カテゴリー: アクションラーニング連載記事

  • 月刊人事マネジメント連載記事その6:アクションラーニングの成果を検証する

    〜連載:横山太郎が語る現場のアクションラーニング〜

    第6回 アクションラーニングの成果を検証する

    アクションラーニングは速効性が高いことを、第3回のこの稿にて述べた。普通の研修や能力開発に比して、まず何よりそれが検証された成果である。そのような成果は、真に訓練され、組織内部の実戦心理学がわかった適切なコーチに依らなければ得られないことを、第4回の稿で論じた。

    アクションラーニングにより、眼前の危機を克服すると言うのは、むしろいちばん普通の成果である。だがそれも、そうなるような「場づくり」が前提であることを第2回の稿に指摘した。前回(第5回)は、つくりあげた場にあって、供される質問が適切であれば、一層うまくゆくと述べた。こうした際、あまり時間のない時には、まず何より、本人自身の問題解決を通した行動変容に焦点が当てられるべきで、時間等の資源を十分得られている時には、組織風土変革だとかマネジメントチームビルディングに十分挑戦できると第1回で述べた。

    従って、最終回の今回の主眼は、以上のような成果の定着と言う側面である。

    危機を迎えた時ですら、人は現実をまっすぐ見ようとしない性癖を有していることは繰り返し述べてきた。それを仲間の共有、支援の上に立ってしっかりと見つめなおし、真因、本質に斬り込んでゆくことができれば、問題は解決し、人は成長する。公平に言って、ここまで、つまり仮に1回、2回の単発の研修だとしても、これは他の教育手法にはない大きな成果であることをまずご理解頂きたく思う。ここでは一層欲張った成果を述べようとしている。

    繰り返し刷り込むことの重要性

    ピンチを苦しんで乗り切った時、そのプロセスにおける学びを、私たちは明確に自分の肝に銘じているだろうか。

    そうした行動をごく自然に定着させている真の自主独行の人材になれば、もはや教育などは必要ないので、ひたすら成果業績を挙げ続けて周囲の人々を幸せにすればよい。しかし、私もそうだが、たいていの人は、喉元過ぎれば熱さを忘れると言うたとえ通り、危機を乗り切るとまるでそれがなかったかのように忘れる。そればかりか、いったん高められた自分の行動の質が、また元に戻ってしまうと言うことも起きる。これはとてももったいない。ではどうすればいいか。

    きわめて当たり前なことだが、繰り返し、そのいったん現れた良質な行動パターンを自分に刷り込み、もはや動かしがたいものとするしかない。そこまでゆくと、会社としては個々人とせめて上司の努力任せにするしかない面もある。が、望ましい行動の定着に向けて、会社が多少は支援できるとなおよい。ただ、ここに組織人教育の現状のひとつの根本的な問題があると思う。繰り返しと言うことをとてもむだなことだとして忌み嫌うのである。そして次々と目先を変えて、様々なカタカナ言葉のスキル習得にトライすることが、あたかもメニュー豊富でよいことのように捉えられる。その中には、はっきり言って首をかしげるような内容も少なくない。

    その結果、食堂のメニューを批評するように、このコースは面白い、あのセミナーはつまらない、さらにはあそこの研修施設は立派だ、食事がおいしいと言った受講者アンケートを取って研修の成果を確認しようとする。こうした状況を、かのコーチングの神様、ゴールドスミスは、諧謔をたっぷり込めてこう評する。「私たちコンサルタントや、研修施設の従業員が一層自分を高められるたくさんのフィードバックをどうも有り難う。ところで、受講者の皆さん、あなた達は自分自身についてはいったい何を学んだのでしょうか。」

    良質な行動を刷り込むには繰り返すしかないのだが、アクションラーニングはその点が大変都合よくできている。問題と言うものは、行動の質が高まろうと変わるまいと、いつも起きるからである。問題にどう取り組むかを事前事後に深く考えることこそは、その人の能力開発を定期実施しているようなものだ。アクションラーニングは、そこにぴたりと整合して乗ることができる。ある人が、1度目のアクションラーニングにて、仲間の共有、支援により切実な問題を克服したとしよう。数カ月して、同じメンバーでもう一度フォローアップ研修を行い、その人が、その時点の新しい中身の違う問題を提示したとする。本人は、前回よりもっとひどい問題で、本当にまいったよと訴える。

    他の研修と異なるのは、ここまでのプロセス自体を、1度目の研修とほぼ同じくらい新鮮な意識で取り組めると言うことだ。なぜなら、問われている本質は同じであるが、論じる事例の内容が全く異なり、かつ自分が当事者であるからである。他の研修では、全く同じ形式で繰り返して同じくらい新鮮になると言うことはまずあり得ない。たとえケーススタディを変えても、そうはならない。それほど自己固有の問題は、ここでもインパクトが強いのである。

    問われている本質とは言うまでもなく自分の行動がどう変わったかである。見事鮮やかに変わっていればよい。もちろんそういう人もいる。しかし、そうでない場合もある。セッションを1,2時間行ったあと、他のメンバーが「君、どうも問題の本質は前回と似ているようだね。」と言うときもある。どう似ているのか。要するに、無意識に自分の弱点が作用していたり、見たくない現実をしっかり見すえていないと言った、行動の質のことである。かんじんなことは、言われた方も、前回よりはその自覚がずっと速くなる。「私も今しゃべりながらそれに気づきましたよ」などと言う人もいる。そういう意味では正確に言えば変わっていないのではなく、変化途上にあるのである。こう言うことを幾度か繰り返してついに人から言われなくても、問題解決に取り組む前に気づく自律人材となるのである。

    そうして、一人また一人、自律の気配を濃くしてゆく。やがてメンバーのおおかたが、ごく自然に「もう先生(コーチ)に来てもらわなくてだいじょうぶだ」と感じる瞬間が来る。私はその時その組織を辞去する。また、時間を置いて彼らにお会いして、自分で敷いた軌道の上を大きく成長しているご様子を見るほどの喜びはない。

    現場への深い関与と情熱が大事

    コーチの重要性を述べた第3回の原稿で引用した、デービッド・ケーシーは、行動変容の真の定着には1年半から2年かかると言っている。そして彼は言う。「重要な社員達がそのように変化するために、コンサルタントを10日や20日呼ぶコストなど物の数ではない。」仮に20度呼んだとしても、幹部候補生の社員の幾人もが、向後10年20年行動を自律的に変えられるようになれば、その経済的効果は、まず数百倍はあるだろう。但しその10日間なり20日間を、新奇のカタカナスキルを身につけるためではなく、意味のない形式的な報告書づくりに奔命せず、自分自身と仲間の行動を深くふり返ることにどっぷり漬かって用いたらの話である。

    だから私は、何の条件もないなら、最低半年、できれば1年以上、毎月同じメンバーでやってみましょうと申し上げるようにしている。そのための人選が重要である事は言うまでもない。それといくら守秘義務でも、本当に1対1で向き合わなければ出て来ない話はもちろんあるので、チーム形成のために必要な個人面談も補完的に行う。時間はすぐに過ぎてゆく(しかし、コーチングのように1対1だけを続けていても、当然効果は局限される)。こうして、個人の行動変容が輪となって相乗し、最後には風土改革、マネジメントチームビルディングにつながる。

