塚越会長だから、商品開発にも誠に独自の見識がある。マーケットリサーチの数字などは過去のものだから、そうした追求にエネルギーを用いない。ここまではヒット商品の多いメーカーに共通している。ではどうするのか。「人間のあるべき姿」を追求した商品なら必ず受け入れられるのだと言う。そこにはひとりよがりな独自性ではなく、確固とした公共心があるから成功するのだろう。
     
    商品開発戦略には「トレンド軸」「進歩軸」があると述べる。「人間のあるべき姿」とはここで言う「進歩軸」である。だから商品開発は、「進歩軸」に沿ったことを基本的に考えながら、流行、つまり「トレンド軸」にも配慮するのが正しいのだと。ところが世の多くの企業はトレンドばかり追いかけて右往左往する。トレンドが消えれば消え行く運命にあるようなものは、「少し長い目で見れば、効率のよくない商品です」。ここでも私を含め耳が痛い人が多いのではないか。はやりすたりに振り回されて、なんとまあむだなことをしてしまったかと嘆かずに安定成長できるなら、それはまさしく経営の王道であろう。

    ■会社の素粒子は何か 
    本書も後半になると、哲学的な表現が目立つ。「会社の素粒子は何か」と塚越会長は読者に問う。それは「ファン」であり、「会社経営の要諦は『ファンづくり』にある」と言う。経営者自ら顧客との接点で、ひとり、またひとりとファンを増やして行く。そうすればファンになった方々が、またまわりにファンを増やしてくれる。効率が悪いようで、マスメディアなどよりずっと効率がよいのだと主張する。著者はその場合のファンとのきずなの強さを訴えているのだろう。「社員ひとりひとりが1日に何人のファンをつくれるのか」が「会社の命運を握っている」。「今日は何人のファンをつくれるのか、朝そう考えればワクワクしてきませんか。」
     
    言うまでもなく、伊那食品工業は、一般的分類なら製造業であり、かつ国内市場中心である。しかし、このくだりはまるでグローバルな超一流ホテルの経営者が所信を語っているようではないか。塚越会長が、どれだけ真に顧客のことを思っているかがせつせつと伝わって来る。だから、長期安定成長ができたのだ。そして、少しでも顧客との接点を持つ人なら、「そうか、仕事はそのような心がけでやればいいのか」とファイトがわいてくるくだりである。

    ■百年カレンダー 

    著者は、以上のような経営理念をしっかり社員に浸透させる努力を惜しまなない。「会社は教育機関、経営者は教育者でなければならない」と語る。たとえば新入社員教育では、現在からの「百年カレンダー」を配り、「君たちの命日が、このカレンダーの中に必ずある」と語りかける。新入社員達が何やら面食らう様子が読者にも見て取れる。いくら若いと思っていても、結局限りある人生を、悔いなく過ごすのだ、そして自分が幸せになりたいと思えば他人に喜んでもらうようにしなさい、と繰り返し伝える。こうして2週間の教育期間を過ごすと、俗に言うやらされ感ではなく「働かなきゃ損だ」と新入社員達が考えるようになるのだと言う。

    ■年輪経営と日本的経営 
    読み終えてみて、経営書と言う観点からは、物事の本質だけを追求する者が勝者になりうるのだと言うことを強く感じた。あまりにも本質でないことに時間とエネルギーが浪費、空費されている組織、企業が多過ぎる中で、伊那食品工業は、今後百年永続し、社員を慈しみ、顧客のご愛顧を受け、利害関係者に報いることだけを念じて年輪経営が行われてきた。塚越会長の行動の軌跡には、深い敬意を払う以外にない。
     
    よく考えてみれば年輪経営の内容は、死語になりつつある「日本的経営」そのものでないかともふと気づいた。ただ、それは、誰でもまねできるシステムとしてではなく、塚越社長個人のご力量にいかに多くを負っているかもよくわかった。かつての日本的経営も、終身雇用などの部分品の研究考察は別にして、松下幸之助氏や、井深大氏と言った、抜きんでた力量のリーダーの全人格が反映した固有の経営を指していたに過ぎないのかもしれない。「日本的経営」を題した本はあまり見かけなくなったが、松下氏、井深氏、本田宗一郎氏、稲盛和夫氏と言った方々のリーダーシップ論や、伝記は、今でも多くの人に読み継がれているのが、その何よりの証拠だろう。もっとも会社の大小は別にして、かつてはそうした力量優れた名物経営者がさほど珍しくもなかったことが、現在との差なのかも知れない。そこここに、会社の骨格、性質に合わせた日本的経営があったのだ。 

    ■塚越氏一代で終わってしまうのかどうか
    あとがきに面白いことが書いてある。もし会社が銀座のど真ん中ににあったらどうなっていたろうかと自問されているのだ。「きっと物欲や名誉欲に惑わされていたに違いありません」。最初から無欲恬淡(てんたん)な人など魅力はないのだ。そう、塚越会長も、最初の原点は私たちと全く同じ煩悩深きお人だったのだ。しかし、それを超人的な克己心にて昇華され、その哲学が見事な結晶となって現在の伊那食品工業をおつくりになった。
     
    数百人の規模だからできるのだとか、国内中心の事業だから可能なのだとか、そうした第三者の好き勝手な批評はあまり意味がないだろう。現時点の伊那食品工業を見ると、まるで「理想会社」である。古代ギリシアの哲学者プラトンは、衆愚政治に堕しつつあったアテネを離れ、理想国家を建設しようとしたが妨害され果たせなかった。プラトンの少し前に花開いて全盛期を迎えたアテネの民主政を、プラトンはおそらく意識していたことだろう。しかし、その全盛時の民主政とて、実は、ペリクレスと言う、力量懸絶のリーダーのもとでこそ真に機能した。と言うより、彼なくして、アテネのデモクラシーの精華はなかった。
     
