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  • 実戦問答No.8:おまえ、そりゃ、ずるいよ

    ~リーダーシップに一夜漬けは効くのか~

    管理職向けの人材アセスメント研修の面接演習の相互フィードバックにて面白い会話を耳にした。

    一方の山田さん(仮称)は、この会社の最若手マネジャーであり、将来の期待もかかる。他方はずっとベテラン管理職の大村さん(仮称)で、経験ははるかに山田さんを凌駕する。この日の面接演習は、「実戦問答4」と同様、力はあるが協調行動にやや難のある部下を説得するケースである。部下役を私達が行い、全員が10分間の面接を行う。それをあとでビデオで確認し、所定の組み合わせになって、「さあ相互フィードバックを始めてください」と言う場面である。

    この若手マネジャー山田さんは、日頃は自らを頼み、自信と自負に富んだ言動、言い換えれば部下にはぐいぐいと仕事を命令する言動が多いと見られていたのだろう。ところが、ビデオを見ると、じっくりと部下の言い分を傾聴して感情移入し、どう見てもそのビデオ1巻に納まった何人かの中では、いちばん若い彼がいちばんじょうずであった。

    相互フィードバックの相方になった大村さんは、ちょっと勝手が違ってしまった。「若造、良い機会だからいろいろ指導してやろう」と思っていたかも知れないのだ。逆に、大村さんは、いちばんキャリアもある方だから、かえって気負って臨んだのか、このビデオでは少しいつもの調子が出せなかったと感じている。つまりこの10分の面接に限れば、山田さんのほうがじょうずだった。

    しかし、大村さんは、それを素直に受け入れる態度を持っていた。

    「君のやり方には感心させられたよ。」

    「ありがとうございます。」

    「君がいちばん部下の言い分をていねいに聞き取っていたね。(ビデオを見た)みんな、びっくりしたかもしれない。」

    「ええ、まず、相手にいろいろなものを全部言わせてはきださせないと話は進まないと思いましたので。」

    カタルシス効果を産み出す傾聴の原理を表現するお手本のような態度だった。

    「私は部下に何か言われるたびに、否定的な態度を取ってしまっていたことがビデオを見てよくわかった。」
     これは大村さんの反省の弁。

    「・・・・・」

    「それにしても、おまえ、ふだんとぜんぜん違うじゃないか。驚いたよ。」

    「いえいえ、大村さん、私は、日頃からそうしていますよ。」

    「うそつけ、おまえの日頃の態度からは考えられない。」

    こう文字にするときつい表現だが、感心、悔しさ、揶揄が入りまじりながらもポジティブであっけらかんとした雰囲気である。逆に言えば、研修のひとつのねらいは、こうした前向きなからりとした空気をつくり出すことでもある。

    「管理職どうしの会議では、おっしゃる通りかも知れません。しかし、部下に対しては、私はそうではありません。」

    「ほう・・・・・」

    「私は、中国など海外勤務もあったせいで、日本人どうしのように、以心伝心が通用しない世界では、まずひたすら聞くしかないのです。それをしないと絶対に問題が解決しないと知ったのです。」

    「・・・・・」

    「それはずいぶん苦労させられましたよ。」

    「ふむ・・・・・」

    弁が立つだけの生意気な小僧と思ってきたが、いつそんなことを学んだのか、と大村さんの顔に書いてある。

    「おまえ、きっと、前回の人たちに様子を聞いてきたのだな。」

    この会社では、この研修は、何度か行っている。前回の人たちとは、その以前の受講者のことである。

    「ええ、多少なりとは。」

    「おまえ、そりゃ、ずるいよ。」

    最後は笑いながら大村さんは言った。今度は脱帽と悔しまぎれが半々と言うところか。「若造、本当の実戦場面ではまだ負けないぞ」とも言っているような態度でもある。山田さんには、一層の自信を着けるよい契機となったことだろう。
     
    さて読者はこのやり取りをどう思われたたろうか。

    かんじんな点は、指導力、説得力などのリーダーシップに一夜漬けがきくかと言う点だ。

    結論を先に言おう。絶対にきかない。

     
    もし、事前に様子を確認し、もしも面接演習の課題を事前に読んでいたとしても、部下へのリーダーシップは急に向上しないし、こうした面接がふだんと見違えてじょうずにできると言うことも起こり得ない。逆に中途半端にそのような予習をして誤った先入観を持つと、かえって調子が狂ってしまい普段の力を発揮できなくなるケースが多い。たった10分間だけでも、別人格を演じることなど、私たちには決してできないのだ。だから受講する本人のためにも、あまり先入観を持たずにおいでくださるよう、クライアント企業にはいつもお願いしている。事前の小細工を弄せず研修に臨んだ大村さんの方が、その点では自然体なのだ。

    では山田さんはなぜじょうずにできたのか。それが彼の実力だからである。そして、そうなるために、どれだけ日常鍛練してきたかが、彼の言葉からもうかがい知れる(もっとも会話の流れで、海外うんぬんとなったが、何も相手が外人でないとこの修練ができないと言うことはない)。そして事前の情報を聞いたにも関わらず、少しも先入観とせず、あくまで参考とし、演習における言動は一切自分の意思で決めている。こうしてできあがってきた態度は、本物であり、実力と言うしかない。たった10分間の面接にそれがきれいにあらわれるのである。

    だから山田さんの思いはこうだろう。

    「事前に様子を聞いていても聞かなくても、私が面接で取る態度は全く変わりはなかったでしょう。」

    もちろん、先輩管理職にそうまで胸をそらした物言いをする必要はない。講師である私にでも問うれたら、の話である。が、それは、私にも無用な事であった。

    なぜなら、相方の大村さんもまた、これが彼の実力であることを認めた態度を取っていたからである。「ずるい」うんぬんは、健全な負け惜しみをからりと表現したオトナどうしの会話に過ぎない。横で見ていた私にはそれがすぐわかったからだ。経験を積んだマネジャーどうしなら、相手の力が本物か、付け焼き刃かはすぐわかるものである。相手の力を認め、それに倣う。これほどすがすがしい光景はない。どうでもいいようなミクロな成果主義の尺度の測り方を論じ合うような光景に比した時の、こうした場面の生産性の高さを考えてみて欲しい。

    このすがすがしさは、当事者によい印象を長く残す。研修とは、こうした光景をつくり出すために行うものなのだろう。

  • 実戦問答No.7:アセスメントは評価のためか何のためか

    ~行動アセスメントによる自分への深い動機づけ〜

    同業者の集まりなどで時々質問されることがある。実は私はこうした会合が好きでないので、なるべく行かないようにしているが、しかたなく参加した時のことである。

    「あなたの行っている人材アセスメントですが、人を評価するだけでよいのでしょうか。」

    こう言う質問をされると、正直言って少しうんざりするのだが、「同業者」ではなく、私を支持してくれるお客様やクライアントの温かいお顔を思い出して、気を取り直し答える。

    確かにアセスメントは、その成り立ちが、欧米の組織における、人材の評価選抜であったことは疑いない。だから「ヒューマン・アセスメント」と言った。しかし今日は、「自己行動アセスメント」とも称すべき内容となっている。少なくとも私の場合、主として意識改革、行動変容を主眼とした実戦的研修としている。それは、昇進昇格試験の一助として用いられる場合ですらそうである。この実戦問答のNo1、No4、No6などで述べた情景を、読まれた方は思い出して欲しい。これらのうちには昇進試験研修における情景も含まれている。

    「自己行動アセスメント」は、体験学習として、行動変容に向けてのインパクトが相当強いものとなる。なぜなら、アセスメントは、演習の状況設定をいつもある種の「極限状況」にしているからである。

    極限状況とは、何も断崖をよじ登れとか、孤島で自炊せよとか言うわけではない。つまりは仕事上の物事の節目、自分とチーム、組織の運命や利害の大きな分かれ目のことである。読者は自分の会社や職場を思い出して欲しい。必ず節目の時と言うものがあるはずだ。逆に極限状況の反対は「どうでもよい時」である。たとえば野球などのスポーツで言えば、大差がつくなどした「勝敗と関係ない場面」である。組織にあって、もどうでもよい時にいくら活躍したり立派な事を言ったとしても、そういう人が他者に影響を及ぼすことはあまりない。言い換えれば、私たちはそう言う人物をあまり尊敬しない。