    そうは言っても機会均等を重視しなければならない大企業の教育担当者としては、以上のようには進められないことも少なくない。この場合は、階層研修として実施し、それでも初回より時間を短くしても1度はフォローアップをしましょうと申し上げてなるべく計2度は集まるようにしてもらっている。もう一度言うが、これでも、一般の研修よりははるかに速効性が高いのである。

    この場合、その上をさらに望むならどうすればいいのだろうか。理想的には、上記のような繰り返しの刷り込みを、所属部署にビルトインすることである。しかし、こうした方法は、往々にして本社向けのもっともらしい報告書を書く事が目的化してしまう。やはり教育担当者自身が深く関与して、受講者のその後の行動を確認し、励まし、支援することがいちばんである。この役割を社内コーチと呼んでもよいだろう。同じメンバーで再度集まるのは難しいかもしれない。だから、一人一人を追いかけるのだ。全員追いかけるのが無理なら何らかの基準で選べば良い。

    そうした熱意をお持ちの教育担当者であれば、逆に私は、最初からアクションラーニング研修のセッションに加わって頂くようお勧めしている。もちろん守秘義務等の原則は同様に守って頂く。他の受講者もそうした情熱をお持ちの教育担当者なら、彼をメンバーとして受け入れ、通常のアクションラーニングと少しも変わりなくホンネを語るものである。

    私はこれからの教育担当者は書類上の企画や効果計測はほどほどにして、こうした現場にもっと出てくるとよいと思っている。現場以外に価値が産まれる場所がないのは、何も製造や営業、開発だけの話ではない。教育も全く同じである。人の成長にじかに関われると言うことは、デスクワークよりも、ずっと心が揺すぶられることだろう。

  • 月刊人事マネジメント連載記事その5:アクションラーニングの成否を分ける質問力

    〜連載:横山太郎が語る現場のアクションラーニング〜

    第5回 アクションラーニングの成否を分ける質問力

    アクションラーニングの入り口は、とりあえず問題解決である。質問力の効用はまずそこにはっきり現れる。

    問題解決と言うと、すぐにロジカルツリーを書いたりする論理的思考などを思い浮かべる。あれは分析の道具としては有用かもしれない。しかし、分析と言うのは問題解決の半分でしかない。もう半分は、意思決定と実行であり、一般にこちらの方がずっと難しい。適切な質問力はそのどちらにも有用である。そればかりか、実はその前半の分析ですら、そうしたツリーなどの道具が、私たちが冷徹に現実と向き合うことを、十分に助けているかと言えば、心もとない場合が少なくない。質問はそこでも威力を持つ。

    例えば、読者にとって今いちばん重要な問題を思い浮かべて欲しい。それを分析する時に、他人に指摘されて初めて、自分が気づいていない所に本質的原因が見つかったと言う経験はないだろうか。自分にとって一番いやな事実、見たくない事実を、原因の第一としてそうしたロジカルツリーに自発的に必ず挙げているだろうか。根本と思われる原因を、上司が聞きたくない、聞けば機嫌を損じるとわかっている時に、報告書に明確に書くだろうか。このような状況から常時脱却した真の自律自在の人材は少ない。私たちは、ひとりぼっちでは、自分の立場、利害、固定観念から離れて問題だけを見つめる事は(本当はそれこそが長い目で自分の立場や利害を守る道なのだが)まず難しいのだ。まして、問題解決後半の意思決定、実行となると、そうした従来の手法は、あまり効力を持ち得ない。

    こうした人間性の本質に根ざした状況に対してほとんど唯一有効なのは、共有、支援、誠実、友情などに富んだ仲間、同僚からの質問なのである。私たちが人生の節目において大きな影響を受けたのは、肉親、親友、教師、上司その他、本当に親身になってくれた方々の自分への真摯な問いかけである。アクションラーニングは、その状況を、仕事そのものを題材にして現出させるのだと言ってもよい。

    3つの重要な質問タイプ

    私は、拙著「リーダーの質問術17手」において、こうしたアクションラーニングの本質を支える質問を17種に類型化した。それらをここで全部説明する事は到底できないので、17のうち、重要な3つの質問タイプを取り出して述べたい。

    その第一は、セッション序盤での「最重要事実特定質問」。どう言うわけか、経営者、マネジャーと言うのは「Why質問」と「べき論質問」が好きである。それが嵩じると、事実をちょっと聞きかじっただけですぐに「それはなぜか」「ならばこうすべきではないか」とつながってゆく。「なぜ」と聞くのが悪いわけではないのだが、「Why」が好きな人は、多くの場合「何(What)」が起きたのかを十分聞き取らないうちに「Why」を連発する。そうすると、出てくるものは、問題提示者と質問者それぞれの本人の限定された経験の範囲での主観や情念、当て推量、が多くなる。それらは、セッションの中盤以降ではむしろ重要なのだが、この段階では、問題解決の道筋を大きく狭めてしまう。「なぜその部下はあなたの言う事を聞かないのですか」と問う前に、「あなたがいちばんまずいと思う、その部下の行動例を教えて頂けませんか」と言うような質問の方が序盤でははるかに重要である。が、経験を積んだコーチが促さないとなかなか出にくいものだ。

    そう聞いたからと言って、すぐに最重要な事実を語る人の方が少ないかもしれない。誰しも肝心な事を聞かれたらぺらぺらしゃべれないものだ。だから守秘義務があるのだが、それでもすぐさま円滑にならない場合もある。だからそう言う事を語ってみたいと思わせる雰囲気が、質問者に備わっていないといけない。そう言う意味では、質問力は表現力ではなくて実は人間力である。世の多くの質問のノウハウ本はそこを語っていない。質問された人は、その言葉よりも、相手の、人間性や意図を見ているのだ。次に述べるタイプの質問には、そのことが如実に現れる。

    最重要事実はたいていホンネとセットになって語られる。そうしたものが出てきた時に、「なぜそんなことをしくじったのですか」などとすぐにそれを評価、判断する質問をするとどうなるか。「よくぞ聞いてくれた」となる時は少ない。それよりずっと多くの場合「何とぶしつけな」と相手に感じさせ、彼が心を閉ざす方に作用するだろう。だからそこではまず、「感情移入質問」を投げかけるのが重要である。ひどい事実や失敗が語られた時には、まずせめて「そうですか、それは大変でしたね」と言っているだろうか。いや、口にする必要もないのかもしれない。「それは・・・・・」とじっと相手の目を見つめ、痛みを共有して沈黙してもよい。だいたいにおいて必要な沈黙を欠いた対話には深みが出ない。

    感情移入ができたら、「視点切り換え質問」が重要になる。これがたぶん技術的にはいちばん難しい。逆に前号で述べたような優れた資質を持つコーチは例外なくこれがじょうずである。事態を定義し直すことは、問題解決にも行動変容にも非常に重要である。「大変お苦しいご様子ですが、つまり、あなたの能力をもってする以外、この事態が解決できないと誰しも認めているのですね。」などとタイミングよく聞けると、ぐっと雰囲気が変わる。

