カテゴリー: アクションラーニング編

  • 実戦問答No.23:先生、それはさびしいですね

    ~アクションラーニングの最後の授業~

    「先生、それはさびしいですね。」

    この仕事をやっていていちばん胸に響くのはこうした言葉である。

    ある会社で管理職を選抜で集めてもらい、しばらくの間(6、7回だったか)、アクションラーニングを続けた。受講者の行動と相互の意思疎通に変化が見えてきた。そうした時、社長に伝えられた。

    「いつまでも先生におんぶにだっこではいけないと言うことで、彼らメンバー達に、『そろそろおまえ達で本当に自律的な連携の動きをしてもらいたいたい』と伝えました。」

    「そうですか・・・・・」

    「最近すでにそのような動きが生じてきたことじたいは、先生のお蔭なので、本当にそれは感謝申し上げます。」

    「いえいえ、私よりも、彼ら自身の意思で動いたのですから・・・・・」

    「いや、先生がそのように自発的に考える場をつくってくれたからでしょう。」

    「・・・・・」

    「だから、それが本物になるかどうかは一度先生から手ばなれしてみないとみないとわからない。」

    「・・・・・」

    「だからしばらく先生とのアクションラーニングはお休みにします。が、うまくゆかないようならまたおよびだてすることになると思いますので。」

    「・・・・・」

    「その時は、もうこんな会社はあかん、なんて言わずにいらしてくださいよ。」

    「・・・・・決してそのようなことは・・・・・」

    そこで次回は、「最後の授業」ということになった。もちろんアクションラーニングだから、あのフランスの名作小説のように、私が正装して教壇に立って講義をするわけではないし、近所じゅうの名士が参集するわけでもない。その日もセッションは、時に熱心に、時に大笑いし、時には難局に苦渋してとどこおり、要するにいつも通り、とてもアクションラーニングらしく進んだ。

    「終業」の時刻が近づいた。

    「それでは皆さん、次にお会いするのはいつになるかわかりませんが、この場で学んだことをしっかり胸にとどめてがんばっていって欲しいと思います。」

    私は静かに、ごく月並みなあいさつを手みじかにした。するとメンバーの中で、いちばん力もキャリアもある人が、冒頭のように言ったのである。

    「先生、それはさびしいですね。」

    「・・・・・」

    「このあと、私たちだけでセッションをやると、けんかになってしまい、まだうまくゆかないかもしれない。」

    実はこの人は、アクションラーニングが始まった当初は、実は

    「また社長の思いつきでこんなこと始めて、いったいなんになるのだ」

    と言う顔をしていた。それが最後にはこう変わった。と言うより、既に自分自身の問題提示が問われた2度目の会合からそのように変わっていた。

    「・・・・・まあ、どちらにしても、自律してやってゆく時期は必要ですから・・・・・。いや、私はこれまでも横合いから支援してきただけで、皆さんは自律的な動きをしてきたと思っています。」

    「うまくゆかないときはまたきてくれるのですね。」

    「・・・・・いや、そうならないように願っていますよ。」

    「はあ・・・・・」

    「ただ・・・・・」

    「・・・・・」

    「ただ、仕事の連携、協調なら私はそんなに心配はしていないのですが、人の成長と言うことになると、もっともっと長い期間で見ないといけない。」

    「・・・・・」

    「だから私は、仕事の成果とは別に、皆さんが今後どう変わってゆくのか、正直に言うと、もう少しそばで見ていたかった。」

    「・・・・・」

    「まあ、それもこれも含め、今度お目にかかった時には、すっかり変身していてくださいよ。」

    今度は、よりキャリアの浅い数名のほうを見て言った。私に視線を移された彼らは、少しだけはにかんだような表情をした。

    会社を辞去するときには、少しだけ思春期の卒業式の帰りの家路のような気持ちがよみがえって来た。私は日々現実の泥沼の中で過ごすごく平凡な中年男に過ぎない。が、胸中をさわやかな風が吹き抜け、何やら希望がわいてきたような気持ちだ。きっと受講者の方々も同じに違いないと思った。アクションラーニングには、不思議な力を神様が宿してくれたようである。

  • 実戦問答No.22:毎日が混沌なのがあたりまえと思えば

    〜アクションラーニングセッションとマネジメントの日常〜

    以前、管理職昇進後の研修としてある会社でアクションラーニングを行った。終了際に、ひとりひとりに今回研修にて学んだことを簡単に述べてもらった時、ある受講者が、こう言った。

    「昨日の午前中のぼくのセッションの時に、先生(横山)に言って頂いたことがずっと頭から離れません。」

    「・・・・・」

    「先生が、混迷に混迷を重ねた私の問題をお聞きになって、セッションの終わりぎわに『これからマネジャーになると、混沌、カオスが日常になるのでしょうから、そう簡単に問題が区切れてゆかないでしょうね、それはとりもなおさずあなたが本当の管理職らしくなったと言うことでしょう。』とおっしゃいましたが、私の今の心境にズバリでした。昨日今日のこの心境を、今後ずっと大切にしてゆきたいと思います。」

    この人は、課長になる前から私は存じ上げている。ばりばりの営業マンと言う表現がほぼ当たっている人だった。と言って、ただ売って来るだけではなくて、顧客の要求に応えるために、技術部門や生産部門と、いつも精力的に折衝していた。と言うよりイニシアティブを取っていた。こう書くと、完全無欠のように思えてしまうが、もちろん弱点のない人間などいない。あまりに深く他部署の問題に漬かりこむため、効率的とは言いがたい。時々上司は渋い顔をしていた。要するに活動的だが、計画性は今一歩と言うことだ。

