カテゴリー: 人事制度人材評価編

  • 実戦問答No.31:成果評価における事前事後

    以下最近ある場所で書いた文章の一節を引用する。

    「ひとつ重要であったのは成果評価における態度でした。多くの受講者が、事前の目標設定に載っていない重要達成事項を成果評価に加え、ポジティブに処理していました。これは事前基準のみによる誤った機械係数的評価手法が数多く流行し、かえって評価の妥当性を維持できなくなっている例が多い中では、むしろ珍しいほどです。従ってこれは、これからも大切に維持してゆかなければならない姿勢であり文化です。今後目標管理などを導入することの当否を論ずる際、かえってこの活力を損ねないよう留意が必要です。」

    これは、ある組織における人事考課者研修の際の情景の点描である。


    本当に珍しいと思った。必ずと言っていいくらい、今どきはどこの会社でも、事前の目標設定が何であり、それが何パーセントできたかを、ほぼ反射的にどの受講者も計算する。そしてそれで終わりになってしまう場合も少なくない。ざっと半分の人はそうだろうか。残りの半分の人は、上記のような変化に富んだごくふつうの事例に遭遇した場合、「何か変だな」と思っていったん迷う。たとえば期中に入ってから、大変な問題が生じ、その解決に大きく貢献したが、それは事前の目標シートには書いていないと言った場合だ。どちらの会社でもきわめてふつうに起きる事態である。迷った人のうち過半は、「まあしかし、ルール上そうなっているのだからしかたない。」とあきらめる。こうした評価の運用が、どれだけ公平でないか、納得性を欠くかはこれまで随分論じてきた。


    何か変だと言ってくる人がいても、会社側の回答は、「何が何でもルール通りにしてください」と言うのはやや少ないにしても、「ルールを尊重しながらうまく解釈、運営してほしい」とまで言うのがせいぜいである。言われた方はどうしていいかよくわからない。よくわからないことをいつまでも考えているには多くの管理職は繁忙すぎるだろう。結局うやむやになって、つまりは不公平な結果になる(だからそれを避けるために考課者研修が大切なのだが)。


    ところが上記の組織では、逆にほとんどの受講者が事前目標に何と書いてあるかは、参照した程度で、ごくおおらかに被考課者(管理職でなくて一般社員)が期間中に成し遂げた総量を事後的に見積り、総合的な判断に基づき結論をくだした。当然ながらたいへん妥当な結果となった。


    この場合考えさせられるのは、この組織が、成果主義が流行した時期も、理由はいろいろあるにしても、それを追わず、あわてて「最新」の評価システムを導入したりしなかったことである。だからマネジャーたちは、他人が与えた(不必要に精密な)モノサシによらず、自分の意思で自律的、主体的に判断をする。考えてみれば、成果主義以前には、それが年功主義か何主義かは別にして、すぐれた上司は皆そのようにしていた。その判断が狭くなるといけないから、時には客観的に比較してみようと言う事で研修が開かれた。誠に健全な研修開催動機である。


    人事制度は、運用の方がずっと重要であることがこうした時に痛感される。幸いこの組織のマネジャーの方々は、おおむね妥当な判断プロセスを経て部下を評価し、指導している様子が伺えた。もしめいめいに判断させたら、当社には未成熟なマネジャーが多いのだから、不公平極まりないことになると言うことを前提に置き、そうしたブレをなくすために「最新」の「精密」な評価システムを導入し、「勝手な解釈」をさせないほうが方がよい、と言うのが、成果主義流行時代に限らず、今もやや主流に近い考えではないか。


    実際にはそんな未成熟なマネジャーばかりの組織にはまず遭遇しないものだ。もしそういう組織があったとしたら、仕事がちゃんと回っているのか、が何より優先なので、評価のことなど論じていてよいのかと言うほどこっけいな話になってしまう。それとスキルが未成熟だからと言って手足をがんじがらめに縛ると、未来永劫に習熟はしない。それは他の仕事と全く同じである。その上、前述のように、従前には、アナログ的ながらそれなりに健全で妥当な評価の判断をしていたのが、不必要に精密なデジタルシステムにしたため、かえって、混乱し公平性を損ねかねないと言う例の方が多くなってしまった。よく聞かされた上記の前提は、事実の上でも理屈の上でも根本的に誤りなのである。


    これも毎度言うのだが、評価は計測処理と言うデジタルの世界ではなく判断と納得と言うアナログの範疇のテーマである。だから訓練がいる。これをデジタル化、つまり機械化して手間を省こうと言うのは、会社の中から人間性や情熱を排除しようと言うほど味気なく、むなしい話になる。


    「おおむね」妥当な判断プロセスと申し上げたように、全員が成熟して完成されたマネジャーであると言う組織もまた、まず現実にはあり得ない。だから練習してある程度そろえる。そういう事を繰り返し努力した上で、「さて、考課者のほうばかりでなくて、人事制度もそろそろ改善だね」と言う順序にするのが大切である(実際この組織ではそういう軌跡をたどった)。

    そういうプロセスを経ないでやたらと制度や評価要素をいじりたがると、そういう精密な道具を与えられた現場の方が全く受け身になってしまい、「使いにくい、合わない」と言い、つくったほう(会社、人事部)は「理解が足らないのでは」と言う。不毛の論議の最たるものと言うべきだろう。 


    さて、話を最初の点景に戻す。


    政治家の行動の評価は後世の史家がすべきであるとか、人の評価は布が棺(ひつぎ)を覆った時に定まるなどとよく言われる。至言と思う。


    組織の中の人事考課はそこまで気の長いことを言ってはいられない。と言って、何もかも事前基準を決めて即時に機械的評価しようなどと言う事がどれほど無益であったかはもう十分実証は済んだ。そんなにあわてる必要、実益がどこにあるのだろうか。


    変化が生じない組織や職場などはない。高位の役職者が低業績の弁明のために環境変化をやたらに用いるべきでないのは当然だが、考課訓練の対象となる一般社員の行動は、それこそ毎日が自分の意思では抗しえない変化に押し流されてゆく。事前の目標設定は、ごく特殊な組織を除き、評価の上ではふつうは参考にしかならない(では何のために目標設定をするのかと言えば、ドラッガー先生の教科書に書いてある通り、人と組織を成長させるためであり、精密な評価のためではない)。


    3月31日の期末を終えて、ほんの数日、1年間をふりかえって、所期の目標と、重要な変化と想定外の事柄を加え、事後的に冷静に評価すればよいだけのことだ(これに「成果」という言葉を使うと機械的な目標管理を連想するから、私は、なるべく「貢献度」「実績」その他の、事後的判断を連想させる言葉を用いている)。部下も、上司がそのように、大局的かつ公平に部下の行動を見ていることに安心感があるから、引き続き仕事に打ち込んでゆくことができる、と言うのが理想の納得感であり信頼関係である。妙ちきりんな事前計算式を与えられて電卓やエクセルと首っ引きになり、加減乗除とその確認を繰り返して幾日も費やしてしまうより、ずっと上司も部下も、そして会社にとっても健全きわまりない。評価と育成に関しては、そうした組織運営を指向したいものだ。

  • 実戦問答No.30:人事考課における全社的絶対考課基準の効用…部門間甘辛(あまから)調整など

    全社的絶対的考課基準または評価の相場観のことを前回述べた。これを反復的な人事考課者教育を通じてしっかり構築することにより、私たちは真に客観的で公平な人事考課を行うことができる。特に一次考課者が、自信を持って妥当な判断と評価をくだすことは、組織の活性化に必須不可欠な要件である。従って、全一次考課者が、良識に照らして適切に評価を行うスキルと基準を身につけていることが決定的に重要である。

    これがどれほど重要かは、人事担当者の実務のいろいろな面に反映される様子を述べた方がもっとわかりやすいかもしれない。今回はその代表的な例を幾つか挿話風に述べておきたい。

    ■評価の部門間甘辛調整

    まず、部門間の公平さ、ひらたく言えば部門間の評価の甘辛(あまから)の調整に対して大変有効である。

    この甘辛調整は、人事担当者にとって悩ましい問題のひとつである。人事側、会社側が、これをきれいに調整するモノサシは開発することは実際は不可能である。と言って言われるがままにしていたら、部門側は、どんどん甘い点数をつけたままにしておくに違いない。これは別段人間性の問題ではない。上司であれば、自分の部下の利益になることを少しでも行いたいと言うのは、むしろマネジメントに携わる者として自然な動機の発露である。管理職に対し、「なるべく部下の悪い点を見つけて減点しなさい」とはどんな会社でも決して言わないだろう。

    だから調整が必要になる。

    しかし、モノサシのない中での調整は、消耗戦のようなものだから、しだいにうんざりしてくるかもしれない。するとしだいに機械的になってくる。どの部門も定められたABCなどの評語の割合は、びた一文狂わないよう、ぴったり合わせてくださいと言うような方法である。

    これで2度と手を着けなくてよければ人事担当者としてはこんなに楽なことはない。しかし、これも長続きはしない。今度は、等級ごとに被評価者の母数の少ない部署から言われる。話をわかりやすくしよう。部下が2人しかいない部署で、1人がすばらしく優秀だからS評価をつけたいとする。とすると平均をBにするよう機械的に帳尻を合わせるためにはもう一人をDにしなければならない。そこの部署の部長や課長は、人事担当者に言うだろう。

    「いくらなんでもそれは困る。」

    「いえいえ、ルールですから。」

    「そんなルール守っていたら社員がやる気をなくす。柔軟に考えて欲しい。」

    「おたくの部署だけ例外と言うわけには・・・・ところでもうひとりの方のできばえはどうなのですか。」

    「こっちの人はまったく普通かちょっとましというところ。だから絶対にBにはしないと説明がつかない。」

    「そうはおっしゃっても・・・・・」

    「じゃあ、あいつがSを取ったから割を食ったおまえはDになったのだと言えばいいのかね。」

    「いえ、それは困ります。」

    「じゃあ、いいだろう、こういう時は実情に応じて、と言うことで。」

    「しかし・・・・・ではどうですか、たとえばもう少しゆるめてAとCにしては。」

    「それではどっちからも不満が出てしまう。」

    「いや、困りましたね・・・それにしてもSは高すぎるのではありませんか。」

    「いや、この人は評価に不満を持てば同業他社に転職してしまうかもしれず、そうなったら、当社のシェアや利益を奪う商品開発ができる人だよ。そうなってもいいのかね。」「そうならないようにするのが上司のお役割かと・・・・・」

    「だから評価の比率の調整を認めてくれとお願いしているんだ。きれいごとで優秀な社員を引きとめてゆくことはできないよ。」

    「困りましたね。この件は、そちらの部門の役員はご承知ですか・・・・・」

    誰が悪いわけでもないのに本当に困ったものである。

    先に言うと、根本的解決を図る道があるとしたら、もしもいつもSを取るような社員が、その等級にずっと滞留しているのが何よりおかしい。それが人事制度や昇格考課の運用が硬直しているせいだとしたら、そちらをなおすと言う根本を忘れてこうした現象にばかり追われ続けるのは生産的でない。

    まあそれは別論として、上記のような問題が、被評価者母数の少ない部署から次々持ち込まれるから、せっかくの効率的な機械的配分もすぐに崩れる。と言うよりもともとそのような事務効率だけを優先した機械的配分を永続させるのは、当然ながら人材マネジメントの原理に反する。限度程度はあるにしても、個々別々に調整をするのは、むしろ人事部門の本来の役割だろう。と言いながら、上述のようにそれがどれほど疲労感を伴う仕事かはわかって言っているつもりだが。