    日常的場面なら、部下が、全体としては不満足な結果に終えた場合、動機づけがじょうずな上司は「何ができていないか」とはすぐ聞かない。「今回できたことは何か」を先に問う。それが今回初めてできたことだったらなおよい。「そうか、それができるようになったのだね、努力したのだね」と追加して聞ける。その上で「さて、このあとどうすればよいか」と聞く。結局同じ内容を話しているはずなのに数十秒質問を回り道するかどうかで、結果が随分異なる。こう言うのが視点切り換え質問である。

    経営の神様松下幸之助氏は、このたぐいの質問が、文字通り神様のようにじょうずであった。ある部署を預かった部下が松下氏に報告に行く。「こんなにひどい問題があって大変です。どうしようもありません。」あなただったら部下にこう言われたら何と質問するだろうか。松下さんは、こう聞いたと言う。
    「君、問題は、これだけしかないんか。もっとあったらよかったな。」
    部下が目を白黒させる様子が、私たちにも目に浮かぶ。なぜもっと問題があったらよかったのか。その部下の預かった部署を一気に改革できるからである。若年(と言うより幼年)から修羅場をくぐり続けた人には、平然とこうした質問ができるようである。

    さて、他の有効な質問を含め、これらを波状的に繰り返していると、必ず問題提示者本人が、自己とまっすぐ向き合う時が必ずやって来る。「つまりは問題は自分自身の内側にあったのだ」と深くふり返る。適切に質問を活用すれば、こうした省察は必ず生じるのである。アクションラーニングは問題解決と言う入り口をはるかに越えて、意識改革、行動変容に有効と言われるゆえんである。それは、他メンバーの深い共有に基づく質問力により生じる。これがアクションラーニングの成否を最後に分ける。

    組織の運命を変えてしまう偉大な質問力

    さらに言えば組織の運命を変えてしまう偉大な質問力と言う事もある。これは経営者の領域である。経営者の仕事は、毎日が自組織の命運を賭けた自問自答である。その意味で、研修室にはあまり行かないだけで、常住坐臥がアクションラーニングである。そうした数々の事例から、私たち一般の者が、自分の仕事に、人生に関し、深く学ぶことができる。

    例えば誰でもご存じのホンダと言う会社がある。創業者は言うまでもなく天才技術者本田宗一郎氏である。しかし、誰しも必ず老いる日が来る。本田社長がいつまでもエンジンの開発技術に口を出し過ぎて若いエンジニア達が困り果ててしまったことがあった。彼らは藤沢武男副社長に何とかしてくれと泣きついた。こちらは経営の天才かもしれない。藤沢氏は本田氏を訪ねたが、技術的な事は一切聞かず、ただひとつだけ質問をした。「あなたは社長なのか技術者なのか、どちらかはっきりした方がよいと思う。どちらなのか。」本田氏はしばし沈黙ののち「自分は社長だ」とぼっつり答えたと言う。技術の問題から手を引くと言う意思表示である。

    「ホンダと言う会社が、ついに宗一郎から手離れした瞬間だった」と後に藤沢氏は語った。実際、見事な引き際と言われ、二人共に完全リタイアしたのはこのわずか数年後である。当時は最後発の4輪車メーカーだったホンダが、今日のエクセレントカンパニーになったことには無数の要素があるだろう。ただ私には、その源流に、この藤沢氏の偉大な質問があったように思えてならない。

    この本田・藤沢問答を初め、上記の松下幸之助氏も含め、真に力量優れた20余名の人物達の質問の偉大な影響力を、拙著「カリスマな質問力」に描写させて頂いた。この稿にご興味頂いた方にはご参照頂きたい。

  • 月刊人事マネジメント連載記事その4:アクションラーニングコーチの決定的な重要性

    〜連載:横山太郎が語る現場のアクションラーニング〜

    第4回 アクションラーニングコーチの決定的な重要性

    コーチでなければ起こし得ない変化

    アクションラーニングにあっては、コーチがいなければ起こし得ない変化、意識改革ということがある。

    デービッド・ケーシーという人がいる。アクションラーニングの偉大な創始者レグ・レバンスのお弟子さんである。彼は論文の中で既に30年以上前に、それを述べている。問題を保有したメンバーが、問題の本質に直面することを避け、自分の殻の中にこもろうとしているときに、それを破るよう支援できるのは、多くの場合ファシリテーター(コーチ)だけだ、と。

    多くの場合と言うのは、他のメンバーの中にそれをする人がいればコーチがしなくてもいいと言う意味だ。ケーシーが言ったように、私も経験上その確率は低いことを知っている。なぜだろうか。メンバーは、通常は、会社の同僚または何らかの友好的関係にある者どうしである。ある同僚が、問題に真正面からぶつかるのを避けていると気づいたとしても、それを正すよう促すのは勇気もいるし、自分はどうなのかと問われるかも知れないからだ。

    問題に直面し、自律的に向き合うことは、アクションラーニングの真髄である。それができなければ、アクションラーニングは、散漫な閑話休題になりかねないリスクがある。そのくらい重要な事だ。ケーシーは、このあたりを、学びとは、時に愉悦であり、時に苦悶であると述べる。多くの場合は、多少はコーチの助けを借りながらも、メンバーどうしでそうした真髄に迫ることができる。しかし、それがかなわない時には、コーチは、一線を踏み越えて、その真髄をつかみ取るプロセスを、自ら関与して築いてゆくことができなければならない。私はこの論文を読んだ時、主として自分が経験的に構築してきたコーチ術が間違っていなかったと確信することができた。

    ケーシーが指摘しているのは、意識的に問題を直視しない場合のことだ。実務的にはもうひとつ重要な事がある。我々は固定観念のために問題の本質にそう速やかには至れないことが少なくない。この場合も、メンバーどうしの質問だけで、時間内に本質に行きあたれる事は、確率的にそう高くはない。どうしても各メンバーは、自分がたどってきた経験に基づき問題を判断するから、部分部分は当たるかも知れないが、大局的な本質を括り出すところまで行かないことがある。コーチと言う立場で、どんな問題にも等距離で一点も曇りのない透明な気持ちで取り組まないとできない本質的な質問もあるのだ。逆にそう言うことができなければ、コストを払って外部コーチを雇う意味などありはしない。ケーシーの表現を借りれば、コーチは「他のメンバーに抜きんで出て良質な質問が行えなければならない」となる。全く同感である。これができないのに、コーチは、問題の内容に関わるべきでないかどうかと言った議論は全く無益である。

    詳細は、恐縮ながら拙著「リーダーの質問術17手」に述べた幾つかのストーリーをご覧頂きたいが、メンバーが自らの殻を破れるよう支援したり、フリーズした局面を転換させたりするのは、誰もしない時にはコーチができなければならないのである。

