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  • 実戦問答No.14:1年前のことをどうしてそんなに覚えているのですか

    ~アクションラーニングとコミットメント~

    あるアクションラーニングセッションでこんなことがあった。

    実は、この会社は、概ね1年に1度アクションラーニングを全管理職に対して行っている。あるメンバー、仮に島田さんとしよう、彼の問題は、部門間にまたがる課題に関し、なかなか会社方針を理解した行動を取ってくれない関係部署のある専門職との関係構築に関するものだった。努力家だが、ちょっと変わり者で、しかし弁は立つと言う。「強敵」である。要するに、島田さんの課題を展開してゆくためにはその人と前向きなコンセンサスを得なければならない。セッションが展開したある段階で、私が質問をした。

    「その人は、去年の研修の、小川さんの問題に出てきたあの人と同じ人物ですか。」

    ここにはその小川さんもいるし、島田さんと小川さんは、去年もアクションラーニングで同席している。

    「そうです。先生、1年前のことを(部外者のあなたが)どうしてそんなによく覚えているのですか。」

    「・・・・・」

    私は無言で微笑して返答とした。

    どうも最近アクションラーニングを「会話マナー術」と取り違えているようなコーチが増えてきて、いかがなものかと思っている。それはともあれ、コーチが、クライアントの信頼を得るためにいちばん大事なことは、会話術ではなくてコミットメント、深い関与なのである。1年前に同じクライアントでどんな内容のセッションをしたのか覚えていない、事前に確認していないと言うようなことでは、とてもプロのコーチ、人材開発に任じる者とは言えないのだ。ごく一般論として、その時々に思いついたことだけを話している人に敬意を払う人がいるだろうか。

    私の場合は、たとえば過去5年つきあったクライアントのアクションラーニングに臨むのだったら、少々骨が折れるが、その5年分のセッションの記録を全部読み直す。参加メンバーが全く変わっても、である。すると、セッション中の判断のスピードが全く変わる、つまりとても速くなる。コーチの判断の速度と受講者の学びの質と量は間違いなく正比例の関係にある。2次関数的に増えると言った方が私の実感に近い。こちらが2倍留意すれば、ふり返りの深さは4倍になると言うことだ。逆を言えばすぐおわかり頂けよう。意味がわからないことをいちいち聞きただすコーチ、意味がわからないので、ただ黙って受け流しているコーチと較べてみて欲しい。どちらも、受講者の学習とふり返りに益をもたらさない。

    このあともう少し会話が続いた。

    「先生は、記憶力の訓練でもされているのですか。」

    「いえいえそのようなことは・・・・・」

    私は自分の使命に忠実であろうとしているだけです、と言葉を呑んで、話を別方向にしたい。

    「それで・・・・・」

    「そうなのです。同じあの人なのですが・・・・・。」

    「それで、小川さん、あなたのほうは、その後その人との関係改善は進んだのですか。」

    「ええ、まあまあです。」

    「まあまあ、と言うのはどう言う・・・・(笑)」

    「一進一退ですよ。まあしかし、前よりはよくなりましたね。いろいろはっきり伝えたから。」

    「そうですか。それはよかった。そこで、小川さん、今日の島田さんの問題を聞いてどう思いましたか。」

    「ええ、大変ですね。内容が、私のときより錯綜している。」

    「島田さんに今、助言できることがあれば、ぜひお願いします。」

    「そうですね・・・・・」

    このあと小川さんは、1年前に自分の取った問題解決行動を引用しながら、今回の問題解決への助言を語った。島田さんは、じっと小川さんを見つめながら、真剣にメモを取ったことは言うまでもない。そして島田さんは、活き活きと小川さんにいくつかの質問をした。この場合、問題提示者の島田さんの学びが深まったことは言うまでもない。が、見逃してはならないことは、語った小川さんと他のメンバーの学びの合計量は、はるかにそれより多いと言うことである。

    どんな場合にも歴史にまさる教材はないのだ。小川さんは、ごく最近の「自分史」を語った。アクションラーニングの創始者レグ・レバンスがまさしくその著書に描いた情景のように、スレート板に書きなぐったメモを、注意深くなぞってていねいに読み返すようにして、それを他のメンバー全員に伝えた。こうした時、語り部となった小川さんのふり返りがどれほど深いかは横で見ていればすぐわかる。そこにはその組織固有の珠玉のようなストーリーが一杯詰まっている。だから当事者二人だけでなく、その場の全員が深くそれを学んだ。

    そしてその貴重な学びを、少々の楽屋裏の事前準備ををしたファシリテーター(筆者)が誘発させた。自画自賛で申し訳ないが、絵にかいたようなアクションラーニングの場面をつくれた。こう言うときは本当によいセッションになる。こうした会話が積み重なるほどに、メンバー達は、どっぷりとセッションに漬かり込む度合いが深くなる。そうするとチームの成熟も早まる。

    もちろんコーチとしては、この時もそうだったが、帰り際に、「本当に今回もやはりあなたに来てもらってよかった」と言う態度でクライアントにご感謝を受ける。この世界で仕事をしていてこれほどうれしい瞬間はない。この仕事は、現場以外には、どこにも値打ちはないからだ。

    「日常の仕事中にはあり得ない濃密な時間を過ごすことができました。」

    これがこのセッションの、事実上リーダー格のメンバーの最後の感想だった。

  • 月刊人事マネジメント連載記事その2:アクションラーニングの真価をもたらす場づくり

    〜連載:横山太郎が語る現場のアクションラーニング〜

    第2回 アクションラーニングの真価をもたらす場づくり

    アクションラーニングの真価は、適切な場を設営しなければ発揮されない。それは「絶対に安全な場」「絶対に安心できる場」である。受講者のホンネ、本心が吐露され共有されない限り、所期の人材育成は進まないし、問題も解決しない。真のアクションラーニングにはならないのである。

    日常の会議にすぐ応用するのは無理である

    日常の会議の中で、ホンネが自由闊達に表明できて、誰しも違和感なく、体面にこだわらず、純粋な問題解決と、最良の意思決定だけに意が用いられている組織ならば、ことさらアクションラーニングなど行わなくても足りる。例えば井深大氏、盛田昭夫氏ありし頃のソニーはそうした風土であったと諸書が伝える。しかし、残念ながら今日そのような会社はほとんどないのではないか。

    そうした前提がないのに、聞きかじってきたルールだけで経験未熟なコーチが、日常の会議をアクションラーニングにより行おうとすると、百発百中で失敗する。やってみればすぐわかるがホンネの交換なく、型通りに発言を質問に置き換えよなどと進める討議は、空虚である。ただでさえ、普段の会議は時間が足りず、真の意見交換が不十分なのだ。そこへ指示やルールを追加してかぶせたら、一層非生産的な事になる。現にそうしたご相談が増えてきた。

    組織の中では、強い利害対立や心情葛藤が渦巻いている。それには善いも悪いもないので当たり前である。日常の会議は、各参加者の切実な利害が絡んだ事項を、意思決定する場である。そういう場で、アクションラーニングの原理として、支援、共有、対等などと言ってみても、無理である。時間的期限が切られ、出席者の序列の定まった場で、自由闊達なホンネの交流が短期間に生まれるはずがない。原理に名を借りた無責任で好き勝手な思いつきの質問が増えるくらいかもしれない。そうした行動は、真の責任ある自由とただの無秩序とをはき違えているだけで、アクションラーニングでも何でもないし、悪弊しかもたらさない。刻限が過ぎれば場の上位者が、「審議を尽くした以上は、あとは私が判断するので、決めた以上は皆それに従って欲しい」と宣告するのは、これまた当然過ぎることなのだ。そうでなかったらアクションラーニング以前に、マネジメントになっていない。