    ■比率を守らないのは不公平であると言われたら

    少しは調整をするようになると、今度は人数の多い部門や労働組合が文句を言いに来るかもしれない。被評価者母数の多い部署はこう言うだろう。

    「私たちの部署は、ABCの比率をきちんと守らせているのに、そうでない部署があるのは不公平だ。」

    実際人数が多いのはたいてい製造や販売などで、少ないのはその他の管理間接部門、研究開発部門などである。部署の数だけで言えば後者のほうが多く、つまり比率を守らなくてよい?部門の方が多くなってしまうのがふつうである。だが、人事担当者としては、母数が多い部門くらい比率を守ってくれないと運用が完全に崩れるから、そこは譲れない。

    しかし、人事の担当者が不公平だと言われて、特に労働組合に言われてはあとには引けない。どうすればいいのか。また機械的配分比率に戻すのか。それは永久に同じ問題を循環させるだけになる。

    ここで、もし、「実質的な公平は十分に図られていますから問題ありません。」と言えればいちばんよいわけである。

    「実質的公平」と何か。それが前稿から言い続けている「全社的絶対考課基準」すなわち「相場観」である。人事担当者としてはこう言えばいい。

    「当社では人事考課者全員が、全社的な絶対考課基準に照らして、部下の評価をくだす能力を持っています。そのためにここ数年だけを取っても、考課者訓練を繰り返し行って来ました。会社としてはそうしたマネジャーの方々を基本的には信任して人事考課を行って頂いています。」

    これでだいたいはおさまるものだ。

    相手がマネジャーならこう続ける。

    「あなたもそうした討議に参加して十分にそのような基準が共有されたことはご理解頂いていると思います。」

    これは、研修が前稿で述べたように活気のあるものであった場合にはとりわけ有効である。組合の幹部が、そうした研修にオブザーバー参加することもあるから、その場合には、これは同じように言えばよい。最後にはこう言えばいい。

    「もちろん、明らかにおかしいと思われるものが生じれば、こちら(人事部門)でもチェックし、必要によりご再考をお願いします。ですから、いちばん人数の多いそちら様は、基本的には原則比率を守って頂きたいのです。」

    こうした、部門間の甘辛の論議において、相手を納得させるためには、適切なケーススタディに基づく考課者研修など、全社的絶対考課基準を構築するための努力が日ごろから図られていなければ、説得力を欠くことは明らかである。

    ■それでも不公平な上司がいると言われたら

    組合幹部だとさらに言うかもしれない。

    「考課訓練をやっているのは結構だけれども、資質的にどうにも不公平な評価から抜け切れない上司もいる。だから、せめて比率くらいは全部門一律で運用してもらわないと困る。」

    こういう問答の成り行きは、人事制度運用の成否を分ける。最悪なパターンはこういう要請を鵜呑みにして運用規制強化を図ることである。それだと大多数のまともに取り組んでいる管理職はたまらない。実際このような話は、立場上言っているだけで、具体的事実を踏まえない観念的な主張または風聞に過ぎないことも少なくない。従ってまずはこう言うべきである。

    「それは、それは。会社が任命した管理職にこれだけ教育を行っているのに、そんなに問題のある者がいるとは知りませんでした。まずは徹底的に個別指導しますから、その者の名と、具体的にどれほど不公平でひどいのか、ご教示願えませんか。」

    「いや、そこまでは・・・・・」

    と言うのが私の経験上たいていの場合である。実体のない煙に驚かされて制度をしょっちゅういじっていたら、社員のほうはたまらない。

    たまには、具体的に告げられることもあるだろう。そこで初めて問題になるのだが、それは基本的に個々人のマネジャーとしての資質の問題である。そういう人がぞろぞろと、管理職のうち1割も2割も指摘されたなどと言うことは聞いたことがない。だから上述セリフは別段相手を黙らせるために言っているのではなくて本当にそう思うから迫力を生じるので、具体名と具体的事実が出てきたら、言葉通り事実を確認の上、必要なら本当に徹底的に個別指導するのである。それでも治らないなら、専門職に切り換わってもらうなどするしかないだろう。繰り返すがそこまでしなければならない確率はよほど低い。


    なお付け加えると、最初に「特例扱い」を求めてきた部下が2人しかいない部署との会話も一層実り深いものとなる。もし、日常から全社的絶対考課基準の形成と言う意味での人事考課者育成に努力が払われていたら、次のように質問できる。


    「さて、このS評価がついた方は、先般の人事考課研修のケーススタディの主人公と同等以上の貢献をしているのですね。」


    こういう臨場感のある質問には正直な反応が得られる。


    言下に「その通り」と言うこたえが帰ってきたら、その評価はまずは信頼に値する。「・・・いや・・・いくらなんでもあそこまでは・・・・」と言うような反応だったら、「ではどの程度ですか。」「その程度なら、今回はAにとどめておいてよいのではありませんか。」と話の間合いが詰まる。

     

    ■相対評価と全社的絶対考課基準


    ところで、絶対評価と相対評価のいずれにすべきかと昔から論議が尽きない。が、この場面のように、現実的に昇給賞与の額まで決めなければならない時には、最終的な評語(ABC)の配分比率は、多くの企業では現時点では現実論としては原則として維持するしかしかたないだろう(つまり相対評価)。全社的絶対考課基準とは、このできばえなら会社じゅうどこへいってもAで通用する、せいぜいBだと言う客観的相場観をつくることだから、それに基づき、最後に相対的に序列づけることとは少しも矛盾しないのである。


    「原則」が維持だから、ここまで述べたように、うまくゆかないところでは個々の調整が生じることはやむを得ない。と言うより、その方が、人材マネジメントの原理にかなっているのは、上述の会話から明らかだろう。私の考えは、相対序列づけが止むをえないと言ったので、本質的に重要なのは全社的「絶対考課」基準だから、全部署が必ずきれいに割合通りになる必要はないのである。配分原資はむろん有限だが、それを社員の活性化に最大限に活用するための調整活動は、繰り返すが人事担当者の本来の役割なのだ。



    ■部門内調整にも有効


    最初に人事担当者にとってのメリットを挙げたほうがわかりよいと思ってこうした例を述べてきた。「部門間」の調整も難しいが「部門内」の調整がふつうは先にある。たとえば営業部で、各営業課の評価の甘辛を調整し、部門として、社員の評価序列を決定する場面である。こちらは難しいと言うより、被考課者との距離がぐっと近くなるから、ぐっとなまなましく、日ごろの情念がぶつかりあう。ひらたく言えば、一層、無意識の不公平が起きやすい。こうした時の、全社的絶対考課基準の効用も、これまで述べてきたこととほぼ同じである。


    2次考課者の部長は、自分がよく知らない一般社員に高い評価がついていると、部下の1次考課者の課長にこう聞くかもしれない。


    「君、この人そんなにいいのかい。」


    これに対し「ええ、いいのです」ではあまり説得力はないだろう。と言って部長もあまりよく知らないのだから、日常の細かいことを説明してもたいして聞いてはいないかも知れない。「この間の研修のケーススタディの人と同等か、それ以上やっていますよ。」と言えれば簡潔ながらだいぶ重みが増すと言うものだ。こうした積み重ねの結果、2次考課者以上の方々が1次考課者のつけた評価を従来以上に尊重し、もしそれを変更しなければならない必要性を感じたとしても、熟慮をもって1次評価者と意思疎通するようになれば、組織の活性度は一層高まるのである。

  • 実戦問答No.29:人事考課における全社的絶対考課基準、相場観の重要性

    ■全社的絶対考課基準とは


    人事考課教育の目的は、全社的絶対考課基準の確立にある。ひらたく言うと、会社全体に共有された相場観である。もっと砕いて言えば、「当社の係長ならこのくらいはできている、当社の4等級社員ならこれくらいがふつうだ」と言う実質判断の共通基準である。つまりは、これが客観性、公平性の本質でもある。


    人事考課において最も重要なことは、客観性と公平性だと言うことに異論を唱える人はまず少ないだろう。納得性と言うのがまだ残っているし、それが同じくらい重要なことは確かだ。が、それには、客観性、公平性が絶対の前提条件である。大事さに差はないとしても、客観性と公平性が先に問われるのである。


    さてこういう本質的基準はいくら書いても文字に表しきれるものではないし、もし書けてもそれを印刷して配ったからと言って決して十分に浸透するものでもない。


    多くの企業は、人事考課基準をなるべく客観的にするために精密に細かくつくりこみ、さらに公平に運用するためその定義の解釈を説明する。そこまではまあよいとしよう。しかしこうした文書主義的方法だけで終わりがちで、それでは最終的かつ本質的な客観性、公平性は構築されていない。


    そうした書面主義の「教育」をいくら受けたとしても、そのあとで何らかのケーススタディを見たときに、考課者が20人も集まれば、どのような会社でも、同じ事例を同じ会社の管理職が読んでいるのに、評価結果は2段階や3段階、場合により4段階にも分かれるものだ。程度の問題もあるが、同じ行動を見たときに、ポジティブに見る人と、ネガティブに見る人が真っ向対立?することもある。これは放っておくのは少々問題だとわかる。


    ケーススタディ事例が示された時、なぜ同じ会社の管理職なのに評価がまちまちになるのか。彼ら個々人の「相場観」が異なることがいちばん大きな原因である。相場観とは、「ウチの会社のこの等級ならこんなものだ」と言うものだ。評価者は個々のマネジャーだから、個々の人生観、価値観はどう異なっていてもかまわないが、この相場観はなるべく大きな差がないほうがよいに決まっている。が、最もスキル未熟な評価者は、そういうことをあまり顧慮しない。


    たとえば野球ならば、最高年俸をもらうエースと、未勝利初出場の新人投手とでは、同じ先発ピッチャーを任されたとしても、責任、期待されるレベルがはるかに懸絶する。前者なら完投勝利を挙げて欲しいし、後者なら何とかゲームをこわさないように持ち味を出して欲しい、と言うくらい異なる。まさか初マウンドの新人が、いきなり快刀乱麻のピッチングができないからと言って、「あいつはだめだ、資質能力不足だ」とは誰も言わない。


    ■客観性、公平性確保のために上司に必要な自問自答


    そんなことは当たり前ではないか、と自分とは別世界の事なら誰でもわかる。ところが自分の目の前のたとえば5等級の社員に、それがあてはまらなくなる上司がとたんに多くなるのはどうしてなのだろうか。少なからぬ上司が、部下の行動を感じたままに評価する。「この部下の行動は、当社の5等級として、ふつうだろうか、よいほうなのだろうか、たりないのだろうか」などとはあまり自問しないで、そのまま評価してしまうと言う意味である。「全社的絶対評価基準」「相場観」と言った意味がおわかりいただけたろうか。


    こうした時、上司はむしろ情念の渦に巻き込まれていて、そのような冷静さを欠いていることが少なくない。たとえば手痛いロスをこうむった時に、「あの時、彼(その部下)がもっとがんばれば、あるいは深く注意していればこのような事にならずにすんだ」などと考えていることが多いと言うことだ。「彼の資格等級、キャリアから言ってそうしたことができたのだろうか。私はそれを期待するのが公平と言えるだろうか」などとは、あまり自問自答しない、と言う意味だ。人材活用の優れたマネジャーなら、なおこう自問するかも知れない。「そのような事柄は、管理職である自分自身が、先んじて彼に十分な注意を与えておくべき事柄ではなかったのか」。


    極端に本質を突き詰めれば、評価要素と言うのは、そうした自問の1か条だけでよいのだ。「この部下の行動は、当社の〇等級として、ふつうだろうか、よいほうなのだろうか、たりないのだろうか」と。まあいくらなんでもそれでは、と言うことで、責任性、協調性から始まって数々の評価要素をつくる。だが、それらをどれだけ精密に定義づけても、この種の事は解決できるものではないし、やり過ぎると「複雑すぎてわからない」と言われてかえって混乱を招くのがオチである。成果主義の失敗例の多くはこれに属する。