    「本当に望んでいることは何ですか」

    「態度を保留し続けると最後はどうなるのですか」

    「その過去の例は今直面している問題にあてはまるのですか」

    「決心した以上、いっときは不運な結果が生じても受け止められますか」

    「あなたが全権限を持っていたら本当にそのように行うのですか」

    こうした質問が、円滑にメンバーから出てくる時にはコーチは楽だし、逆に、やがてケーシーの言う愉悦の雰囲気の中で、外部コーチはお役御免になる時も近い。が、それほど円滑でない時の方が多いだろう。本質に迫らない質問ばかりが続いているのにそれを放置して時間が来たら終わりにし、メンバーの「自律」と称したり、「このセッションから何を学びましたか」などと「学習」をそ知らぬ顔で問うのはコーチとしての責任放棄である。それは座談会ではあってもアクションラーニングではない。どうでも良いことを何時間話したとしても何も学びは生じないのだ。そこで語られるのは空虚な修辞学に過ぎない。厳しい現実を日々過ごすマネジャー、実務担当者が、修辞と作法のために1日2日費やすのは耐えがたいことだ。主催する企業の側もそれはむろん同じである。

    以上のように、コーチは、仕事を引き受けた以上、預かったセッションのメンバーに深い学びをもたらす支援を行い抜くことを、自分の使命に賭けて誓わなければならない。古代ギリシアのピポクラテスが、医療を志す者に、必ず誓わせた条々を唱えるように。

    コーチに必要な資質

    ではこうした変化は、私がコーチですと名乗れば誰でも起こしうるのか。この問いには、私は少し厳しい見方をしている。再びケーシーに学ぶと、そのようなコーチに必要な資質を彼は5点挙げて、従来の教師的な立場とは随分異なる内容を要求されると言う。それは以下だ。

     1.曖昧さに対する耐性

     2.開放性と率直さ

     3.終わりのない忍耐

     4.人が学びゆくことを観察する、飽くなき願望

     5.感情移入

    彼が「資質」と言う言葉を使っているのに注意が必要で、つまり習えば誰でもできる「スキル」ではないと言う意味だ。それは彼が偉ぶっているのではなく、どんな仕事にも向き不向きがあると言う、本来当たり前なことである。細かいことにはこだわらず行動的な人は、セールスマンはできても、専門会計士に向いているとは言いがたいだろう。

    コーチングの世界では、やたらとコーチの免許者が増えたが、現実には、組織の第一線のマネジャーや実務責任者を相手にコーチングができる技量を持った人はほんの僅かではないか。ではなぜそんなに免許取得者が増えるかと言えば、そうした資格取得を促し事業とする人もまた多いからだろう。そうした状況がわが国の企業人教育、能力開発の世界にとって良いことなのかどうか。たとえば天外司郎氏は、著書の中でこうした状況に強い警鐘を鳴らしている。アクションラーニングもそうした状況になりかねない。私が見る限り、何らかのアクションラーニングコーチの資格を持っていますと言う人のうち、苛烈な現実世界に活きるマネジャー達の中で、まる1日コーチをやらせて勤まりそうな人は、申し訳ないが10人に1人もいないように見受ける。外科医どうしはいっしょに手術をすると相手の技量は5分でわかると言う。

    「ならばおまえはなぜアクションラーニングコーチが勤まるのか」と聞かれたら、それはアクションラーニング自体の机上の勉強をしたことは、それほど重要なウェイトは占めていない。私の場合なら、20年間、仕事を依頼された企業の中に深く漬かり込み、その利害を真に理解し、喜怒哀楽をなるべく共有してきたからである。だから私よりも才能あって経験を積んだ人は、数年でも私より上手にできるだろう。しかしこの才能は、碩学ミンツバーグが喝破したように、明らかにMBA資格を取るようなものとは異なる。要するに、組織の中の方々が語る問題を、ごく短い時間でその本質を理解し、その保有者の心情を共有できなければならない。ケーシーも5番目の必要資質に感情移入を挙げている。

    実は、こうした条件を一番備えているのは、行動科学の専門家ではなく、事業と人材育成に経験豊富なマネジャー自身である。そういう人は、きっと会社の中で相当高い評価を得ている人、つまりは、おカネを稼ぎ出せる人だろう。そういう人を内部コーチに当てる会社もまずない。だから内部のスタッフには悔しいが、アクションラーニングの運営は適切に経験を積んだプロに任せる方が、現実的な場合が多くなるのだ。内部コーチを否定はしないが、安易に取り組むと、第1回に述べたようにとんだ失敗例になってしまうので注意が必要である。私はそうした失敗後の相談に乗るのは、互いに大変非生産的なので少しでも減らしたくこの稿を述べさせて頂いた。委細はご質問をお寄せ頂きたい。

  • 月刊人事マネジメント連載記事その3:アクションラーニングにはなぜ即効性があるか

    〜連載:横山太郎が語る現場のアクションラーニング〜

    第3回 アクションラーニングにはなぜ速効性があるか

    自己客観化と速効性

    アクションラーニングになぜ速効性があるかと言えば、それは自分自身と向き合うからである。「自己客観化」である。これがなしえたら、人は判断が恐ろしく透明になり、実行への勇気がこみ上げるように湧出する。今までの自分ではとうてい視野が及び得なかった領域に明るい光が当たるようにして物事の輪郭がくっきりする。それゆえ迷いが去り、行動に踏み出す動機がみるみる高まる。「そう、私はこのようにしたかったのだ。」と言うのがこの時の典型的な思いである。よってさまざまな成果が速効的に現出する。

    この自己客観化に至るまでが、日常にあってはどれほど難しいだろうか。少しお考え頂きたい。自分の性格、経験、情念、価値観などから逃れて、まっすぐ問題に取り組む、自分自身を客観的に見つめるなどと言うことが平生常時行いうるような自律を完成させた人は、めったにいるものではない。実際はそれ以前に仕事に追われ、自分をふり返ることすらままならないことが多いだろう。

    こうした心境を自問自答で得ることは困難だから、仲間と集まってアクションラーニングをするのだ。自己客観化と言う言葉をあえてアクションラーニング・セッションでものものしく言うわけではないが、実質においてそれが全く問われないものは、何と名前を付けたとしてもアクションラーニングではない。自分自身が問われることなく重要な問題が解決されるとしたら、たぶん大した問題ではなかったのだろう。だから、表現を変えれば、自分とどれだけ深く向き合う場をつくりあげられるかが、アクションラーニングの成否を定める。

    自己客観化を進めるためのアクションラーニングの諸原則

    既にそのために、アクションラーニングには色々な原理原則が定めてある。煩瑣で細かいルールではなく、シンプルな原則であり、内容よりもその浸透の度合いが問題である。それはコーチの力量により大きく左右される。その第一は、切実な現実の問題を提示すること。第二に守秘義務と自由闊達。これらは前号で述べた。

    次に共有、支援、対等の原理。アクションラーニングの討議が始まる前に、私がいちばん繰り返しお伝えするのはこの点である。共有等が損なわれれば人は自分とは向き合わない。せっかく自己開示して提示した切実な問題を、軽々しく批評されたと思って欲しい。「君に何がわかるのか」と言う他人への感情的反発を産むだけになってしまう。