    本当の問題を出せる雰囲気づくり

    だから、まず組織的意思決定の会議の場とアクションラーニングの場は絶対に区別しなければならない。その上で、ホンネを語ってもそれがとがめられることのない場を人工的に設営するのだ。「今日はそうした場なのです」と開講早々に主催者とコーチが強く訴える必要がある。アクションラーニングを多くの場合、守秘義務を約束する研修として日常と切り離し比較的ゆったりした時空間にて実施するのはそれゆえである。職場の中のメンバーで行う時には、上記のように、全く別次元のミーティングをしているのだ、意思決定の場ではない、と約束して臨む必要がある。

    では研修の開講一番、守秘義務さえ宣言すれば事がうまく運ぶか。それは最低限であり、さほど単純ではない。次にコーチ(講師)が指示するのは、問題の提示である。重要で差し迫った問題を出してくださいと言う。そうした題材でないと相互の啓発は進まないからだと前回述べた。一見ややこしい。現実の利害葛藤の場と切り離せと言いながら、最も切実な問題を示してくださいと言うのだから。この対照の鮮やかさがアクションラーニングの本質部分である。それをどうかこの短い文章から看取頂きたい。コーチの力量が最初に問われるのはこのあたりである。受講者の中にはこの時点では、まだ疑心暗鬼な人もいる。だからそうした鮮度高い問題をすんなり出せるような雰囲気をコーチがつくり上げないといけない。言葉では簡単だが実現はさほど容易ではない。だから私は各受講者が問題提示のシートを書く前に、相当しつこく訴える。「今日はホンネで討議することが目的ですから守秘義務をかけているので、そうである以上、いちばん重要で切実な問題を出してくださいね。」

    そこまで言っても、まだ左右を見回し、「こんな場で本当の話をしていいのだろうか」と言う思案顔をしている人もいる。ここまで進むと、中には積極的な人がいるから「いいんだよ、君、ありのままに出せば。そうそう君の所は、あれがいちばんいいよ。」「うーん、あれはちょっとまずいのでは・・・・・」「まずいからこういう場で討議するのだよ、先生、今回はそういうことでしょう?」こう言う受講者がいると本当に助かる。が、この種の積極的な受講者は、その前にコーチの姿勢を実によく見ていることを忘れてはならない。つまりコーチが、守秘義務を守るばかりでなく、本気で彼らの問題解決を支援しようと思っているかどうかを、である。そのおめがねにかなわないとこの種の態度は現れない。

    その上で書かれた内容の鮮度を念入りに確認する。これらを省略して、ともかく何か出せと言って始めると、あとから二番煎じの問題で本人もそれほど悩んでいないことに気づき、研修の雰囲気がだらりとしてしまう。啓発も学習も進まず、あほらしい、時間のむだだと言う空気になる。こうした時に経験未熟なコーチが「だってあなたが大事な問題だと言って出したのではありませんか」などと指摘するのを見かけるが、全く実益のない形式論である。重要な問題を進んで出してもらう雰囲気をつくりあげ、学びの多い討議となるよう運営する責任は、受講者ではなくコーチにあるのだ。

    いかにホンネや最重要の事実を語っていただくか

    いちばん重要な場づくりはまだこれからだ。重要緊急なテーマが出たとしても、それに関するホンネが語られるかはまた別だ。ホンネや、本人がなお言いたがらない最重要な事実を引き出すのは、実際難しい技術だ。討議が始まってたとえば最初の15分間でそれらがあます所なく語られるほうがむしろ少ない。「ある部下が成長しないので困っている」「なぜですか」「私の方針を理解した行動にならないからです」「なぜ理解しないのですか」「ビジネスマンとしての意識が不足しているからでしょう」「それを植えつけるにはどうしたらいいですか」「そう、教育しかないですね」「ではどんな教育がいいですか」こう言う一本調子で平板な問答をいくら繰り返しても、全く実益はないし問題も解決しない。この種の会話で終始したらアクションラーニングとも言えない。この問答にはどこにも問題提示者が自分をふり返る瞬間が出て来ないからである。こう言う会話がずっと続いたら、コーチが、ホンネや最重要な事実に迫れるよう場に働きかけることができなければならない。が、前号にも述べた通りそうした面で適切な技術を保有したコーチがひどく少ない。

    ここではせめてたとえば、「その部下に関して最近いちばん困ったことはどんな例がありますか。具体的に教えて頂けませんか」と質問しなければ話の焦点は合わない。それでも、核心の事実をすぐぺらぺらしゃべる人はそう多くない。「いろいろありまして」「ええ、いろいろあるのでしょうから、そのうちいちばん重要で、皆さんがわかりやすい例を」「うーん・・・」などと続けば何か語られるまでじっと待つ。これがなかなか難しい。温かく見守る「間」や「溜め」が取れずに、逆に次から次へ違う質問が追って行く場合が現実にはよく起きる。こうした時は皆でじっと辛抱して核心を語られるまで待つ必要がある。発言を質問に置き換えよだとか、最初はわざと些細な例を言うかもしれない。誰しも核心を語るのは恥ずかしいし怖いのである。それを語ってもらえるような支援的な空気が場に醸成されていないと、ホンネは出ないのだ。その醸成は、コーチの最重要の責任である。そして核心が語られると、一気にはずみがつき共有感が非常に高まる。つまり成果が上がる。

    ホンネや最重要の事実の出なければ、いくら時間をかけても真のアクションラーニングにはならない。好意的に言っても話し方作法教室である。忙しい受講者に、問題解決や行動変革ではなく、会話マナーを教えるために集合させるのは頂けない。

    あるクライアント企業では役員を集めてアクションラーニングを行ったのだが、ある役員がぼっつりと言った。「本当のことが言えて、本当に実質の討議ができて、本当によかった」。3度も「本当」と言ったので皆げらげら笑い合った。その感想が出るまで、彼の問題に関する討議に2時間余を費やしている。場づくりが成熟し完結するプロセスにそれだけ時間がかかったのだ。その問題は、当然ながら、会社の戦略、いや命運を左右するような内容であった。そんな重大な問題に関し、日頃本当のことが言えていないのである。アクションラーニングの真価が問われた場面だった。

  • 実戦問答No.13:せっかくがんばったのにむだになってしまったのですね

    ~共有の深さとアクションラーニングセッションの成熟度〜

    ある会社のアクションラーニングセッションで、こんなことがあった。

    その問題提示者メンバーは、ある業務の改善をしなければならないと指示されているマネジャーである。色々質問されると、改善の筋道もそれなりの頭に描いているようだし、キャリアも十分だ。「じゃあ、あとはやればいいじゃないですか。」セッションにこんな雰囲気が漂い始めた。

    が、どうも本人の表情が冴えない。「どうしたのですか、そんなお顔をして」とおたずねすると、実は数年前にもそのような取り組みを指示されていた。ずいぶん時間をかけて分析立案したが、結局色々な社内政治的状況の変化でうやむやになり、「すっかりむだになってしまった」。今回風向きが変わり、再びの指示となった。が、またどうなるかわからない。「だから今度はあまりやる気がしない。どうせまたうやむやになってしまうのだろうから・・・・・。」と言う。