    人の真の姿は、この意味で、極限状況を設定しないと現れない。自分の真の姿が確認できなければ、評価はもちろんできないが、啓発として行動変容のためにふり返る内容も何も残らない。

    アセスメントがどう役に立つかと言う前に、広く一般に、教育研修の善し悪しは、実はほとんどここで決まる。どうでもいいことを1日、2日論じ合って成果があると思う人はいないだろう。そういう研修が、コミュニケーションになってよかったと言うのは、20年か30年前の話だ。私の場合は、依頼された研修が何であれ、与えられた条件の中で、どのようにそうした深い振り返りが起こせるかどうかだけをいつも考えている。スカンジナビ航空を建て直したヤン・カールソン氏にあやかれば、それが私にとっての「真実の瞬間」である。このアセスメントと言う研修は、もともとの設計上、「真実の瞬間」ばかりになるようにできているわけだ。

    人は、現実の場面で、自分の運命に大きく影響しうる関係者が、そうした時にどんな行動を取ったかは、一生忘れないだろう。ましてその人が、自分の生殺与奪を事実上握っている上司ならなおさらだ。アセスメントは、そうした節目に人がどのような行動を取るかを映し出す手法だから、確かに人材の「評価」と言う意味では、大きな威力を発揮する。ただしそれは、あくまで入り口である。

    大切なことは評価というよりも、そうした場面を色々な形で自らが深くふり返ることができるようにしていることである。機縁が熟した人がこの手法に出会うと、そこで感じたことは、深く印象にとどめられ一生忘れない。この実戦問答No1で述べた通りである。つまり、「評価」だけでなくて、「動機づけ」において、一般的な手法よりも非常に強い効果、インパクトがあるのだ。

    こんな例もあった。ある会社の社長は、自分が30年近くも前に受けたアセスメントが効果的であったことを忘れられず、社員に経験させたいとずっと思っていた。ある時拙著「ポスト成果主義の人づくり組織づくり」をお読み頂き、「我が意を得たり」と言うことで私に相談にお見えになった。30年間印象を保っているのである。しかもポジティブな印象を。

    そこでまた問われるだろう。

    「そんなに強い印象が残るなら、評価などしないで、動機づけだけをすればよいではないか。」と。

    私の「同業者」でなくて、実務の責任にどっぷり漬かっている読者なら、こんな質問はまずしないものだ。自分で自分のことが正確につかまえられていないのに、何に向けて動機づけると言うのだろうか。そして、私も含め、ほとんどの人にとっていちばん見たくないもの、受け入れたくないものは、自分の姿の真のありようであり、弱点が現れた「真実の瞬間」なのである。こうした事を常時正確に、他人を見るように客観的に捉えきっている人にはめったにお目にかかれない。アセスメントの手法の力を借りて、そうしたものを受け入れた素地をしっかり固めて、初めてこれは改善しないといけないと言う深い動機につながるのだ。だからその後、5年も10年も忘れない。

    日常の利害がかかった場面にあって、そうしたことを都度受け入れながら、一方で仕事も進めることができれば研修などしなくてもよい。しかしそれは至難と言うものだろう(そう言う状態は真の自律と言ってよい)。だから日常から離れた研修としてのアセスメントが発展し、それを正しく用いる組織には、今日でも一層有効なのである。


    仕事はできるのに、部下を育てるのがじょうずでないと言うマネジャーが、どこの会社にもおられると思う。この場合は例外なく、部下の動機の方向、気質、性格、能力、生活環境その他現に置かれた状況などを正確につかんでいない。つまり「評価」ができていないのだ。

    たぶん、私への最初の質問者は、アセスメントの評価を「人事考課」と思い込んでいるのだろう。狭い意味で人事考課と言えば、単なる最終結果だから、誰でもそんなに大きく間違えはしない。ただ、評価される相手の、以上のような本質やプロセスを正確につかんでいるかと言うと、育成のじょうずな人とそうでない人とに、とたんに大きな開きが出る。アセスメントの評価というのは、こうした意味合いであり、さらにそれが自分に向けられるものなのだ。一般に言う人事考課の意味とは大きく異なる。
     
    もちろん、アセスメントは、昇進試験の一助として用いられる場合もある。その時は、当初は通常の研修とは異なる緊張感に会場が包まれることは否めない。しかし、他人様のことはわからないが、私が関与して行なう場面では、やがて

    「普段通りの自分を出せばよいのだ。と言うより、そうしかやりようがない。その点だけ悔いを残さないようにやろう。」

    と言う明るく開き直った雰囲気になって来る。ある会社で、試験の位置づけのアセスメント研修につきっきりになっていた人事マネジャーに、終了直後に言われた。

    「アセスメント(試験)なのに受講者が、講師に自発的に拍手するというのは・・・・・」

    どうしてそう言うことが起きるのだろうか、と、最後は言葉を呑み込んだ。が、そのうれしそうな表情が

    「うちの会社の受講者達は、この研修の真意をわかってくれたのだ。」
    と語っていた。

    人の意識や行動が急に変えられるわけがない。では何のために研修するのかと言えば、まずありのままの自分に気づき、そのあと半年、1年とかけて強みを伸ばし、弱みを補うための重要な契機をつかむ場なのである。それを研修の時だけ急きょとりつくろおうとすると必ず失敗し、悔いを残す。私はそれをよく知っているから、この実戦問答No5にも書いたが、「どうか受講者がふだんの力を悔いなく出し切って欲しい」と祈るわけである。私は、そうした気持ちが途中から受講者の方々に伝わって行くことが実感できる。

    ここでひとつだけ人事制度の技術的な事を言うと、昇進候補者が百人も二百人もいると言うような場合はやむを得ないが、それほどの人数でもない時には、日常の実績、人事考課、他の面接試験等の各要素と、このアセスメントの「配点」を、あまりがちがちに決めないで、なるべく各要素を包括的に柔軟に総合判断した方がよい。

    さて、こうした深いふり返りを行動変容につなげてゆくために、絶対に欠かせない要素が、各演習の「相互フィードバック」の時間をなるべくじっくり取ることである。そしてここが講師の技量がくっきり分かれる点だ。適切なフィードバック、受講者を深くふり返らせる質問を行う技術は、講師の側にも深い習熟を要する。

    私は手がけなかったが、聞けば文字通り試験だけのアセスメントと言う運用がかつては少なくなかった。要するに受験風に言えば「答え合わせ」と「解説」がない。こうした運用をしている会社では、受講者達のアセスメントを見る眼は今度は一転してネガティブになる。当然だろう。何だかわからないままに取り組まされ、合否と言う結果だけが残るのだから。こうした運用は、どうあれ管理職になりたいなら会社の言う通りにせよと百パーセント言える場合でないと、妥当性は低い。現実にはこうした会社の割合がずいぶん減ってきたのは、皆様の実感の通りである。

    最近は、効率優先でアセスメントをなるべく短時間で実行することを「ウリ」にする「同業者」が増えてきた。試験と評価だけが目的ならそれでもいいのだろう。しかし私はそう言うことにあまり手を染めたくない。フィードバックに相応の精力を注ぎ、真の目的は以上述べたように異なるところに置くべきと思うからである。

    以上のようなことを説明していると、随分時間がかかる。が、わかってもらえた時はうれしいものだ。

    そして、私が熱意を注ぐべきはこうした同業者の会合における質疑ではなく、あくまで現場だ。試験の意味を含むアセスメントの終了後であっても、感謝のこめられたまなざしをいつまでも受けられる自分であり続けとたいと願っている。それは自己満足ではなく、現実のマネジメントの修羅のちまたで戦う方々の何らかの支援になることができたと言う実感が得られるからである。つまりは私の職業人としての存在理由である。