    問題保有者によってはペースの少しゆったりした人もいる。逆に力に自信があるメンバーは概して気が短い。放っておけば「おいおい、そんなことささいな事を悩んでいるのかい」と言う態度になりがちだ。人を見くだし、評価する雰囲気からは、共有は生まれない。すると自己客観化どころか他人への反発と自己の殻へのとじこもりと言う全く逆の作用を生じてしまう。こうした雰囲気が生じたら、コーチは必ず介入して、もう一度、対等、共有等の原則を皆で思い出すようにしなければならない。この介入が、技術的にはやさしくない。なぜなら言わば「注意」を受けるメンバーは、場の中できっといちばんキャリア、つまり能力の高い人であることが多い。へたな「注意」をすると反撃を食らうのはコーチ自身になるからだ。そうなると事態収拾は難しい。コーチはどのメンバーよりも能力抜きん出ている必要はないが、学びを共有するのだと言う使命感においてはるかに他メンバーを凌駕していなければ、こうした事態には対処できない。

    もしある人が自分の能力に自信があるとして、他人の問題を聞いてつまらないと思ったり、自分の方がずっと重要な件に取り組んでいるなどと優越感を感じるとしたら、そのこと自体がとてもつまらないことである。同じ運命の基盤に乗った、組織の中にいる人どうしの討議なのである。そういう評価的な姿勢を続けていれば、いくら能力があっても誰も真のリーダーとは認めないだろう。アクションラーニングは、私は最終的にはリーダーシップ涵養の場と思っている。こうした人が、時間を経て、次第次第に、支援的となり真のリーダーシップを見出して行く情景を目にするほどすばらしいことはないし、そうなれば会社として大変な財産である。リーダーとは、人が認めて初めてリーダーたりうるのだ。逆に会社側から言えば、そうした人が自然に多く育つような場が、組織の中の随所にあるのが理想だ。アクションラーニングはその場にもっともふさわしい方法のひとつである。

    見くだすとまでゆかなくとも、なかなか他人の真の苦衷を理解するのは簡単でない。人間は、ついつい自分の経験の尺度でのみ物事を測る。自分の過去の事例にあてはめ、その固定観念的な図式をなぞるような質問が増えると、共有感は損なわれる。過去はあくまで過去でしかないのだ。そんな時私はコーチとして「私たちは気持ちを真っ白にして彼の話を理解しようとしているでしょうか」などとよく問いかける。問題提示者の話に「わからん、わからん」とやたらと腕を組んで顔をしかめるメンバーもいるかもしれない。こういう人は少々がんこだとしても現実場面では親分肌で親切な人が少なくないのだが、この場合はそれが逆作用になる。そんな時にはコーチとしてこう言う。「わからん、じゃなくて、全身を鏡にして彼の言うことをわかろうと思いましょうよ」。

    こうした問題の本質の共有が円滑に進まないときに(現実には少なくはないのだが)、コーチが手をこまねいて状況をなすがままにしておくと、よくてもせいぜい気まずい部類の普段の会議の延長にしかならない。ひどい時には他責と非難の応酬になり、つまり、研修としての効果はないと言うことになってしまう。コーチの技量がじかに問われると言ったのはこう言う場面のことである。

    共有から開眼へ

    適切に場が運営されれば、次第に誠実で真摯な、問題提示者を助けるための本質的質問の方が多くなる。「そうか、君はこんなに大変な問題を抱えていたのだね」とその場にいる全メンバーが、深く共有できる瞬間がやがてやってくるのだ。

    ついには問題提示者の心境が、ポジティブさと苦しさが混沌とした状態になり、返答に詰まるような質問も出るだろう。セッションが始まったときとは、表情が一変している人も少なくない。しかし雰囲気は全く支援的であり産みの苦しみであることは本人にもわかっている。これは、アクションラーニングがその真価を発揮する場面についに到着した何よりの証拠である。だから、コーチはこの瞬間を、宝物のように大切にしなければならない。ここしか自分と向き合う瞬間は決して来ない。人は自分と向き合うとき、誰でも神々しいお顔になる。真実の自己と直面するときは、それぞれの個性が本当にくっきり現れたよいお顔になる。

    こうした張りつめた雰囲気をゆるめようと、他のメンバーがより軽い質問をして割って入って来るかも知れない。が、ここはわざわざそうした雰囲気、場面をついに創出したのだ。そのような緩和質問に対しては、コーチは絶対に介入して良い意味の緊張を、本人の変化を見届けるまで維持し、空気を動かしてはならない。ここまでの30分1時間は、この数分のためにあったのだから。私は事前の説明では「そう言う時がやがて来たら沈黙を楽しんでくださいね」と、これもしつこく言っている。わざわざ仕事の手を止めて研修に来たのだ。5年10年、いや場合によって一生忘れない経験をしてもよいではないか。全員でその人をいたぶっているのではない。皆わが事のように思い、問題を解決し苦境を克服して欲しいから質問しているのである。それをついに問題提示者が真摯に受け止める。「私はもうわかった、ありがとう」と周囲に叫びたいような気持ちになる。これは大げさに言えば「開眼」である。

    このとき実は、見ているメンバーからはうかがい知れないほど深く、問題提示者は自分の行くかた来しかたのありようをふり返っている。胸中が全く透明になってここちよい薫風が通りぬけてゆくような体感である。自分の事を外から眺めるような気持ちになる。この自己客観化は、悟りの境地とまでは言わないが、一度経験すると決して忘れられない深いふり返りである。これが今回のテーマの速効性に直結するのだ。

    以上のような経緯の細部の描写は、とても紙数が足りないので、恐縮ながら拙著「リーダーの質問術17手」などをお読み頂きたい。

    研修中の体験が速効性を支える

    多くの場合当初の問題は、少し極端に言えば「上司が悪い、部下のせいだ、協力しない他部署がおかしい、景気が悪いのがいけない」と表現されている。この自分と向き合う自己客観化のプロセスを経ると、必ずと言ってよいほど、「問題の所在は自分の側にあった」と言う表現に変わるのである。「人のせいにしても無意味だ」「私の問題は私が手を汚さない限り、私がリスクを取らない限り決して解決しないのだ」と言った方がわかりやすいだろうか。どちらにしても、問題を自分の行動半径の中に納めない限り未来永劫に解決しないのである。この深いふり返りが、これまで取れなかった行動への強固な決心へと転化するのはもう時間の問題である。自分の手で問題が解決できるとわかったときに行動しない人はいない。「ではこの件、明日上司に申し上げます」「すぐにも部下とじっくり話し合ってみます」などと言う行動計画は別に珍しくはない。騎虎の勢いとか、兵は拙速を尊ぶなどと言うが、この場合は熟慮に速度が加わるのだから、成功確率が飛躍的に高まるのは当然である。だいたいにおいて「行動は遅いが、必ず慎重にリスクを回避しているので諸事成果があがっている」などと言う例はまず聞いたことがない。リスクを回避することと、速やかな行動は両立させて成果となるのだ。