    その彼が、今度は管理職昇進とほぼ同時に、重要拠点のアジア某国の現地合弁企業の副社長に任じられた。とたんに仕事が社内政治まみれになった。現地の社長、合弁先の株主との調整はもちろんやさしくはない。その上、日本側からの指示が時に全く現地の事情に符合しない、つまりはトンチンカンなこともある。そうした時には現地の経営陣との間に深い葛藤が生じる。その場合、現地の側の実情に基づく利害を自分が時には代弁しなければならない。日本の役員級の上司からは、「おまえはどっちの人間なのだ」と聞かれてしまう。他の現地企業との商売上の競争は、国内とは比較にならないくらい「えげつない」手法が横行する。つまり今回研修の彼の問題は、そうした政治まみれ、ガバナンスのぶつかり合い、商売上の泥沼にひたって「いったい自分はこの先どう言うポジショニングで仕事をしていったらよいのか」と言うのが彼の問題提示だった。
     

    彼は言う。

    「(課長になる前の)今までの自分はいくら売ってきたとか、どんな新規案件を取ってきたとか、それを垂直立ち上げできるよう、関係者を巻き込んでゆくとか、ともかく前を向いてがりがりやってさえすればよかった。もちろんそれがやさしかったとは言いませんが、がんばりさえすればなんとかなるところがあった。」

    「・・・・・」

    「ところが今度の任務はまるで違う。四方八方に気を着けていないといけない。それでいていつ区切りがつくと言うこともはっきりしない。」

    「・・・・・」

    「全く、あちこちの主要都市を飛び回って、見た目にはとても国際派ビジネスマンになったようですが、やっていることと言ったら、あまりにどろどろしている。」

    「・・・・・」

    「いくら打たれ強いのが自慢の私でも、少しまいっていたところでこの研修がめぐってきました。」

    「それはよかったですね・・・・・。」

    「それで、皆さんに私の問題を共有して頂いたことはとてもありがたく思いました。だからより一層その最後に、先生に言われた言葉が胸に響きました。」

    「・・・・・」

    「そうですね、これからは毎日が混沌なのがあたりまえと思えば何でもないですよね。」

    どうやらこの人は、持ち味のストレス耐性が一層強くなってしまったようだ。

    「そう思いましたか。」

    「ええ、ありがとうございました。」

    「そのうち、逆に混沌を好むようになるかも知れませんね。はじめからくっきりしているものは何かおかしい、あやしい、と。そうなったら本物の管理職ですね。」

    「はい。」

    「それでも梅雨の晴れ間のように、時々は青空がのぞくでしょう。その青空はいつもより一層深くあおあおと見えるはずです。」

    「はあ・・・・・」

    「時には区切りが着きますから祝杯をあげてください。そうしないと・・・・・まあ、あなたは大丈夫でしょうが、バーンアウトしてしまいます。」

    「ええ、そうですね。」

    彼は最後はいつもの明るい表情でにやっとした。この人のもうひとつの長所は、ぬきどころも心得ていて、良い意味で結構ちゃっかりしている。

    アクションラーニングは混沌(カオス)に始まる。セッションでテーマとすべき問題が、整理されきってしまっていたら、もはや問題ではないのだ。自分でも本当にわからないから問題なのである。目を転じて私たちのマネジメントの日常は、変な表現だが、混沌要素が必ず一定割合で保持されるべきなのだろう。不透明で混沌とした状態の時にしか付加価値はつかない。逆に整理統制されきった状態だったら、そこにどうやって付加価値をつけるのだろうか。だから私の知る限り、すぐれたマネジャーは、たいてい混沌を好む。かの碩学ミンツバーグ教授は「すぐれたマネジャーはアナログを好む」と仰ったが、ほぼ同じ意味だと解釈させて頂いている。アクションラーニングは、そのような混沌が、素直にそのまま表出されるほどうまくゆく。今回がよい例だ。

    次に彼と会うのはいつになるだろうか。その時は経験を積んで、もっともっと大きな人物になっていて欲しいものだ。本人のため、周囲のため、この会社のために。それをこの目で確かめるのが今から本当に楽しみである。 

  • 実戦問答No.21:「本当の話」と「お茶飲み話」

    ~アクションラーニングセッションの場づくりと迷い道~

    アクションラーニングの導入や運営に関し、その場づくりの進め方において他の手法とどう違うのかよくご質問を受ける。「『○○カフェ』」、『△△ミーティング』と較べてアクションラーニングは、どんな場づくりになるのでしょうか」と。そうしたことは、実を言うとあまり問題ではない。アクションラーニングも含め、それらの運営原理は、たいてい自由、信頼(守秘義務)、支援、対等などと、まず同じだろう。小異を言い立てるほどの徒労はない。私は「アクションラーニング」と言っているだけで、「○○カフェ」でも何でも、そうした原理を体得した経験豊かなコーチが実践すれば同じ結果になるだろう。

    どうもそのようなご質問を頂く例の多くは、何らかの手法を試したがうまくゆかなかったと言う場合である。聞くと、その「場」において、私がセミナー等で話している「本当の話」が出て来ない、と言うことが多い。「本当の話」と言うのは、「自分の責任で解決しなければならない現実に差し迫った問題を、ホンネで、かつ支援的に話し合っているか」と言う意味である。

    質問はたいていこう続く。「どうしたら『本当の話』が出てくるような場になるのでしょうか。」と。受講者が「本当の話」をしてくれないと言うのは、つまりは受講者が主催者を信頼していないと言うことである。「ここでホンネを語ってあとでどんな災いがあるかわかったものではない」「この場でホンネを出したところで何も解決するわけでもない。むだだ」と言った思いがおおかたである。

    それがわかっているのだから、解決するためには、信頼して欲しいほうから、つまり主催者から受講者に歩み寄って強く働きかけるしかない。その働きかけ、説得は、うまい手法を選べばしないで済むと言うことは、絶対にないのだ。ほとんどはそこに問題がある。そうした働きかけは、上記原理を暗記しさえすれば、誰でもすぐにできると言うわけにはゆかない。コーチ役に深い経験または強いサーバントリーダーシップのいずれかが必要になるからだ。その委細は拙著「アクションラーニング実戦術」に述べたからここでは詳述を避ける。ひとことだけ言えば、私はいつも、「ここは絶対安全な場なので、せっかく忙しい皆さんが集まったのだから、ぜひ本当の問題を語って欲しい」と強く熱意を込めて心から訴えているから、受講者が「本当の話」をしてくれるのだと思っている。