  • 実戦問答No.6:マネジメントの本質は実行できること

    ~ある管理職研修のインバスケット場面にて~

    拙著「アクションラーニング実戦術」の中で、リーダーシップ教育の本質について以下のように述べた(同書207頁)。

    ある専門職の多い組織で、人事担当役員にアクションラーニング実施前にこう言われた。

    「うちの社員は頭でっかちなのが多くて困る。すぐ『それは知っている』と言うから、『じゃああなたはそれができているのですか』と聞くと返事が返ってこない。何度も鍛練するしかないのですかね。」

    この短いご発言の中に、リーダーシップ教育の本質がよく現れている。自分と言う主体を見つめなおすなどは無用なことで、客観的なスキルだけを学びたいと言うのは、マネジャーの教育としては全く間違った考えである。言い換えれば、リーダーシップというものは、論じるものではない。行うものなのである。

    少し前に、これを例証する、とてもほほえましいよい例にぶつかったので、ご紹介したい。

    場は、ある会社の初任管理職研修としてのマネジメント・アセスメントである。その時は、インバスケット演習であった。ちなみに、このインバスケット演習(案件処理演習)ほど臨場感をもって夢中になりながら実戦のマネジメントの意思決定を学べるゲームは、他にまずないと思っている。但し、ファシリテーターが、受講者の深い学びを引き起こす適切な質問ができれば、であるが。


    その日、ある案件の発表があった。今後2週間あまり、上司(課長)である自分に対して部下から連絡が取れないと言う条件を設定されたみずからの不在中に、何を指示するかである。あるチームは、キャリア筆頭のある部下に、「代行権限を与えるので、不在中に生じた案件には、自分に代わって決裁をしてください」と言う旨の指示を書いた。これはマネジメントの教科書的には権限委譲として大変優れた指示である。そのチームが、所与の置かれた状況とその教科書の真意の両面を深く理解して行っているなら、実戦としても優れた指示と言ってよい。さてこの場合どちらなのだろうか。
     

    すぐに他のチームから疑問が呈された。

    「このような不明確な状況下においていきなり白紙委任的な指示をしては、結果として大きな誤りが起きるかも知れず、危険ではありませんか。」

    この当然の問いに間髪入れずに明確に答えられて、権限委譲と言うものが本当にわかったと言うことになる。さてどうなるだろうか。
     問われた方の人は、ちょっと首をかしげて思わず

    「・・・それもそうですね。」

    と言ってしまった。教室中大笑いである。「門前の小僧習わぬ経を読む」「定石を覚えて3目弱くなり」とは、昔の人はよく言ったものだ。もちろんお経も定石も、まず慣れて覚えることから始めるしかない。だから、こうしたいろはがるたや川柳よりは、私はずっとこうした情景に対して肯定的である。全くの無手勝流では、必ず早いうちに停滞してしまうことは明らかだからだ。

     

    大笑いがおさまった所で私は聞いた。

    「まあ、そうすぐにカブトをぬがないで、今ここで考えてみましょうよ。こうした方がよいと思ったからこう書いたのでしょう。」

    「そうです・・・。」

    「で、危険だと言われた、それはもともとわかっていたのですか。」

    「ええ、まあ・・・」

    「わかっていてもそうしたのはなぜですか。それを訴えて欲しい。」

    「はい・・・」

    「どなたか助けてくれませんか。」

    私は同じチームの他のメンバーに発言を促した。

    「そうした方がいいからですよ。」

    別の人がひどく明確な調子で答えた。この発言にまた周囲が笑う。こう言う時に進み出て来る人がいるととてもマネジメント研修らしくなる。

    「ええ、ですから、どうしてその方がいいのか、みんなにわかるように話してくれませんか。」

    「そうしないと、仕事がかたづかなくてどうしようもないじゃないですか。」

    「そうですか・・・・・。いいですか?」

    質問した方のチームに問う。

    「ですから、その結果、間違いを部下がしてしまったらどうするのですか。」

    「いやたぶんしないでしょう。だいじょうぶです。」

    また教室が大笑い。

    「そんなの、理屈になっていないじゃないですか。」

    「いや、そちらのチームと違って私は部下を深く信頼していますからね。ところで、あなたの方のやり方では、仕事が全く停滞する。それをどう考えるのですか。」

    「それは・・・・」

    このリリーフ投手は、なかなかの論客、ディベーターだ。自分の方の弱点をたくみに相手の弱点の指摘にすり替えている。少し黙って見物していたが、どうも質問側の方が不利になってきた。

    ただ、研修はディベートの勝ち負けだけを楽しむ場ではない。少なくとも私がこのクライアントから預かった使命は、ディベート術の向上ではなく、各自の言動を深くふり返ることによって、ディベート術の何十倍も範囲の広いマネジメント能力の向上を図る契機とすることである。よって、ファシリテーターとしてはそろそろ介入しなければならない。

    「まあまあ、イニシアティブは、質問した側にあるのですから、質問された事から順に片づけましょうよ。」

    「はあ・・・・・」

    「それで、どうするのですか。部下がミスはしないかも知れないが、するかも知れない。」

    「ええ・・・・・。」

    「それをどう考えるのか答えてもらわないと。」

    「ですから、私は、部下の能力を信頼していますから、そんな失敗はしません。」

    「部下を信頼して活用すると言うことと、何が起きるかと言う状況判断の見通しは別物です。もし悪い目に出て、部下が何かしくじったらどうするのですか。」

    このインバスケット演習の状況設定では、5年も10年も苦楽をともにした部下ではなく、ほぼ初対面なのである。

    「それは・・・」

    少し教室がしんとした。

    「それがわかって、初めて本当に『権限委譲』がわかったことになります。このままでは教科書を覚えてきて書いただけに終わってしまう。もちろんそれはそれで、工夫して考えた指示であることは私は大いに認めた上です。が、どうせなら本当にわかった方がいいでしょう。」

    「はい・・・・・。」

    「さあ、今考えてください。どうするのですか。」

    「・・・・・もし部下がまずい判断をしたら・・・・・」

    「・・・・・」

    「受け入れるしかありませんね。」

    「・・・それで?」

    「先生、それで、とは?」

    「それで終わりだったら、相手のチームの最初の指摘のように、ミスを防ぐためには、あとで自分で確認してから指示した方がよいということになります。だから話に続きがあるでしょう。」

    「・・・・・ですから、それもこれものみこんで、この状況では仕事を前に進める方が大事なのです。そんなことを恐れて2週間も、仕事を止める方がずっと害が大きいのです。」

    「・・・・・」

    よく言いましたねと私はほほえんでいる。人はこうしたきっかけで一皮むける。

    「そう、少しくらい間違えたってあとで直せばいいのです。何もしないのがいちばんいけない。」

    さらに彼は一気に言い切った。
     
    「そうですか、よくわかりました。で、最後にもうひとつ聞きますが、もし部下がまずい判断をしたら、その責任は誰が負うのですか。」

    「それは・・・・・」

    「・・・そこがわかって権限委譲が全部わかったことになります。」

    「・・・それは、自分の責任です。」

    私はほほえみながらさらに問う。

    「では、部下をつかまえて『君はなんだってこんなことしくじったのだね』とは言いませんね。」

    「えっ・・・まあ・・・あまり追及しません。」

    また教室中が爆笑だ。

    「なんですか、その『あまり』と言うのは。」

    「いえ、私の責任です。」

    このやり取りを、どうか、これから10年も20年も部下を使う彼らは忘れないでいて欲しいものだ。逆に忘れて欲しくないから、私は、こうした場面で徹底的に質問をすることにしている。決断力、リスクテーキングを伴わない権限委譲や人材活用と言うのはないのだ。つまり、自分だけが安全な場所にいられる権限委譲、人材育成と言うのはないのである。だからこそ、時と所を選んで実行しなければならない。失礼ながら、現実の組織の中をあまりご存じない浮き世離れした評論家は、いつでもどこでも権限委譲するのがいいとおっしゃるから混乱する。今回の状況はまさしく五分五分であろう。

    これを、もし意識調査などと言って「あなたは十分に部下に権限委譲をしていますか」とアンケートすれば、誰だってイエスと答えるに決まっている。しかし現実の場面で、以上のように「本当にわかって」実行している人はぐっと割合が減ることを、私は経験上知っている。冒頭の話のように「知っている」と「できる」はそのくらい違うのである。