    そうして立てられたアクションプランゆえ、日常とは比較にならないくらい速効性が高いのである。実際そこまで深いふり返り、自己客観化を進めながら、会社に戻ってから何も着手実行しませんでしたと言うことはまず起きない。それでは今後仲間に合わせる顔もない。が、それよりも、自分自身が、考え抜いたのになお迷っていることの無益さを深く決心して研修から戻り、現実に臨むからである。ここが他のスキル向上型の研修と根本的に異なる点である。そして何より、自分のリスクテーキングとコミットメントにより成果を上げれば、それは真の成功体験となり、その人のマネジメント能力の大きな向上に通じる。こうなると、その人が既に以前のその人でないことが誰の目にも明らかになる。

    そのように変化成長を遂げた人に、あとで、「どちらにしてもこうなったのですか」と聞いてみる。「そうです」と私は言われたことはまずない。「あの研修(アクションラーニング)がなかったら、迷ったままずっと行動が遅くなっていたでしょう」と言うお答えが常である。

    だから、会社として、コーチとしては、どうしたらなるべく純粋にそうした場がつくれるかに意を注ぐのが何よりだ。アクションラーニングの進め方をむやみに定型化したり、評価的な成果管理を採り入れたりすると、受講者の意識は、自分自身ではなくて、そちらをなぞることに向かってしまい、自己客観化からは遠のく。たちまち効果半減である。自由、自律、そうした彼らへの信頼を付与することは、アクションラーニングにとって最も本質的な事柄である。

  • 月刊人事マネジメント連載記事その2:アクションラーニングの真価をもたらす場づくり

    〜連載:横山太郎が語る現場のアクションラーニング〜

    第2回 アクションラーニングの真価をもたらす場づくり

    アクションラーニングの真価は、適切な場を設営しなければ発揮されない。それは「絶対に安全な場」「絶対に安心できる場」である。受講者のホンネ、本心が吐露され共有されない限り、所期の人材育成は進まないし、問題も解決しない。真のアクションラーニングにはならないのである。

    日常の会議にすぐ応用するのは無理である

    日常の会議の中で、ホンネが自由闊達に表明できて、誰しも違和感なく、体面にこだわらず、純粋な問題解決と、最良の意思決定だけに意が用いられている組織ならば、ことさらアクションラーニングなど行わなくても足りる。例えば井深大氏、盛田昭夫氏ありし頃のソニーはそうした風土であったと諸書が伝える。しかし、残念ながら今日そのような会社はほとんどないのではないか。

    そうした前提がないのに、聞きかじってきたルールだけで経験未熟なコーチが、日常の会議をアクションラーニングにより行おうとすると、百発百中で失敗する。やってみればすぐわかるがホンネの交換なく、型通りに発言を質問に置き換えよなどと進める討議は、空虚である。ただでさえ、普段の会議は時間が足りず、真の意見交換が不十分なのだ。そこへ指示やルールを追加してかぶせたら、一層非生産的な事になる。現にそうしたご相談が増えてきた。

    組織の中では、強い利害対立や心情葛藤が渦巻いている。それには善いも悪いもないので当たり前である。日常の会議は、各参加者の切実な利害が絡んだ事項を、意思決定する場である。そういう場で、アクションラーニングの原理として、支援、共有、対等などと言ってみても、無理である。時間的期限が切られ、出席者の序列の定まった場で、自由闊達なホンネの交流が短期間に生まれるはずがない。原理に名を借りた無責任で好き勝手な思いつきの質問が増えるくらいかもしれない。そうした行動は、真の責任ある自由とただの無秩序とをはき違えているだけで、アクションラーニングでも何でもないし、悪弊しかもたらさない。刻限が過ぎれば場の上位者が、「審議を尽くした以上は、あとは私が判断するので、決めた以上は皆それに従って欲しい」と宣告するのは、これまた当然過ぎることなのだ。そうでなかったらアクションラーニング以前に、マネジメントになっていない。

    本当の問題を出せる雰囲気づくり

    だから、まず組織的意思決定の会議の場とアクションラーニングの場は絶対に区別しなければならない。その上で、ホンネを語ってもそれがとがめられることのない場を人工的に設営するのだ。「今日はそうした場なのです」と開講早々に主催者とコーチが強く訴える必要がある。アクションラーニングを多くの場合、守秘義務を約束する研修として日常と切り離し比較的ゆったりした時空間にて実施するのはそれゆえである。職場の中のメンバーで行う時には、上記のように、全く別次元のミーティングをしているのだ、意思決定の場ではない、と約束して臨む必要がある。

    では研修の開講一番、守秘義務さえ宣言すれば事がうまく運ぶか。それは最低限であり、さほど単純ではない。次にコーチ(講師)が指示するのは、問題の提示である。重要で差し迫った問題を出してくださいと言う。そうした題材でないと相互の啓発は進まないからだと前回述べた。一見ややこしい。現実の利害葛藤の場と切り離せと言いながら、最も切実な問題を示してくださいと言うのだから。この対照の鮮やかさがアクションラーニングの本質部分である。それをどうかこの短い文章から看取頂きたい。コーチの力量が最初に問われるのはこのあたりである。受講者の中にはこの時点では、まだ疑心暗鬼な人もいる。だからそうした鮮度高い問題をすんなり出せるような雰囲気をコーチがつくり上げないといけない。言葉では簡単だが実現はさほど容易ではない。だから私は各受講者が問題提示のシートを書く前に、相当しつこく訴える。「今日はホンネで討議することが目的ですから守秘義務をかけているので、そうである以上、いちばん重要で切実な問題を出してくださいね。」

    そこまで言っても、まだ左右を見回し、「こんな場で本当の話をしていいのだろうか」と言う思案顔をしている人もいる。ここまで進むと、中には積極的な人がいるから「いいんだよ、君、ありのままに出せば。そうそう君の所は、あれがいちばんいいよ。」「うーん、あれはちょっとまずいのでは・・・・・」「まずいからこういう場で討議するのだよ、先生、今回はそういうことでしょう?」こう言う受講者がいると本当に助かる。が、この種の積極的な受講者は、その前にコーチの姿勢を実によく見ていることを忘れてはならない。つまりコーチが、守秘義務を守るばかりでなく、本気で彼らの問題解決を支援しようと思っているかどうかを、である。そのおめがねにかなわないとこの種の態度は現れない。

    その上で書かれた内容の鮮度を念入りに確認する。これらを省略して、ともかく何か出せと言って始めると、あとから二番煎じの問題で本人もそれほど悩んでいないことに気づき、研修の雰囲気がだらりとしてしまう。啓発も学習も進まず、あほらしい、時間のむだだと言う空気になる。こうした時に経験未熟なコーチが「だってあなたが大事な問題だと言って出したのではありませんか」などと指摘するのを見かけるが、全く実益のない形式論である。重要な問題を進んで出してもらう雰囲気をつくりあげ、学びの多い討議となるよう運営する責任は、受講者ではなくコーチにあるのだ。