    コーチであった私は、このあと黙って様子を見ていた。この次どんな展開になるかが、セッションの成熟度が現れるところだ。このセッションは、まだ日が浅く「若い」。案の定、他のメンバーから「あなたがそんなことを言っていたらいけないでしょう」「以前は以前でしょう」「組織の上を動かしてゆくことがあなたの役割ではありませんか」と言った前向き、建設的な質問ふうな意見が次々出てきた。

    まずここで、特にアクションラーニングコーチを勤めようと言う人に言って置かねばならないことがある。上記のような発言は、「意見なのか質問なのか」などとただすことは、全く意味がないと言うことだ。大事なことは上記のような発言が、問題を共有しよう、問題提示メンバーを心から支援しようと言う意思により行われているか、だけである。そうなら、黙って見ていればいいし、そうでないなら、介入すればいい。黙って見ていれば良いときに、「意見になっていますから質問の表現に変えてください」などとコーチが介入するのは全くの時間のむだであるばかりか、メンバーの習熟度が高い時には「?」と言う表情をされ、セッションのリズムがすっかり狂う。

    この場は、まあ5分5分だった。この点が、このひとつ前の実戦問答のように「理想郷」に近づいたセッションと異なり、まだ「若々しい」セッションなのである。5分5分ならまだ黙って見ているしかない。共有、支援、学習の方向に、コーチである私よりも、メンバーの誰かが向ける方が、このチームにとって有益であるからだ。
     

    しかしこの日はそこまでは無理だった。やがて発言が「おまえやる気あるのか」「そんなうしろむきな考えじゃだめじゃないか」と、支援したい熱意があまってやや圧迫的な雰囲気になった。自分が他のプロジェクトでいかに修羅場を乗り切ってきたかを一生懸命説明するメンバーもいる。しかし問題提示者の状況、前提条件と符合していない。人は自分の成功体験から逃れがたいと、アクションラーニングの創始者レグ・レバンスは繰り返し訴えたが、まさしくその通りの場面だ。それは私も当事者だったらきっと同じことかもしれない。この場合は私が、外部コーチと言う立場で一歩距離があるからそれがわかるのである。

    ここで「まあまあ」と私が介入する。次に私が何と言ったか、アクションラーニングに興味をお持ちの読者にはひと呼吸置いて考えて欲しいところだ。私はこう言った。

    「お顔色が冴えない理由をお聞きしたら、せっかく守秘義務がらみのホンネを語ってくれたのです。私たちはそのつらい彼女のホンネを、まずしっかりと受け止めましたか。」

    「・・・・・」

    メンバーが静かになった。

    「彼女のお気持ちを私たちは共有したと言えますか。」

    同じことをもう一度聞いた。

    「先生、私たちは共有しているつもりですが。」

    「だとしたら、いきなり『もっとがんばれ』と言う前に、たとえば、『そう、せっかくがんばったのにむだになってしまったのですね、それは残念でしたね』と言った質問が、どなたかから出ましたか。」

    「・・・・・」

    「以前だめになったのは、どう言う具体的経緯があったのか、どなたか質問しましたかね。」

    「・・・・・」

    ここで2、3のメンバーが、はたと膝を打つようなしぐさをした。

    「そうですね、やっぱり私たちは共有が足りなかった。せっかくの研修会なのだから、まずそこですね。」

    「そう、そこをしっかりしないと、どんな前向きな提案を言われても、問題提示者はよけいに浮かない顔になってしまいますよ。」

    ここで場が深呼吸をするように、全メンバーが、いったん無言で態勢を整え直した。時間にすれば十数秒のことだろう。そのあとが不思議だった。問題提示のマネジャーが、自らこう言ったのである。

    「いえ、皆さんのご支援のお気持ちはよくわかりました。どうせ何をやってもうまくゆかないだろうという私のネガティブ思考がよくなかったのです。これからはもっと前向きに物事を考えてゆきたいと思います。」
     

    深呼吸して改めて共有したことが、セッションの成熟度が一歩深めたようである。このメンバー達は、あと何度こう言うセッションを共有すれば十分に成熟して自律し、私は来る必要なくなるのだろうか、と最後は考えていた。

  • 実戦問答No.12:何がうれしいかと言えば

    ~アクションラーニングに出かけて行って~

    アクションラーニング実施のためにクライアントに出かけて行ったとき、何がうれしいかと言えば、受講者メンバー達が、私が来ることを楽しみに待っていてくれることである。その場が、他には絶対にない自由で前向きな、そして絶対に安心できる場であると彼らが信じきっていることが私に伝わってくる時である。そう言うときは、その日のテーマも、あらかじめ自律的に選定している様子がよくわかる。こんな時私の役割は、教科書に書いてあるようなファシリテーターそのものになる。とてもきれいで結晶のように純分化された役割である。

    こんな、時間も空間も限られてはいるが、理想郷に近いようなセッションでは、良い意味で全く健全な空気の中で、時に私の介入や質問などまるきり相手にされない時もある。それは彼ら現実に責任を負うメンバーたちが、本来部外者である私を真にアソシエイツ、同朋的なメンバーとして受け入れてくれている何よりの証左だと思っている。これは筆では説明し尽くせない。これほどアクションラーニング・コーチとしてここちの良い瞬間はない。

    しかしそのような場になるには、最低半年はかかるだろう。それまではメンバーもコーチも苦しい道のりを経なければならない。

    何事も粘り強い根気が必要なのは当たり前だが、それにしてもえらいと思うのは、こういう場をつくってくださった経営者や部門長の方々である。これまた、学習する組織のテキストには、人を育てたいと思ったら、「カブを毎日引き抜いて、どれだけのびたか見るようなことをしてはいけない」と必ず書いてある。それが実践できる組織は残念ながらさほど多くはないのだが、そう言う方々にはそれを可能にするパワーや、見識、もっとはっきり言えば高い人格が備わっている。そうした方々は、そんな教科書の細部に何と書いてあるかなどはきっとご存じないだろうが、長く厳しい風雪の体験が、そうした見識と忍耐力をを醸成するのである。

    もうひとつ、私のようなコンサルタントをやっていて何がうれしいかと言えば、そうした方々とのご縁故が、ひとり、またひとりと増えてゆくことである。

  • 実戦問答No.11:これでどうやって評価するんだ~職能資格等級の評価~

     (2011.5.5)

    職能基準書、等級定義書、名前は何であれ、何等級は、何ができる人と書いた文書がどこの会社にもあると思う。この30年間、これにまつわる論議は、いつも循環し、徒労をした会社が少なくないのではないか。
     
    この種のものは、定義だけを、簡潔に、かつ良い意味で抽象的に表現すればいいと言うのが、私の年来の主張である。その理由は以下順次述べる。
     
    かつて、ある関係先でこんな話になった。人事制度改革のひとつとして、職能資格等級を少し増やしたせいで、ちょっと古びてきた全体各等級の定義も書き直した。それを見て私はまずよくできていると思った。そしてその案を、担当マネジャーが、役員会にかけたのだが、否決されてしまった。どうしてだろうか。
     