    上記の「相場観」は、書類の読み解きではなく、ここが肝心だが、同僚管理職との討議、対話の中でしか形成されえないものだ。そのためには討議されるケース、事例が適切でなければならないことは言うまでもない。その上で、同じ事例、行動を見たときに、ある人はAだと言い、他の人はBなりCなりだと言うのは、各人が、全社的でない自分だけの「相場観」──これは個人の「価値観」と言うべきものだろう──で評価しているからである。


    価値観と言う言葉は、会社や個人の哲学を語る時には良い意味で使うのが普通である。その通りで、仕事そのものは、大いにおのおのの価値観で進めればいい。が、こと評価を公平に行わなければならない時に、個々人の価値観ほどじゃまになるものはない。


    ■個人的価値観と客観的相場観

    以下のような人事考課研修中の討議を考えてみよう。

    山田:「この人は、上司と約束したことができていないね。これじゃよい評価はつけられないよ。」

    鈴木:「君ねえ、うちの会社の5等級だったら、このくらいできたら、まずはいったんよしとしなければ、先に進まないんじゃないの。」

    山田:「だって目標設定で言ったことができていないではありませんか。」

    鈴木:「だから、それは考えてみれば難し過ぎることを期待したのではないかな。」

    山田:「そうかなあ・・・・・でも多少難しいとしたって、この人は大きく育つよう期待されてこれだけの役割を与えられ、やると自分で言ったのだから、もっとやって欲しいのよなあ。」

    鈴木: 「まあ期待するレベルをどうするかは上司個々人の自由かもしれないが、今日は、まずは評価がどこが妥当かと言う話でしょう。」

    山田:「あなたの部署の5等級は、こんなものですか。」

    鈴木:「いや、恥ずかしいけどここまで行っていない人も少なくないですよ。だから、うちの会社の5等級なら、この例はまあがんばっているほうではありませんか・・・・・」

    こんな討議を、具体的事例を置いて徹底的にやって欲しいわけだ。鈴木さんの最後の「うちの会社の5等級なら、この例はまあがんばっているほうではありませんか」と言うのが、本稿で言う全社的絶対考課基準へのアプローチである。考課者教育にあっては、せっかく忙しい管理職を集めるのだから、人事考課表の定義を読み上げ説明するのはほどほどにして、こうした討議が徹底的に行われるよう、設計運用することが何より大切である。


    少しくらい難しくても期待されて担った役割ができなかったのだから、評価は低くても仕方ない、と言うのが、上述の個人的価値観である。その課題が、本人の資格等級を踏まえ、結果から見てどれほどの難しさやボリュームがあったかを判断するのが、全社的絶対考課基準であり客観的相場観である。


    個人的価値観と客観的相場観が混同される典型が、上述会話のような、「評価と指導育成の混同」である。この二つをごちゃごちゃにしてしまうと、評価はたいてい客観的でも公平でもなくなる。せっかく預かった部下だ。誰だって情熱を傾け、大きく育って欲しいと思うだろう。それはよい上司たる必須要件でもある。しかしその指導育成上の理想水準レベルを評価基準にしてしまったら大変である。そういうものは、上司によってまったくばらばらなのだから、どれほど不公平なことになるかは容易にわかる。


    だいたい資質有望な部下ほど試練を与えるのが普通であり、それは正しい。だが、同じ資格等級にいる同僚に比して評価基準までもそれにつれてどんどん高まるのでは部下もたまらないだろう。育成においては理想を追うのはよいが、評価は現実に基づくほうが妥当である。この区別とコントラストを微妙かつたくみに描けるのがすぐれた上司だと思う。


    ■「これだけがんばっとる人に」


    先日ある会社から依頼を受けてつくった、被評価者が係長級の「オリジナルケーススタディ」を、さっそく管理職研修にて討議して頂いた。当然ながら当初の評価は一致しない。個々の評価要素ごとのすりあわせが続き、研修も後半になった。頃合いを見たように、ある課長が私に向かっていった。


    「横山さん、うちの会社にこんなにがんばっとる係長なんておらへんと思います。そやから、私は、迷うことなくS(最高評価)をつけたのですが、横山さんは、このケースの作者としていかがですか。本当に、こんなにできるやつがうちの会社にふつうにおると思うてはりますか。」


    研修所は東京だったが、この方は近畿地方からいらしたようだ。


    「さて・・・・・部外者の私の思いはいったん置いて、討議してみてまわりの皆さんはどうでしたか。」


    「いや、それが、私と同じでSの人もおったけど、合わせればAとBの人の方が多い。『あんたら、これだけがんばっとる人に、まだケチをつけとったら、うちの会社は若手が誰もおらんようになるか、反乱起こされまっせ』と言うたんですわ。」


    「それで・・・・・」


    「まあ、しかし、私の説得力が足らへんのか、グループ見解は結局Aに落ち着きました。『だいたいわしら(管理職)の中で、係長の時、これだけがんばれたやつがどこにおるのや』と言うたら、同じグループの田中さん(仮称)が、『あんた、それとこれとは別ですがな。昔は昔、今は今や。今の方が経営環境が厳しいんやから、部下への期待水準も昔より高うなるんはあたりまえやで。そのぶん、あいつらのほうがしっかり教育も何も受けとるんやから。』と言わはりました。先生、今日の勉強会、わしらはそんな意識でええんでしょうか。」


    教室中が大笑いになった。

    受講者であるこの方が、講師として締めくくるべき事柄も何割か話してくれたので、研修はとても参加型のポジティブな雰囲気のもとに終わった。この方の発言の冒頭のほうの、「うちの会社にこんなにがんばっとる係長なんておらへん」と言う考え方がここまで繰り返し述べてきた「全社的絶対考課基準」であり、「相場観」である。その水準を(この人の主張通りにはならなかったとしても)、管理職どうしで十分討議して妥当なコンセンサスを形成することは、人事考課者教育の最大の眼目である。こうした発言が受講者のほうから出てくる時は、評価スキルも相当習熟が進んで来ている証拠と言ってよい。


    こうした大局的な見地を抜きにして、被評価者の部分部分の一個一個の行動を、いきなり評価表の細部の定義と照らし合わせる作業をすると、たいていは妥当な結果にならないものである。評価はマネジメント上の判断であり、科学的機器による実験測定ではない、と私はこの仕事に就いてからずっと言い続けてきた。人事考課力はマネジメント能力であり、とくに判断力である。こうした大局的相場観を養うには、繰り返すが、同じ会社の管理職どうしで討議をするしかないのである。


    こうした、マネジメント能力、判断力の本質は、そうした対話を通じて本人が体得するしかなく、紙に書かれた判断力の定義や絶対考課基準を丸暗記したところでそのマネジャーの評価能力はさして高まらない。繰り返すが、それは書き文字からは決して伝わらない内容だからだ。当の管理職達自身が、経営環境の変化に合わせ、いつも深く考え、探り当てていなければならない実感としての基準である。だから時々討議をして発見しなおし認識を深め、共有の暗黙知にするしかないのだ。人事考課者教育を、何年かに一度などと定例的に行う会社が多くなったのは、このあたりに本質的意義を見出している。


    そこにはキャリア豊富なマネジャー同士の暗黙知と呼んでもよい評価基準のエッセンスが積み上げられる。そうした全社的絶対考課基準は、現時点において未成熟なマネジャーが視野を広げる最高の教材である。もちろんふだんからそのように視野を広げる努力はもちろんしたほうがよい。が、日常お忙しいからなかなかその気になってもらえない。そういう方はたいてい「そんなよけいなことをいちいち考えていたら、いつまでたっても評価が終わらないし、時間がかかってしかたがない」と思っているからである。そういう意味で、適切なケーススタディを用いた考課者研修は、そうした公正な評価判断基準形成の必要性を痛感する良い契機となる意味が大きい。

  • 実戦問答No.28:同じ会社の管理職がまったく同じものを見て正反対に評価が分かれました・・・・・

    活きた人事考課者教育の運営

    人事考課者教育、人事考課訓練を行う理由は、私の場合は、この実戦問答26で述べたように、3つの目的がある。正確に言えば、その3つの目的に、管理職の方々に深く気づいていただくことである。その3つを、もう一度だけ題目のみ挙げておく。

      ①公正な(客観的で公平な評価に基づく)配分

      ②適切な評価の伝達とその受入・納得による行動の変化

      ③部下の能力開発

    上記いずれにも関わるような活き活きとした討議が研修の場においては折々生じる。つい先ごろは以下のような管理職どうしの議論の例があった。

    私がつくったあるケーススタディの主人公は、グループリーダー(係長格)の開発技術者である。新規開発商品を行っている。だから、大型の現行主力商品ではない。従ってその立ち上げに、必要な関係部署の協力が、ごく円滑に得られると言うわけにはゆかなかった。要するに、まだ今は物が小さいからあまり支援を期待できない。そこで、立ち上げ時に混乱がつきものの品質管理や生産管理の問題解決に、上司の許可を得て、工場に長期駐在し、じかに関与して推し進めたのであった。時には重要外注先にも出向いた。

    当然ながらすいすいとは進まない。数々の葛藤と軋轢を乗り越える必要がある。関係者を、熱意を込めて巻き込み、時間をかけてどうにか新規立ち上げを完了することができた。個々には書ききれないが、それはそれは苦労の連続だった。ただし、こうした混迷の影響で、次の開発案件への着手は遅れてしまった。

    本当は、活き活きとした会話の場面がたくさん含まれるもっと長いケーススタディになっているのだが、要旨を言えば以上であり、この主人公の行動をどう評価するかとか言う話である。

    これが正反対2つと玉虫色とに、きれいに3つに参加者各グループの意見が分かれてしまったのだ。

    まず、A班は言う。

    「この主人公は、技術者として自分の定められた役割を越えてやり過ぎである。その結果自分の動きも効率的になっていないし、外注先を含め、人間関係上の葛藤を招いた。次期開発案件への着手も遅れ、計画的でない。よって一連の行動は評価できない。」

    これに対し、B班は反論した。

    「最初の役割の範囲など守っていたら、いつまでたっても開発は完了しなかっただろう。彼の積極果敢な行動があって初めて物事が完結したのであり、大いに評価すべきである。そもそも当社にはこうしたチャレンジ精神に富んだ社員が少ないから、いつも会社方針に挑戦せよ、現状打破せよと書いてある。そういう人をこういう時に評価しないでどうするのか。」

    少し考課者研修全体の空気が引き締まった。どちらの立場にたつとしても、次に発言する人には少しストレスがかかる雰囲気でもある。私は言った。

    「さあて、研修がおもしろくなってきましたね。同じ会社の管理職どうしが、まったく同じものを見て、正反対に評価が分かれました。これからどうしましょう。」

    こう、少しだけ諧謔味をこめて言うと、一層前向きな論議が活発になると言うのが私の経験上のコツである。

    さっそくA班が再反論した。

    「そうは言っても、次期案件が遅れたことは明確にマイナスだ。」

    「彼の資格等級(係長)を考えた時には、当初の開発立ち上げ案件が困難を来した時からすでにオーバーフローだから、それはノーカウントだ。もともと一係長がなしうるすい範囲ではなかった。」

    「やり過ぎて、いろいろな関係者と葛藤を起こした。」

    「では品よく物静かに振る舞えば、開発が完了できたかと言えば、そんなことができたはずがない。自分の任務への熱意の表れと見るべきだ。そして最後には、協力してくれる人も多くなった。リーダーシップがある証拠である。」

    こうしてA班B班は活発な議論をした。ひとりC班は沈黙を守っている。私がどう考えているのか聞いてみた。

    「この人の所定の役割を踏み出してゆく行動は積極性を評価しますが、その途中で和が乱れたのは、リーダーシップの不足と見ます。」

    「つまり、是か非かどっちなのですか。」

    「いえ、今お話ししたように、どっちでもあるのですよ。」

    ここで会場が大笑いした。私が「玉虫色」と言った意味がおわかり頂けただろうか。そして、この日は、絵に描いたように、同じ行動を見る態度が、是と非と玉虫色に分かれた。同じ会社の管理職において、である。