    年輪経営もまた、塚越氏一代で終わってしまうのかどうか。もちろん、そうはあって欲しくないものである。

  • 実戦問答No.17:そんなふうにはっきり認めてめてくれたのは先生だけですよ

    ~マネジャーのオアシスとしてのアクションラーニング~

    ある会社のアクションラーニングセッションに出かけるために、前年のその会社のセッションのメモを見返してみた時のことである。するとこんなやり取りが書いてあった。

    「そんなふうにはっきり認めてめてくれたのは先生だけですよ。」

    その時のその人の、日々の現実と向き合うマネジャーらしい表情を思い出した。あの人はどうしているのだろうか。

    もう少し前後関係を書いて置こう。

    要するに彼の問題は、主力となる数名の部下の育成であった。1度目のセッションでそれを提示し、2度目のセッションで、その後の経過を語った。まあ表現がこう言ってはなんだが、一度目に聞いた部下たちの様子は、いささか自立心や向上意欲を欠いていた。かつ、それを改善しようとするには、上司である問題提示者の行動があまりにも性急で高望みであり、部下にとっては負荷がかかり過ぎていた。それを他のメンバーから質問され、気づかされ、深くふり返った。その後、より堅実な育成行動に切り換え、かつ一層上司としても、彼らの悩みの次元に降りていってそれを共有するよう努めた。その結果、部下たちに、ずいぶんと自律的な行動が増えた。その雰囲気が、2度目のセッションで、私を含む他のメンバーに強く伝わった。

    「部下の方々の意識がずいぶん変わったようですね。」

    「そうです。手応えを感じています。」

    「どうしてそう変わったのですかね。」

    「いや、それは・・・・・」

    「それはあなたのほうが変わったからでしょう。」

    他のメンバーがうまく合いの手を入れてくれた。こういう雰囲気はまさしくオトナのマネジャーのセッションである。さらにこう言っては失礼だが、この問題提示者は、典型的な厳父型のマネジメントに見える。だから、よく短期間にそこまで行動を変えられましたね、と皆思ったことだろう。全く教科書に書いてある通りの情景だ。「人を変えようと思ったら自分が変わらねばならない。」しかし、この言葉を知っただけで自分を変えられる人はめったにいない。アクションラーニングはそれを実現する一法ではある。このように仲間の共有と支援があって人は変わりうる。

    「ええ、まあ・・・・・」

    少し照れ笑いをしている。私だっていいトシをして他人様に、あなた変わりましたねなどと言われたらさぞ恥ずかしいことだろう。

    「ただ・・・・・」

    「はい。」

    「部下の意識が変わったことを、そんなふうにはっきり認めてめてくれたのは先生だけですよ。」

    「はあ・・・・」

    今度は私が黙らなければならない。

    「先日、担当役員に成果の現れ方が遅いと言われましてね・・・・・」

    お顔に「今、変化の途上なのだからあわてないで欲しいと言いたかったのですよ」と少し悔しさがにじむ。しかしそう言えば余計混乱するかも知れない。マネジャーの任務と言うのは、半分が忍耐なのだろう。特に彼の担当部署の仕事は足の長い仕事であり、現在の成果がいつ努力した結果なのか、今努力したことがいつ成果に結びつくのか、簡単に捉えることはできない。いや、現代の少しはまともな組織の中の仕事なら皆そうである。

    そうした脈絡の中で、緩衝、防波堤としての苦しい役割をマネジャーは果たす。そう言うことを何年かやると、苦しさは消え、むしろそうした日常こそが、本質そのものとも感じ、おのずとマネジャーらしい風格とお顔になる。アクションラーニングは、こうした時、旅路の途次のオアシスとなる。他にもいろいろあるが、これは重要な効用のひとつである。仲間の支援の気持ちあふれた質問は、オアシスの木陰で汲んで飲む水である。その味は、一生忘れないかも知れない。彼もきっと上記の様子をよく覚えていることだろう。マネジャーだって誰にも言えないことがあり、それを吐露すれば、また勇気がわくと言うものだ。

    「・・・・・」

    全員黙るしかない。それもほんの数十秒だった。本人は、すぐまた、からりとしたお顔に切り替わっていた。

    「今の部署もあと何年かでしょうから、それまでどれだけ人を育てられるか、ですね。」

    「・・・・・あなたのご苦労は、ここにいるメンバー全員がみな共有しました。」

    「そう、それを心の張りにしてもう少しがんばってみますよ。」

    あの人は、今も苦闘しながら、少しずつ人を育てているのだろうか。

  • 月刊人事マネジメント連載記事その4:アクションラーニングコーチの決定的な重要性

    〜連載:横山太郎が語る現場のアクションラーニング〜

    第4回 アクションラーニングコーチの決定的な重要性

    コーチでなければ起こし得ない変化

    アクションラーニングにあっては、コーチがいなければ起こし得ない変化、意識改革ということがある。

    デービッド・ケーシーという人がいる。アクションラーニングの偉大な創始者レグ・レバンスのお弟子さんである。彼は論文の中で既に30年以上前に、それを述べている。問題を保有したメンバーが、問題の本質に直面することを避け、自分の殻の中にこもろうとしているときに、それを破るよう支援できるのは、多くの場合ファシリテーター(コーチ)だけだ、と。

    多くの場合と言うのは、他のメンバーの中にそれをする人がいればコーチがしなくてもいいと言う意味だ。ケーシーが言ったように、私も経験上その確率は低いことを知っている。なぜだろうか。メンバーは、通常は、会社の同僚または何らかの友好的関係にある者どうしである。ある同僚が、問題に真正面からぶつかるのを避けていると気づいたとしても、それを正すよう促すのは勇気もいるし、自分はどうなのかと問われるかも知れないからだ。

    問題に直面し、自律的に向き合うことは、アクションラーニングの真髄である。それができなければ、アクションラーニングは、散漫な閑話休題になりかねないリスクがある。そのくらい重要な事だ。ケーシーは、このあたりを、学びとは、時に愉悦であり、時に苦悶であると述べる。多くの場合は、多少はコーチの助けを借りながらも、メンバーどうしでそうした真髄に迫ることができる。しかし、それがかなわない時には、コーチは、一線を踏み越えて、その真髄をつかみ取るプロセスを、自ら関与して築いてゆくことができなければならない。私はこの論文を読んだ時、主として自分が経験的に構築してきたコーチ術が間違っていなかったと確信することができた。

    ケーシーが指摘しているのは、意識的に問題を直視しない場合のことだ。実務的にはもうひとつ重要な事がある。我々は固定観念のために問題の本質にそう速やかには至れないことが少なくない。この場合も、メンバーどうしの質問だけで、時間内に本質に行きあたれる事は、確率的にそう高くはない。どうしても各メンバーは、自分がたどってきた経験に基づき問題を判断するから、部分部分は当たるかも知れないが、大局的な本質を括り出すところまで行かないことがある。コーチと言う立場で、どんな問題にも等距離で一点も曇りのない透明な気持ちで取り組まないとできない本質的な質問もあるのだ。逆にそう言うことができなければ、コストを払って外部コーチを雇う意味などありはしない。ケーシーの表現を借りれば、コーチは「他のメンバーに抜きんで出て良質な質問が行えなければならない」となる。全く同感である。これができないのに、コーチは、問題の内容に関わるべきでないかどうかと言った議論は全く無益である。