    「表現が抽象的で、これでは、等級を評価決定するときに使えない」
    と言うことだった。さて読者はどう思われたろうか。
     
    私から読者に以下ふたつ質問しよう。
     
    「そもそも職能基準書とは何のためにあるのだろうか。」
     
    「それは、等級をじかに評価決定するために用いるものなのだろうか。」
     
    お考え頂いただろうか。私は思う。職能基準書等は、資格等級の定義を表現するためにある。何を当たり前なと思われたかも知れない。続けると、だから、資格等級の評価決定のための機械的なモノサシではないし、そのように使うべきでないのである。
     
    そうすると昔から必ずこう言う議論になる。
     
    「では目に見えるモノサシがなければ等級が決定できないではないか。」
     
    この質問にイエスと応えれば、文字通り事細かな「基準書」をつくらなければならない。上記の役員会もその方向に沿った意見である。しかし、もう30年も40年も前から、大企業なら、びっしり細密な文字の詰まった何十ページもある文字通りの職能基準書をつくったはずだ。それが評価並びの人材の活性化に有効であったと言う話は、遂に聞いたことがない。だから実はこの問答は本当は歴史的な決着は着いているのである。組織は人が入れ代わると、容易に学習がつながらない。また、役員会に人事の専門家は普通いないだろうから、ちょっとボタンをかけちがうとこうなってしまう。ついでに言えば、アメリカ生まれの事細かな職務記述書などは、一層日本の社会には似合わない。それやこれやの理由も、既に拙著に色々述べたのでここでは述べない。
     
    他方、コンサルティングの専門業者も、はっきり言っていかがかと思われる場合がある。たとえばここ10年ほどは、コンピテンシーモデルと言うものが流行した。その概念や少々の項目を人事考課に適切な範囲にて応用しようと言うまではいい。が、昔の職能基準よりも一層精緻に網羅的にすると人材評価と活性化に大変な効用があるとうたい、およそ考えられる限り、機能別、職種別、部門別などに必要コンピテンシー項目を細分化し、「コンピテンシーディクショナリー」をつくりましょうなどと売り込む。細か過ぎる職能基準書時代のことを知らない人はそんなものかと思ってしまう。ディクショナリーとは辞書の事だ。いったい人間と言うものが、辞書を与えられて、それをそらんじよう、よしがんばるぞと動機づけられ、励みに思うものであろうか。
     
    だから、等級評価決定に目に見えるモノサシが必要だと言う、最初の前提に誤りがあるのだ。そのように機械的に評価を決められる道具をつくれるはずがないのだ。評価は、様々な要素を総合判断して人間が決めるのである。責任と情熱を持った上司が決めるのである。何と当たり前なことだろうか。そんなことを私たちはうっかり忘れる時があるのだから驚きである。
     
    それでは客観的で公平でないと言う前提がいつしか置かれ、精密機械のようなモノサシをつくりたいと言う話に転じてゆく。その思考プロセスの根本に誤りがある。人を評価する場面における責任ある自由裁量を、マネジャーに委譲できないようでは、組織や事業の運営とは言えないのだ。それを、辞書やら何やらでがんじがらめに縛り制限するのは、マネジャーに仕事をするなと言うに等しいくらいのことなのだ(現実のほとんどのマネジャーは縛られたふりをしているだけで、ちゃんと本質に基づいた判断をしているのだが)。およそ、自分の好き嫌いだけに評価が左右され、部下の能力を見ようとしない上司などは──そうめったにいるわけではないが──管理職の資格を問われ、その度を越したら──もっと少なくなるが──管理職を降りてもらうだけのことなのだ。
     
    話を等級決定基準に戻すと、もしも客観的な基準があるとしたら、どの等級にどういう社員がいるかと言う、その会社なりの相場観、序列によるしかないのだ。管理職になるような人だったら、社員全員を知らなくていいが、部下はもちろん、自分が仕事で関係した人物くらいは誰が何等級なのか、その適否はどうなのかといつも自分の頭の中に置いておくことが求められるのである。公平を期すならば、関係したマネジャーどうし、そうした情報と判断を持ち寄り、納得がゆくまで話し合うことしかない。そうした話し合いを、自律的かつ冷静、理性的に、なお情熱をもって行えたら、本当に自立したマネジャーと言うことになる。会社が労をかけるべきは、書類づくりでなくてそうしたマネジャーの育成である。
     
    そう言うちょっとした努力を管理職に求めないで、その自由裁量を奪い、不必要に膨大で精密な書類を持ち出して科学的な絶対評価を積み上げようとするなど、どだい無理だし無益である。上司は、人の運命を決める仕事をしているのだ。その重い責任を、分厚い書類に転嫁させることは決してできないのである。
     
    「あなたの言っていることはつまり全く相対評価ですね」と問われたら、「そうです」と言うしかない。私は、昇給賞与等の日常通例の人事考課は、最初に絶対考課の基礎を置くべきだと思っている。しかし資格等級となったらより全人的力量が問われるのだから、人と人を較べる以外に方法はない。だから少し長いが、「会社全体の相場観による絶対評価」と言っている。
     
    実は上述役員会の前に、プロジェクト内で審議したとき、いちばんベテランのメンバーが、こう助言していた。「この基準書はあくまで定義なのだから、どれだけ当社の人材に関する理念が述べられているかを役員に見てもらえばいいのであり、これで等級決定の評価をするのだと受け取られないように(役員会で)説明しないといけないよ。」
     
    至言というしかない。が、ご懸念の通りになった。実際の役員会では、この意図がうまく浸透、説明できなかった。
     
    「あなたの言う通りなら、等級の定義すらいらないではないか、結果としての能力評価の序列だけがあればよいではないか。」と言われるかも知れない。少々極論すればその通りである。だから最初に言ったように、「簡潔に、かつ良い意味で抽象的に表現すればいい」といつも言っているのである。簡潔はともかく、抽象的と言うのはいぶかしがった方もいらっしゃるかも知れない。
     
    一般的に、日本語の語感としてなぜか「具体的」はよいことで、「抽象的」は悪いこととされる。本来対等概念のはずである。だから「普遍的」と言い直すべきなのだろう。普遍的なら、解釈は、状況を超えて、時代を超えて、柔軟に行えると言うのが何よりの利点である。具体的であればあるほど、すぐに古びてしまい、状況に合わなくなる。だからと言って、そのような細かい定義が、ある一瞬ですら決して経験を積んで成熟した人間の総合的判断に代わりうる機械的な評価尺度にはなりえないし、そのようなものを求めるべきでないことを以上に述べた。一度でもその徒労を経験すればすぐわかる。できるだけそのような徒労を味わって欲しくないから、著書やこうした場で私は述べている。
     
    社員全員が仮に1等級から10等級まで並んでいるとする。なるほど上の方々は公平に人を見ているものだと、大方の社員が納得しているかどうか。職能基準書の細部の表現よりも何よりも、社員が見ているのはそこなのだ。それを私たちは忘れてはならないと思う。

  • 実戦問答No.10:評価における精密さと公正さの関係~やってみて意味ありましたか~

    (2011.4.24)

    ある時、久しぶりに人事制度の改善に手を着けようと言うある会社から、再度呼ばれて相談した。そこには、人事担当役員の他、旧知の人事部長と、その後昇進してきたマネジャーなどがいた。多くの論点があったが、やがて管理職等の業績評価の公平性をどう担保するかと言う話題になった。成果主義導入前後で論じ尽くされたはずのこのテーマが、どうして今さら論じられるのだろうか。そこには、人事制度、人材マネジメントを考える本質が含まれているからである。
     