    私の専門分野に関して言えば、だから、アセスメントは、現実に演習を行わない限りできないので、質問紙やコンピュータでは決してできないのである。逆に言えば、マネジメントの本質は、原理的にはごくシンプルな事柄を、実行できるかどうかに尽きる。だからマネジメント教育は、かんじんな時の分析、状況判断、意思決定、指導力などを、事例を変えて幾度でも刷り込むのがよいと思っている。いざと言う時に迷わず意思決定できるようになれば、あとはたいていの事柄は自分で勉強すればよいからである。

    もちろん、この例題が、権限委譲することが唯一の正解であるとか、そんなパズルのような事を言っているのではない。マネジメントには正解はないとはよく言われる通りである。問われるのは、自分なりの一貫した考え方で意思決定しているか、である。この場合、仕事が遅くなると言う欠点は承知の上で、帰任後一切に直接自分が関与し、正確に進めると言う意思決定もあり得るだろう。読者はどちらが好みだろうか。結果としていずれが妥当だったかは、状況やその組織の成り立ち、事業構造によることだ。大切なことは、選択肢と選択肢の間の利害得失を、その流れ行く状況の短い合間に、速やかに判断、決断しているか、なのである。 

    こうしてどちらもあり得る一貫した考え、意思決定が複数並立すると、研修の討議は収束が近くなる。
     

    この情景を、この場にいた人たちが、少しでも長く印象にとどめて置いて欲しいと、私はいつも切に祈る。

  • 実戦問答No.5:受験者への「愛情」~昇格試験における試験官の鏡としての役割~

    昇進昇格における人材評価は難しい。日常の人事考課なら、大量の情報を持つ直属上司が、一定期間内の昇給や賞与の評価をする。昇進昇格の評価は、それと別に、上司よりずっと情報が少ない会社側としての、しかも未来にわたっての責任ある評価を行わなければならない。こうした時の方がずっと難しいわけだ。昔は折々の断片の観察を総合し、「あいつもぼちぼちいいか」「いやまだもう少し」と言う禅問答のような昇格考課だった。

     
    そうした場面の評価の正確性、公平性がどの程度あるのかは別にして、この10年では、やはりそうしたことだけではいけないと言うことで、様々な客観的な昇格審査を採り入れる試みが増えた。どう考えても、日常の人事考課よりは、節目となる昇進昇格の評価の方が重要である。個々の方法の善し悪しは試行錯誤するとして、この方向は当然な流れだろう。まだまだ、「人事考課」に比して、この「人材評価」にかけるエネルギーが足りない会社の方が多いと言うのが私の実感である。
     
    こう言う時、私が依頼されるのは、各種のアセスメントそのものの実施以外では、そうした試験の際の試験官、面接官を遂行するための教育が時折ある。そこでは私は、こうした試験官、面接官の心得として大切と思う事柄を幾つか述べることにしている。
     
    最近、割合重視しているのが、受験者への「愛情」である。愛情とは、およそ企業戦士に似つかわしくない言葉に聞こえるかも知れない。それならせめて受験者への「支援」と言ってもよい。
     
    こうした試験官になるのはたいてい役員や上級管理職である。つまりそれなりにえらい人達だ。そうした方々も昔は必死にキャリアを登って来たはずだが、いつしかその苦しかった日々を忘れているかもしれない。それとそうした時代とは経営環境も変わった。それゆえ、幾つかの心得のうち「愛情」や「支援」を重視するのである。
     
    具体的に述べよう。そうした試験官教育の時、たいてい、面接前の受験者に書いてもらった論文をサンプリングして読んでもらう。もちろん最終的には採点と面接の質問の練習のためではあるが、私は最初に、「読んでどう感じましたか」とわざとぼんやり聞く。そう言う時に多い反応が、「何を言いたいのかよくわからない」「文章がまとまっていない」「趣旨が不明確だ」と言ったものである。誰もが秀才官僚である会社も少ないだろう。まして、昇格試験の場の限られた時間と言う極限状況の中で相手は書いている(私は、こうした論文試験は、幾つかの理由で事前提出にしない方が良いと思っている)。当然、「明晰で論旨一貫している」ことのほうが少なくなる。
     
    そうした場で、典型的には試験官たちと以下のような会話になる。
     
    「まずい点が、文章がじょうずでないのはわかりましたが、この人の昇格前の活動内容として、よい点は何か読み取れましたか。」
     
    「こう文章が、すっきりしていないと読み取れと言っても・・・」
     
    「これを書いた彼になりかわった気持ちで、言いたいことを読み取る、感じ取ることはできませんか。」
     
    「はあ・・・そう言われても、採点すると言う目でしか見ていませんでしたから・・・」
     
    「と言うことは、よい点があるのかないのかわからないと言うことですね。」
     
    「・・・まあそうですね・・・と言って、それをきちんと表現できないようでは困るのではありませんか。」
     
    この例は、むろん役員や上級管理職の登用ではない。そう言う時にあまり作文など課さないだろう。まあ主任が係長になるような試験と思って欲しい。
     
    「まずい文章は読んではいられないと言って目を切ってしまったら、貴社にとって何か大切なものが失われませんか。」
     
    「はあ・・・・」
     
    「ちゃらんぽらんな態度で書いていて文章がまずいと言うのなら別ですが、何百通読んだってそんな例はまず出て来ないでしょう。」
     
    「そうですね。」
     
    「それと、文章がまずいだけでなく、試験官と言うものの性質上、自分が詳しくない部署の人の論文を見ます。それゆえに、もともとわかりにくいと言う面もありませんか。」
     
    「・・・そうですね。」
     
    「内容に詳しくないからわかりにくいと言うことと、文章がじょうずでないと言うのは、別な次元の話ですよね。」
     
    「はい、そうです・・・。」
     
    もちろんあなたはそれをごっちゃにはしていませんよね、という無言の質問の間合いを取る。ここで注記すると、もちろん試験官の当て方としては、自分の専門外の内容を見させる方が妥当である。その意図もご理解願えよう。
     
    「・・・ですから、この彼のいちばん良い所が出ているのはどこなのか、うまいまずいと食べ物のように言わずに、見つけてあげましょうよ。」
     
    「試験官の役割とはそうしたことなのですか。」
     
    「私はそう思っています。少なくとも当社では、作文力、文章表現力のテストをしているわけではないのでしょう?」
     
    「まあそうですが。」
     
    「私は、論文の目的は、事前には、実務の遂行能力の評価と伺いました。私流に言えば等級昇格後の成果の再現能力を見ることだと思っています。文章のうまいまずいは、その中のごくほんの一部に過ぎません。それでいいですか。」
     
    「ええ、わかりました。」
     
    「文章がそれほどじょうずでなくても、なにもよいところがない人は、こういう場には、まず来ないはずですから。」
     
    「そうでしたね。」
     
    「同じ会社の中で選ばれてきた人をまた選ぶ場なのですから、あまり早い段階で、『何言ってるのかわからない』と言う門前払いは、なるべくしない方がよいのではありませんか。」
     
    「・・・どうも私が自分の役割をあまり深く考えていなかったようです。」
     
    「全員のよい所が確認されて、それでも差がつく、これはしかたないですね。そうなら誰だって受け入れるでしょう。人の能力は同じではないのですから。」
     
    「わかりました。・・・それで、先生、この人のよい所はどこに出ているのですか。」
     
    「ですから、それを探してくださいと、最初に皆さんに私がお願いしたではありませんか。」
     
    場にいた全員が笑った。もちろん各自の意見が出た後は、私がサンプルを読んで感じた諸点を述べる。それは答え合わせと言うことではなく、私も一メンバーとして意見を述べているつもりである。  以上は論文の採点だったが、面接でも原理は同じである。どうしても面接官は、無意識のうちに自分が関心を持った聞きたいことだけを聞く。それがその人の評価をする上でたまたま的に当たっていればいいが、そうとは限らないのだ。的が当たっていないことを聞いた反応が明確か不明確かを評価しても、つまり「わかる」「わからない」と言ってもあまり意味がない。また、的が当たったとしても、表現力が達意でない受験者の発言は、上手に傾聴しないと、やはり同じように「何を言いたいのかわからない」となりかねない。名門大学の弁論部ではないのだから、そんなに雄弁な人ばかりな会社と言うのは見たことがない。
     