    実は、考課者訓練を行う意義は、こうした活きた討議を行う局面に集約されるのだ。人事部やコンサルタントの仕事は、こうした煮詰まった場面を、1日研修を行うとしたら何度かつくりだすことだ。つくりだすためにはその会社に符合した適切な状況設定(教材、ケーススタディ)が前提として必要となり、その上で、全体討議を適切に運営するファシリテーション技術を要する。

    さて、この稿の読者は、ABC3班のいずれの見解を妥当と考えられたろうか。もちろん、あらゆる業種、事業構造、企業規模、風土、主人公の職種、前後の状況を超越した普遍的正解などというものはないだろう。だから読者の個々に置かれた環境によっていずれを支持したくなるかは、当然違うだろう。

    しかし、同じ会社の管理職どうしだと、正反対のまま終わりにはできない。だからこのあとも、もう少し時間をかけて討議して頂き、その会社の現在の状況にとっては、着地点が見えてきた。この場合は、ややB班の主張に機軸が置かれた結論になっていったし、呼ばれた講師としての私も、その会社のそれまでの経緯に照らした時、おおむね妥当とだと感じた。

    しかし、何より重要なことは、正解を確定し、印刷して配って覚えてもらうことではない。真実は、結果論のプリントではなく、上記の活きた討議への参加の中にあるのだ。この種のものは、これが正解ですと公式に紙に書いた瞬間に、古文書になってしまう。そういうものを読まされて、一層に部下の評価と育成に動機づけられるマネジャーなどはいないからである。かのジャックウェルチ(GE前CEO)の表現を借りれば「死んだ書類」である。

    人事考課者教育を行うのは、上述のような、活きた討議を深め、誰しもにある自らの判断・評価の特徴、傾向、癖をくっきりと自覚するためである。それはまったく個々人の積み上げた性格、経験、役割、職務に基づくものだから、当初は、「これで同じ会社の管理職なのか」と言うくらい評価の着眼や結論が大きく異なるのは、むしろ普通なのである。

    上述の例でもそうだったが、ここで初めて受講者は思う。同じ会社の管理職なのだから、個々人の性癖や好みがいくら異なったとしても、人事評価と言うような重要場面では、物事を判断する方向性の基本は共有していたほうがよいと。そのような意識が前向きな雰囲気の中でおおむね共有されればまず教育は大成功である。

    「どうも人事考課教育がうまくゆかない」とよくご相談を受けるが、その多くは、こうした真の討議が行われず、制度の細部や考課要素の解釈の説明などにとどまっている。それなら、管理職達も忙しいのだから、書類を配って読ませればそれで済む。と言ってそれで評価力や、マネジメント能力が向上するわけではない。真の討議になるためには繰り返すが、適切なケーススタディとファシリテーション技術を要するのである。

    ところで、普遍的な正解はないが、「玉虫色」のC班の態度は、どうなのだろうか。今回は結論だけを述べておきたい。これは拙著「ポスト成果主義のせ人づくり組織づくり」にも書いたが、人事考課で基本的には行ってはいけない同一事実の「正反対考課」である。より俗な表現でいえば部下にとっては「股裂き考課」、上司にとっては都合の良い「ふたまた考課」である。なぜ基本的に禁じ手なのだろうか。折を見てまたここに所見を書くので、読者にもいったんお考えいただきたい。それとこの禁じ手は、知的能力、分析力などに自信のある人のほうが犯す確率が一般に高いことも併せ述べておきたい。

  • 実戦問答No.27:人事考課の客観性ということを

    ■客観性の保持はマネジメント能力そのものである

    人事考課の客観性と言うことをもう少し述べておきたい。

    客観性こそは、公平性と納得性の基礎をなす原点であり、客観性がなければ絶対に公平も納得もあり得ないからである。

    「私は客観的に部下の評価をしているつもりだ」とあるマネジャーが口にしたとしよう。これはほとんどの場合、実際は「公平にやっているつもりだ」という意味であり、「好き嫌いで人を評価してはいない」と言う意味のようだ。そのような意識だけで、真の公平性を保てるかはもちろん課題が残るが、少なくともこれは客観性とは直接関係はない。

    客観性とは、そのような態度の問題ではなく、マネジメント能力、その中でももっとも重要と言ってもよい判断力と密接に結びついた人事考課における必要条件である。経験の浅いマネジャーは、一般に客観性を、人事考課要素や人事考課表その他、会社のしくみのほうから与えられるものであり、それに乗っかっていればおのずと客観性が具備されると思い込みがちである。ある程度まではそう言える。しかし、客観性というのは、そんなに底の浅いものではない。客観性は、多くの部分を、マネジャー個々人が自分の主体的な判断力により構築しなければならない要件である。

    拙著「ポスト成果主義の人づくり組織づくり」にて述べたように、人事考課の客観性をもっとも簡単に測れる質問が次の2問である。

    その第一は以下である。

    「あなたのある重要な部下の、この1年間の評価を今から行うとして、評価の上で重要な事実を、重要な順に5つ、すぐに言えますか。」

    第二の質問が以下である。

    「重要な事実が言えたとして、その点が重要であると、少なくとも8割がたは、部下と認識が一致していますか。」

    ■客観性を確認できるのは当事者だけである

    客観性の有無は、会社や他人が決めるのではなく、まず何より上司部下の当事者の間で客観的でなければならないのだ。そして上司と部下は立場や観点が異なるから、最後の評価が異なることがあるのはしかたないが、「何を評価すべきか」が当事者間で一致していなければ、そもそも話にならないのだ。ある特定期間に具体的に何に重きを置いて評価すべきかは、当事者間でしかわからないし、「客観的な第三者」には決してきめられないのである。

    ここが初期の成果主義の大きな誤りのひとつだった。ある特定の上司と部下との間において何が重要な事実であるか、当事者以外の誰がわかると言うのだろうか。目標シートや評価表などを、誰が見てもわかるように書きなさいなどとよく成果主義の導入期に言われたものだが、その仕事のことを知らない他人がそれを見て何か重要なことがわかるのだろうか。わかるのは、評価ルールにのっとった足し算や掛け算が合っているかどうかだけである。それと客観性は何も関係がない。客観性とは、どこまで行っても事柄の中身の問題である。

    より正確に言えば、客観的な第三者がわかるのは、これこれが評価上重要な事実であると、具体的に説明され述べられた時に、その判断が妥当であるか否かだけである。そういう手間ひまのかかることを、進んで社員ひとりひとり全員に行うわけにはゆかない。だから、評価の不服申し立てと言うイレギュラーな状態に制度的にどう備えるかを考える一方で、基本は上司の評価力、判断力に信頼を置かなければ運営できるものではない。それゆえ、教育や訓練が大切になるのである。

    何が重要で何が重要でないかを決定する能力は、マネジメント上の判断力そのものである。なぜならこの世でただひとりの特定のある部下の、この世で1回きりのある行動や成果をどう評価するかは、人事部が何百ページマニュアルをつくっても、それに基づき機械的に測定することはできない。自分が主体的に判断決定しなければならないのである。こうした応用、適用を行うためにマネジャーがいるのだと言うことを、マネジメントをスキル、技能の一種のように考える方には、このプロセスがアナログに過ぎて、なかなかわかってもらえないことがある。ここは権威の力を借りよう。かの碩学ミンツバーグも言った。「すぐれたマネジャーほどアナログを好む」。考課者訓練をやっていても、その時点における実力の分かれ目は、まずこうしたあたりに出るものだ。キャリアの浅い人ほど言う。「そんなややこしいことを討議するより、基準を決めてくれ。」と。

    ■事実を重要な順に言う

    まあ、重要事実を5つと言ったのは理想で、3つか4つでも、すぐに出でてくればまず十分である。これが数分以上かからないと出てこないようでは、客観性は入り口で早くもあやしくなってしまう。

    「事実」であるから、「彼は私の方針をよく理解していない」「目標設定が挑戦的でない」「問題解決における状況判断が適切でない」というような抽象的なものではない。これらは評価の結論そのもので、そう評価する前提が具体的で妥当なものでなければならないと言う話が客観性である。上司と部下とでつむいできた、重要なストーリーの中から抜き出してきた、活きた事実でなければならない。

    実際に人事考課訓練などを行うと、「重要な順」ではなく「思い出した順」に言う人も出てくる。もっと言うと、少なからぬ上司は、「気になる順」に言う。気になる順とは何かと言えば、ありていに言えば「気に入らない順」である。どうして上司というのはこうも気に入らないことはしっかり覚えているのだろうかとおかしみを禁じ得ない時がある。しかし、私もひとりの上司としては笑えない。

    「気に入らない順」が、「重要な順」に偶然合致すれば何も問題は生じない。しかしそういうことは残念ながらまず起こりえない。だから、ここで冷静に判断力を用いなければならない。「今自分が取り上げている事実は、彼の評価に大きな影響を与えるほど重要なものだろうか。」

    ■軽微な事実を評価対象にしない

    この判断プロセスは、言い換えれば、「軽微な事実を評価対象にしない」と言うことでもある。軽微な事実とは、つまりはどうでもよいことである。どうでもよいことを指摘することほど効果的に人のやる気をなくさせる方法はない。そしてむろん客観性が損なわれる。

    ついでに言うと、これは、私が部下や頼まれたクライアントを、評価の専門家、つまりアセッサーとして育成するときに、初期段階において強調する点でもある。細大漏らさず事実を拾って来るのはよい。しかしここで言う軽微な事実はある段階で捨て去らないと収拾がつかなくなってしまうのである。

    人事考課において、こうした軽微な事柄が大きく響いてしまうのは、ほとんどの場合上述のように、自分の気に入らないことにこだわっているからである。

    こういう点が、評価者研修などを行っていると、効果が如実に現れる点でもある。「おい、君、そんなこまかいことはどうだっていいじゃないか。」と同僚の管理職から言われるのがいちばん心に響くのである。さらに言われるかもしれない。「そんなことまでいちいち気をつけていなければならないのでは、君の部下をつとめるのは本当に大変だね。」

    偉い役員に呼ばれてそう言われたらその時は直立不動で聞いているだろう。が、汗をかきながら内心では「偉い人は現場をご存じない」と思っているかもしれない。人事部員に「マニュアル通りやってください」と言われたら、「はい、わかりました」とふつうは言う。が、実は、重要顧客のクレームを思い出してうわの空で聞いているかもしれないのだ。似たような日々喧噪の修羅場の中にいる同僚マネジャーに言われるといちばん響くわけだ。

    ■仕事熱心さと評価の客観性の区別

    以上のように、人は自分の都合、好悪や情念がはさまると、とたんに評価に関する判断力が低下する。情念情熱は、もちろん上司自身の仕事の達成、任務の遂行には大いに用いればよい。しかしここは場面が違うと言うことが、仕事熱心な上司ほど区別がつかないことが少なくない。さらには、自分の立場上の都合、利害からいったんは離れて部下の行動を見ることは誠に至難である。

    ここまで来ると、客観性と公平性の境界がだいぶあいまいになってくる。実際両者は、本質において重なり合うものである。が、ここでは一応事柄の軽重に関する評価力の程度を客観性、人間(部下)の性格や行動傾向に対する好悪の癖を公平性と区別しておく。

    ■客観性とは単純な結果ではなく脈絡である

    客観性はなお奥が深い。

    重要な事実とは、目標管理の件名や、単なる出来不出来の結果とは、幾分異なるものである。ある重要な目標が達成できなかったとしたら、それ自体は何もしなくてもわかる。そういう結果になった背景、原因、プロセスがここで言う重要な事実である。もちろん役員や上級管理職の評価なら結果だけで十分だろう。が、人事考課が問題になるのは、実際の多くは一般職と初級管理職である。