    その何年か前の時には、業績評価のための目標管理をやりたいと言うお話だった。私は、「評価自体はなるべく簡素なシステム、運用とした方がよいですよ、但し評価の当否の話し合いは必要なら徹底的に行ってください。」といつもの持論を助言申し上げた。その折り、「しかしこのくらいはプログラムして置きたい」と言う事で、私の少し渋い顔を尻目に、会社側として、設定目標の各ウエイト(百分の何パーセントか)と、各目標の難易度を3段階設定して、掛け算と足し算をして、その結果を「尊重」して評価するしくみとした。
     
    「尊重」と言ったのは「機械的」でないと言う意味で、この柔軟さがそれでもずいぶん、後の運用を助けた。 今回の改善は、どちらかと言えば、管理職、一般職の活性化そのものが主眼で、ようやく本意と言うべき領域に移ってきたと言ってもよい。人も組織も、学ぶには時間がかかるものだ。が、こうした経緯を知らないその新しいマネジャーがここで意見を述べた。
     
    「もう少し精密な評価基準にしないと、いつまでたっても公平と言うことにならないのではないでしょうか。」
     
    その座にいた他の人は、経緯を皆知っている。皆一瞬黙った。私はにやりとして、旧知の部長に語りかけた。
     
    「部長、ご質問ですよ、いかがですか。」
     
    「いや・・・・・それは・・・・・」
     
    答えにくそうである。私がかつて渋い顔をした時に、そのウェイトやら、難易度やらを導入した実務担当者であり、今はいない彼の上司がそれを推進していた。
     
    「どうですか。こういうのは?やってみて意味ありましたか。」
     
    こう言う質問は少しも湿りけを残さずからりと言うのが、コンサルタントのコツでもある。「よいお勉強になりましたね」と言ってもよい。
     
    「そうですね・・・・・」
     
    「・・・・・意味なかったでしょう。」
     
    「そうです。いや、意味なかった・・・・・」
     
    言葉には深い実感がこもる。
     
    「わかりましたか。」
     
    マネジャーの方を見て私はまたにこりとした。
     
    「はあ・・・・・」
     
    論より証拠と言うが、どんな時にも経験にまさるものはない。誰も痛い目にあっていなければ、机上論が通ってしまう。不幸な事に、成果主義の初期にはそうした失敗例が山と積まれた。この場は、彼以外の全員が、無益な書類上の記入や計算を長々させられたと言う「痛い目」にあっている。論じ合う必要もない。指折って数えたが、7年間それを行った。
     
    ここでは、問答やその情景を伝えるのが目的だからあまり理屈の説明はしない(そうでないと長くなり過ぎてしまう)。この問題の当否に更にご関心のある読者は、恐縮だが拙著「ポスト成果主義の人づくり組織づくり」の関連箇所をご覧頂きたい。ひとつだけ言うと、物事を行う前に、全ての状況変化を折り込んだ、事前のとても便利な機械的尺度などは、誰にもつくることはできず、それをつくろうとするなどは全くの徒労だと言う事である。 では私たちには何ができるのか。まだ少し会話が続く。
     
    「だから逆に、『難易度などのそれらはもう皆廃止して、業績評価は、目標設定に書いていない事も含め、一切合切の事実が確定してから事後的に総合判断してきちんと行う』と改めたら、どうですか。」 

    「そうですね。」
     
    「毎度同じ事を申し上げますが、部下の評価の適正さを担保するものは、上司の人間力、能力以外ないのですよ。」
     
    人事担当役員がここで深くうなづいて言った。
     
    「そう、制度はそれなりにつくりこまれているのだから、これからは本当にそこに力を入れないと。」

    部長が言葉を継いだ。
     
    「実は、組合員の評価についても、組合幹部からもそこを相当言われています。いくら評価表が立派でもそれを運用する管理職をしっかり訓練してくれないと、仏つくって魂入れずだと。これからもその辺をよくアドバイスお願いします。」
     
    何も管理職の業績評価だけでなく、一般社員の評価も理屈は全く同じである。
     
    最初に問題提起したマネジャーは、表情を見るとまだ完全に理解できてはいない。当然だろう。7年経験を積んで体でわかっているのと、今言葉で数分で説明されたのとで、すぐに同じになるはずがない。ただし、時間は有限なので、すべてを体験する事はできないから、他人の体験に学ぶ事は、何の分野でも最も大切である。いちばん若い彼がこの時の情景を忘れない限り、この会社の人事制度運営は、一応大丈夫だろう。
     
    人事制度の立案、設計も、他の専門分野と同じく、いちばん大事なものは経験であり、次は歴史に証明された客観的結果である。ところがなぜかこの分野だけは、そう言う事をさして踏まえず、頭の中だけ、机の上だけで考えたその時々の思いつきを言っても良いと思われている、誠に不思議な領域でもある。今後人事制度の改善をなさる企業は、自分の組織を人体実験の対象にするような結果に陥らないよう、どうか気をつけて欲しいと思う。薬の研究開発の情報ほどには精密膨大でなくとも、こうした治験の結果はそれなりに把握する事ができるのだから。

  • 実戦問答No.9:昇格はフレキシブルになりましたか~人事評価制度運用の質的メルクマール~

    成果主義と言う言葉が使われ出して、15年以上たった。成果主義が良いか悪いかと言う大上段の議論はさて置き、この十数年で何らかの人事制度改革を実施した企業はとても多い事だろう。そうした企業の方々が集まったセミナーなどでよく私が受講者に質問する点が、「昇格、場合により降格は、以前よりフレキシブルになりましたか」である。もっとはっきり言うときもある。「年功主義の頃より、力のある人は早く昇格していますか。」 
    これは今のところ、とてもよいメルクマール(目印)だと思っている。

    問いかけの背景
    まず質問の意図から先に述べよう。俗に言う年功主義にはもちろん良い面も悪い面もあったのだが、現象としていちばんよくない事は以下だろう。まず①力を発揮している人材に、厳重な滞留年数その他の昇格要件をそのまま適用して、力がついてきても、重い任務、責任を与えないこと、②裏を返せばあまり力を発揮していなくても、年令通り昇格して処遇されている人が大勢いることであった。もうひとつが、③評価要素とフィードバックがあいまいだから、結局は上司の好き嫌いで評価が決まりがちなことであった。


    ③は、つまりは上司自身の能力人格の問題だから、成果を共通一次入試のように機械的に測らない限りは、成果主義でも何主義でも本質は同じである。よって①②に吸収されそうである。公正さを幾ら叫び、どれだけ精密壮麗な考課表を設計しても、結局評価と言うことは、管理職の人材と訓練によるのだと言うことは、机上論ではなく、私は20年この仕事をしてきて骨身に染みているつもりである。部下に重要な課題を与え、あるいは部下の意欲能力を引き出し使いこなす、強い人材活用の姿勢が、上司の側にほぼ平均していなければ、評価の公平も納得も何もないのだ(だからこそ、たえまないマネジメント教育、考課者訓練などが重要と信じているのだが・・・)。