    やはりここでも、面接官が、一連のプロセスの中で、その受験者がいちばん創意工夫努力した点をうまく探し当てて、自分を鏡だと思って写し取り、時間が限られているのだから拡散せずに、その内容を集中して質問するようにしなければならないと私は思っている。面接後の試験官とのふり返りでよくこんな会話になる。
     
    「そう、やたらと『わからんなあ』なんて言わないで、どうしたら『わかってあげられるか』の方が大切ではありませんか。」
     
    「先生、でも試験なのだから、主旨一貫してきちんと言えなければだめでしょう。」
     
    「そんな人の評価は、誰が見ても別に難しくありません。よくわからない人をちゃんと評価してあげるために試験官の皆さんがいるのでしょう。」
     
    「まあ理屈はわかりますが、わしゃ、そんな甘ったれた考えは好かんのですわ。」
     
    「ご自分の部下の大変重要な評価をなさる時、10分間のスピーチで決めますか、それとも1年間の努力を重視しますか。」
     
    「いや、先生、それとこれとは違うでしょう。」
     
    「どう違うのでしょうか。」
     
    「いや、ですからここは試験ですから・・・。」
     
    「そう、1年中見て上げられないから、短い面接試験の中でその人のいちばん良い持ち味が出るような環境をつくってあげるのですよ。その方が、社員はずっと公平かつ適正な昇格試験だと思うのではありませんか。」
     
    「・・・いや、まあそうですね。」
     
    「こう言う試験は、試験官がわかりやすくするために行うのではなく、受験者の社員が、日頃の力がなるべくそのまま発揮できるようにはかってあげるためのものではないかと私は思っています。」
     
    「はあ・・・」  

    「その方が、結局評価もわかりやすくなるのです。」
     
    「どうしてですか。」
     
    「だってよくわからんやつは、ばっさばっさと、皆不合格だ、と言うことでいいのですか。」
     
    「まあそう言うわけでは・・・」
     
    「としたら、よくわからないまま合否を決めることになる。」
     
    「・・・・・・」
     
    「そういう人も、どこがよくてどこが改善を要するのか、ちゃんとつかまえて置かないと、こっちもたくさん時間をかけて何をやっているのかわからなくなってしまうでしょう。」
     
    「それでは困りますね・・・。しかし、そんなことが20分やそこらの面接でわかるものなのですか。」
     
    「百パーセントわかるとは言いませんが、全身を鏡にしていれば、相当の確度でわかると思います。」
     
    もちろんきちんとした人材評価手法にのっとった「コンピテンシー面接」などを行うのが理想である。しかし、それは最低で1人1時間はかかる。そんなに時間を割けない会社が多いだろうから、現実的な対処をここでは述べている。
     
    「先生わかりました。何とかやってみますよ・・・」
     
    もちろんある試験官が、何十年、自分が取ってきたマネジメントスタンスを急激には変えられるものではない。逆にそのスタンスが、事業の運営にはどれほど利したかも忘れてはいけない。ただ、ここは場所が違うのである。場所が変われば役割が変わる。そうした自在さと変化適応性を持つのが真のマネジャーであると、リーダーシップの「状況理論」が私たちに教えてくれた。
     
    この人は、そのあと、ある受験者に、
     
    「君、私が君の仕事を何も知らないと言うつもりで、順々にもう少しわかりやすく話してくれないかな。」

    と、やさしくある受験者に語りかけたそうである。人は似合わない行動をする時はぎこちなくなるものだ。きっとユーモラスな雰囲気になったことだろう。
     
    私が、「愛情」または「支援」と言った意味がおわかり頂けたであろうか。
     
    ここは超難関の国家資格の試験会場ではないのである。あくまで既に同じ利害と運命を共にしてゆくと決まっている人達の間の選考が、昇進昇格試験である。そうした意識をもって運営した方が、彼らの能力を磨き、ロイヤルティや帰属心の強い社員を育てる道につながるのだと思っている。
     
    もちろん私は、受験者を良い気分にさせることが唯一の目的でこんなことをしているのではない。質問が的に当たると、当然受験者の取った重要な行動が浮き彫りになる。するとそのよしあしの程度がくっきりとするような、何の予断も先入観もない、客観的で真っ白な質問を、試験官がさらに行うことができる。つまりはエクセレントな質問である。受験者が自らを深くふり返り、とても勉強になるわけだ。合否がつくのはしかたないとして、そうした立派な質問をした試験官に、受験者が敬意を払うのはごく自然だろう。それがどれほど会社の利益になるか、その正反対の結果になったときと較べて考えてみて欲しい。その上、評価も一層公平になる。「愛情」をもって接するのは「実利」も伴ういいことずくめなのだ。

  • 実戦問答No.4:部下を屈伏させてやろうと思って臨んでいませんでしたか

    ~人材アセスメントにおける面接演習から学ぶ指導力~

    このコーナーの最初の文に書いた人材アセスメント研修の「面接演習」に関して、最近考えさせられることがあった。

    その日の題は、ある部下が、緊急重要なトラブル処理を上司不在中に行い、経費支出に絡む所定の手続や報告が遅れたため、関係部署から強いクレームをつけられたので、事情を聞いて対処を決めると言うもの。処置自体は成功し、組織としては大きなピンチを逃れたところだ。たまたまその日の受講者は、どういうわけか、他部門のクレームをそのまま受け入れ、一生懸命に、直属部下の落ち度を見つけ屈伏させようとする人の割合が多かった。いわく「なぜ君は事前に報告できなかったか」「報告する意思があったのか」「どんなに急ぎでも実行よりまず承認手続が先ではないか」「ルール遵守を何と心得ているか」などなど。部下役は私どもコンサルタントである。

    わざとルールや手続を破る部下などどこにもいない。せっかく会社のためを思い、臨機の判断でピンチを救ったのに、何のねぎらいもなく手続的な欠落を当初から問責的に指摘されたら、部下役は「反論しなさい」と私がつくったマニュアルには書いてある。まあこの辺まではいい。演習と言う一種の極限状態だから、ついつい肩に力が入るのだろうから。部下が冷静に、上司に連絡不可の際、重大であった事態を指摘し反論すれば、聞く耳を持って頂ける上司のほうがまだ多いと私は感じている。この日は偶然なのか、あまりそう言う上司役が出て来ない。こうしてできあがった幾人かの面接演習ビデオを、今度は全員で見てみると、物別れに終わったケースが目立った。上司と部下とのどっちが善いか悪いかと言う視点はマネジメントにはない。物別れに終わって問題が解決できない、つまりは上司は地位を与えられながら指導力を行使できなかったと言う結果を深くふり返りなさいと言うのがマネジメントの考えである。

    ビデオを見ながら次第にうつむいてゆく人が、従ってこの日は少なくない。おつらいことだろう。が、組織運営の状況判断の意味でも、個々の部下の動機づけの面でも、どうやら何か大切な点をうっかり失念したことをしみじみ気づいてもらうには実に良い機会だ。こうした機会がせいぜい10年に一度だと思えばなおさらである。もちろん重要な前提がある。こうした演習は、部下役が冷静で理の通った内容を、きちんとした態度で開陳反論できなければ意味をなさない。私も部下を預かると、しばらくはこうした特訓である。部下役が感情的に好き勝手な事を言うと面接にも演習にも何もならない。

    各班のビデオ観察とそれに基づく相互フィードバックを終えて、全員が教室に集合し、私が簡単に講評した。講評と言うより、私の場合はいつも問いかけに近い。

    「皆さん、部下を屈伏させてやろうと思って臨んでいませんでしたか。」

    まだここでは誰も答えてくれない。

    「念のためケーススタディを私も読み返してみましたが、『部下を屈伏させよ』とはどこにも書いていません。『起きてしまった問題を解決してください』と書いてあり、その方法は、マネジャーである皆さんにゆだねられています。」
     