    もしも部下がなまけていて、あるいは必要とされる能力が明確に不足したため達成できなかったのなら重要事実としてはそこでおしまいでいい。しかし、そういう単純な事例はさほど多くはない。

    たとえば、与えた課題や、目標が、その部下の資格等級に比して難しすぎたならどうだろう。逆にやさし過ぎたらどうなのだろうか。あるいは、課題以前に、普通の人の5割増しも日常業務のボリュームがあったらどう見るのだろうか。

    多くの場合これらを論じることすらしない。それでいて当初の目標の何%できたかとそちらばかり見る。そういうのは、繰り返すが、客観性ではなくて算数の確認である。目標や課題の大きさなど、人によってきれいに同じにそろうはずがないのだから、それを無視して達成率だけ論じるのはほとんど意味がない。

    あたりまえだが、難し過ぎたら評価を1段上げ底にするしかない。そうしなければ、算数の帳尻が合っているだけで、評価結果は誠に不公正と言わざるを得ない。意図は別として、係長に課長レベルの課題を与え、やや不十分な結果ならB評価(普通)とすべきである。こういう時、仕事の面で優秀な上司ほど、評価と育成がごちゃごちゃに混同しがちである。「彼の資質やチャレンジ精神を期待して難しい課題をあえて与えたのになぜがんばりきれないのだ・・・」と言うわけだ。その「期待」というのが、さきほどから言う「情念」であり、仕事には絶対に必要だが、評価には不要だと言った意味がご理解頂けたろうか。評価の場面で必要なのは、レベルの違う課題を与えたと言う物言わぬ重要な事実のほうである。

    「本人が自分でやりぬくと約束したのだから」と言う話もあくまで指導育成上の観点だ。「一度口にしたのなら最後までやりぬきなさい」と言うのは、部下をより育てたいから言うのであって(言ったほうがよいのだろう)、どう評価するかは別次元なのだ。

    もちろんひどく不十分な結果ならC評価でよいのだが、このあたりは繰り返すが、よくよくよく判断してつけないと、次から部下がチャレンジする気持ちをなくすだけの結果になる。難し過ぎる課題に対して、普通の結果が出たならA評価である。逆にやさし過ぎる課題だったら、結果がよくても普通の評価に戻す。

    こういう調整をせずに、どうあっても事前計画の達成率だけで評価したがる人を、口の悪いジャック・ウェルチ(GEの前CEO)は、著書で「単なるバカ」と呼んだ。目標設定と人事考課とは、本来別次元のものなのである。私は、上級管理職は結果だけの評価でもいいと裏腹なことを言ったが、実際は、結果数値至上の権化のように見えるウェルチですら、幹部社員の評価におけるこうした微妙さを認めているのだ。

    以上のような脈絡は、結果が定まってからでないと、まずわかるものではない。

    上述のように、「この部下にはまだ難しいがあえてやらせる」と前もって意図的にしている場合は、私たちが思っているほどは多くはない。現実により多いのは、繁忙と切迫の中で、「よくもあしくもこうするしかない」と言う待ったなしの取り組みがずっと続く場合である。当然当初の想定とはひどく異なるプロセス展開になっているはずだ。そんな時には、プロセスをふり返ってみて初めて難し過ぎた、やさし過ぎたと言うことがわかるのだ。

    ■機械的評価のもたらす無益と徒労

    難易度だとか、ジョブサイズだとか何やらの事前尺度を精密に検討するのは、ほぼ徒労であると、この実戦問答10にて述べた。要するにこの種の努力は、なるべく評価を機械的に行いたい、それが、恣意が入らず公平だと言う考えに基づくようだ。起こりうる重要な変化をすべて先に読み込むのは不可能である。それを無視して内容や実態を把握しない機械的な評価を行うなどは、考えられないくらいばかばかしいものだ。そしてさまざまな現実の臨床結果から見ても、この種の間違った精密さの追求が、成果主義の典型的失敗例につながったことももはや明らかである。

    この種の係数を精密にすればするほど、人はそのおおもとをあいまいにする。やさしい目標を設定し、これは困難だと上司にいっしょうけんめい説明する。上司は疑問に思い、いろいろ質問する。部下はまた難しさを証明しようと熱弁をふるうかも知れない。これほどの時間のむだが世の中にあるだろうか。そういう無益の論議をしている時間があったら、少しでも多く顧客を訪問しその声に真摯に耳を傾け、あるいは現場に出てコストや品質の改善に努めるほうが、いったいどれほど建設的であり、会社と社員自身に資することができるだろうか。こうした時間の空費は、やがて大変なロスとなりツケとなってはねかえるだろう。

    ■事前目標に載っていない重要な成果

    もうひとつ、評価者訓練をしていていつも問題となるのだが、事前に目標設定した事項以外のことで、達成された重要な事実があったらどうするのだろうか。これも、多くの場合、まったく無原則でまちまちに委ねられている。しかし、これを無視したら、評価の客観性などはまったく失われてしまう。基本的には、重要な事柄が達成され、それが組織や職場に役立っているなら評価すべきである。

    そうすると「それは勝手にやったことか、上司の承認を得てやったことか」と言ったことを気にする人もいる。私はそういうことが問題になるほど、日本の上司は、組織運営力のない人ばかりとは思っていない。部下が自分のあずかり知らない事項に取り組んでいれば、ごくすふつうに「何をやっているのだ」と質問するだろう。部下がきちんと説明できてなるほどと思えば続行させる。無益と思えばやめさせるだろう。まあしばらく様子を見るかと判断して黙って待つうちに成果が出たと言うこともあるだろう。

    テーマアップをどっちが先に口にしたかなどは、多くの場合どうでもよい事ではないだろうか。つまり「重要な事実」ではない。何となれば上司も職場もその成果を享受しているではないか。それでも気にいらないと言うなら、評価には加えず、かつ事実も、部下の改善以前に戻すべきである。つまり出てきた成果は、非嫡出だから承認しない、もとに戻せと言うことだ。そうでなければつじつまが合わない。

    以上の客観性は、評価の本質に関わることであり、折を見てまた述べたい。

  • 実戦問答No.25:人材マネジメントと管理職処遇の考え方

    このテーマは、最近実施するセミナーで、受講者の方々にもほぼ共感を頂いているようなので、ここで改めて述べたい。

    堀紘一先生に「ホワイトカラー改造計画」と言うすぐれたご著書があった。私の記憶の中では、管理職の処遇をもっと厚くせよと初めて強く説いた書物でもあった。1994年の発行である。あの頃は、バブルがはじけてどこの企業も経費節減に躍起になっていた。そんな中で、事業運営のかなめとなる管理職たちの意欲を削ぐような措置は取るべきでないし、むしろより手厚く配慮すべきであると言う文脈だったと思う。

     
    あれから17年、わが国の相対的国際競争力は下がったかも知れないが、国富や1人あたりGDPが結局減ったと言うわけではない。が、管理職の処遇はどうだろうか、堀先生のご唱導のようになっただろうか。むしろ、管理職と非管理職の扱いの差がますます少なくなったように感じられる。人間平等論からの是非は別にして、こうしたことが組織の人材マネジメント上にどんな影響を与えただろうか。私はやはりマイナスの影響の方が多かったと思う。他方、それを上回るほどの収益力改善効果があったのかは、どうもよくわからない。

    数年前に日経ビジネスが、各社で活躍中の管理職直近の係長、専門職クラスにアンケートをしたことがあった。設問は「あなたは管理職になりたいですか」である。当然ながらアンケート先は大手企業、一流企業が多かったはずである。それなのに、なんと6割近くの人が管理職にはなりたくないと答えた。もちろん理由はさまざまだが、「なったところでたいして処遇が厚くなるわけではないし、形式的な仕事に振り回され専門的なことに打ち込めなくなるのだから。」と言うところが最大公約数ではあったと感じている。

    もちろんこうした問いを新入社員に聞いても意味はない。もうちょっと手を伸ばせば管理職に届くと言う人に聞くから意味がある。

    読者の会社ではどうだろうか。もし8割以上が「すぐなりたい」と答えるようなら、まずは活力ある組織と言ってよいだろう。

    能力、気力の伴った人材が、責任ある地位に就きたくないなどと言うのは、これほど残念なことがあるだろうか。本人にとっては与えられた才質の空費であり、会社にとっては大いなる機会損失である。専門職と言う別な枠組みもないではないが、そのことは別な機会に述べたい。

    先日私はあるクライアントに研修のお手伝いに出かけた。その研修と言うのは、管理職候補者として認められた人だけが受講を許される不定期のものである。だから人によってはずいぶん待たされていたはずだ。教室に行くと、既に開講前から熱気がひしと伝わる。それはこの機会を逃してなろうものかと言う強い意思が多くの人から発せられ、体感気温を高めたに違いない。こうした雰囲気が私は好きだし、実際健全でもある。当然ながら研修もたいへん活発な展開に終始した。

    全然別な時に別なある会社では、文字通りだが、「ある係長に管理職になるよう内示したら、なりたくないと言うのでどう説得したらよいだろうか」と言うご相談を受けた。なかなかこう言うのは難しいし、何より相談者も私も意気があがらない。二人ともホンネは「なりたくないなら無理になってもらわなくていいのだよ」と言いたいし、おそらくそれが本来の筋道だからだ。が、少なからぬ会社でそのように単純に割り切れない事情があることもまた現実である。

    こんな相談を受けることもある。管理職の賞与配分で、成績評価の比重を高めると、簡単に言えば、一時的にせよある課長がたとえば別部署の部長のボーナスを追い越してしまう例が見られ、どう考えたらよいか、と。わかりやすく極端な例を言う。たとえば基本給60万円の部長が、評価Bで2カ月120万円の賞与とする。基本給45万円の別部署の課長が、評価Sで3カ月、135万円となると言うような話である。


    これをどう考えるかは、最初に制度設計した時の考えがどうであったかによる。ただ、ご相談者としては、改めて、それが本当に貢献度を正確に表現しているのか、と言う意味だろう。


    こうした問題を考える時の前提として、何度もそう言う「うわぶれ現象」を起こす課長なら、なぜさっさっと部長にしないのかと言うことである。人材の序列間のフローのフレキシブル度増加は、人事改革の必須要件だろう。能力がある者は、昔よりは速やかに認めたらいいと思う。


    そこまでするほどではないなら、一時現象と思って看過するのも一法である。ただ、違う人どうしでの組み合わせではこの現象はいつも生じるからやはり面白くないと言う話にもなる。


    結局多くの場合、単純に言えば部長と課長の月給の差、正確に言えば管理職の各グレードの基本給のピッチ(較差)が小さいからこう言うことになる。だからその物理的には較差を拡げれば「問題」は解消する。どう拡げるか。上下に拡げるのが会社にとっては腹が痛まないから都合がよい。しかしまずそれは無理だろう。上に拡げるのはよいが下に拡げたら、管理職の初任時点の基本給が、社員、組合員の最高の基本給を下回ってしまうに違いない。いや、現実には、多くの企業で、既にここは少し重なってしまっているのだ。既に下回っているのに、いっそう下回らせたら、なおいっそう有為の社員が管理職になりたくないと思ってしまうではないか。では上にだけ拡げれば、会社の腹が痛む。本当に困ったことだと言う話になるわけだ。

    「管理職の処遇をもう少し見直した方がよい」(むろん改善向上の意である)と言う提言が出される確率は、私がお手伝いを依頼された場合には低くない。

    この場合、「では現在の管理職全員がそれにふさわしいか」と問われることもある。確かにそういう面もある。現実には、残業代節約をホンネとして管理職扱いになると言う例もないとは言えない。