    残った①②も、長期的には表裏一体である。ただ、②の方が、ふつう手を着けにくい。だから変化を見るには①となる。そこで、冒頭の質問になるわけだ。
     
    もちろん私は、現実の厳しさを知らないこざかしい才子がどんどん昇格すればいいなどと思っているわけではない。しかし、われわれ中高年戦士が思っている以上に、ふつうの人の1年を、2年分、3年分経験を積んでいる人も、時にはいるのである。人の2年分としたら、10年で20年分である。だからそういう人がもしいたら、32才で課長にしたっていいではないか。
     
    それと、もうひとつは、いわゆる若手でなくても熟成タイプで、後半戦から力を発揮する人だって少なくない。そういう人を、もう「バスに乗り遅れ組」だとして放置していないだろうか。だから私は「若手抜擢、登用」とはやたらと言わないようにしている(部下にも時々注意する)。伊能忠敬が、人生の最終の自己実現たる日本地図作成に乗り出したのは、60才を過ぎてからではないか。今の感覚なら80才以上だろう。
     
    こうした感覚で昇格を行えば、少なくとも昇格の確率は、これまで社員1000人で30人だったら、たとえば40人、50人と増えるはずである。降格も、復活戦大いにありの前提で、今までよりは増えてもよいのだが・・・・・。 

    人件費管理と人材マネジメントの混同
    さてセミナーなどで、そうご質問すると、どうもはっきしない反応なのである。つまりあまりそうはなっていないと言うことだ。
     
    どうしてだろうか。いろいろな理由があるにしても、結局突き詰めれば人件費管理と、人材マネジメントが混同されている。と言うより、前者が優先されているからだと言うしかないようだ。
     
    年功主義の悪い面を払拭するためには、理屈だけで考えるときは、誰でも「良い人材を早く見つけ、登用しよう」と言う考えに賛同する。ところが、実行となると、それとは別次元な点である、「年数だけで等級を上げてはいけない」と言う意識の方がたいていの会社で強くなる。そこで、滞留年数は別としても、昇格要件、審査などの厳格化が図られる。そちらに力点を置くなら、「それでは、これまで年数だけで上がった人は下げるのか、放っておくのか」を根本的に思案しないといけなかった。そうでないと年功主義の打破と言うより、むしろ評価管理強化、既得権益の尊重と言う印象になってしまうからである。
     
    同じ会社である限り、ある年次から突然人材が変わると言うことは考えにくいから、内容が何であれ審査や試験を難しくすれば、合格者はふつう減るだろう。それを補うためには、昇格試験の上司推薦に依らない自由応募制などを併せて措置するとよいのかも知れない。が、なかなかそこまではと言う場合も多い。ならば、あくまで試験を厳しくしたのは意識改革のためにとどめ、合否は、実質旧基準にて決めればよさそうなものだ。従来の平均点が60点で、80点以上を合格としていたなら、今度の平均点は50点なので、70点以上を合格にすると言ったように、である。ここで、不思議と出てくるのが「人件費を抑えないといけない。だから・・・・・」と言うご印籠である。およそ会社勤めをしている人で、この言葉を出されたら、誰も反論はできない。
     
    そうなら、人事制度改革、能力主義採用とは言わずに、はじめから人件費の節約が目的ですと言えばよかったのだ。時にそうした厳しい要件をかいくぐって、出る杭になって進み出てくる候補者も、最後には「まだもう少し様子を見た方がいいんじゃないの、業績もかんばしくないし」となりがちだ。だから、われはと思わん人は「出過ぎる杭になれ、そうすれば誰も打つ事はできない」と喝破したのは、堀場製作所 堀場雅夫氏である。それはわかるがちょっと現実的には・・・・・と言うところだ。
     
    もっともここで初めて、自問自答する当事者もいる。「さて、私たちは何のために何をやろうとしていたのか」と。人件費管理と、人材マネジメントはもちろん不可分なものであり、どちらかが一方的に優先すると言うものでもないだろう。が、どちらかと言えば、人材マネジメントつまり人材の活性化こそは、経営、組織運営の本質であって、そのためにぎりぎりどれだけコストをかけられるか、と言うのが健全な思考の順序だと思う。もちろん各組織の考えで進めればよいことだが、おカネが大事なら経営理念に明確に「当社は利益が何より第一だ」と書いておいてもらった方がわかりやすい。これはこれで、心にもないビジョンを語るよりは大いに健全だ。 

    「何のこっちゃい」・・・損得だけをいうなら
    もっと細かな事を言うと、多くの会社で、昇給予算の中に、昇格昇給の分も合算統合しているのではないか。当然昇格時は、昇給幅が大きくなる。するとどうなるか。昇格する人が多くなると、他の社員全般の昇給予算が食われてしまう。だからもし所定の要件に達した人が多くとも、「やたらと昇格させるわけにはゆかないのですよ・・・・・。」
     
    「何のこっちゃい」とはこういう場面のための関西弁ではないだろうか。帳尻とは合わせるためのものではなく、経営の状態を知るためのものであり、取るべき措置の唯一が帳尻合わせではないとは思う。
     
    これをもう少し具体的に前後関係に照らすとどうなるか。まず少しくらい昇格する人が増えたからと言って経営が傾くとは思えないことだ。それに厳格化した試験をパスしているのだから、その分会社の収益力に貢献しているはずである。まあそう機械的ゆかないのはわかっている。それにしても、能力が伸びたと言う事を公に認め、励みにも動機にもしてもらうための人事制度ではないだろうか。
     
    第一、損得だけを言うなら、もう少し正確に見たい。たいていの会社が、同一等級への長期滞留者への昇給抑制(場合により減給)は、随分と図ったのではないか。その措置により、未来永劫にわたり、会社がどれだけ得をしたかを考えてみて欲しい。どうしても数字が好きな人なら、それほど難しくないシミュレーションで計算できる。そのおおきな利得に比して、少しくらい昇格者を増やすことなど、それと較べたらまず物の数ではない。


    降格の意味を考える
    ここで併せて考えておかねばならない問題は、昇格後の能力、パフォーマンスの停滞が起こることである。人は誰しも安住の場を求めたいからだ。なるべくそうならないような予防措置は大切である。それにはいろいろある。降格は、そのひとつの重要手段である。ここまで降格の事はあまり言わなかったが、降格は、むしろ組織の活力維持のために重要なのである。要するに、あんまりぼんやりすると降格があると言う緊張感が大切なのだ。それと降格=脱落者と言うレッテルを張らないで、敗者復活戦の機会を与え、もう一回出直してみてよと言う健全なメッセージを伝えるのである。そこで、響きが悪いので、等級替えとか洗い替えとかいろんな表現がされるようになった。
     
    ふつう、降格はかわいそうだと言う。確かにその時点だけ取ればそうだ。しかしもっとかわいそうな、忘れてはいけない面が2つある。第一に、かわいそうだと言って放置して、ある日経営状態が悪くなると、まっさきにリストラの対象になるのは、そうした方々である。寝耳に水であろう。そうなったらもっとかわいそうだ。降格は、むしろ雇用の維持のためだと言われるのはこのゆえんである。
     
    もうひとつは、例によって人件費の配分論だが、そうして活力をなくした方が、上位等級にいすわれば、その分だけ勢いを持って伸びてきた方々の昇格の割り当てが減る。伸び盛りなのに、ペイも責任も向上しないのは誠につらいことだ。こっちをかわいそうだと言う声があまり聞こえて来ないのはどうしてなのだろうか。こうしたことを続けていると、前途有為な人ほど離職してしまうと言う最悪の循環を招きかねない。  さて、いろいろ述べたが、以上の論旨と似たようなことは、拙著「ポスト成果主義の人づくり、組織づくり」に書いてある。ある時、招かれたある会社の人事担当役員に「(こうしたくだりを)読んだら目からうろこがおりました」と仰って頂いた。「私たちが考えるのは、経費管理でなくて、どう社員に活き活きと働いてもらうかなのですよね。」
     