    詳細は、恐縮ながら拙著「リーダーの質問術17手」に述べた幾つかのストーリーをご覧頂きたいが、メンバーが自らの殻を破れるよう支援したり、フリーズした局面を転換させたりするのは、誰もしない時にはコーチができなければならないのである。

    「本当に望んでいることは何ですか」

    「態度を保留し続けると最後はどうなるのですか」

    「その過去の例は今直面している問題にあてはまるのですか」

    「決心した以上、いっときは不運な結果が生じても受け止められますか」

    「あなたが全権限を持っていたら本当にそのように行うのですか」

    こうした質問が、円滑にメンバーから出てくる時にはコーチは楽だし、逆に、やがてケーシーの言う愉悦の雰囲気の中で、外部コーチはお役御免になる時も近い。が、それほど円滑でない時の方が多いだろう。本質に迫らない質問ばかりが続いているのにそれを放置して時間が来たら終わりにし、メンバーの「自律」と称したり、「このセッションから何を学びましたか」などと「学習」をそ知らぬ顔で問うのはコーチとしての責任放棄である。それは座談会ではあってもアクションラーニングではない。どうでも良いことを何時間話したとしても何も学びは生じないのだ。そこで語られるのは空虚な修辞学に過ぎない。厳しい現実を日々過ごすマネジャー、実務担当者が、修辞と作法のために1日2日費やすのは耐えがたいことだ。主催する企業の側もそれはむろん同じである。

    以上のように、コーチは、仕事を引き受けた以上、預かったセッションのメンバーに深い学びをもたらす支援を行い抜くことを、自分の使命に賭けて誓わなければならない。古代ギリシアのピポクラテスが、医療を志す者に、必ず誓わせた条々を唱えるように。

    コーチに必要な資質

    ではこうした変化は、私がコーチですと名乗れば誰でも起こしうるのか。この問いには、私は少し厳しい見方をしている。再びケーシーに学ぶと、そのようなコーチに必要な資質を彼は5点挙げて、従来の教師的な立場とは随分異なる内容を要求されると言う。それは以下だ。

     1.曖昧さに対する耐性

     2.開放性と率直さ

     3.終わりのない忍耐

     4.人が学びゆくことを観察する、飽くなき願望

     5.感情移入

    彼が「資質」と言う言葉を使っているのに注意が必要で、つまり習えば誰でもできる「スキル」ではないと言う意味だ。それは彼が偉ぶっているのではなく、どんな仕事にも向き不向きがあると言う、本来当たり前なことである。細かいことにはこだわらず行動的な人は、セールスマンはできても、専門会計士に向いているとは言いがたいだろう。

    コーチングの世界では、やたらとコーチの免許者が増えたが、現実には、組織の第一線のマネジャーや実務責任者を相手にコーチングができる技量を持った人はほんの僅かではないか。ではなぜそんなに免許取得者が増えるかと言えば、そうした資格取得を促し事業とする人もまた多いからだろう。そうした状況がわが国の企業人教育、能力開発の世界にとって良いことなのかどうか。たとえば天外司郎氏は、著書の中でこうした状況に強い警鐘を鳴らしている。アクションラーニングもそうした状況になりかねない。私が見る限り、何らかのアクションラーニングコーチの資格を持っていますと言う人のうち、苛烈な現実世界に活きるマネジャー達の中で、まる1日コーチをやらせて勤まりそうな人は、申し訳ないが10人に1人もいないように見受ける。外科医どうしはいっしょに手術をすると相手の技量は5分でわかると言う。

    「ならばおまえはなぜアクションラーニングコーチが勤まるのか」と聞かれたら、それはアクションラーニング自体の机上の勉強をしたことは、それほど重要なウェイトは占めていない。私の場合なら、20年間、仕事を依頼された企業の中に深く漬かり込み、その利害を真に理解し、喜怒哀楽をなるべく共有してきたからである。だから私よりも才能あって経験を積んだ人は、数年でも私より上手にできるだろう。しかしこの才能は、碩学ミンツバーグが喝破したように、明らかにMBA資格を取るようなものとは異なる。要するに、組織の中の方々が語る問題を、ごく短い時間でその本質を理解し、その保有者の心情を共有できなければならない。ケーシーも5番目の必要資質に感情移入を挙げている。

    実は、こうした条件を一番備えているのは、行動科学の専門家ではなく、事業と人材育成に経験豊富なマネジャー自身である。そういう人は、きっと会社の中で相当高い評価を得ている人、つまりは、おカネを稼ぎ出せる人だろう。そういう人を内部コーチに当てる会社もまずない。だから内部のスタッフには悔しいが、アクションラーニングの運営は適切に経験を積んだプロに任せる方が、現実的な場合が多くなるのだ。内部コーチを否定はしないが、安易に取り組むと、第1回に述べたようにとんだ失敗例になってしまうので注意が必要である。私はそうした失敗後の相談に乗るのは、互いに大変非生産的なので少しでも減らしたくこの稿を述べさせて頂いた。委細はご質問をお寄せ頂きたい。

  • 読書日誌1:「部下を持つすべての人に役立つ 即戦力の人心術」マイケル・アブラショフ著

    このマイケル・アブラショフの自伝的著書を読もうと思った動機は、何年か前、米国のアクションラーニングにおけるひとつのモデルを確立したマイケル・マーコード教授の著書「リーディング ウィズ クエスチョン」(質問によるリーダーシップ、邦訳なし)を読んだとき、ずいぶん引用されており、強く関心を持ったからである。そう思っているうちに邦訳が出て書店で見かけ、飛びつくように買った。こう言う同期現象は大切にしないといけない。
     
    アブラショフは、海軍将校だった。彼の名を高めたのは、ベンフォルドと言う軍艦の艦長としての、2年間の見事な成果とリーダーシップである。本著はその2年間のエッセンスだ。マーコード教授のほうでの引用は、もちろん彼の優れた質問の応用のしかたについてである。そのこと自体はその通りなのだが、本書を読んで、その人物の全体像の雄渾さに、改めて驚いた。
     