    いかにホンネや最重要の事実を語っていただくか

    いちばん重要な場づくりはまだこれからだ。重要緊急なテーマが出たとしても、それに関するホンネが語られるかはまた別だ。ホンネや、本人がなお言いたがらない最重要な事実を引き出すのは、実際難しい技術だ。討議が始まってたとえば最初の15分間でそれらがあます所なく語られるほうがむしろ少ない。「ある部下が成長しないので困っている」「なぜですか」「私の方針を理解した行動にならないからです」「なぜ理解しないのですか」「ビジネスマンとしての意識が不足しているからでしょう」「それを植えつけるにはどうしたらいいですか」「そう、教育しかないですね」「ではどんな教育がいいですか」こう言う一本調子で平板な問答をいくら繰り返しても、全く実益はないし問題も解決しない。この種の会話で終始したらアクションラーニングとも言えない。この問答にはどこにも問題提示者が自分をふり返る瞬間が出て来ないからである。こう言う会話がずっと続いたら、コーチが、ホンネや最重要な事実に迫れるよう場に働きかけることができなければならない。が、前号にも述べた通りそうした面で適切な技術を保有したコーチがひどく少ない。

    ここではせめてたとえば、「その部下に関して最近いちばん困ったことはどんな例がありますか。具体的に教えて頂けませんか」と質問しなければ話の焦点は合わない。それでも、核心の事実をすぐぺらぺらしゃべる人はそう多くない。「いろいろありまして」「ええ、いろいろあるのでしょうから、そのうちいちばん重要で、皆さんがわかりやすい例を」「うーん・・・」などと続けば何か語られるまでじっと待つ。これがなかなか難しい。温かく見守る「間」や「溜め」が取れずに、逆に次から次へ違う質問が追って行く場合が現実にはよく起きる。こうした時は皆でじっと辛抱して核心を語られるまで待つ必要がある。発言を質問に置き換えよだとか、最初はわざと些細な例を言うかもしれない。誰しも核心を語るのは恥ずかしいし怖いのである。それを語ってもらえるような支援的な空気が場に醸成されていないと、ホンネは出ないのだ。その醸成は、コーチの最重要の責任である。そして核心が語られると、一気にはずみがつき共有感が非常に高まる。つまり成果が上がる。

    ホンネや最重要の事実の出なければ、いくら時間をかけても真のアクションラーニングにはならない。好意的に言っても話し方作法教室である。忙しい受講者に、問題解決や行動変革ではなく、会話マナーを教えるために集合させるのは頂けない。

    あるクライアント企業では役員を集めてアクションラーニングを行ったのだが、ある役員がぼっつりと言った。「本当のことが言えて、本当に実質の討議ができて、本当によかった」。3度も「本当」と言ったので皆げらげら笑い合った。その感想が出るまで、彼の問題に関する討議に2時間余を費やしている。場づくりが成熟し完結するプロセスにそれだけ時間がかかったのだ。その問題は、当然ながら、会社の戦略、いや命運を左右するような内容であった。そんな重大な問題に関し、日頃本当のことが言えていないのである。アクションラーニングの真価が問われた場面だった。

  • 月刊人事マネジメント連載記事その1:アクションラーニングに対する誤解をひもとく

    〜連載:横山太郎が語る現場のアクションラーニング〜

    第1回 アクションラーニングに対する誤解をひもとく

    最近アクションラーニングの導入のご相談と同じくらい、試してみたがうまくゆかないと言うご相談が増えてきた。お聞きしてみると本当に残念な経緯になっている場合が多い。何が残念かと言うと、人材育成の上で、適切に運用すれば、アクションラーニングほど速効性のある方法もないのであるが、その機会を大きく逸してしまっているからである。

    混乱する理由は大きく言えば主に2つである。目的が不適切である事と、ファシリテート人材の不足、欠如である。

    目的が不適切である場合

    この場合話を複雑しているのは、コンサルタント達が、様々な目的を色とりどりに訴求する事である。例えば組織風土改革だとか、望ましい企業文化、学習する組織の形成のためにアクションラーニングが良いなどと唱導するものだから(さらに困った事にはほとんど、語る夫子ご自身にそれを遂行したご経験がない)、それはよい、と言う事で安易に取り組んでしまう。少しだけ冷静に考えればわかりそうなものだ。1度や2度、社員がアクションラーニングセッションを体験したからと言って、数十年積み重なってきた組織風土が変わるものだろうか。話し方教室や会議の作法を習うような講座に1,2度出ると、学習する組織ができあがるのだろうか。

    アクションラーニングが、最終的に組織風土改革につながることはあり得るとして、それは大企業だったら途方もない根気のいる仕事である。多くの精鋭人材が、何年間もかけてコミットメントしなければならないだろう。それを貫くにはよほどの覚悟と、トップ自身のコミットメントが要るだろう。中堅企業なら、キーパーソンが限られるから、物理的ハードルは下がるが、それでもその方々が、1年や2年、仕事の合間にアクションラーニングにどっぷりと浸ってもらう必要がある。

    こうした次元をいきなり目指せるならよい。が、難しい場合も多いだろう。

    アクションラーニングは、まず何より、参加者個々人の意識改革、行動変容のために行われることが実戦的である。この点は他の人材開発手法と同じである。そこは同じだが、正しく用いれば効験がとても速く現れることが何より違うのである。どうしてそうなるのか。それはあまりにも平明な理由だが、一切奇をてらわず真正面からそうなるように取り組んでいるからである。この手法の創始者英国人レグ・レバンスのテキストを読めば、それがよくわかる。言い換えれば、まっとうにまっすぐ行えば良い事柄を、商業主義に基づく奇をてらった手法があまりにも多過ぎるのだ。彼ほど、現実世界のマネジャーの成長に心をくだいた先人はいない。訳のわからないカタカナ文字を並べて叫び、から騒ぎをして時間をむだにするよりも、人材と経営資源を預かる個々のマネジャー達が日常の実践レベルの行動を変えてくれたらどれだけ値打ちがあるだろうか。

    レバンスは、受講者自身の固有の困難な問題解決を仲間や同僚と共有する事を通して人材育成を進めると言う、まっとうであるがきわめて卓抜した方法論を構築した。人は困難な問題解決を通してしか成長できない。が、そこをうまくくぐり抜けるには、仲間の真の共有と温かい支援が必須だからだ。その結果深いふり返りが生じ、本人のリーダーやマネジャーとしての境域が進むのである。レバンスはこうした苦境における心情の共有こそが問題解決の本質的エネルギーだと見ていた。彼の著書には、「コムレードシップ イン アドバーシティ」と言う言葉がしばしば出てくる。直訳すれば「危機における友情」である。そして、現実を知らずかつ仲間と苦楽など共にしたこともない行動科学者などの専門主義者には、こうした心境やプロセスは決してわからないし、現実世界のマネジャーに教条を垂れる資格などないのだと論じたのだった。