    それやこれやを考えて、地道に一歩一歩、本来の役割と重い責任を果たしている管理職の処遇向上を図りたいものだ。 

    力のある人が、それにふさわしい責任を持ち、処遇を受ける。続く人たちは、自分もそうあやかりたいと思って努力する。ごく素直に、健全な活力ある組織と言うのはそう言う状態だと思うが、私の頭の中がいくらかクラシカルなのかどうか、読者の皆様のご意見をお聞きしたいものだ。

  • 実戦問答No.24:人事制度と人事制度を運用する人材

    お蔭様で、このところ続けている「人事制度と人材評価の見直し点検の実戦的ポイント」セミナーでは、多くの受講者にご来駕いただき、ごいねいな感想をたくさん頂戴致しました。この場を借りて感謝申し上げます。

     
    さて、そのセミナーの冒頭付近で毎度申し上げていることであるが、人事制度そのものと人事制度の運用はどちらが大事かと言うと、現在では、私は2対8くらいで、運用の方が大事だと思っている。
     
    もちろん、全くとんちんかんな人事制度の設計をしてしまえば別だが、そういうことは当節あまり起きない。何しろ情報が多過ぎるくらいある。ごく「普通」の感覚を持った担当者が、自分の会社の体質、構造に合わせてごく「普通」に設計すれば、「普通」はへんなことにはならない。この「普通」は、能力のことを言っているのではなく、「素直」と言い換えた方がより正確だろう。ここで一発当ててやろうなどと考えると、まず変なことになる。くじなら当たることもあるが、自分の会社の体質、構造に合わないことを奇をてらって行えば、必ず運用が破綻する。
     
    が、繰り返すが、これはもはや、だいぶ減っては来た。
     
    とは言っても、運悪くはまりこんでしまえば大変なロスになる。よってその例を少しだけ挙げておきたい。 20年以上前だと、全社各部門から精鋭人材を集めて、それこそのべ何百時間も費やし、精細な文字がびっしり詰まった百ページ以上もある「職能基準書」と言うのをつくった。あれがもう時代おくれであるとは今は誰でも言える。が、その全盛時に、こうしたものをつくっても組織が活性化するわけではないと言った人はあまりいなかった。そして何より、「職能基準書」たちは無事使命を終えたからお役御免になったのではなく、結局はじめから活用されなかった。
     
    10年前だと、今度は膨大精密なコンピテンシーモデル体系がつくられた。しかしそうした書類上の「作品」が社員を活性化したと言う話はまず聞かない。コンピテンシーと言う概念自体は結構だが、その活用を誤った会社は少なくなかった。私は、毎半期ごとに上司が、部下1人分のコンピテンシー評価を行うために13枚も書類を作成しなければならない「作品」を見て驚いたことがある。私にご相談頂いた担当者は、それを「創作」した人ではなく、それを引き継いで運用しなければならなかったのだが、ラインマネジャー達が、むろん使いこなせるはずがない。どうにもならないので、私に助言を求めていらしたのである。私にもどうにもならない。物事はもともとが間違ってしまったことを、運用で直すことは不可能であるからである。
     
    この何年間か、目標管理の業績評価において、数々の精密な測定基準を大変な労力をかけて運用しようとした努力も、ほぼ徒労であったことがはっきりしてきた。このことは、実戦問答No.10にて既に述べた。
     
    では目標ではなく、そのもととなる役割を精密に定義しようとなって、アメリカの職務給顔負けの詳細な職務記述をしようとするような動きも折りに目にする。が、そうしたものが組織と人材を活性化したと言う話はまず聞いたことがない。役割は、自分の行動を一層主体的、積極的、自律的にするために定義するなら有益だが、共通客観の「評価基準」にするために定義しても、むしろ硬直を招くのが普通である。ではアメリカ企業(と言っても大手企業だけの話だが)がなぜ職務給のようなしくみを取らねばならないかは、主たる理由は本来別にある(詳細は、拙著ポスト成果主義の人づくり・組織づくり98頁以下をご参照くだされたい)。
     
    要するに膨大な分析結果の書類に物を言わせようとする人事制度設計は、だいたいにおいて誤りである。そう言うことは研究機関や学者がやればいいので、活きた現実の企業にそのまま符合するはずがない。
     
    しかし、こうした誤りが、現在は臨床実験結果の情報が共有され、だいぶ少なくなったと言うことである。  運用が大切と言ったが、よりはっきり言えば運用する主体としての人材が大切なのだ。その人材とは、人事担当者がまず第一だが、人事担当者が自分のつくった制度の浸透に思い入れがないと言うことはあまり起きない。だから何といっても、個々の社員に接するマネジャーたちがだいじなのである。言い方を変えれば、マネジャーたちに自社の人材マネジメントの考え方や理念をどれだけ浸透させ、それを実行するよう働きかけることができるかが、上述「運用8割」と述べた主内容であると言ってもよい。人事制度は、それを運用する人材の意思と動機、もっと言えば情熱によって値打ちが決まるのである。これはいわば私の宿論でもある。
     
    少し前に、ベテラン中堅社員たちの研修でこんなことを体験した。ホンネで問題点を語り合いましょうと言う討議を行う中で、ある人は、マーケティングや販売促進上の課題をずっと述べた。が、最後に、

    「実は、本当に言いたいのはそこではない。」

    と言う。「そこ」とは、商売上の苦労である。
     
    個々人の努力によっては簡単に克服できない構造上の問題は簡単には局面打開できない。昔のビジネスモデルで育った上司が

    「それを共有してくれないのがまず残念です。」

    と彼は言った。さらに言葉を継ぐ。

    「そこまでならまだいい。いちばん言いたいのは・・・・・」
     
    周囲のメンバーは、皆黙って聞き入った。

    「私は実は、等級の給与の上限に引っかかって3年ほどになるのですが・・・・・」
     
    意味は人事のご担当者ならすぐわかっただろう。賃金体系を、等級別賃金表、給与バンドなど、いろいろな表現をするだろう。が、昔と何が違うかと言うと、各資格等級の賃金の上限が明確に決められて、そこに達すると、等級が昇格しない限り賃金が上がらないか、昇給が制限を受ける。この制度自体は、今日格別奇異なものではない。程度は別にして、そうしないと、人件費管理が硬直化して、結局は適正な配分と言う人材マネジメントも柔軟性を失う。この人は続けた。

    「私は、この数年、そんな状況でも何とか目標は達成してきたし、その他の面でも格別問題があったとは思えない。それなのにどうして昇格試験すら受けられないのか、疑問に思い、それを面接の時、上司に聞いてみたのです。」

    「・・・・・」
     
    全員しんとして聞く。

    「ところが、上司に『それは人事部で決めていることだから私はあずかり知らない。私に聞かれてもどうにもならない。』と言われたのです。」
     
    さすがに私も驚いた。こんなに絵に描いたようなまずい応対がいまだにあったのか、と。これではどんな立派な人事制度をつくったところでその趣旨が運用されるはずがない(この会社の人事制度も、たいていの会社と同じで、成果と能力の向上、役割行動の強化がねらいである)。そしてこの人が受けた心のダメージがどれほどのものか想像してみて欲しい。そしてこのような思いをする人が他にもいるのではないかと思うと、誠に痛切である。私は何も情緒論を言っているのではない。このような目にあった人が、そのあと、従前以上の気力、動機、向上心を持ち続けて任務に取り組めるものだろうか。そうでないとしたら、それはどれほど組織にとって大きなマイナスになるだろうか。情緒どころではない。たいへんな実害である。
     
    運用とはさほどに重要である。
     
    もちろん私は、誰しもが望めば必ず昇格できると考えているわけではない。しかし、努力に対しては機会が与えられ、その機会を、能力向上を含む成果に結晶化できたら、昇格させるべきと思う。まああたりまえな話だ。そう言う健全な空気が醸成されていないと、人事制度は活きないのである。この例は人材マネジメント運用の根幹部にあたる事例である。すぐ私たちは、運用と言っても、日常の人事考課が部門によって甘いとか辛いとか、そうした頻度の高い問題に目を奪われる。が、少々甘くても辛くても、会社として、適時に適切な人材が昇格するよう、努力した者には挑戦の機会が与えられていれば、そうしたことは本質的問題にはあまりならないのである。
     
    ともあれ、人事の担当者が、宣教師のような情熱を内に秘めながら、逆に優れたコーチのように相手の深い気づきを待つ謙虚な粘り強さを兼ね備えて、多くのラインマネジャーたちに、自分たちが設計した人事制度の趣旨を、浸透させてゆくことを願ってやまない。より多くの社員の方々の動機、やる気を向上させるため、少なくとも減じさせないようにするために。

  • 実戦問答No.19:人事考課における上司の度量と納得性

    ~人が育つ上司の、評価における態度的特色~

    今回も人事考課の話を続けたい。
     
    この数年、人事考課研修をお手伝いして感じることがある。それは上司の度量と言うことだ。だいたい「度量」「広量」と言った美しい日本語も使用頻度がだいぶ減ってきて残念に思う。せいぜい「包容力」であるが、これはいまだ意思的であり、度量、広量と言えば、もはや自然に身についた語感だから、マネジャーとしてより習熟成熟が進んでいるように思う。「力量」、「器量」と言うことばもあるが、こちらだと、業績を上げる能力、戦いに勝つ抜きんでた能力を濃厚に含むだろうから、資質才能に左右される範囲がずっと大きくなる。だが「度量」なら、努力だけでもかなり身につけられるのではないか。

    ■部下の落ち度を見つけたくてしかたのない上司Aタイプ
    人事考課研修は、通例ケーススタディを用いる。そのケースの人物の行動や成果を評価するわけだ。そのケースのどのポイントに着眼するかは人の自由と言えばそうなのだが、どうあっても部下の落ち度が見つけたくてしかたない人は、一定割合必ずおられるものである。私はこの仕事を始めて20年たつが、その割合は残念ながら?少しずつ増えてきたように感じる。昔の上司に比して上述「度量」や「包容力」が少し足りないわけだ。
     
    仮にこの種の上司を上司Aと名づける。ことわって置きたいのは、別にこれは全人格にタイプのレッテルを貼っているわけではない。むしろお人柄なら、この手の人は、温かみがあって他人に親切なことも少なくない。ところが部下を見るときの態度が違って来るので、その部分だけを指して言っている。
     
    どんな立派な人物でも、弱点のない人などいないだろう。ましてや、発展途上の未成熟な部下だ。ケーススタディを読んで、欠点短所を探せばいくらでも出てくる。そんなに欠点短所が多ければ、評価も低くてよいではないかと感じられたかも知れない。欠点短所を探すなとは言わないが、かんじんなことは、長所利点を探すエネルギーを、それと同じ程度以上に注いだか、である。だいたい上司Aは、短所を探索する半分の力も長所を探すために用いない。それでは公平な評価にならない。
     
    仮に同じだけ力を注いだとして(既に上司Aには大変難しいのだが)、なにがしかの長所が見つかったとしよう。今度は、先に見つけた短所と長所とのいずれが大きいかと言う、きわめて当たり前な比較衡量を行わなければならない。ただ、上司Aは、今度は、自分が気になってしかたのない弱点をついつい過大に見積もる。それが客観的にいちばん重要な点なら問題ないが、気になってしかたない点と言うのは、だいたいにおいて上司の情念が色濃く表出される箇所だから、結果としてたいていそうはならない。情念とは、好悪とほぼ同じ意味だからである。
     
    要するにハロー考課である。ハロー考課と言う言葉と概念を説明するのはさして難しくない。何が難しいかと言えば、それに陥っていることを自分で気づくことである。人は誰しも経験に根ざした価値観を持っている。価値観と言うと、ミッションステートメントに、これが我が社の価値であり、信条だと、普通は美しいしらべを伴った文脈で語られるかも知れない。しかし、価値観は良い面ばかりではない。特にこうした評価の場面では、むしろ限られた経験に限局された価値観は、視野の狭さ、判断の誤り、固定観念につながることが多い。