    そうかしまったと言う表情が幾つか見える。

    「問題解決の方法を幾つか考え抜いた上、この場合は部下を叱責し、その高慢な鼻をいっぺんへし折ってやるのがいちばんよいのだと『判断』したなら、それはそれで一法かも知れません。」

    ここである受講者が苦笑いしながら口を開いた。

    「いえ、先生、そんなことを考えているゆとりはありませんでした。ともかく、手続を怠った部下を強く注意しなければクレームがおさまらないと思いこんだのですよ。しかし・・・・・」

    「しかし?」

    「おっしゃる通りで、同じ注意をするにしても前後の状況をもっと確認してからにすればよかったですね。」

    「それに気づいただけでも、今日はお忙しい中、ここに来た甲斐がありましたか。」

    「ええ、とても意味がありました。」

    幾人かの人が声に出して笑った。

    「けれど先生、10分しかないと思うとついつい結論を急ぎたくなって・・・・・」

    別な受講生が発言した。面接時間は10分と決められている。

    「そうそう、で、あなたは、ビデオに自分が出てきた10分間、見ていて長かったですか、短かったですか。」

    「いやそれは・・・・・長く感じました。」

    「どうしてですかね、あなたがおっしゃるとおり、たった10分ですよ。」

    「・・・・・いや、見たくないもの見ていたからでしょう。」

    今度は教室じゅうが大笑いだ。

    「そうですね。だから10分は少しも短くありませんよ。いったい会社の中で、2人きりで向き合ってすわって、10分間ただひとつの事を話すなんて場面はそう多くないでしょう。だから現実よりはずっとやさしくこのケースはつくってあるかも知れませんよ。」

    苦笑いしている人が数名いる。

    「その10分間、もし、何も解決できずに終わったと悔やんだとしたら、どうしてそう言うことになったのでしょうか。」

    「部下の考えをよく聞いていないからです。」

    その受講者は間髪を入れずに答えた。こう言う方は、もう次から現実の場面でだいぶ変わるだろう。

    「そうです。部下の主張する事実や心情をよく受け止めないまま部下の行動に否定的評価をすれば、反発を招きます。それにいちいち応酬していたらあっと言う間に時間がなくなります。『なるほど、君はそう言うつもりでそれをしたのか、よくわかった』と部下の立場を受け止めるゆとりがあれば、部下もぐっと早く上司の側の考えや立場を聞きたい気持ちになったかも知れません。」

    深くうなづいている受講者が多くなってきた。

    「こう言うのを、能動的傾聴とか、感情移入とか普通は言うのですが、まあ今日はテクニカルな話よりも、もう少し本質的な事を言って終わりにしましょう。」

    うつむき加減だった人も改めて顔を上げて私の方を見た。このあとはもう一度全員への問いかけである。

    「皆さんがこの例題において期待された役割は、上司の方針、考えを理解するよう部下を、せめて『説得』することです。部下を打ち負かし、屈伏させることではありません。いったい部下と斬り結んで何を得られるのですか。」

    「・・・・・」

    「部下と斬り結べば今は皆さんの方が力が強いから勝つ。しかしそれでどうなりますか。次の機会には、上司を打ち負かしてやろうと、そう言うファイトを部下に燃えさせることになりませんか。」

    「・・・・・」

    「私も立場を変えれば皆さんと同じひとりの上司ですが、そんな人間関係はできればごめんこうむりたい。」

    ほとんど全員が自分もそうだと言う顔をしておられる。

    「マネジメントの研修ですから『説得』『納得』『コンセンサス』とか、きれいな客観的な言葉を使っていますが、私は皆さんのように立派な会社で上司を勤める人には、まだ言葉が手ぬるいと思っています。私たちが目指すのは、本来部下を包み込み、その『心服』を得ることです。部下と競い合うことではありません。」

    「・・・・・」

    「部下の心服が得られて困る人はいないでしょう。と言うより、より困難で質の高い仕事をしようとするなら、部下が心から自分につきしたがってくれなければ、成し遂げることはまず難しいでしょう。どうしたらそのようになるのか、次にお会いする機会までもう一度いっしょに考え実行してみませんか。」

    「先生、また面接をやるんですか。」

    ある受講者がそう言うと、また教室中が笑いどよめいた。

    「またやりたいですか。」

    「いえ、いやあ、その・・・・・」

    「今は特別に予定はないと思います。が、皆さんが職場に帰って、今日感じたことを実践しないでいると、うしろの人材開発部の○○さんがまた面接の特訓をご計画なさるかも知れませんね。」

    先生もうカンベンしてくださいと、笑って私を見る表情が多くなった。だいぶ教室に温かな共有感が生じてきた。もう研修を終える潮時だ。

    人は節目の行動が問われる。どうでもいいときにいくら立派な演説をしても、そんなことは誰も覚えてはいない。また、そのようなことで人間関係も決まらない。逆に、本質的な利害がかかった時に上司がどんな態度をしたかを、部下は一生忘れないのだ。この演習は、ある意味でそうした本質の断面を集約した場面でもある。「説得力」と「包み込み力」「被心服力」(普通の言葉なら指導力)は、そうした節目を左右するリーダーの力である。

    さて、上記のような例は、もちろん色々改善を要するとしても、上司の力強さと言う一面からは、ある種の懐かしさを感じさせる情景と言えないこともない。むしろ最近は、上司の側の自信喪失、とまではゆかなくとも意思決定力の希薄化こそが今後の課題かもしれない。次に機会ある時には、やはりこうした演習でそれが現れた時にはどう言う情景になるか述べてみたい。

  • 実戦問答No.3:評価要素でなくて頭の中身を入れ換えないといけないのだよ

    ~人事考課制度と上司のリーダーシップはどちらが先か~

    仕事がら、評価・動機づけ・育成の一連の関連性をいつも考えていないといけない。最近開催の公開セミナーや人事考課者研修などでもいつも問われる普遍的な論点である。それを考える大きなきっかけになった場面がかつてあった。
     
    もう随分前のことだ。私があるクライアント企業で、プロジェクトの役員報告会を行った。さまざまな行動変革のための人材アセスメントのプログラムを実行した結果、その会社では、ある種の能力要件、マネジメント行動が不足であることが浮き彫りになった。たとえばそれが積極性と説得力であったとしよう。その場にいた役員の間のやり取りが、のちのちまで、私に強い印象を残した。
     
    ある専務がいた。技術畑のお人で、ご自分の領域では、高度な専門能力をお持ちである。そうした報告を受けて、社長と人事担当役員を交互に見て言った。
     
    「この結果を受け止め、苦手な能力を向上啓発させるために、人事考課要素を変えていった方が良いですね。いつも教育で集まると言うのも大変ですから。」
     
    そうした苦手な能力を、人事考課要素に採り入れたり、一層強調しようと言う意図である。役員のうち幾人かはうなづき、
     
    「それはよい。いちばん日頃意識できるものだから。」

    と発言した人もいた。人事担当の役員は「はて、それはどうなのか」と言う表情で黙っている。
     
    ここで、この時は相談役となっていた前社長が発言した。そのキャリアとお人柄から、影響力はいまだに大きい。専務と年はひとまわりほど離れている。どこか欲得を離れた仙人めいたようなお顔をにこにこさせながら言った。
     
    「いやあ・・・・・評価要素でなくて、その前にまず、君らの頭の中身を入れ換えないといけないのだよ。」
     
    「・・・・・」
     
    見事なアクションラーニングセッションのように、場がしばしの間、静まった。相談役は、このあと少しも温顔を崩さず、ぽつりぽつり語った。
     
    「君ね、評価要素を変えたら社員の行動が変わるなんて、そんなに単純に思ってもらっては困るのだよ。相変わらず君はまるっきりの技術屋さんだね。もう少し人間性の本質に関心を持ってもらわないといけない。」
     