    彼の姿勢に一貫しているのは「部下を守る」と言うことだ。
     
    部下を守れば、部下は上司に心服する。そうすれば、チームは相乗的に大きな力を発揮し、成果を遂げる。こんなに理屈では簡単なことが、実行は容易でない。このアブラショフも「自分は40万人の組織の中間管理職のひとりに過ぎない」と言う。艦隊勤務以前には、自分の部下を怒鳴り散らす上司の前で部下を守れなかったことをいまだに恥じているとも書いている。その限りでは、彼も最初は私たちとあまり変わらないごく普通のサラリーマンのマネジャーだった。
     
    それが、艦長になって一念発起してから、がらりと行動が変わった。自由に腕をふるえる場を待っていたかのような印象である。着任まもないころのあるできごとが、彼が部下の心服を得る大きなきっかけになった。
     
    戦術の演習において、部下のアイデアを採用し、独創的と思われる提案を、上司である艦隊提督に行うと、すぐはねつけられ、旧来の伝統的戦術にて実施するよう指示してきた。これに対し、機密通信用の無線で、提督に抗議し、言い合うことになった。「ほとんど無礼といってよいくらい」な態度だったと言う。この無線は、ボタンひとつで艦内で聞くことができる。部下達が深山のように静まりかえって聞き耳を立てていたことは言うまでもない。結局指示はくつがえせなかった。しかし、前任者や多くの将校と全く異なる新艦長のこの行動を、部下達がどう見たかは、誰の想像にも難くない。
     
    守ると言っても、思いつきの発作ではだめで、終始一貫しなければならない。早くも翌日その機会が来た。まもなくハワイに寄港する。部下達にとっては心待ちの休暇である。ところが、慣習で、軍艦の入港は、艦長の階級や着任順序によると定めらる。それに従えばアブラショフ達は最後になり、海上にて丸1日時間を空費することになる。それは全く無意味だと思った。提督に、2日続けて物申すことになった。
     
    「1日早く入港したいのでご許可を願います。」
     
    提督は、伝統主義者ではあっても自分の権威を守るために感情をあらわにする人ではなかったようだ。ごく不機嫌に問うた。
     
    「何の理由のためか。」
     
    考え抜いていた応答をアブラショフは一気に言った。
     
    「1日燃料の無駄づかいになります。燃料は国民の税金です。機材の破損も1日早く修理できます。また、部下達を早く上陸させて楽しませ、士気を高めたいのです。以上3点の正当な理由があります。」
     
    相手は、いまいましい感情をしずめるためか、せき払いをした上で、「許可しよう」と言った。これも例によって、無線で聞かれていたに違いない。艦内全体に歓声があがった。アブラショフ自身も、このあたりから、自分が、真の指揮官として部下達に受け入れられていったのを感じたと言う。
     
    「今度の艦長は、自分の昇進よりも、われわれのことを先に考える人だ。」  リンカーンは、「人を統治する際は、その相手が認めてはじめてリーダーたりうるのだ」という意味のことを言った。これは政治の世界に限らず、どんな組織、企業にもあてはまる原理である。数千人の社員の社長でも、数人のメンバーのチームリーダーでも、本質において同じだ。
     
    こうした本気で「部下を守る」行動が、このあとここに挙げきれないほど出てくる。こうした行動は、よほどの勇気と、自分の力量への自信が裏打ちされていなければなければ、貫徹できないばかりか、自分にもマイナスにはね返って来ることは容易にわかる。
     
    しかし、こうした経験を一度すると、そのリーダーは、上司に少々煙たがられたり、昇進コースの軌道に正確に乗っているかどうかなどより、部下達との真のきずなの方が、いかに得がたいものかを学ぶ。なぜなら、人心が掌握されれば、そうでないチームや艦よりも、はるかに速く成果が上げられるからである。
     
    人心掌握ができれば、あとは部下の能力を引き出し、なるべく自由裁量を委ねる。
     
    「自由は組織に害になるか。」
     
    彼は自問する。これは、私も含め、多くのマネジャーの苦悩でもある。こう言うときに「そんなことは悩む必要はないので、なるべく自由にやらせればいい」と専門家と称する無責任な立場の人に言われてうんざりしたことは、読者だけでなく、私だって幾度もある。アブラショフは続ける。
     
    「それは自由の質による。エゴをさらけ出す自由ではなく、チームの成果を上げる方法を提案する自由なら大きなプラスになる。」
     
    こうした言葉は、歴史に残る時評家の言葉のように、また秋のもみじのように鮮やかだ。
     
    こうして成果を追求すれば、目まぐるしく変化する今日の環境にあって、「(旧式の)規則を守るべきか、破るべきか、どちらとも言えない状況」がひんぱんに現れる。「それを決断するために中間管理職がいるのだ」と言う挑戦心と決心が、彼に多くのめざましい成果をもたらした。21世紀になってからの10年は、どうも何でもかんでもコンプライアンスと言いながら、消極的行動の隠れ蓑とする風潮がないではない。これはそうした倫理基準の次元のことを言っているのではない。毎日実戦に身を置いているマネジャー諸兄ならすぐ意味がわかるだろう。かつて瀕死状態だったIBMを建て直したルイス・ガースナーは、「すぐれた組織は、こと細かな規則でなはく、原則により運営される」と言った。それと表裏一体である。
     
    アブラショフはさらに言う。
     
    「あやまちをおかさない人々とは、組織を改善するようなことは何もしていない人々のことなのだ。」
     
    ますます筆が冴えてきた。訳者のウデもよいのだろう。形式主義や悪い状態がはびこったら
     
    「大声で叫び、わめいて、人々がそれに注意を払うようにする必要がある。」
     
    そのようにできたらどれほど痛快だろう。そして彼はそれをやり抜いたのだ。
     
    乗艦ベンフォルドは、こうしていろいろな観点から、海軍トップクラスの実績を残すようになってきた。傑出した力量を発揮し出したアブラショフには、当然ながら他部署から嫉妬と猜疑を向けられる。彼がその後海軍を離れたのはその事とは無縁ではないかも知れない。しかし彼にはもはや不動の覚悟がすわる。
     

    「傑出する者がいると言う事実に動揺したり、ねたんだりする者は、必ずいるのだという事実を受け入れてしまうことだ。それはこの世においてこれまでもずっとあったことだし、これからも必ずあることだと。」
     