    ここではそのように真正面から取り組まず、よけいに迷い道に入ってしまうケースを他山の石として述べて置きたい。

    それは、「本当の話」が出てこないと言うことで、「話しやすい話」に切り換えてしまうことだ。経験の不足したコーチ、ファシリテーターが陥りやすい迷路である。「話しやすい話」とはつまりは「お茶飲み話」であり、もっとはっきり言えば「むだ話」である。せっぱつまった日常の中に少しくらいほっと一息の「むだ話」があってもよいとは思う。が、何も研修会に人を集めてそんなことをする必要はないだろう。

    どう言うことか言うと、たとえば、「実はこういう(特定の)部下がいて、どうにも私の言うことを聞いてくれないので本当に困っている。原因はいろいろ考えられるが、私はどうしたらよいのだろうか。」と言うのが「本当の話」である。「皆さん、部下を指導育成するにはどうしていったらよいのでしょうか。めいめい思ったことを言ってもらいまとめてみましょう。」と言うのが「お茶飲み話」だ。つまりは「一般論」でもある。違う例を言うなら、たとえば顧客の厳しい要求に苦しむベテラン営業マンが、「そうしたことを当社の技術部門に相談してもなかなか取り合ってもらえない。このまま時間が過ぎてゆくと顧客との関係がたいへん悪化してしまうが、私はそれを避けるためにどうしたらよいのだろうか」と言うのは「本当の話」である。が、「当社は部門間の協力態勢が十分でない。どうしたら互いに協力し合えるのか」と言うのは、この発言の主が社長だったら「本当の話」だが、営業職だったらやはり「お茶飲み話」である。

    「お茶飲み話」は研修としては時間の空費に近い。が、もっと困るのは、それがやがて「つくりごとの話」つまりは「ウソの話」になってしまうことである。「部下を指導育成するにはどうしたらよいですか」と「一般論」を聞かれたら、誰だって理想的な、絵に描いたようなことが言えるだろう。本当の問題は、それを「本当」に実践できているかである。誰だって百パーセント理想通り実践できるわけがないのだから、そこに必ず固有の具体的問題、困り事があるのだ。それを話してもらわなければ絶対に「本当の話」にはならないのだ。

    絵に描いたようなこと(ふつうの日本語では「きれいごと」と言うのだろう)をしきりに意見交換したら、とても意識改革になり見違えて行動も変わったと言う話は聞いたことがない。そういうことをいくら繰り返しても人も会社も変わるわけがないと、誰よりも参加した受講者のほうが皆わかっている。美辞麗句は、フォーマルな会議の時だけにして、たまにしかない研修くらいホンネだけのやり取りにしたいものだ。だからこうしたことを繰り返そうとすると、受講者のほうは「もういいよ」となってしまう。かくてこうした誤用により、アクションラーニングも含め「○○カフェ」、「△△ミーティング」「グループ××」も皆役に立たないシロモノとされ、「もうカンベンしてよ、仕事に戻してくれよ」と受講者達に言われることになるのである。

    こういうのは手法の優劣でも何でもないのだ。それなのに「『□□ダイアログ』」で失敗したので、今度は『●●ラーニング』がよいのでしょうか」などと質問されても、私も答えようがないのだ。

    この迷い道と正反対に、日頃鬱積しマグマになっている「本当の話」をして気持ちがすっきりし、仲間に支援されて問題解決への勇気が湧いたらどれほど素晴らしいだろうか。そう言う時は言うまでもなく成果が達成される確率は飛躍的に高まる。そうした場になるためには、繰り返すが、コーチやファシリテーターの経験と能力に深く依存するのであって、カタカナの手法ごとの少々の違いが影響する部分などそれに比すれば無に等しい。

    さて、別に研修に限らず、私たちは、いつも上司や部下と、関係者と、「本当の話」ができる関係を築くことに深く意を用いる必要がある。もし会社中でそう言う人間関係がいたるところに形成されていれば、アクションラーニングも含め「○○カフェ」も何も、もはや必要ないのだ。各人の役割を一心に果たすだけで、必ず組織は発展するはずである。しかしそう簡単にはゆかないから研修やトレーニングをする。せめてトレーニングの時「本当の話」ができなければ、現実世界の日常で「本当の話」は決してできないのだ。私たちには、会社内外に「本当の話」をすぐさまできる人がどれだけいるだろうか。その数はまさしくサラリーマンとしての実力そのものであると私は思っている。

  • 実戦問答No.17:そんなふうにはっきり認めてめてくれたのは先生だけですよ

    ~マネジャーのオアシスとしてのアクションラーニング~

    ある会社のアクションラーニングセッションに出かけるために、前年のその会社のセッションのメモを見返してみた時のことである。するとこんなやり取りが書いてあった。

    「そんなふうにはっきり認めてめてくれたのは先生だけですよ。」

    その時のその人の、日々の現実と向き合うマネジャーらしい表情を思い出した。あの人はどうしているのだろうか。

    もう少し前後関係を書いて置こう。

    要するに彼の問題は、主力となる数名の部下の育成であった。1度目のセッションでそれを提示し、2度目のセッションで、その後の経過を語った。まあ表現がこう言ってはなんだが、一度目に聞いた部下たちの様子は、いささか自立心や向上意欲を欠いていた。かつ、それを改善しようとするには、上司である問題提示者の行動があまりにも性急で高望みであり、部下にとっては負荷がかかり過ぎていた。それを他のメンバーから質問され、気づかされ、深くふり返った。その後、より堅実な育成行動に切り換え、かつ一層上司としても、彼らの悩みの次元に降りていってそれを共有するよう努めた。その結果、部下たちに、ずいぶんと自律的な行動が増えた。その雰囲気が、2度目のセッションで、私を含む他のメンバーに強く伝わった。