    「はあ・・・・」
     
    「だいたい君だって、積極性と説得力が苦手だと言う診断結果が出ているじゃないか。」
     
    この会社では、社長が、そうした人材アセスメントのプログラムは、自分も含めて役員全員が受けなければならないと言ったので──それは素晴らしいご判断だが──この場にいる役員も全員、自分の得手不得手が載った報告書を目にしているのである。
     
    「・・・・」
     
    他の役員達の多くは黙ってうつむいている。「君もそうだったね」とお鉢が回ってきてはかなわない。
     
    「君自身が、そうしたことをしっかり受け止めて自分の行動を変えてくれない限り、おおぜいる君の部下が行動を変えるわけがないじゃないか。彼らは人事考課要素ではなくて、みんな君の背中を見てどう行動するかを決めているのだから。」
     
    「はい・・・・・」
     
    「それを忘れて、あたかも人事部の管掌事項のように、この課題を語ってもらっては困るよ。部下を育てるのは君であって、人事部でも人事考課表でもないのだから。」
     
    人事担当の役員がほっとしたような顔をしてうなづいている。「変な話にならずに済んでよかった」とその表情に書いてある。
     
    「どうだね、頭を切り換えて、明日から、そのような行動が取れるかね。」
     
    「はあ・・・・」
     
    「別に現在の人事考課制度が、積極性や説得力のある人を低く評価せよと正反対に書いてあるわけではない。だから、君がそうした研修プログラムを通じて変化の必要性を痛感して実行できるなら、人事制度など少しもさわる必要なく、本来の目的である社員の行動の変化や向上につながるのだよ。」
     
    「はい。」
     
    「それとも、君自身が訓練したりないと言うなら、もっと先生にお願いしてトレーニングしてもらうかね。」 

    「いや、それは・・・・・」
     
    どうかごカンベンをと言う言葉を専務は呑み込んだ。座がげらげらと笑った。むろん相談役は、全役員に向けて言っている。ひどく落ち着いたトーンはこの間全く変わらない。  
    この話は、成果主義流行以前の事である。が、その本質は、いまだに普遍性を少しも失っていない。と言うより、現在が、少々成果主義の行き過ぎた喧騒に踊らされた後だけに、一層私の胸に情景がよみがえる。
     
    もちろん、会社全体の価値観を変更するような時は、人事評価要素を必要あれば変えればよい。ごく日常的場面では、人材を育てたり、部下の行動を変えたりするのは、相談役がおっしゃったように、人事考課要素ではなく、上司の行動、態度によるのだ。
     
    逆に、評価の精密化を目的に壮麗な大伽藍のようなコンピテンシー考課体系などを整備した会社が、そのせいで社員が元気になったと言う話は寡聞にして知らない。会社が人事考課要素をいじる頻度と社員の活性度とは、まるで反比例するのではないかと思われるような現象が、その後の成果主義流行の時期には現れた。人事考課の要素を深く研究し体系づけることは、本来学者の仕事であろう。そう言うことより、現実の会社では、上司その人の指導力を底上げするよう図ることの方がはるかに重要なのである。かの世界一のコーチ、ゴールドスミスも、論文の中で言う。

    「出かけて行くたびに人事考課要素をレベルアップしたと自慢する会社があるが、それではそのたびにそれに伴って社員のパフォーマンスや行動はレベルアップしたのかと問うと少しもはっきりしない。」。
     
    部下を適切に評価し、使いこなし、成長させている上司は、どのような人事考課要素のもとであれ、それを行うだろう。自分の狭い経験の範囲でしか部下の行動を評価、判断できない上司がもしもいたら、その人に、世界最新の人事考課要素体系を導入説明したとしても、やはり自分の限定された価値観の範囲でしか部下の行動を見ないだろう。私は過去、人事考課訓練、評価者研修において、膨大な数のマネジャーが、評価に関して取ってきた言動を見てきてつくづくそう思う。重要なことは、素晴らしい人事考課要素を設計することではなく、部下をフェアーに評価し、能力を引き上げられる上司を増やすことである。
     
    考課訓練等の研修はそこを目指すなら大いに意義がある。もし、自分のマネジメントの姿勢とは一切向き合わず、実験室のデータ採取のようにただケーススタディ上の部下の行動を観察評価し、ごく他人事のように評点を入れて「答え合わせ」をするだけでは、意義が乏しい。自分が日常、部下を十分に使いこなしているかが問われなければ、上司としての指導力向上にはつながらない。部下の意欲と能力を向上させられれば、実は評価などあまり問題にはならなくなるのだ。逆に何年も同じ部下とつきあって評価は正確この上ないが、その意欲も能力もさっぱり向上していないと言うことがあるとしたら、それほど寂しい話はない。
     
    実際、年功主義でも成果主義でも、事業の運営に一層貢献して欲しいと言う、社員に期待された行動は、別段たいして変わってはいない。つまり考課要素の本質はさして変わっていないのだ。ただ、評価の報いとしての昇進や原資配分の基準が、程度問題として勤続年数より、実績、能力重視に変わったに過ぎない。どちらにしても、ごく日常の適切な評価や動機づけ、育成こそが根本である。
     
    読者の会社ではどうだろうか。私の経験では、人事考課要素の検討と、社員の行動変革に対する直接の働きかけとの、それぞれへのエネルギーの配分が、1対10以上には、つまり10倍以上は、後者に重きが置かれていなければ不均衡である。  さて、情景に話を戻すと、相談役よりはずっと若い社長は、ずっとにやにやとして話を聞いていた。ここで、相談役の話を引き取り、初めて口を開いた。
     
    「ええ、ですから、先生のところでは引き続き、うちのマネジャー達の行動が変わるような教育研修を、折々にお願いしたい。」
     
    どう変わって欲しいかと言う内容は、この会合以前の話し合いで既に伺っている。この社長は、部下だけでなく、外部コンサルタントの活用にもたけたお方らしい。それが次の言葉によく現れた。
     
    「一度や二度の研修でみんなががらりと変わるとは私も思っていません。ですから、先生も手がけた以上は、もうこんな会社の社員は手に負えないからと途中で投げ出してもらっては困りますよ。」
     
    もう一度一座が大笑いした。このように言われて大いにやる気にならないコンサルタントなどいないだろう。これまでこうしたクライアントに数多く出会えて私は幸せであった。

  • 実戦問答No.2:どうしてぼくにはこのような鮮やかな変化が起きないのですか

    ~アクションラーニングの機縁~

    以前に、あるクライアントで、再度のアクションラーニングを行った。休憩中、その日に既に自分の問題のセッションを終えたある若手マネジャーに話しかけられた。

    「先生、これ何度も読んでみましたよ。」

    有り難いことに拙著「リーダーの質問術17手」を精読頂いたようである。それは有り難かったのだが、次の彼の質問には、私は飲みかけのお茶にむせてしまった。

    「でも、先生、どうしてぼくにはこのような鮮やかな変化が起きないのですか。」

    彼は真剣なまなざしである。同時に自分の力に十分自信が持てない気弱さも表情に少し現れていた。拙著には、アクションラーニングをきっかけに行動を変えていった人のストーリーが何例か詳しく載せてある。それにしてもこの問いかけには周囲にいた同僚達も大笑いだった。

    「先生が次の本を書く時、『最も成長に手間がかかった生徒』、として書いてもらえよ。」

    などと言う人もいる。

    このからりとした空気をどうか味わって頂きたい。アクションラーニングが習熟するとこうした空気が醸成されるのだ。めいめいの内面の殻を破ったこうした空気が、問題解決を、リーダーシップ能力向上を推進するのだ。

    さてこの人は俗に言う「ハートのいいやつ」で周囲から慕われていることもまたこの様子でよくわかる。逆に人の痛みがわかり過ぎて、ついかんじんな時に優柔不断になる。この手の人は確かに鮮やかな変化と言うより、経験を積み時間をかけて変わることが多い。が、その代わり円熟味も深くなるものだ。と言って、今を悩んでいる。

    「いやいや・・・・・」

    私は弱りながら話を続けた。

    「人の成長には機縁と速度がありますから・・・・・」

    「何ですか、そのキエンって。」

    「つまり、私はいつも言うのですが、人の成長は、緩い坂道をじょじょに登って行くようなものではなく、ある節目では、ぽんと跳ね上がるし、そのあとはまたしばらく平行線が続いたりと、そういう意味です。」