    ■より大局的に部下を見る上司Bタイプ
    自分で気づかなければ、他人が気づかせるしかない。以下のような会話をあるある会社の人事考課訓練のグループ討議中に横にいて聞いていた。ケーススタディの主人公は、セールス専門職的営業係長である。  「顧客からのこのような値引き要請を社に持ち帰らず、上司の事前承認なく、受け入れたのはおかしい。」と言ったのは、上司Aタイプのようだ。それに他の上司が反論する。こちらを上司Bとしよう。
     
    「あんた、この場合にそんなこと言っておったら、商売にならんと違うんかい?」
     
    「しかしこの額の値引きは、通例管理職の権限と思いますが。」
     
    「そやからそれを言うたら、『そんなもたもたした会社やったらもうええわ』と言われてしまうで。この商談、落としてもええんかい。」
     
    「いや、それは困ります。」
     
    「だからそんなもん、あとで追認したらええのや。おまえ、ようその場でまとめて決着させてきよったと言うて。」
     
    ケーススタディにおける状況は、実は相当さし迫っていた。従って、事例の主人公は、自律的に判断し、やむなく自分の責任で、すぐさま要求を受け入れていた。少なくともそう言う剣が峰に立った状況であると理解していた受講者の割合のほうがずっと多かった。
     
    「しかし、それではけじめと言うものが・・・・・」
     
    「これだけ力のあるベテランの係長を、あんた、そないに信頼できへんの?」
     
    「・・・・・それにしても、その場で値引きの幅をもっと狭めるとか、そう言う努力をしていない。」
     
    「この状況でそんなこと言うたら、商談全体が御破算(ごわさん)になるんとちゃうの?」
     
    「・・・・・いや・・・・・そんなことにならないように、うまくやらないと・・・・・」
     
    「こんなせっぱつまったところで、あんたそんなことできるんかい?わしはようやらんわ。」
     
    「・・・・・」
     
    どうやら二人は、それぞれ、関東出身と関西出身らしい。そして会話が本質に近づいた。この場合の係長の行動が○になるのか×になるのかは、会社の方針によって結論が異なってもよい。ただしどちらを取っても、上司の態度は一貫していなければならない。不公平な評価と言うのは、最後に上記のように「あれもこれもうまくやってくれないと困るのだよ」と言う語尾がくっつくことが少なくない。この場合の公平さと言うのは、係長の立場に対してどれだけのレベルの期待や責任を課してよいかと言う意味だ。この例だと上司は何もリスクを負わなくてよいと言うことだ。そんなうまい話はない。相手は、営業担当役員でも営業部長でもない。1係長である。この場合×をつけるなら、一貫して部下に以下のように言えなければならない。
     
    「君ね、お客様の言いなりになって値引きをしてはいけないので、ひとねばりふたねばりしてこないといけない。それが営業と言うものの本質で、そうでないとお客様ともよい関係が構築できない。それでもし結果として失注になるなら、それはそれでしかたない。それは君の責任ではない。」
     
    この考えと、かなり難しい事柄を「あれもこれもみんなうまくやってくれ」とでは、どれほど公平さに差があるか、どうか味わって頂きたい。そして、部下への動機づけに至っては天地の差となる。
     
    さて仮面を取ってみると、もっと評価と言うことの本質に近づける。この場の上司Aは、現職の営業所長、上司Bは、工場長であった。普通なら意見が正反対になってもよさそうだが、なぜか逆になった。ひとつはっきり言えることは、この営業所長は、自分の過去の経験に基づく価値観から逃れられないまま評価をくだした。工場長は、そう言うものから解脱して自由かつ素直にストーリーを受け止めて評価を付した。会社としての結論的正解をどちらにするかは別として、評価者個々人の取るべき態度としては、周囲で聞いていた人には学びの多い会話となった。
     
    さてもう少し会話が続いた。上司Aはまだ納得できないのだろう。今度は少々周辺的なことを指摘した。上司Bは言う。
     
    「おいおい、そんな細かいことはどうだってええやないか。」
     
    「細かいと言うことはないでしょう。」
     
    「おまえさんの部下になるのは大変だな。成果を上げるよりも、いつもハシのあげさげ、一挙手一投足に気をつけとかんといかん。」
     
    「そんなことはないが・・・・・」
     
    「さぞ品行方正な立派な部下が、毎度育つのやろうなあ(笑)」
     
    こうなるとまわりの他のメンバーもげらげら笑うことが多い。さしもの上司Aもばつが悪い。  

    さて以上の会話において上司Aにいろいろ指摘した上司Bは、より抽象化、標本化すると、部下の成果や行動をより大局的に見る上司、つまりは度量のより大きい上司と言えよう。結果論で言うと、評価の正確さは極端な差にはならなくとも、部下の育つ度合いがぐっと変わる。これが大きな違いだ。上司Bにはどんな態度的特色があるか。以上からぬき出して行くと以下5点である。
     
    ■部下の行動と成果を大局的に見る
    第一に、評価する前に、その枠組みを大局的に確認している。上記会話で言うと、係長が、差し迫った状況下で自らの責任で最悪(失注)を回避するために行動したことを是と認め、成果極大化の面、手続厳守の面、交渉方法の細部の面などの、何もかもうまくやると言うようなことは、一般の係長としての期待役割を超過したものと判断している。ここは目立たないが恐らくいちばん重要な点なのである。もちろんそのような差し迫った修羅場を自らの過誤で招いたなら評価は別だが、このケーススタディはそうした種類のものではない。
     
    少なからぬ割合で、上司は、こうした前提を確認する前に、設定した目標のできばえ、つまりは達成率、打率を測る。プロ野球とアマチュア野球で、同じ打率を残したからと言って同じ値打ちと思う人は誰もいない。与えられた課題が係長相応だったか、難し過ぎたかやさし過ぎたかを考えないで、打率だけで評価したらそれは当然不公平である。全ケーススタディを読んでいない読者にとっては、難し過ぎたかやさし過ぎたかはわからないかも知れないが、上司Bにそれを判断しようとする観点があったことはご理解頂けると思う。ここで言いたいのは、そうした観点を持って評価に臨む上司の方が少ないと言うことである。

    ■評価と改善の混同を避ける
    以上の延長に出てくることでもあるが、第二に、その部下の行動を見るときに、上司Bは、過去の評価と未来の改善を混同しない。仕事の改善のネタは、よく言われる通り無限にある。それを指摘したり要望したりすることと、過去の事実を評価することとは全く別次元である。が、上司Aは、そこが癒着してしまう。つまりは後講釈が多い。「この時こうできたはずだ、あの時ああすればよかったのだ」と言うのが言い出すといくらでも出てくる。この場合で言えば、「値引きの幅を交渉すべきだった」がその例だ。
     
    自分の行動をふり返ることはとても大切だが、評価のように自分以外の他人の行動をふり返るときに、冷静、公平を堅持できる人はさほど多くない。聞いていると、その多くは、その時点の枠組み、制約条件では、あまりほかにやりようがなかったことが多い。その枠組みを変えるための将来に向けての改善なら明るく前向きに話せる。が、その時点ではなしえなかったことを指摘されマイナス評価されると、部下は、次から努力することそのものをあほらしくなってやめてしまう。それはそうだろう、やってもやらなくても低い評価なら「やらないほうがトクだ」と誰でも考えてしまうではないか。ここが2タイプの上司が、部下の心理の理解に大きな差が生じる点だ。そして何もしなければ失敗も起きないから、減点も食らわずかえってトクをしたと言うことが、上司Aのもとでは起きやすいのだ。  

    ■育成の途上のステップ
    第三に、上司Bが持っている態度は、評価と言うものは、本来、未成熟な部下を一層育てるために、現時点の人物像を正確に捉える途中のステップに過ぎないと考えていることである。上司Aは、精密な評価をもってプロセス完結と思っているふしがある。評価と言うのは、枝葉末節は別にして、本質において正確公平であればよいので、むしろ問題はそれを部下が深く受け入れ、自らの向上に役立てようとするかどうかが最後に重要である。上司Bはそこを見ている。上記の例では「こんなにがんばってる係長を信頼しないのか」と言う旨の発言にそれが現れている。この実戦問答の前号では、同じ部下を預かり続けるなら、評価が正確になるのは当たり前なので、部下が伸びて成長してナンボであると言う旨を述べた。上司Aは、逆に、評価が正確であれば、もしそれを受け入れない部下がいたとしたら、相手の性格や人間性の問題に帰したがる。
     
    時にはいくら努力してもわかりあえない部下もいるだろう。何か根本となる背景が全く異なる場合だ。だが、そこまで上司が努力しているならば、周囲の誰しもがそれを肯定的に見ているものだ。
     
    ■微細な行動は論じない
    上司Bの第四の態度的特色は、本質と関係ない微細な行動は、プラスマイナスを問わず、ばっさり捨ててしまって論じない。人の評価は、3つないし多くて5つくらいの最重要な事実に基づいて決めるのがよいだろう。細かいことをあげつらって全部帳簿に載せて帳尻を合わせようとしたら、時間がいくらってもできないし、説明の時混乱してかえって説得力を損なう。上記の会話の最後の方の「あなたはずいぶん細かいことを言うのだね」はその好例であった。
     
    いろいろな事柄が気になってしかたのない上司Aには、次の自問自答を行うことをお勧めしたい。「今、あなたが気になってしかたのないことは、彼を評価する上で、口に出して言わねばならないほど重要な事柄なのだろうか」と。そうでないのに言いたいがために言えば、あなたの上司としての権威と信頼を高めるゆえんとはならないだろう。最初の方で述べた情念考課、ハロー考課は、なるべ避けたい。  

    ■しっかりと受け止める
    第五に、これは上記会話からは看取できないが、私の経験上明らかな点として以下述べておきたい。上司Aは、評価のフィードバックにおいて、もしも部下から反論があれば、どうあってもそれを論破し、言い負かそうとする。そうしなければ自分の地位が冒されると、途中から錯覚してしまっている時もある。ほとんどの場合、部下は上司に甘えて依存したいに過ぎない。それを全部はそのまま肯定しないとしても、何も本気になって言い負かし、屈伏させる必要など少しもない。
     
    これに対して上司Bは、そうした場面で概して鷹揚(おうよう)である。部下とは今後もずっと密接に意思疎通して協働してゆかなければならないのだ。その部下が少しはまともなところがある人間なら、上司である自分とのキャリアの差はわかった上で反発しているに過ぎない。そんなことをいちいち真に受けて斬り結ぶ必要など少しもない。しっかりと部下の感情を受け止め、傾聴する。上記第三の育成的態度の結果、自然にそうなる。「まあ、君、言いたいことはよくわかったよ。」と言う姿勢が基本にある。「君の努力は誰より私が知っているよ。その君でも今回は力が及ばなかったのだね」と言う人もいる。上司にそうした態度をされていつまでの一句一節の評価評語にこだわり続ける部下がいるだろうか。もちろん日常の部下への支援は、こうした意思疎通を成り立たせる絶対の前提だ。
     
    このような情景は、つまり何だろうか。
     
    そう、評価と言うのは、誰しも言っている通り、最後は「納得性」だけが問われるのである。人事制度論から言えば言い尽くされた平凡な事かも知れない。だが、この凡事を、ひとりの上司として貫くのは、さほどたやすいことではない。表現を変えれば、どのマネジャーも、空気を吸うようにこれが自然にできるという会社はまだ見たことがない。ゆえに、人考課研修のお手伝いを引き受けると、いつも終盤には焦点をここに移したフィードバック面接等のトレーニングをする。意を通じない評価は、たとえそれが「正解」であったとしても、残念ながら値打ちを生じないのだ。誰しもそれを改めて知る場面である。会社の体力を高めるのは、新奇なローマ字の手法ではなく、こうした基本の鍛練である。