    私たちはまずこの純正な方法に倣い、その大きな成果を自分の目で確認した上で、さらなる応用を図れば良かったのである。

    しかし、レバンスとて、上記のような共有と深いふり返りの場づくりを、仕事のついでに行いなさいとは言わなかった。当然別な場で行う必要がある。恐らく最悪の取り違えは───これは目的が適切であるかどうかと別次元で、方法論としての完全な誤りであるが───、風土改革、リーダシップ改革と称して、このアクションラーニングをいきなり正規公式の会議に適用しようとすることだろう。これは決してうまくゆかない。これは次回の稿で詳しく述べたい。

    問題解決だけに焦点が当たる場合

    組織風土改革はともかく、大変効果的な問題解決手法だと唱えられていることも誤解を招く。これも目的が不適切な場合である。私もアクションラーニングが結果として、根深い難問に切り込む成果を挙げることが多い事はわかる。ひとたび問題が提示されたら、その解決を粘り強く追及しないようでは、成長も何もない。それはその通りだ。が、問題解決だけを強調すると、問題がばさばさと解決されればそれでよいと言う事になり、それを遂行した主体である人間が成長したかどうかは、極端に言えばどうでもよくなってしまう。

    なぜかはわからないがともかく問題は解決した、が、そこに残った人は成長していない、と言うことがあったとしよう。これほどむなしいことがあるだろうか。アクションラーニングの最後の焦点はどこまでいっても人間である。そうでないものはアクションラーニングとは言わない。

    もっとひどくなるとどうなるか。へたな考えは休むに似たりとばかりに、社員に一律的な正解と標準手法を、無理やり押しつける。いっときの間は成果が上がったように見える時がある。が、やがて元に戻る。人が成長していないから全く応用が効かないからである。これは徒労である。最悪の状況は大切な社員達が書類上の報告のごまかしのテクニックにたけて来ることだ。こうした状況は「人間をいやしめ、おとしめるものだ」と既に10年前にドラッガーが、「ポスト資本主義社会」で難じている。

    確かにだらだら時を過ごすのは時間のむだだが、人は自分の問題を自分で深く考え抜いて解決し克服しなければ絶対に成長しないのである。そして手法などは、隷属する対象ではなく、人間が使いこなすものである。しかし、キャリアが浅い人はそのプロセスを進んで行く速度が遅い。上司もまわりの者もいらいらするのはわかる。しかしじっと待ってあげなければならない。「早くやれ」とわめいたところで相手の能力がすぐに成長するわけではないからだ。もちろん、緊急時もあるから、いつでもじっと待てと言っているわけではない。が、少なくとも正社員で雇った人には、そうした機会とプロセスが、時に与えられてもよいのではないか。

    ともあれ、見せ掛けの効率一辺倒の問題解決と、アクションラーニングとは全く別次元の効用をもたらすものである。詳しくは恐縮ながら拙著「アクションラーニング実戦術」等をお読み頂きたいが、アクションラーニングセッションを終えた受講者達の本当に心の底から出てくるような声がここでは何よりの証拠である。

    「本当にすっきりしました」「迷いが晴れて挑戦する勇気が湧いてきました」「深く自分と向き合う事ができました」などなど。そのように心底から自分と向き合えた受講者は必ず速やかに行動する。ゆえに問題解決の大きな成果を得ることが多いと言う結果が現れるに過ぎない。結果が得られたのは、自分の方が変わったからだと言う事にこの場合の本質的意味がある。もし偶然得た成果なら、次は必ず手痛い失敗をするに決まっている。自分自身のありようと向き合わない限り問題は決して本質的な解決には至らないのだ。アクションラーニングは、そのプロセスを仲間と深く共有し、その支援の中で、より望ましい自分のスタンスをごく自然に形成してゆくのである。

    読者の皆様は、本当に困難な問題を、自分と向き合わずに、つまり深い決心やある程度のリスクテーキングを伴わずに、解決できた事があるだろうか。私たちは、通常そんな事をなるべくしたくないので避ける。どうしても避けられない時だけ迫られて仕方なく行う。無我夢中に現実と斬り結んで過ごし、はっと気がついた時には自分も少しは成長したか、などと実感する。

    効率の話ではないと言ったが、会社の人材の育成と言う観点からは、考えてみれば、これほど非効率な事はない。その間適切な支援がないために自信をなくし可能性を大きく狭めてしまう人、脱落してしまう人は、数えきれないほど多いだろう。アクションラーニングは、このプロセスを、より計画的、支援的に行うのである。

    ファシリテート人材の不足

    第二の主要原因は、このアクションラーニングをファシリテートすべき適切な人材の不足と言うより欠如である。会社の中で起きているなまなましい現実には触れた事もなければ考えた事もない、心理学や行動科学ならちょっとかじったと言うようなファシリテーター(講師、コーチ)に、あなたは自社の精鋭人材の何日もの時間を預けるだろうか。ファシリテーターすなわちアクションラーニングコーチは、よほど深く実施を依頼された組織の実態と人材にコミットメントしなければ、受講者の意識改革や行動変容は決して生じない。社内でコーチを養成するにしても、そのようなコミットメントは、通り一遍のセミナーを受け、何かのスキルの免許を講習会場で取るような事では決して涵養し得ない。

    現場に出て、当初は敵意を含んだマネジャー達の視線にさらされながらも、彼らにやがて認められ受け入れられ、打ち解け合い、共有感を醸成する。こうした経験を何十度も何百度も繰り返して初めて真のコーチ、ファシリテーターが誕生するのである。

    上記と正反対に、マネジメントの経験がない、組織に勤務してひとかどの範囲で責任を負った事がない、上司に仕えた事も部下を使った事もない人に、アクションラーニングコーチが勤まる可能性は極めて低い。現実にはそれに近いコーチが多い。アクションラーニングは、現象をぼんやり眺めている限りは、会議の司会とさして変わりないように見えるからだろう。時間管理と定型的なセリフを覚えれば誰でもできると思われてしまうのが大きな誤解の第二なのである。

    そうした証拠に、冒頭に述べたように、私が受けるご相談の中に「(アクションラーニングを)ちょっとやってみたけどうまくゆかなかった」と言うものが増えている事である。たいてい組織勤務やマネジメントの経験ない外部の「コーチ資格者」やどこかで授業料を払って免許を取ってきた社内コーチに委ねた場合である。生身のからだにメスを入れた事のない免許取り立ての研修医に、いきなり難手術の執刀をお願いするようなものだ。残念ながら1度しくじると2度目のハードルはひどく高いものになってしまう。

    真の目的と適切な運営を意識した時

    以上のような、入り口の誤解を解き放って、真の目的と適切な運営を意識した時に、アクションラーニングには、他の人材開発手法に比して無尽蔵の豊かな水脈の流れを見いだす事ができるだろう。

    あるきわめて切迫した問題を提示した受講者は、アクションラーニングを終えて言った。「重たいどろどろが、皆さん(他の受講者)のお蔭で、さらさらになりました。明日から少し開き直って行動したいと思います。」この受講者は、その問題を短時日のうちに解決したばかりか、周囲の人は言った。「どうもあの人は変わったようだ。前のあの人ではない。」

    どうしたらこうしたプロセスが描けるようになるのか、次回以降述べてゆきたい。