    「部下の方々の意識がずいぶん変わったようですね。」

    「そうです。手応えを感じています。」

    「どうしてそう変わったのですかね。」

    「いや、それは・・・・・」

    「それはあなたのほうが変わったからでしょう。」

    他のメンバーがうまく合いの手を入れてくれた。こういう雰囲気はまさしくオトナのマネジャーのセッションである。さらにこう言っては失礼だが、この問題提示者は、典型的な厳父型のマネジメントに見える。だから、よく短期間にそこまで行動を変えられましたね、と皆思ったことだろう。全く教科書に書いてある通りの情景だ。「人を変えようと思ったら自分が変わらねばならない。」しかし、この言葉を知っただけで自分を変えられる人はめったにいない。アクションラーニングはそれを実現する一法ではある。このように仲間の共有と支援があって人は変わりうる。

    「ええ、まあ・・・・・」

    少し照れ笑いをしている。私だっていいトシをして他人様に、あなた変わりましたねなどと言われたらさぞ恥ずかしいことだろう。

    「ただ・・・・・」

    「はい。」

    「部下の意識が変わったことを、そんなふうにはっきり認めてめてくれたのは先生だけですよ。」

    「はあ・・・・」

    今度は私が黙らなければならない。

    「先日、担当役員に成果の現れ方が遅いと言われましてね・・・・・」

    お顔に「今、変化の途上なのだからあわてないで欲しいと言いたかったのですよ」と少し悔しさがにじむ。しかしそう言えば余計混乱するかも知れない。マネジャーの任務と言うのは、半分が忍耐なのだろう。特に彼の担当部署の仕事は足の長い仕事であり、現在の成果がいつ努力した結果なのか、今努力したことがいつ成果に結びつくのか、簡単に捉えることはできない。いや、現代の少しはまともな組織の中の仕事なら皆そうである。

    そうした脈絡の中で、緩衝、防波堤としての苦しい役割をマネジャーは果たす。そう言うことを何年かやると、苦しさは消え、むしろそうした日常こそが、本質そのものとも感じ、おのずとマネジャーらしい風格とお顔になる。アクションラーニングは、こうした時、旅路の途次のオアシスとなる。他にもいろいろあるが、これは重要な効用のひとつである。仲間の支援の気持ちあふれた質問は、オアシスの木陰で汲んで飲む水である。その味は、一生忘れないかも知れない。彼もきっと上記の様子をよく覚えていることだろう。マネジャーだって誰にも言えないことがあり、それを吐露すれば、また勇気がわくと言うものだ。

    「・・・・・」

    全員黙るしかない。それもほんの数十秒だった。本人は、すぐまた、からりとしたお顔に切り替わっていた。

    「今の部署もあと何年かでしょうから、それまでどれだけ人を育てられるか、ですね。」

    「・・・・・あなたのご苦労は、ここにいるメンバー全員がみな共有しました。」

    「そう、それを心の張りにしてもう少しがんばってみますよ。」

    あの人は、今も苦闘しながら、少しずつ人を育てているのだろうか。

  • 実戦問答No.16:セッションにおけるメンバーの同意

    ~アクションラーニングは誰のためのものか~

    このところ、アクションラーニングのコーチをしている方々から、「問題再定義」「行動計画」などで、どうしたらじょうずにメンバーの同意が取れるのだろうかと言う質問が重なった。

    私はそうしたことでほとんど悩んだことがない。それは私がコーチとしての技量が優れているからではなく、セッションを行うときのメンバーに恵まれているからである。「同意を取る」と言うとひどくおおげさに聞こえるが、そもそも、セッッションが始まってたとえば1時間も経過して、メンバー間に問題が深く共有されていないとすれば、そのこと自体が大いに問題であり、コーチの技量が問われる。私は「このままでは所定時間に問題の本質の共有が十分に進まない」と判断したときは、コーチは、ファシリテーションだけでなく、メンバー代行になって、局面の途中からどのメンバーよりもじょうずに質問ができなければならないと言う立場を取っている。だから共有が進まないのはコーチの責任なのだ。

    コーチが自ら質問をするのがよいとか悪いとかそう言う議論が好きな人もいる。が、申し訳ないがはっきり言って浮き世離れした論議である。研修を主催し、私のような外部コーチを呼ぶ組織の側から見たら、この当否は明白過ぎる。問題解決も進まず、学びもふり返りも、そして問題の共有も欠いたセッションとなり、その理由は「集まったメンバーがf現時点ではそこまでしかできなかったからです」などと言うのでは、全くの無為であり責任放棄である。こうした時は、コーチ自身がどのメンバーより、問題提示者の問題の中に深く入り込める質問ができなければならない。必要な時にそれができないのでは、司会者ではあってもアクションラーニングコーチとしての最も重要な要件を欠いている。以上は、社員の貴重な時間を費やす以上、社内コーチでも基本的には同じである。

    もちろん、私が行っている場合でも、問題の再定義の表現は、メンバーが違えば皆違う。実際には、現役のマネジャーやそれに準じる方々とアクションラーニングを行うときには、私は、それら全部を聞いて、本質において大差ないと思えば「問題は共有できましたね」と聞く。まずめったに不同意は出ない。と言うより問題の本質が共有されている雰囲気がなければ、時間が来たからと言って機械的に「問題再定義を書いてください」とは言わない。では時間がいくらあっても足りないかと言うと、私の場合は、たいてい丸1日、2日と研修で時間をお預かりしているから、内容が複雑なセッションもあるし、それほどでもないものもあるから、柔軟に調節している。今日1回だけで2度と行わないセッションで、時間が限られており、おそろしく問題が複雑だと言うときは確かに難しい。コーチも渾身の集中力で運営しなければならない。が、私は基本的にあまりそうしたことは引き受けない。1日研修に費やせない場合なら1カ月置きか2カ月置きか、最低何度か同じメンバーでセッションを行うようにしているのである。だからやはり調節はできる。以上は例外を言い過ぎたようだ。ほとんどの場合、所定時間内で共有はできる。