    「・・・・・その節目が、私にはいつ訪れるのですか。」

    「それは・・・・・」

    明日かもしれないし、1年後かもしれない。だからと言って、今から変わろうと思って行動しなければ、1年が3年にも5年にもなってしまうかも知れない。そう言う意味のことを伝えた。

    「そうですか。つまり、もう少ししんぼうですね。」

    「そう、今の続けていれば、必ず、ああ自分は変わったのだ、成長したのだと実感する瞬間が来ますから。」

    既に彼の日常の努力ぶりは知っている。

    「先生ね、アクションラーニングセッションをやったあとは、とても気持ちがすっきりして、さあ自分は変わったぞと思うのです。が、戻って忙しさにまみれるとまたいつも自分に戻ってしまうのです。」

    「・・・・・」

    「ついついみんなの言うことを聞き過ぎてしまい、気がついたら自分の元の考えがぼやけてしまうのですよ。」

    それはこの人の良い面でもあるのだから難しい。そうした態度で、しっかり事業運営のインフラを支え、部下が仕事をしやすい環境になるよういつも懸命に努力する。が、時にその状況判断が甘くなったことを本人も反省する。組織として必要な利害得失を貫徹する姿勢が少しだけ薄くなるのだ。それは部下から見たときには人間的魅力でもあるのだが。この弱点は、さきほどの正規のアクションラーニングセッションの中でも随分他のメンバーから、本当に支援的に質問され指摘された。だから今はそれを繰り返すこともない。

    「そうは言っても、今日聞きましたが、前回の問題は解決したのでしょう。」

    「そう、でもずいぶん上司と部下に助けてもらいました。」

    「助けてもらうよう働きかけたのはあなたではありませんか。」

    「そうです。」

    「今までなら?」

    アクションラーニングを経ていなかったら、の意だ。

    「抱え込んでもっと遅くなっていたでしょう。」

    「そう言うのは、あなた自身が変わったと言うのではありませんか。」

    「そうですか、そんなものですかね。」

    「だから先はまだ長いとしたって、まずいったんは自分のことを自分で認めてあげないと。」

    「まだ実感が薄いので・・・・・ぼくはもっとはっきり変わりたいのですよ・・・・・。」

    「そうですか・・・・・」

    私にもそう言う時期があったから、よくわかる。ここは彼の気持ちを受け止めるしかない。

    「・・・・・」

    互いにしばしの沈黙の後、彼は、最後にはまたほがらかないつもの笑顔に戻った。何十人も部下を使っている時の彼の本来の表情だ。

    「でも先生、何でしたっけ?」

    「機縁。」

    「そう、それが来るまで待てばいいのですね。」

    「そうです。できればあまりそういう結果ばかりを意識せずに、皆さんの質問をいつも念頭に置いて目前の問題に当たりながら・・・・・」

    「わかっていますよ。また先生、話し相手になってください。」

    「ええ、もちろん。」

    ほんの数分の会話であった。彼の目が、きらきらとした輝きを取り戻していた。私はこういう目を見たいからこの仕事をしていると言っても過言ではない。まもなく次のセッションが始まる。

    「このあとは、ほかの人のために、スルドイ質問でまた場を盛り上げてくださいよ。」

    「ええ、任せてください。」

    アクションラーニングは素晴らしい活動である。その基本的なパターンは、幾点かの拙著に述べた。そんな中で、こうした向上心の強い読者兼受講者に、少々「いや参ったね」と言う質問を受けてやり取りするのもまた、私にとって替えがたい余祿を頂戴していると感じている。もちろん彼のお役に立っている限り。
     

    さて彼にはその後「機縁」が訪れたのか、近いうちに確かめてみたい。

  • 実戦問答No.1:とくに、先生、あの面接ですね

    ~人材アセスメント研修の効用15年~

    少し以前の事だ。あるクライアントで管理職昇進直後の受講者を集めて、人材アセスメントの研修をお手伝いした。そこに旧知の人事担当常務が開講の挨拶に来た。当然ながら、

    「君らも管理職になったのだから、しっかりやってくれよ」

    と激励にいらしたわけだ。横でそれを聞きながらこの常務といつから旧知なのか指折って数えているうちに、ふとおかしみが湧いてきた。彼も私も若かかった15年ほども前、彼はこの研修に参加し、私は先輩コンサルタントといっしょに研修運営を行ったのであった。その時の彼の様子を私はありありと覚えている。今、立派な役員としてマネジメントの大切さ、変化の重要性などを若手管理職に説く彼を見ていて、少しだけこの場をやわらげる必要を感じた。皆、良い意味にしても少々緊張している。


    挨拶が終わり、「では先生、お願いします」とバトンを渡された。そこで私は、言った。
     

    「実は昔、○○常務も、この研修を受けたのですよ。ですから皆さんだけに研修をやらせているわけではないのですよ。」

     
    どんな研修でもそうだが、研修がうまくいったとしても、かなりの割合で、「こうした研修は自分達の上司も受けるべきだ」と言う感想が出てくるものである。それに私が最初から答えたわけだ。受講者達に何やらほっとした空気が少し流れる。意外だったのは、次の常務の反応だ。

    「いやいや、あの時は・・・・・」
     

    と大きな声で演台に戻り、続けた。

     

    「この研修は、ただ知識を覚えるのではなく、本当に実戦の役に立つのです、皆さん。特に、先生、あの面接ですね。」

    と言って、少しだけはにかむような表情を込めつつ、にやりとして私を見た。


    面接と言うのは、問題を抱えた部下を10分間説得し、それをビデオに撮って皆で観察する演習である。受講者全員が同じ事を行う。人材アセスメント研修の中でも受講者に印象深いと言われる場面のひとつだ。十数年前、彼が若手の課長としてこの研修に来た時、その演習の部下役を私が勤めた。その情景を、私は今もよく覚えている。表情を見ると、彼もありありと覚えているらしい。その時自分が上司役としてどんな言動を取ったかを。はにかむのも当然だろう。その時の彼は、15年後の成熟したシニアマネジャーとしての現在の彼ではなかったのだから。

    「いやあの時は恥ずかしい思いをした。そんなこと、こいつらの前で言わないでくださいね。」

    とその表情は語っているようだ。しかし口には出さなくても、そうしたポジティブな雰囲気はすぐに伝染する。一層受講者の空気がなごみ、最高の研修スタートの雰囲気となった。


    それにしても、である。最近は、教育研修の効果測定の論議がかまびすしい。少し神経質過ぎるかもしれない。この例を見て欲しい。15年覚えているのである。と言う事は、15年間、自分の弱点を意識した行動を心がけてきたのである。何とすばらしいことか。15年間、部下と重要な場面で接して来た回数は数えきれないだろうから。そして15年覚えていたのだから、もうたぶん一生忘れないだろう。

    人材アセスメントの研修を受けた全員が15年覚えているとまでは言わない。しかしこの例のように、お蔭様で有り難い事に同じ会社からまたお呼びがかかることが多いので、1年2年3年して同じ受講者が別種の研修に出てくる事もある。そう言う時に、手帳にアセスメントのフィードバックレポートを縮小コピーして貼っているような人はさほど珍しくはない。そこにはその人のマネジメント行動上の強みや弱みが具体的に記されている。手帳に納めているのだから、折にふれて読み返しているのだろう。用事があってその会社に行くと、構内で既知の受講者と行きあう事も少なくない。そんな時、半分冗談で「先生、今日も面接ですか」と挨拶される。それだけ印象が残っているわけだ。

    教育研修の効果を、科学的、学問的に測定する方法は今のところないと言ってよい。しかし、私にはこうした受講者の方々の反応が、何よりうれしく励みになり、相手のクライアント企業に対しても使命を果たせたと思いほっとする。そして、ますます自分と部下に、研修に出かける前に言い聞かせる。

    「今日おまえが受講者に発する問いかけは、彼の心に10年間残るものでなければならないのだ。」