    普段は話の長い私も「いやそうなのですよ・・・・・」と少し照れながら短く奉答させて頂いた。

  • 月刊人事マネジメント連載記事その1:アクションラーニングに対する誤解をひもとく

    〜連載:横山太郎が語る現場のアクションラーニング〜

    第1回 アクションラーニングに対する誤解をひもとく

    最近アクションラーニングの導入のご相談と同じくらい、試してみたがうまくゆかないと言うご相談が増えてきた。お聞きしてみると本当に残念な経緯になっている場合が多い。何が残念かと言うと、人材育成の上で、適切に運用すれば、アクションラーニングほど速効性のある方法もないのであるが、その機会を大きく逸してしまっているからである。

    混乱する理由は大きく言えば主に2つである。目的が不適切である事と、ファシリテート人材の不足、欠如である。

    目的が不適切である場合

    この場合話を複雑しているのは、コンサルタント達が、様々な目的を色とりどりに訴求する事である。例えば組織風土改革だとか、望ましい企業文化、学習する組織の形成のためにアクションラーニングが良いなどと唱導するものだから(さらに困った事にはほとんど、語る夫子ご自身にそれを遂行したご経験がない)、それはよい、と言う事で安易に取り組んでしまう。少しだけ冷静に考えればわかりそうなものだ。1度や2度、社員がアクションラーニングセッションを体験したからと言って、数十年積み重なってきた組織風土が変わるものだろうか。話し方教室や会議の作法を習うような講座に1,2度出ると、学習する組織ができあがるのだろうか。

    アクションラーニングが、最終的に組織風土改革につながることはあり得るとして、それは大企業だったら途方もない根気のいる仕事である。多くの精鋭人材が、何年間もかけてコミットメントしなければならないだろう。それを貫くにはよほどの覚悟と、トップ自身のコミットメントが要るだろう。中堅企業なら、キーパーソンが限られるから、物理的ハードルは下がるが、それでもその方々が、1年や2年、仕事の合間にアクションラーニングにどっぷりと浸ってもらう必要がある。

    こうした次元をいきなり目指せるならよい。が、難しい場合も多いだろう。

    アクションラーニングは、まず何より、参加者個々人の意識改革、行動変容のために行われることが実戦的である。この点は他の人材開発手法と同じである。そこは同じだが、正しく用いれば効験がとても速く現れることが何より違うのである。どうしてそうなるのか。それはあまりにも平明な理由だが、一切奇をてらわず真正面からそうなるように取り組んでいるからである。この手法の創始者英国人レグ・レバンスのテキストを読めば、それがよくわかる。言い換えれば、まっとうにまっすぐ行えば良い事柄を、商業主義に基づく奇をてらった手法があまりにも多過ぎるのだ。彼ほど、現実世界のマネジャーの成長に心をくだいた先人はいない。訳のわからないカタカナ文字を並べて叫び、から騒ぎをして時間をむだにするよりも、人材と経営資源を預かる個々のマネジャー達が日常の実践レベルの行動を変えてくれたらどれだけ値打ちがあるだろうか。

    レバンスは、受講者自身の固有の困難な問題解決を仲間や同僚と共有する事を通して人材育成を進めると言う、まっとうであるがきわめて卓抜した方法論を構築した。人は困難な問題解決を通してしか成長できない。が、そこをうまくくぐり抜けるには、仲間の真の共有と温かい支援が必須だからだ。その結果深いふり返りが生じ、本人のリーダーやマネジャーとしての境域が進むのである。レバンスはこうした苦境における心情の共有こそが問題解決の本質的エネルギーだと見ていた。彼の著書には、「コムレードシップ イン アドバーシティ」と言う言葉がしばしば出てくる。直訳すれば「危機における友情」である。そして、現実を知らずかつ仲間と苦楽など共にしたこともない行動科学者などの専門主義者には、こうした心境やプロセスは決してわからないし、現実世界のマネジャーに教条を垂れる資格などないのだと論じたのだった。

    私たちはまずこの純正な方法に倣い、その大きな成果を自分の目で確認した上で、さらなる応用を図れば良かったのである。

    しかし、レバンスとて、上記のような共有と深いふり返りの場づくりを、仕事のついでに行いなさいとは言わなかった。当然別な場で行う必要がある。恐らく最悪の取り違えは───これは目的が適切であるかどうかと別次元で、方法論としての完全な誤りであるが───、風土改革、リーダシップ改革と称して、このアクションラーニングをいきなり正規公式の会議に適用しようとすることだろう。これは決してうまくゆかない。これは次回の稿で詳しく述べたい。

    問題解決だけに焦点が当たる場合

    組織風土改革はともかく、大変効果的な問題解決手法だと唱えられていることも誤解を招く。これも目的が不適切な場合である。私もアクションラーニングが結果として、根深い難問に切り込む成果を挙げることが多い事はわかる。ひとたび問題が提示されたら、その解決を粘り強く追及しないようでは、成長も何もない。それはその通りだ。が、問題解決だけを強調すると、問題がばさばさと解決されればそれでよいと言う事になり、それを遂行した主体である人間が成長したかどうかは、極端に言えばどうでもよくなってしまう。

    なぜかはわからないがともかく問題は解決した、が、そこに残った人は成長していない、と言うことがあったとしよう。これほどむなしいことがあるだろうか。アクションラーニングの最後の焦点はどこまでいっても人間である。そうでないものはアクションラーニングとは言わない。

    もっとひどくなるとどうなるか。へたな考えは休むに似たりとばかりに、社員に一律的な正解と標準手法を、無理やり押しつける。いっときの間は成果が上がったように見える時がある。が、やがて元に戻る。人が成長していないから全く応用が効かないからである。これは徒労である。最悪の状況は大切な社員達が書類上の報告のごまかしのテクニックにたけて来ることだ。こうした状況は「人間をいやしめ、おとしめるものだ」と既に10年前にドラッガーが、「ポスト資本主義社会」で難じている。

    確かにだらだら時を過ごすのは時間のむだだが、人は自分の問題を自分で深く考え抜いて解決し克服しなければ絶対に成長しないのである。そして手法などは、隷属する対象ではなく、人間が使いこなすものである。しかし、キャリアが浅い人はそのプロセスを進んで行く速度が遅い。上司もまわりの者もいらいらするのはわかる。しかしじっと待ってあげなければならない。「早くやれ」とわめいたところで相手の能力がすぐに成長するわけではないからだ。もちろん、緊急時もあるから、いつでもじっと待てと言っているわけではない。が、少なくとも正社員で雇った人には、そうした機会とプロセスが、時に与えられてもよいのではないか。

    ともあれ、見せ掛けの効率一辺倒の問題解決と、アクションラーニングとは全く別次元の効用をもたらすものである。詳しくは恐縮ながら拙著「アクションラーニング実戦術」等をお読み頂きたいが、アクションラーニングセッションを終えた受講者達の本当に心の底から出てくるような声がここでは何よりの証拠である。