    拙著「アクションラーニング実戦術」にも書いたが、だいたい「不同意」が乱発するのは、「自己愛メンバー」が多いときである。自分が一生懸命質問したり、意見を言ったことが、問題提示者の再定義表現に反映されていないと、面白くないから、やたらと不同意と言う。もっとはっきり言おう。こう言う現象は、会社外の専門家にしかまず起きない。この情景も、偉大なアクションラーニングの創始者レグ・レバンスのテキストに書いてある通りである。自分のプライドにかけても「不同意」というわけだ。そして私も、自分のクライアントでななく、偶然呼ばれた場でこう言うシーンに遭遇してしまうと、口には出さないが、「なんとまあむだなことに労力をかけるのだろうか。セッションに許された時間は本当に貴重なのに」と天を仰ぎたくなる。

    時間がむだになるだけならまだいい。取り返しがつかないロスも生じる。問題提示者は、さすがにそこまでのプロセスで、いろいろ深くふり返ることができていることが多い。だが、この再定義の表現があっているあっていないと言うつまらない問答を繰り返すうちに、そのせっかくのふり返りがどこかに消えてしまうのである。それはそうだろう、共有してもらっていると思っていたメンバーから「あなたの再定義はわからない」と続けざまに言われるのだから。輝きかかっていた本人の表情が、セッション開始時点の曇った迷いの表情にみるみる戻ってしまう。これは本当に残念なことだ。だから時間がむだになり、しかも残念な思いをするので、極力そうした専門家の方々とのアクションラーニングセッションにはおつきあいしないようにしている。

    ひるがえって、日々、繁忙の実戦の中にいるマネジャーやその候補者達は、中身が的が当たっているのに、いちいち表現の違いを言い立てて同意だの不同意だのと言うほどひまな人などはいないのだ。たまには、プライドではなくて、性格的にそういうことが気になってしかたのない人もいる。他のメンバーに「そんな細かいことにこだわって困ったものだ」と言う表情をされたり、時には「おまえ、もういいだろう」と友情を込めて苦笑失笑されるから、言った人も気づき、場はもとどおり支援や学びに満ちた雰囲気にすぐ戻れるのである。私はメンバーに恵まれていると最初に言ったのはこの意である。上記のような専門家たちのほとんどは、こうした現実の実戦が問われるセッションに漬かったことがないのだ。それは申し訳ないが、ひとめでわかる。そして、どうでもよいことをいつまでも言っていたら、1日だって現実世界のマネジャーは相手にしてくれないのだ。

    本当に問題提示者本人が、いわば勘違いをしたまま再定義場面を迎えることは絶対にないとは言わない。が、100セッション行って、2、3度ではないか。逆にそうした時には、メンバーは、堂々と不同意を伝えればいいし、コーチも何も調節する必要はない。それで大いに本人は良い意味でショックを受け、勉強になるからである。

    めいめいの組織外の専門家が、どのような主張をしようとその人の自由だから、私がとやかく言う気は全くない。が、困るのは、そうした方々が、これから社内コーチをやろうと言う人に、再定義場面などは、些細なことでも納得がゆかなければ、どしどし不同意を出せばよいと教えてしまうことである。だから冒頭の質問につながる。

    こうした考えは、アクションラーニングの本質を見失っている。アクションラーニングは問題提示者への支援が第一の果たすべき機能だ。それでは不足だと言う「専門家」もいるし、もちろん発展的にはその先(チームビルディング、組織風土改革など)があってよいのはもちんだ。が、「その先」はこの入り口を経ない限り絶対にやって来ない。すぐ「その先」を言いたがる「専門家」ほど、この入り口を、コーチとして技術的にしっかりできているかと言うと疑問である。

    その第一の機能に照らしたとき、問題提示者の再定義の表現が、あるメンバーにとって気に入るか気に入らないかなどは、事の本質と何も関係ない。本人がどうやら問題の本質にゆきつき、解決への勇気ある一歩を踏み出しそうなら、表現が何であれ「同意」をする。これがまともなオトナの支援の態度である。逆に言えば、そうした雰囲気をつくりだすのがアクションラーニングコーチの大切な役割なのだ。

    偉大なレバンスのテキストには、そのようなマネジャー達の態度に、「sober」「deliberative」などの単語をあてた表現が折々用いられる。「sober」の原義はお酒を飲んでいない「しらふ」であり、落ち着いた冷静な様子を指している。「deliberative」は思慮に富んだと言うことだろう。日本航空の会長になった稲盛和夫氏は日本人で現役最高の経歴を持った経営者だろう。そのご壮年期の迫力あるご著書は私も随分読ませて頂いたが、そこには氏の人材を見る価値観として、しばしば「深沈重厚、これ第一等の才」と言う中国の明の末期の、呂新吾の言葉が引用されていた。すぐれたマネジメント行動と言うのは、洋の東西とはあまり関係ないらしい。

    私は言いたい。アクションラーニングとは日々の実戦の中に過ごすマネジャー、組織人たちのものである。行動科学者や会社の中のことをよくわかろうとしない外部コーチ達のためにあるのではない。頭の中でこね上げた鋳型に、マネジャーたちをはめこむのではなく、厳しい実戦の方に、私たちが合わせてゆかなければ、アクションラーニングは真の効果を発揮し得ない。

  • 実戦問答No.14:1年前のことをどうしてそんなに覚えているのですか

    ~アクションラーニングとコミットメント~

    あるアクションラーニングセッションでこんなことがあった。

    実は、この会社は、概ね1年に1度アクションラーニングを全管理職に対して行っている。あるメンバー、仮に島田さんとしよう、彼の問題は、部門間にまたがる課題に関し、なかなか会社方針を理解した行動を取ってくれない関係部署のある専門職との関係構築に関するものだった。努力家だが、ちょっと変わり者で、しかし弁は立つと言う。「強敵」である。要するに、島田さんの課題を展開してゆくためにはその人と前向きなコンセンサスを得なければならない。セッションが展開したある段階で、私が質問をした。