    これはまるで古代ローマのユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の言葉でも聞いているようではないか。
     
    アブラショフの力量は、私たちにはすぐにまねができるものではないかもしれない。しかし、アブラショフの行動の部分部分には見習い実行できる点が多くありそうだ。そうして自分の行動を変えれば、目に見える景色が少しは変わって来そうだ。

  • 実戦問答No.16:セッションにおけるメンバーの同意

    ~アクションラーニングは誰のためのものか~

    このところ、アクションラーニングのコーチをしている方々から、「問題再定義」「行動計画」などで、どうしたらじょうずにメンバーの同意が取れるのだろうかと言う質問が重なった。

    私はそうしたことでほとんど悩んだことがない。それは私がコーチとしての技量が優れているからではなく、セッションを行うときのメンバーに恵まれているからである。「同意を取る」と言うとひどくおおげさに聞こえるが、そもそも、セッッションが始まってたとえば1時間も経過して、メンバー間に問題が深く共有されていないとすれば、そのこと自体が大いに問題であり、コーチの技量が問われる。私は「このままでは所定時間に問題の本質の共有が十分に進まない」と判断したときは、コーチは、ファシリテーションだけでなく、メンバー代行になって、局面の途中からどのメンバーよりもじょうずに質問ができなければならないと言う立場を取っている。だから共有が進まないのはコーチの責任なのだ。

    コーチが自ら質問をするのがよいとか悪いとかそう言う議論が好きな人もいる。が、申し訳ないがはっきり言って浮き世離れした論議である。研修を主催し、私のような外部コーチを呼ぶ組織の側から見たら、この当否は明白過ぎる。問題解決も進まず、学びもふり返りも、そして問題の共有も欠いたセッションとなり、その理由は「集まったメンバーがf現時点ではそこまでしかできなかったからです」などと言うのでは、全くの無為であり責任放棄である。こうした時は、コーチ自身がどのメンバーより、問題提示者の問題の中に深く入り込める質問ができなければならない。必要な時にそれができないのでは、司会者ではあってもアクションラーニングコーチとしての最も重要な要件を欠いている。以上は、社員の貴重な時間を費やす以上、社内コーチでも基本的には同じである。

    もちろん、私が行っている場合でも、問題の再定義の表現は、メンバーが違えば皆違う。実際には、現役のマネジャーやそれに準じる方々とアクションラーニングを行うときには、私は、それら全部を聞いて、本質において大差ないと思えば「問題は共有できましたね」と聞く。まずめったに不同意は出ない。と言うより問題の本質が共有されている雰囲気がなければ、時間が来たからと言って機械的に「問題再定義を書いてください」とは言わない。では時間がいくらあっても足りないかと言うと、私の場合は、たいてい丸1日、2日と研修で時間をお預かりしているから、内容が複雑なセッションもあるし、それほどでもないものもあるから、柔軟に調節している。今日1回だけで2度と行わないセッションで、時間が限られており、おそろしく問題が複雑だと言うときは確かに難しい。コーチも渾身の集中力で運営しなければならない。が、私は基本的にあまりそうしたことは引き受けない。1日研修に費やせない場合なら1カ月置きか2カ月置きか、最低何度か同じメンバーでセッションを行うようにしているのである。だからやはり調節はできる。以上は例外を言い過ぎたようだ。ほとんどの場合、所定時間内で共有はできる。

    拙著「アクションラーニング実戦術」にも書いたが、だいたい「不同意」が乱発するのは、「自己愛メンバー」が多いときである。自分が一生懸命質問したり、意見を言ったことが、問題提示者の再定義表現に反映されていないと、面白くないから、やたらと不同意と言う。もっとはっきり言おう。こう言う現象は、会社外の専門家にしかまず起きない。この情景も、偉大なアクションラーニングの創始者レグ・レバンスのテキストに書いてある通りである。自分のプライドにかけても「不同意」というわけだ。そして私も、自分のクライアントでななく、偶然呼ばれた場でこう言うシーンに遭遇してしまうと、口には出さないが、「なんとまあむだなことに労力をかけるのだろうか。セッションに許された時間は本当に貴重なのに」と天を仰ぎたくなる。

    時間がむだになるだけならまだいい。取り返しがつかないロスも生じる。問題提示者は、さすがにそこまでのプロセスで、いろいろ深くふり返ることができていることが多い。だが、この再定義の表現があっているあっていないと言うつまらない問答を繰り返すうちに、そのせっかくのふり返りがどこかに消えてしまうのである。それはそうだろう、共有してもらっていると思っていたメンバーから「あなたの再定義はわからない」と続けざまに言われるのだから。輝きかかっていた本人の表情が、セッション開始時点の曇った迷いの表情にみるみる戻ってしまう。これは本当に残念なことだ。だから時間がむだになり、しかも残念な思いをするので、極力そうした専門家の方々とのアクションラーニングセッションにはおつきあいしないようにしている。

    ひるがえって、日々、繁忙の実戦の中にいるマネジャーやその候補者達は、中身が的が当たっているのに、いちいち表現の違いを言い立てて同意だの不同意だのと言うほどひまな人などはいないのだ。たまには、プライドではなくて、性格的にそういうことが気になってしかたのない人もいる。他のメンバーに「そんな細かいことにこだわって困ったものだ」と言う表情をされたり、時には「おまえ、もういいだろう」と友情を込めて苦笑失笑されるから、言った人も気づき、場はもとどおり支援や学びに満ちた雰囲気にすぐ戻れるのである。私はメンバーに恵まれていると最初に言ったのはこの意である。上記のような専門家たちのほとんどは、こうした現実の実戦が問われるセッションに漬かったことがないのだ。それは申し訳ないが、ひとめでわかる。そして、どうでもよいことをいつまでも言っていたら、1日だって現実世界のマネジャーは相手にしてくれないのだ。

    本当に問題提示者本人が、いわば勘違いをしたまま再定義場面を迎えることは絶対にないとは言わない。が、100セッション行って、2、3度ではないか。逆にそうした時には、メンバーは、堂々と不同意を伝えればいいし、コーチも何も調節する必要はない。それで大いに本人は良い意味でショックを受け、勉強になるからである。

    めいめいの組織外の専門家が、どのような主張をしようとその人の自由だから、私がとやかく言う気は全くない。が、困るのは、そうした方々が、これから社内コーチをやろうと言う人に、再定義場面などは、些細なことでも納得がゆかなければ、どしどし不同意を出せばよいと教えてしまうことである。だから冒頭の質問につながる。