    「本当にすっきりしました」「迷いが晴れて挑戦する勇気が湧いてきました」「深く自分と向き合う事ができました」などなど。そのように心底から自分と向き合えた受講者は必ず速やかに行動する。ゆえに問題解決の大きな成果を得ることが多いと言う結果が現れるに過ぎない。結果が得られたのは、自分の方が変わったからだと言う事にこの場合の本質的意味がある。もし偶然得た成果なら、次は必ず手痛い失敗をするに決まっている。自分自身のありようと向き合わない限り問題は決して本質的な解決には至らないのだ。アクションラーニングは、そのプロセスを仲間と深く共有し、その支援の中で、より望ましい自分のスタンスをごく自然に形成してゆくのである。

    読者の皆様は、本当に困難な問題を、自分と向き合わずに、つまり深い決心やある程度のリスクテーキングを伴わずに、解決できた事があるだろうか。私たちは、通常そんな事をなるべくしたくないので避ける。どうしても避けられない時だけ迫られて仕方なく行う。無我夢中に現実と斬り結んで過ごし、はっと気がついた時には自分も少しは成長したか、などと実感する。

    効率の話ではないと言ったが、会社の人材の育成と言う観点からは、考えてみれば、これほど非効率な事はない。その間適切な支援がないために自信をなくし可能性を大きく狭めてしまう人、脱落してしまう人は、数えきれないほど多いだろう。アクションラーニングは、このプロセスを、より計画的、支援的に行うのである。

    ファシリテート人材の不足

    第二の主要原因は、このアクションラーニングをファシリテートすべき適切な人材の不足と言うより欠如である。会社の中で起きているなまなましい現実には触れた事もなければ考えた事もない、心理学や行動科学ならちょっとかじったと言うようなファシリテーター(講師、コーチ)に、あなたは自社の精鋭人材の何日もの時間を預けるだろうか。ファシリテーターすなわちアクションラーニングコーチは、よほど深く実施を依頼された組織の実態と人材にコミットメントしなければ、受講者の意識改革や行動変容は決して生じない。社内でコーチを養成するにしても、そのようなコミットメントは、通り一遍のセミナーを受け、何かのスキルの免許を講習会場で取るような事では決して涵養し得ない。

    現場に出て、当初は敵意を含んだマネジャー達の視線にさらされながらも、彼らにやがて認められ受け入れられ、打ち解け合い、共有感を醸成する。こうした経験を何十度も何百度も繰り返して初めて真のコーチ、ファシリテーターが誕生するのである。

    上記と正反対に、マネジメントの経験がない、組織に勤務してひとかどの範囲で責任を負った事がない、上司に仕えた事も部下を使った事もない人に、アクションラーニングコーチが勤まる可能性は極めて低い。現実にはそれに近いコーチが多い。アクションラーニングは、現象をぼんやり眺めている限りは、会議の司会とさして変わりないように見えるからだろう。時間管理と定型的なセリフを覚えれば誰でもできると思われてしまうのが大きな誤解の第二なのである。

    そうした証拠に、冒頭に述べたように、私が受けるご相談の中に「(アクションラーニングを)ちょっとやってみたけどうまくゆかなかった」と言うものが増えている事である。たいてい組織勤務やマネジメントの経験ない外部の「コーチ資格者」やどこかで授業料を払って免許を取ってきた社内コーチに委ねた場合である。生身のからだにメスを入れた事のない免許取り立ての研修医に、いきなり難手術の執刀をお願いするようなものだ。残念ながら1度しくじると2度目のハードルはひどく高いものになってしまう。

    真の目的と適切な運営を意識した時

    以上のような、入り口の誤解を解き放って、真の目的と適切な運営を意識した時に、アクションラーニングには、他の人材開発手法に比して無尽蔵の豊かな水脈の流れを見いだす事ができるだろう。

    あるきわめて切迫した問題を提示した受講者は、アクションラーニングを終えて言った。「重たいどろどろが、皆さん(他の受講者)のお蔭で、さらさらになりました。明日から少し開き直って行動したいと思います。」この受講者は、その問題を短時日のうちに解決したばかりか、周囲の人は言った。「どうもあの人は変わったようだ。前のあの人ではない。」

    どうしたらこうしたプロセスが描けるようになるのか、次回以降述べてゆきたい。

  • 早春の別離〜2011.4.09

     東北大震災の余震も止まない3月中旬、郷里で活躍していたひとりの幼なじみが、数カ月の闘病の末亡くなった。過去40年、親友であり続けた男が逝ってしまった。


     訃報を聞いた時、約束の仕事で西日本にいたため、ご葬儀に駆けつけることもできず、お母上にお電話にて非礼を謝して、数日後、ようやくご自宅にて霊前に向き合った。この家郷の街で、40年間、互いのホンネを語り、お酒をくみかわした男が今はいない。お母上とご妻女に問われるままに、40年間の交流を、2時間余お話申し上げた(お子さんはいない)。お二人が初めてお聞きになった話柄も少なくなかった。少年時代の本当に楽しい思い出、青春期の酸味の強い語らい、互いに家庭を持ってからは、ほろ苦いおとなどうしの相談の数々である。それにしても、彼の明るいお人柄を映してか、服喪の慎みを思わず忘れるような愉快痛快な出来事も数々あった。


     1年か2年に一度は、彼とそうしたことを夜更けまで語り尽くしたものだった。その翌朝は、いつも私を最寄り駅まで送って行くとご妻女に言いながら、やはり前夜来の話も尽きず、新幹線の止まる隣町まで車で送ってくれたのだった。途中、心配されたご内儀から、「道が混んでいるの?」と携帯電話がかかって来るのも常であった。「いやなに、いろいろ話の続きがあってね」。もうそれらを語る事もできない。互いの人生を、真に語れる友など、そう簡単に得られるものではない。


     ご内儀のご配慮にて、数カ月前からの闘病は私を含む親友達には知らせていなかった。そして年賀状は全くいつも同じ調子だった。私はその日、遺影の前で声に出して語りかけた。互いに子供の頃から交わした地元の方言である。「おめえ、さぞかし、つらかったんべなあ・・・・・。また来るからな。さびしがんなよ・・・・・・。そっち側から、お母さまと奥様をしっかり守ってくんなよ。頼むよ・・・・・」


     辞去する時、お母上が、「本当に、ご立派になって」とご落涙された。言葉もない。しばし黙したのち、「また参ります、どうかおすこやかにお過ごしください」と小声にて申し上げた。


     この日は、もはや隣町の新幹線の駅まで送ってくれる友はいない。とっぷりと日も暮れた。運転間引きの在来線の駅の構内は、節電して薄暗く人影もまばらでだ。同行したもうひとりの友人と、その寒々しい待合室で、50分ほどの待ち時間、お通夜の代わりに、冷たい缶ビールを飲んで、懐かしい3人共通の思春期を語った。


     早春は、どこかもの哀しい。

  • このたびの大震災に〜2011.3.14

    このたびの大震災に被災された方々に、心からお見舞い申し上げます。


    親しくさせて頂いた少なからぬクライアントの方々が被災し、


    操業に大きな支障を来しておられます。


    1日も早い復旧をお祈り申し上げます。


    また、私のような仕事において窓口となってくださる人事部や総務部の方々は、


    諸対応に追われて本当にお忙しい日々かと存じます。


    どうかくれぐれもご自愛くださいませ。