    「その人は、去年の研修の、小川さんの問題に出てきたあの人と同じ人物ですか。」

    ここにはその小川さんもいるし、島田さんと小川さんは、去年もアクションラーニングで同席している。

    「そうです。先生、1年前のことを(部外者のあなたが)どうしてそんなによく覚えているのですか。」

    「・・・・・」

    私は無言で微笑して返答とした。

    どうも最近アクションラーニングを「会話マナー術」と取り違えているようなコーチが増えてきて、いかがなものかと思っている。それはともあれ、コーチが、クライアントの信頼を得るためにいちばん大事なことは、会話術ではなくてコミットメント、深い関与なのである。1年前に同じクライアントでどんな内容のセッションをしたのか覚えていない、事前に確認していないと言うようなことでは、とてもプロのコーチ、人材開発に任じる者とは言えないのだ。ごく一般論として、その時々に思いついたことだけを話している人に敬意を払う人がいるだろうか。

    私の場合は、たとえば過去5年つきあったクライアントのアクションラーニングに臨むのだったら、少々骨が折れるが、その5年分のセッションの記録を全部読み直す。参加メンバーが全く変わっても、である。すると、セッション中の判断のスピードが全く変わる、つまりとても速くなる。コーチの判断の速度と受講者の学びの質と量は間違いなく正比例の関係にある。2次関数的に増えると言った方が私の実感に近い。こちらが2倍留意すれば、ふり返りの深さは4倍になると言うことだ。逆を言えばすぐおわかり頂けよう。意味がわからないことをいちいち聞きただすコーチ、意味がわからないので、ただ黙って受け流しているコーチと較べてみて欲しい。どちらも、受講者の学習とふり返りに益をもたらさない。

    このあともう少し会話が続いた。

    「先生は、記憶力の訓練でもされているのですか。」

    「いえいえそのようなことは・・・・・」

    私は自分の使命に忠実であろうとしているだけです、と言葉を呑んで、話を別方向にしたい。

    「それで・・・・・」

    「そうなのです。同じあの人なのですが・・・・・。」

    「それで、小川さん、あなたのほうは、その後その人との関係改善は進んだのですか。」

    「ええ、まあまあです。」

    「まあまあ、と言うのはどう言う・・・・(笑)」

    「一進一退ですよ。まあしかし、前よりはよくなりましたね。いろいろはっきり伝えたから。」

    「そうですか。それはよかった。そこで、小川さん、今日の島田さんの問題を聞いてどう思いましたか。」

    「ええ、大変ですね。内容が、私のときより錯綜している。」

    「島田さんに今、助言できることがあれば、ぜひお願いします。」

    「そうですね・・・・・」

    このあと小川さんは、1年前に自分の取った問題解決行動を引用しながら、今回の問題解決への助言を語った。島田さんは、じっと小川さんを見つめながら、真剣にメモを取ったことは言うまでもない。そして島田さんは、活き活きと小川さんにいくつかの質問をした。この場合、問題提示者の島田さんの学びが深まったことは言うまでもない。が、見逃してはならないことは、語った小川さんと他のメンバーの学びの合計量は、はるかにそれより多いと言うことである。

    どんな場合にも歴史にまさる教材はないのだ。小川さんは、ごく最近の「自分史」を語った。アクションラーニングの創始者レグ・レバンスがまさしくその著書に描いた情景のように、スレート板に書きなぐったメモを、注意深くなぞってていねいに読み返すようにして、それを他のメンバー全員に伝えた。こうした時、語り部となった小川さんのふり返りがどれほど深いかは横で見ていればすぐわかる。そこにはその組織固有の珠玉のようなストーリーが一杯詰まっている。だから当事者二人だけでなく、その場の全員が深くそれを学んだ。

    そしてその貴重な学びを、少々の楽屋裏の事前準備ををしたファシリテーター(筆者)が誘発させた。自画自賛で申し訳ないが、絵にかいたようなアクションラーニングの場面をつくれた。こう言うときは本当によいセッションになる。こうした会話が積み重なるほどに、メンバー達は、どっぷりとセッションに漬かり込む度合いが深くなる。そうするとチームの成熟も早まる。

    もちろんコーチとしては、この時もそうだったが、帰り際に、「本当に今回もやはりあなたに来てもらってよかった」と言う態度でクライアントにご感謝を受ける。この世界で仕事をしていてこれほどうれしい瞬間はない。この仕事は、現場以外には、どこにも値打ちはないからだ。

    「日常の仕事中にはあり得ない濃密な時間を過ごすことができました。」

    これがこのセッションの、事実上リーダー格のメンバーの最後の感想だった。

  • 実戦問答No.13:せっかくがんばったのにむだになってしまったのですね

    ~共有の深さとアクションラーニングセッションの成熟度〜

    ある会社のアクションラーニングセッションで、こんなことがあった。

    その問題提示者メンバーは、ある業務の改善をしなければならないと指示されているマネジャーである。色々質問されると、改善の筋道もそれなりの頭に描いているようだし、キャリアも十分だ。「じゃあ、あとはやればいいじゃないですか。」セッションにこんな雰囲気が漂い始めた。

    が、どうも本人の表情が冴えない。「どうしたのですか、そんなお顔をして」とおたずねすると、実は数年前にもそのような取り組みを指示されていた。ずいぶん時間をかけて分析立案したが、結局色々な社内政治的状況の変化でうやむやになり、「すっかりむだになってしまった」。今回風向きが変わり、再びの指示となった。が、またどうなるかわからない。「だから今度はあまりやる気がしない。どうせまたうやむやになってしまうのだろうから・・・・・。」と言う。