    こうした考えは、アクションラーニングの本質を見失っている。アクションラーニングは問題提示者への支援が第一の果たすべき機能だ。それでは不足だと言う「専門家」もいるし、もちろん発展的にはその先(チームビルディング、組織風土改革など)があってよいのはもちんだ。が、「その先」はこの入り口を経ない限り絶対にやって来ない。すぐ「その先」を言いたがる「専門家」ほど、この入り口を、コーチとして技術的にしっかりできているかと言うと疑問である。

    その第一の機能に照らしたとき、問題提示者の再定義の表現が、あるメンバーにとって気に入るか気に入らないかなどは、事の本質と何も関係ない。本人がどうやら問題の本質にゆきつき、解決への勇気ある一歩を踏み出しそうなら、表現が何であれ「同意」をする。これがまともなオトナの支援の態度である。逆に言えば、そうした雰囲気をつくりだすのがアクションラーニングコーチの大切な役割なのだ。

    偉大なレバンスのテキストには、そのようなマネジャー達の態度に、「sober」「deliberative」などの単語をあてた表現が折々用いられる。「sober」の原義はお酒を飲んでいない「しらふ」であり、落ち着いた冷静な様子を指している。「deliberative」は思慮に富んだと言うことだろう。日本航空の会長になった稲盛和夫氏は日本人で現役最高の経歴を持った経営者だろう。そのご壮年期の迫力あるご著書は私も随分読ませて頂いたが、そこには氏の人材を見る価値観として、しばしば「深沈重厚、これ第一等の才」と言う中国の明の末期の、呂新吾の言葉が引用されていた。すぐれたマネジメント行動と言うのは、洋の東西とはあまり関係ないらしい。

    私は言いたい。アクションラーニングとは日々の実戦の中に過ごすマネジャー、組織人たちのものである。行動科学者や会社の中のことをよくわかろうとしない外部コーチ達のためにあるのではない。頭の中でこね上げた鋳型に、マネジャーたちをはめこむのではなく、厳しい実戦の方に、私たちが合わせてゆかなければ、アクションラーニングは真の効果を発揮し得ない。

  • 月刊人事マネジメント連載記事その3:アクションラーニングにはなぜ即効性があるか

    〜連載:横山太郎が語る現場のアクションラーニング〜

    第3回 アクションラーニングにはなぜ速効性があるか

    自己客観化と速効性

    アクションラーニングになぜ速効性があるかと言えば、それは自分自身と向き合うからである。「自己客観化」である。これがなしえたら、人は判断が恐ろしく透明になり、実行への勇気がこみ上げるように湧出する。今までの自分ではとうてい視野が及び得なかった領域に明るい光が当たるようにして物事の輪郭がくっきりする。それゆえ迷いが去り、行動に踏み出す動機がみるみる高まる。「そう、私はこのようにしたかったのだ。」と言うのがこの時の典型的な思いである。よってさまざまな成果が速効的に現出する。

    この自己客観化に至るまでが、日常にあってはどれほど難しいだろうか。少しお考え頂きたい。自分の性格、経験、情念、価値観などから逃れて、まっすぐ問題に取り組む、自分自身を客観的に見つめるなどと言うことが平生常時行いうるような自律を完成させた人は、めったにいるものではない。実際はそれ以前に仕事に追われ、自分をふり返ることすらままならないことが多いだろう。

    こうした心境を自問自答で得ることは困難だから、仲間と集まってアクションラーニングをするのだ。自己客観化と言う言葉をあえてアクションラーニング・セッションでものものしく言うわけではないが、実質においてそれが全く問われないものは、何と名前を付けたとしてもアクションラーニングではない。自分自身が問われることなく重要な問題が解決されるとしたら、たぶん大した問題ではなかったのだろう。だから、表現を変えれば、自分とどれだけ深く向き合う場をつくりあげられるかが、アクションラーニングの成否を定める。

    自己客観化を進めるためのアクションラーニングの諸原則

    既にそのために、アクションラーニングには色々な原理原則が定めてある。煩瑣で細かいルールではなく、シンプルな原則であり、内容よりもその浸透の度合いが問題である。それはコーチの力量により大きく左右される。その第一は、切実な現実の問題を提示すること。第二に守秘義務と自由闊達。これらは前号で述べた。

    次に共有、支援、対等の原理。アクションラーニングの討議が始まる前に、私がいちばん繰り返しお伝えするのはこの点である。共有等が損なわれれば人は自分とは向き合わない。せっかく自己開示して提示した切実な問題を、軽々しく批評されたと思って欲しい。「君に何がわかるのか」と言う他人への感情的反発を産むだけになってしまう。

    問題保有者によってはペースの少しゆったりした人もいる。逆に力に自信があるメンバーは概して気が短い。放っておけば「おいおい、そんなことささいな事を悩んでいるのかい」と言う態度になりがちだ。人を見くだし、評価する雰囲気からは、共有は生まれない。すると自己客観化どころか他人への反発と自己の殻へのとじこもりと言う全く逆の作用を生じてしまう。こうした雰囲気が生じたら、コーチは必ず介入して、もう一度、対等、共有等の原則を皆で思い出すようにしなければならない。この介入が、技術的にはやさしくない。なぜなら言わば「注意」を受けるメンバーは、場の中できっといちばんキャリア、つまり能力の高い人であることが多い。へたな「注意」をすると反撃を食らうのはコーチ自身になるからだ。そうなると事態収拾は難しい。コーチはどのメンバーよりも能力抜きん出ている必要はないが、学びを共有するのだと言う使命感においてはるかに他メンバーを凌駕していなければ、こうした事態には対処できない。

    もしある人が自分の能力に自信があるとして、他人の問題を聞いてつまらないと思ったり、自分の方がずっと重要な件に取り組んでいるなどと優越感を感じるとしたら、そのこと自体がとてもつまらないことである。同じ運命の基盤に乗った、組織の中にいる人どうしの討議なのである。そういう評価的な姿勢を続けていれば、いくら能力があっても誰も真のリーダーとは認めないだろう。アクションラーニングは、私は最終的にはリーダーシップ涵養の場と思っている。こうした人が、時間を経て、次第次第に、支援的となり真のリーダーシップを見出して行く情景を目にするほどすばらしいことはないし、そうなれば会社として大変な財産である。リーダーとは、人が認めて初めてリーダーたりうるのだ。逆に会社側から言えば、そうした人が自然に多く育つような場が、組織の中の随所にあるのが理想だ。アクションラーニングはその場にもっともふさわしい方法のひとつである。