    ■部下が動機づけられる度合の大差
    もう一度念のために言うが、以上は、上司が2タイプしかいないと言う意味ではない。評価と言う問題に直面した時に現れるふたつの標本パターンを述べたので、たいていの人は、その間のどちらか寄りに位置することになる。
     
    さて、私の経験上、評価そのものの客観性、公平性は、ハロー効果やいわゆる厳格化傾向が薄い分だけ、上司Bの方に少し分があるだろう。しかし部下が動機づけられる度合いとなると、以上のように大変な差を生じる。大変な差が1年ならまだいい。それが3年、5年10年となったらどれほどのことになるだろうか。ここがこの小稿の訴えたかった点である。
     
    私たちは、さらに精密な評価よりも、評価と動機づけにおける今一層積み増した度量を求められるステージに差しかかっているように思う。

  • 実戦問答No.18:どのような考課要素がよいのか

    ~人事考課要素と社員の活性化の関係~

    人事考課に関する課題でお悩みの会社は多いと思う。
     
    かのコーチングの神様、ゴールドスミスのホームページをのぞくと、フリーに読める彼の基本的な考え方に関する論文が10編ある。その中で、人事考課、業績評価に関して彼の言及が2カ所あり、とても面白いので、ご紹介したい。前後関係も含め意訳すると以下のような趣旨である。
     
    「多くの会社で、ひどく厳密に業績評価フォームづくりを毎度のように行っていると思う。実際、多くの社員達の労力が評価フォームの言葉づかいを完璧なものとするために用いられていると思う。なんとむだなことであろうか。社員達の業績が向上するようはかるよりも、書式づくりにエネルギーが投じられているのだ。私が関与したある会社では、これまで少なくとも15種類もの異なった業績評価フォームを用いてきた。そしてなお、変更改訂を企図しているのである。なぜなら、現在のフォームが、『うまく機能していない』からなのだと言う。もし、書類上の言葉を変えて業績管理プロセスが向上すると言うなら、どんな会社の評価システムだって、これまでにもうとっくに完全なものになっているはずではないのか。事の成否は、いかなる時も、書類上の言葉でなく、人々そのものにあるのだ。」
     
    「多くの会社で定期的に業績評価表を改訂していることと思う。こうした業績評価フォームの変更は、管理職達を混乱させるだけで、無益な年中行事と化しているように思える。フォームをいじると物事がどうにか前向きに変わるのだろうか。真の問題は、マネジャー達が、評価プロセスを正しく機能させるための強い意思と勇気を欠いていることなのである。」  

    彼は言うまでもなく、コーチングの神様だから、人事考課のプロジェクトなどあまり手がけたことはないに違いない。しかし、以上のように論じていると言うことは、よほどこっけいに思ったからだろう。
     
    ひるがえって、私は、人事考課を含めた広い意味での人材評価のセミナーや研修会を行うことが多い。そうした中でしばしば質問を受けるのが、端的に言えば、「これからはどのような考課要素がよいのか」と言う点である。それに直接答えるなら、「普通に設計するのがいちばんよい」と言うしかない。普通に、とは、能力、成果、情意などの配分バランスを、自社流に階層別に素直に考えればよいので、こうしたところで奇をてらうとまず必ず失敗する。「能力と言うよりはコンピテンシーと言った方がよいのでしょうか。」とか「情意と言うのは古いので、役割行動と表現した方がよいでしょうか」などとも聞かれる。実はそのようなことはどちらにしても実効に差は生じはしないのだ。カタカナが好きならそうすればいいし、素直な日本語の方がしっくり来るならそちらを選べばよいと言う好みの問題に過ぎない。そんなことでかんじんの上司たちの評価力、指導力が左右されるわけがない。つまり社員の活性化とは関係ないことだ。だからそうした議論はほどほどで止めないといけない。その上で続ける。
     
    「今日のように情報があふれている時代には、どんな会社でも、まずもって明らかに誤った考課要素の選択、設計はしていないものです。大切なのことは、もはや考課要素の選択ではなくて、人材評価の理念を活かす運用なのです。そのためには、上司自身が、期末に考課表が配られた時だけでなく、日常の中で、評価、育成、動機づけにどれだけ関与できるかが肝要です。同じ部下を、2年3年と預かったら、評価は正確につけたが、能力は最初の頃と変わっていないと言うのでは困るのです。会社としての人事考課の課題は、新奇な評価要素の浸透などではなく、そこなのです。その課題を解決するためには、実戦的で定期的な人事考課者訓練などが非常に重要となります・・・・・」
     
    さらにこう加える時もあった。
     
    「だいたい成果主義の失敗例とされる会社は、人事考課要素を入れ替える頻度が高かったものです。そうしょっちゅういじっていると、ライン部門の方は、わけがわからなくなってきてもう勝手にやってくれよ、とだんだんしらけてきます。人事部門とライン部門にもしも反目が起きれば、どんな最新鋭、崇高な人事制度、評価制度も絶対に成功しません。長い組織というものの歴史の中で、人事考課要素を精密に研究したから社員が活性化したと言う例はありません。大切なのは社員を使いこなすリーダーの能力の方です。」  そんな中で、何年前か、上記のゴールドスミスの論文を読んだときは、誠に我が意を得たりと思ったものだった。
     
    人事部門の優秀なスタッフは、どうか、書式や概念の研究はほどほどにして、自組織の社員の活性化そのものに向けてそのエネルギーをうまく配分して欲しいと思う。ライン部門のマネジャーに方々は、人事部のつくった書式のできばえいかんによって、じかにあなたの部下の動機が上下するなどと思っている人はまずいないだろう。そう、目の前にいる部下がやる気になるかならないかは、あなたの方が人事部の何百倍も責任を負っているのである。人事部や教育部は、マネジャー達の、その代わりのきかない使命遂行の支援をすることが、この場合、もっとも大切な役割だと思う。その支援のしかたは、今ここで数百文字にて意を尽くすことはできないので、いろいろな折りにご質問頂けたらと思うし、また機会を改めて論じて行きたい。

  • 実戦問答No.15:あのインバスケットと言うので、2度も落ちましてね

    ~アセスメントの試験への活用とマネジメント啓発~

    この実戦問答でも以前述べた(実戦問答6参照)、インバスケット演習運用に関して、最近思うことを述べる。インバスケットととは、一定時間に数十件の未決案件処理をする演習である。
     
    このインバスケットを昇進試験中の筆記試験として用い、全くフィードバック(課題内容の討議や解説)をしない場合、あるいは採点はするがフィードバックができないと言う講師が増えたと言う話を最近多く耳にするからである。
     
    インバスケット演習は、いわゆる人材アセスメントの一部分として、かなり以前から昇進試験の重要ツールとして用いられてきた。逆にその結果、マネジメント能力の中の意思決定、問題解決、業務遂行の範囲、言いかえれば、計画、組織化、統制、分析、判断、決断と言う流れを体験的に学ぶことにおいて、これより効果の高いツールはないのではないかと言うくらい有用なものであることが実証されてきた。そこで、昇進試験に限らず、啓発型のアセスメント研修にもずいぶん採り入れられてきた。
     
    啓発型研修なのに、フィードバックができないと言うことはあってはならないのは容易にご理解願えると思う。問題は昇進試験の場合だ。
     
    こんなことがあった。ある会社の研修後の懇親会で、「先生、あのインバスケットと言うのをどう思いますか。」とある受講者に聞かれた。この時に私がお手伝いしたのは、全く別内容の研修である。
     
    「どうって・・・・・ゲームとしては、とてもおもしろいですよ。」
     
    「先生、実は私は、あのインバスケットと言うので、2度も昇進試験に落ちましてね。本当にあのインバスケットと言うのにはまいりましたよ。」
     
    「そうですか・・・・・。」
     
    聞けばこの会社では、インバスケットを昇進試験の「足切り」に用いており、文字通りの試験であり、フィードバックも解説もなく、合否だけが通知されると言う。どうやらこの質問のあるじは、私に「あのようなものでマネジメント能力が評価できるのですか」と言いたいらしい。これではそう思うのも無理はないだろう。
     
    この人のことは、アクションラーニング等でごいっしょしたからよく知っているが、とても実務には堪能で、逆に言えば、マネジメントと言うのはこう言う人に習ってもらうためにある。昇進試験であれ何であれ、と言うよりそう言う時だからこそ、マネジメントのなんたるかをしっかり勉強する、のちのち忘れ得ない良い機会になるのである。しかし、その機会を失い、インバスケットに対する悪印象だけが残った。このインバスケットで処理した内容を討議する場面をファシリテートし、各受講者にフィードバックする技術は、アセスメントの研修技術の中で最高度のものだろう。だから「業界」でもそれができる人がだいぶ減ってきたと言う。何やら伝統あるものづくり企業から、高度熟練者が消えゆくようなさびしい話だ。これは「マネジメント教育業界」の伝統芸能である。
     
    もうひとつ問題なのは、百歩譲ってフィードバックの要否を別論としても、本当に適正な評価が行われているかと言うことがある。この会社にあって、漏れ伝わって来る「採点基準」は、「何件案件を処理したか」「処理手順は、全件を先に読んでから進めているか」「関連案件をクリッピングしているか」など、比較的形式的なことが多かった。そうした事柄は、そこだけ取れば有意なことかも知れないが、全対論としては全く本質的な評価基準ではない。本質的な評価基準は何かと問われると、詳しく述べるには原稿10枚にもなってしまうが、ひとことで言えば「限られた時間の中で質的量的に十分な意思決定を行っていたか」である。これは真に訓練を積んだアセッサーしかできないし、そうでない人が、人の運命がかかった時に、安易に評価を行うべきものでもないだろう。この訓練は、さほど容易なものではない。
     
    話を戻すと、真に訓練を積んでいない人では受講者へのフィードバックは決してできない。受講者に何か質問されたらたちまち窮してしまうからだ。かんぐれば、だからフィードバックの場をつくらないのかも知れない。
     
    さて私に質問してきた方だが、実際、この人といろいろな研修をごいっしょして見ていて、実務上の判断は的確だし、微妙な事柄への柔軟性は高いので、よほど書き物が苦手でもあったのだろうか。まあそうも見えない。ご不運と言うしかない。それやこれやに思いをめぐらしながら、私は彼に言った。
     
    「ところで、そのインバスケットですが、試験に落ちたのは残念だったとして、どこがどうだったか知りたいでしょう。」
     
    「そうなのです。」
     
    「本当はそのインバスケットをやったあと、じっくり討議をして、フィードバックを受けるのが筋道なのですよ。」
     
    「そうなのですか。そう言うのがあればぜひ受けてみたかった・・・・・。」
     
    昇進試験と言っても、知識の試験もあれば行動の試験もあるだろう。資格等級の低い段階ではなく、マネジャーに登用しよう言うような時には、行動の試験の方が重要だろう。それを行う限り、フィードバックをしなければ、試験の権威、つまりは納得性を高めることは難しい。試験結果に納得がゆかないことを、インバスケットと言う、先人が磨き上げ、結晶化した手法のせいにされては先人も泣くだろう。私も本当に残念だ。 
     
    ある公開セミナーでインバスケットの見本をご覧いただいて紹介し、受講者どうしでごく簡単な討議をして頂く場面があった。何やら憤然としている人がいる。どうしたのかお聞きするとこう言われた。
     
    「うちの人事部が、いきなりこれを人事考課に使うと言ってやり出し、わけもわからないまま評価が着いてきたので、みんなおもしろくないと言っていたところなのです。」
     
    これではインバスケットが泣くと言うものだろう。
     
    インバスケットを使いこなすには、マイスターになるような訓練が必要である。これも含め、行動科学の応用は、学問でなく、どこまでいっても修練、職人の世界である。私自身は、部下がどれだけ増えても、現役最後の日まで、部下より優れたマイスターであり続け、こうした先人の遺産のすばらしさを、ひとりでも多くの人に伝えられたらと思っている。