    コーチであった私は、このあと黙って様子を見ていた。この次どんな展開になるかが、セッションの成熟度が現れるところだ。このセッションは、まだ日が浅く「若い」。案の定、他のメンバーから「あなたがそんなことを言っていたらいけないでしょう」「以前は以前でしょう」「組織の上を動かしてゆくことがあなたの役割ではありませんか」と言った前向き、建設的な質問ふうな意見が次々出てきた。

    まずここで、特にアクションラーニングコーチを勤めようと言う人に言って置かねばならないことがある。上記のような発言は、「意見なのか質問なのか」などとただすことは、全く意味がないと言うことだ。大事なことは上記のような発言が、問題を共有しよう、問題提示メンバーを心から支援しようと言う意思により行われているか、だけである。そうなら、黙って見ていればいいし、そうでないなら、介入すればいい。黙って見ていれば良いときに、「意見になっていますから質問の表現に変えてください」などとコーチが介入するのは全くの時間のむだであるばかりか、メンバーの習熟度が高い時には「?」と言う表情をされ、セッションのリズムがすっかり狂う。

    この場は、まあ5分5分だった。この点が、このひとつ前の実戦問答のように「理想郷」に近づいたセッションと異なり、まだ「若々しい」セッションなのである。5分5分ならまだ黙って見ているしかない。共有、支援、学習の方向に、コーチである私よりも、メンバーの誰かが向ける方が、このチームにとって有益であるからだ。
     

    しかしこの日はそこまでは無理だった。やがて発言が「おまえやる気あるのか」「そんなうしろむきな考えじゃだめじゃないか」と、支援したい熱意があまってやや圧迫的な雰囲気になった。自分が他のプロジェクトでいかに修羅場を乗り切ってきたかを一生懸命説明するメンバーもいる。しかし問題提示者の状況、前提条件と符合していない。人は自分の成功体験から逃れがたいと、アクションラーニングの創始者レグ・レバンスは繰り返し訴えたが、まさしくその通りの場面だ。それは私も当事者だったらきっと同じことかもしれない。この場合は私が、外部コーチと言う立場で一歩距離があるからそれがわかるのである。

    ここで「まあまあ」と私が介入する。次に私が何と言ったか、アクションラーニングに興味をお持ちの読者にはひと呼吸置いて考えて欲しいところだ。私はこう言った。

    「お顔色が冴えない理由をお聞きしたら、せっかく守秘義務がらみのホンネを語ってくれたのです。私たちはそのつらい彼女のホンネを、まずしっかりと受け止めましたか。」

    「・・・・・」

    メンバーが静かになった。

    「彼女のお気持ちを私たちは共有したと言えますか。」

    同じことをもう一度聞いた。

    「先生、私たちは共有しているつもりですが。」

    「だとしたら、いきなり『もっとがんばれ』と言う前に、たとえば、『そう、せっかくがんばったのにむだになってしまったのですね、それは残念でしたね』と言った質問が、どなたかから出ましたか。」

    「・・・・・」

    「以前だめになったのは、どう言う具体的経緯があったのか、どなたか質問しましたかね。」

    「・・・・・」

    ここで2、3のメンバーが、はたと膝を打つようなしぐさをした。

    「そうですね、やっぱり私たちは共有が足りなかった。せっかくの研修会なのだから、まずそこですね。」

    「そう、そこをしっかりしないと、どんな前向きな提案を言われても、問題提示者はよけいに浮かない顔になってしまいますよ。」

    ここで場が深呼吸をするように、全メンバーが、いったん無言で態勢を整え直した。時間にすれば十数秒のことだろう。そのあとが不思議だった。問題提示のマネジャーが、自らこう言ったのである。

    「いえ、皆さんのご支援のお気持ちはよくわかりました。どうせ何をやってもうまくゆかないだろうという私のネガティブ思考がよくなかったのです。これからはもっと前向きに物事を考えてゆきたいと思います。」
     

    深呼吸して改めて共有したことが、セッションの成熟度が一歩深めたようである。このメンバー達は、あと何度こう言うセッションを共有すれば十分に成熟して自律し、私は来る必要なくなるのだろうか、と最後は考えていた。

  • 実戦問答No.12:何がうれしいかと言えば

    ~アクションラーニングに出かけて行って~

    アクションラーニング実施のためにクライアントに出かけて行ったとき、何がうれしいかと言えば、受講者メンバー達が、私が来ることを楽しみに待っていてくれることである。その場が、他には絶対にない自由で前向きな、そして絶対に安心できる場であると彼らが信じきっていることが私に伝わってくる時である。そう言うときは、その日のテーマも、あらかじめ自律的に選定している様子がよくわかる。こんな時私の役割は、教科書に書いてあるようなファシリテーターそのものになる。とてもきれいで結晶のように純分化された役割である。

    こんな、時間も空間も限られてはいるが、理想郷に近いようなセッションでは、良い意味で全く健全な空気の中で、時に私の介入や質問などまるきり相手にされない時もある。それは彼ら現実に責任を負うメンバーたちが、本来部外者である私を真にアソシエイツ、同朋的なメンバーとして受け入れてくれている何よりの証左だと思っている。これは筆では説明し尽くせない。これほどアクションラーニング・コーチとしてここちの良い瞬間はない。

    しかしそのような場になるには、最低半年はかかるだろう。それまではメンバーもコーチも苦しい道のりを経なければならない。

    何事も粘り強い根気が必要なのは当たり前だが、それにしてもえらいと思うのは、こういう場をつくってくださった経営者や部門長の方々である。これまた、学習する組織のテキストには、人を育てたいと思ったら、「カブを毎日引き抜いて、どれだけのびたか見るようなことをしてはいけない」と必ず書いてある。それが実践できる組織は残念ながらさほど多くはないのだが、そう言う方々にはそれを可能にするパワーや、見識、もっとはっきり言えば高い人格が備わっている。そうした方々は、そんな教科書の細部に何と書いてあるかなどはきっとご存じないだろうが、長く厳しい風雪の体験が、そうした見識と忍耐力をを醸成するのである。