    見くだすとまでゆかなくとも、なかなか他人の真の苦衷を理解するのは簡単でない。人間は、ついつい自分の経験の尺度でのみ物事を測る。自分の過去の事例にあてはめ、その固定観念的な図式をなぞるような質問が増えると、共有感は損なわれる。過去はあくまで過去でしかないのだ。そんな時私はコーチとして「私たちは気持ちを真っ白にして彼の話を理解しようとしているでしょうか」などとよく問いかける。問題提示者の話に「わからん、わからん」とやたらと腕を組んで顔をしかめるメンバーもいるかもしれない。こういう人は少々がんこだとしても現実場面では親分肌で親切な人が少なくないのだが、この場合はそれが逆作用になる。そんな時にはコーチとしてこう言う。「わからん、じゃなくて、全身を鏡にして彼の言うことをわかろうと思いましょうよ」。

    こうした問題の本質の共有が円滑に進まないときに(現実には少なくはないのだが)、コーチが手をこまねいて状況をなすがままにしておくと、よくてもせいぜい気まずい部類の普段の会議の延長にしかならない。ひどい時には他責と非難の応酬になり、つまり、研修としての効果はないと言うことになってしまう。コーチの技量がじかに問われると言ったのはこう言う場面のことである。

    共有から開眼へ

    適切に場が運営されれば、次第に誠実で真摯な、問題提示者を助けるための本質的質問の方が多くなる。「そうか、君はこんなに大変な問題を抱えていたのだね」とその場にいる全メンバーが、深く共有できる瞬間がやがてやってくるのだ。

    ついには問題提示者の心境が、ポジティブさと苦しさが混沌とした状態になり、返答に詰まるような質問も出るだろう。セッションが始まったときとは、表情が一変している人も少なくない。しかし雰囲気は全く支援的であり産みの苦しみであることは本人にもわかっている。これは、アクションラーニングがその真価を発揮する場面についに到着した何よりの証拠である。だから、コーチはこの瞬間を、宝物のように大切にしなければならない。ここしか自分と向き合う瞬間は決して来ない。人は自分と向き合うとき、誰でも神々しいお顔になる。真実の自己と直面するときは、それぞれの個性が本当にくっきり現れたよいお顔になる。

    こうした張りつめた雰囲気をゆるめようと、他のメンバーがより軽い質問をして割って入って来るかも知れない。が、ここはわざわざそうした雰囲気、場面をついに創出したのだ。そのような緩和質問に対しては、コーチは絶対に介入して良い意味の緊張を、本人の変化を見届けるまで維持し、空気を動かしてはならない。ここまでの30分1時間は、この数分のためにあったのだから。私は事前の説明では「そう言う時がやがて来たら沈黙を楽しんでくださいね」と、これもしつこく言っている。わざわざ仕事の手を止めて研修に来たのだ。5年10年、いや場合によって一生忘れない経験をしてもよいではないか。全員でその人をいたぶっているのではない。皆わが事のように思い、問題を解決し苦境を克服して欲しいから質問しているのである。それをついに問題提示者が真摯に受け止める。「私はもうわかった、ありがとう」と周囲に叫びたいような気持ちになる。これは大げさに言えば「開眼」である。

    このとき実は、見ているメンバーからはうかがい知れないほど深く、問題提示者は自分の行くかた来しかたのありようをふり返っている。胸中が全く透明になってここちよい薫風が通りぬけてゆくような体感である。自分の事を外から眺めるような気持ちになる。この自己客観化は、悟りの境地とまでは言わないが、一度経験すると決して忘れられない深いふり返りである。これが今回のテーマの速効性に直結するのだ。

    以上のような経緯の細部の描写は、とても紙数が足りないので、恐縮ながら拙著「リーダーの質問術17手」などをお読み頂きたい。

    研修中の体験が速効性を支える

    多くの場合当初の問題は、少し極端に言えば「上司が悪い、部下のせいだ、協力しない他部署がおかしい、景気が悪いのがいけない」と表現されている。この自分と向き合う自己客観化のプロセスを経ると、必ずと言ってよいほど、「問題の所在は自分の側にあった」と言う表現に変わるのである。「人のせいにしても無意味だ」「私の問題は私が手を汚さない限り、私がリスクを取らない限り決して解決しないのだ」と言った方がわかりやすいだろうか。どちらにしても、問題を自分の行動半径の中に納めない限り未来永劫に解決しないのである。この深いふり返りが、これまで取れなかった行動への強固な決心へと転化するのはもう時間の問題である。自分の手で問題が解決できるとわかったときに行動しない人はいない。「ではこの件、明日上司に申し上げます」「すぐにも部下とじっくり話し合ってみます」などと言う行動計画は別に珍しくはない。騎虎の勢いとか、兵は拙速を尊ぶなどと言うが、この場合は熟慮に速度が加わるのだから、成功確率が飛躍的に高まるのは当然である。だいたいにおいて「行動は遅いが、必ず慎重にリスクを回避しているので諸事成果があがっている」などと言う例はまず聞いたことがない。リスクを回避することと、速やかな行動は両立させて成果となるのだ。

    そうして立てられたアクションプランゆえ、日常とは比較にならないくらい速効性が高いのである。実際そこまで深いふり返り、自己客観化を進めながら、会社に戻ってから何も着手実行しませんでしたと言うことはまず起きない。それでは今後仲間に合わせる顔もない。が、それよりも、自分自身が、考え抜いたのになお迷っていることの無益さを深く決心して研修から戻り、現実に臨むからである。ここが他のスキル向上型の研修と根本的に異なる点である。そして何より、自分のリスクテーキングとコミットメントにより成果を上げれば、それは真の成功体験となり、その人のマネジメント能力の大きな向上に通じる。こうなると、その人が既に以前のその人でないことが誰の目にも明らかになる。

    そのように変化成長を遂げた人に、あとで、「どちらにしてもこうなったのですか」と聞いてみる。「そうです」と私は言われたことはまずない。「あの研修(アクションラーニング)がなかったら、迷ったままずっと行動が遅くなっていたでしょう」と言うお答えが常である。

    だから、会社として、コーチとしては、どうしたらなるべく純粋にそうした場がつくれるかに意を注ぐのが何よりだ。アクションラーニングの進め方をむやみに定型化したり、評価的な成果管理を採り入れたりすると、受講者の意識は、自分自身ではなくて、そちらをなぞることに向かってしまい、自己客観化からは遠のく。たちまち効果半減である。自由、自律、そうした彼らへの信頼を付与することは、アクションラーニングにとって最も本質的な事柄である。

  • 実戦問答No.15:あのインバスケットと言うので、2度も落ちましてね

    ~アセスメントの試験への活用とマネジメント啓発~

    この実戦問答でも以前述べた(実戦問答6参照)、インバスケット演習運用に関して、最近思うことを述べる。インバスケットととは、一定時間に数十件の未決案件処理をする演習である。
     
    このインバスケットを昇進試験中の筆記試験として用い、全くフィードバック(課題内容の討議や解説)をしない場合、あるいは採点はするがフィードバックができないと言う講師が増えたと言う話を最近多く耳にするからである。
     
    インバスケット演習は、いわゆる人材アセスメントの一部分として、かなり以前から昇進試験の重要ツールとして用いられてきた。逆にその結果、マネジメント能力の中の意思決定、問題解決、業務遂行の範囲、言いかえれば、計画、組織化、統制、分析、判断、決断と言う流れを体験的に学ぶことにおいて、これより効果の高いツールはないのではないかと言うくらい有用なものであることが実証されてきた。そこで、昇進試験に限らず、啓発型のアセスメント研修にもずいぶん採り入れられてきた。
     
    啓発型研修なのに、フィードバックができないと言うことはあってはならないのは容易にご理解願えると思う。問題は昇進試験の場合だ。
     
    こんなことがあった。ある会社の研修後の懇親会で、「先生、あのインバスケットと言うのをどう思いますか。」とある受講者に聞かれた。この時に私がお手伝いしたのは、全く別内容の研修である。
     
    「どうって・・・・・ゲームとしては、とてもおもしろいですよ。」
     
    「先生、実は私は、あのインバスケットと言うので、2度も昇進試験に落ちましてね。本当にあのインバスケットと言うのにはまいりましたよ。」
     
    「そうですか・・・・・。」
     
    聞けばこの会社では、インバスケットを昇進試験の「足切り」に用いており、文字通りの試験であり、フィードバックも解説もなく、合否だけが通知されると言う。どうやらこの質問のあるじは、私に「あのようなものでマネジメント能力が評価できるのですか」と言いたいらしい。これではそう思うのも無理はないだろう。
     
    この人のことは、アクションラーニング等でごいっしょしたからよく知っているが、とても実務には堪能で、逆に言えば、マネジメントと言うのはこう言う人に習ってもらうためにある。昇進試験であれ何であれ、と言うよりそう言う時だからこそ、マネジメントのなんたるかをしっかり勉強する、のちのち忘れ得ない良い機会になるのである。しかし、その機会を失い、インバスケットに対する悪印象だけが残った。このインバスケットで処理した内容を討議する場面をファシリテートし、各受講者にフィードバックする技術は、アセスメントの研修技術の中で最高度のものだろう。だから「業界」でもそれができる人がだいぶ減ってきたと言う。何やら伝統あるものづくり企業から、高度熟練者が消えゆくようなさびしい話だ。これは「マネジメント教育業界」の伝統芸能である。
     
    もうひとつ問題なのは、百歩譲ってフィードバックの要否を別論としても、本当に適正な評価が行われているかと言うことがある。この会社にあって、漏れ伝わって来る「採点基準」は、「何件案件を処理したか」「処理手順は、全件を先に読んでから進めているか」「関連案件をクリッピングしているか」など、比較的形式的なことが多かった。そうした事柄は、そこだけ取れば有意なことかも知れないが、全対論としては全く本質的な評価基準ではない。本質的な評価基準は何かと問われると、詳しく述べるには原稿10枚にもなってしまうが、ひとことで言えば「限られた時間の中で質的量的に十分な意思決定を行っていたか」である。これは真に訓練を積んだアセッサーしかできないし、そうでない人が、人の運命がかかった時に、安易に評価を行うべきものでもないだろう。この訓練は、さほど容易なものではない。
     
    話を戻すと、真に訓練を積んでいない人では受講者へのフィードバックは決してできない。受講者に何か質問されたらたちまち窮してしまうからだ。かんぐれば、だからフィードバックの場をつくらないのかも知れない。
     
    さて私に質問してきた方だが、実際、この人といろいろな研修をごいっしょして見ていて、実務上の判断は的確だし、微妙な事柄への柔軟性は高いので、よほど書き物が苦手でもあったのだろうか。まあそうも見えない。ご不運と言うしかない。それやこれやに思いをめぐらしながら、私は彼に言った。
     
    「ところで、そのインバスケットですが、試験に落ちたのは残念だったとして、どこがどうだったか知りたいでしょう。」
     
    「そうなのです。」
     
    「本当はそのインバスケットをやったあと、じっくり討議をして、フィードバックを受けるのが筋道なのですよ。」
     
    「そうなのですか。そう言うのがあればぜひ受けてみたかった・・・・・。」
     
    昇進試験と言っても、知識の試験もあれば行動の試験もあるだろう。資格等級の低い段階ではなく、マネジャーに登用しよう言うような時には、行動の試験の方が重要だろう。それを行う限り、フィードバックをしなければ、試験の権威、つまりは納得性を高めることは難しい。試験結果に納得がゆかないことを、インバスケットと言う、先人が磨き上げ、結晶化した手法のせいにされては先人も泣くだろう。私も本当に残念だ。 
     
    ある公開セミナーでインバスケットの見本をご覧いただいて紹介し、受講者どうしでごく簡単な討議をして頂く場面があった。何やら憤然としている人がいる。どうしたのかお聞きするとこう言われた。
     
    「うちの人事部が、いきなりこれを人事考課に使うと言ってやり出し、わけもわからないまま評価が着いてきたので、みんなおもしろくないと言っていたところなのです。」
     
    これではインバスケットが泣くと言うものだろう。
     
    インバスケットを使いこなすには、マイスターになるような訓練が必要である。これも含め、行動科学の応用は、学問でなく、どこまでいっても修練、職人の世界である。私自身は、部下がどれだけ増えても、現役最後の日まで、部下より優れたマイスターであり続け、こうした先人の遺産のすばらしさを、ひとりでも多くの人に伝えられたらと思っている。