    もうひとつ、私のようなコンサルタントをやっていて何がうれしいかと言えば、そうした方々とのご縁故が、ひとり、またひとりと増えてゆくことである。

  • 実戦問答No.2:どうしてぼくにはこのような鮮やかな変化が起きないのですか

    ~アクションラーニングの機縁~

    以前に、あるクライアントで、再度のアクションラーニングを行った。休憩中、その日に既に自分の問題のセッションを終えたある若手マネジャーに話しかけられた。

    「先生、これ何度も読んでみましたよ。」

    有り難いことに拙著「リーダーの質問術17手」を精読頂いたようである。それは有り難かったのだが、次の彼の質問には、私は飲みかけのお茶にむせてしまった。

    「でも、先生、どうしてぼくにはこのような鮮やかな変化が起きないのですか。」

    彼は真剣なまなざしである。同時に自分の力に十分自信が持てない気弱さも表情に少し現れていた。拙著には、アクションラーニングをきっかけに行動を変えていった人のストーリーが何例か詳しく載せてある。それにしてもこの問いかけには周囲にいた同僚達も大笑いだった。

    「先生が次の本を書く時、『最も成長に手間がかかった生徒』、として書いてもらえよ。」

    などと言う人もいる。

    このからりとした空気をどうか味わって頂きたい。アクションラーニングが習熟するとこうした空気が醸成されるのだ。めいめいの内面の殻を破ったこうした空気が、問題解決を、リーダーシップ能力向上を推進するのだ。

    さてこの人は俗に言う「ハートのいいやつ」で周囲から慕われていることもまたこの様子でよくわかる。逆に人の痛みがわかり過ぎて、ついかんじんな時に優柔不断になる。この手の人は確かに鮮やかな変化と言うより、経験を積み時間をかけて変わることが多い。が、その代わり円熟味も深くなるものだ。と言って、今を悩んでいる。

    「いやいや・・・・・」

    私は弱りながら話を続けた。

    「人の成長には機縁と速度がありますから・・・・・」

    「何ですか、そのキエンって。」

    「つまり、私はいつも言うのですが、人の成長は、緩い坂道をじょじょに登って行くようなものではなく、ある節目では、ぽんと跳ね上がるし、そのあとはまたしばらく平行線が続いたりと、そういう意味です。」

    「・・・・・その節目が、私にはいつ訪れるのですか。」

    「それは・・・・・」

    明日かもしれないし、1年後かもしれない。だからと言って、今から変わろうと思って行動しなければ、1年が3年にも5年にもなってしまうかも知れない。そう言う意味のことを伝えた。

    「そうですか。つまり、もう少ししんぼうですね。」

    「そう、今の続けていれば、必ず、ああ自分は変わったのだ、成長したのだと実感する瞬間が来ますから。」

    既に彼の日常の努力ぶりは知っている。

    「先生ね、アクションラーニングセッションをやったあとは、とても気持ちがすっきりして、さあ自分は変わったぞと思うのです。が、戻って忙しさにまみれるとまたいつも自分に戻ってしまうのです。」

    「・・・・・」

    「ついついみんなの言うことを聞き過ぎてしまい、気がついたら自分の元の考えがぼやけてしまうのですよ。」

    それはこの人の良い面でもあるのだから難しい。そうした態度で、しっかり事業運営のインフラを支え、部下が仕事をしやすい環境になるよういつも懸命に努力する。が、時にその状況判断が甘くなったことを本人も反省する。組織として必要な利害得失を貫徹する姿勢が少しだけ薄くなるのだ。それは部下から見たときには人間的魅力でもあるのだが。この弱点は、さきほどの正規のアクションラーニングセッションの中でも随分他のメンバーから、本当に支援的に質問され指摘された。だから今はそれを繰り返すこともない。

    「そうは言っても、今日聞きましたが、前回の問題は解決したのでしょう。」

    「そう、でもずいぶん上司と部下に助けてもらいました。」

    「助けてもらうよう働きかけたのはあなたではありませんか。」

    「そうです。」

    「今までなら?」

    アクションラーニングを経ていなかったら、の意だ。

    「抱え込んでもっと遅くなっていたでしょう。」

    「そう言うのは、あなた自身が変わったと言うのではありませんか。」

    「そうですか、そんなものですかね。」

    「だから先はまだ長いとしたって、まずいったんは自分のことを自分で認めてあげないと。」

    「まだ実感が薄いので・・・・・ぼくはもっとはっきり変わりたいのですよ・・・・・。」

    「そうですか・・・・・」

    私にもそう言う時期があったから、よくわかる。ここは彼の気持ちを受け止めるしかない。

    「・・・・・」

    互いにしばしの沈黙の後、彼は、最後にはまたほがらかないつもの笑顔に戻った。何十人も部下を使っている時の彼の本来の表情だ。

    「でも先生、何でしたっけ?」

    「機縁。」

    「そう、それが来るまで待てばいいのですね。」

    「そうです。できればあまりそういう結果ばかりを意識せずに、皆さんの質問をいつも念頭に置いて目前の問題に当たりながら・・・・・」

    「わかっていますよ。また先生、話し相手になってください。」

    「ええ、もちろん。」

    ほんの数分の会話であった。彼の目が、きらきらとした輝きを取り戻していた。私はこういう目を見たいからこの仕事をしていると言っても過言ではない。まもなく次のセッションが始まる。

    「このあとは、ほかの人のために、スルドイ質問でまた場を盛り上げてくださいよ。」

    「ええ、任せてください。」

    アクションラーニングは素晴らしい活動である。その基本的なパターンは、幾点かの拙著に述べた。そんな中で、こうした向上心の強い読者兼受講者に、少々「いや参ったね」と言う質問を受けてやり取りするのもまた、私にとって替えがたい余祿を頂戴していると感じている。もちろん彼のお役に立っている限り。
     

    さて彼にはその後「機縁」が訪れたのか、近いうちに確かめてみたい。