カテゴリー: 人事制度人材評価編

  • 実戦問答No.11:これでどうやって評価するんだ~職能資格等級の評価~

     (2011.5.5)

    職能基準書、等級定義書、名前は何であれ、何等級は、何ができる人と書いた文書がどこの会社にもあると思う。この30年間、これにまつわる論議は、いつも循環し、徒労をした会社が少なくないのではないか。
     
    この種のものは、定義だけを、簡潔に、かつ良い意味で抽象的に表現すればいいと言うのが、私の年来の主張である。その理由は以下順次述べる。
     
    かつて、ある関係先でこんな話になった。人事制度改革のひとつとして、職能資格等級を少し増やしたせいで、ちょっと古びてきた全体各等級の定義も書き直した。それを見て私はまずよくできていると思った。そしてその案を、担当マネジャーが、役員会にかけたのだが、否決されてしまった。どうしてだろうか。
     
    「表現が抽象的で、これでは、等級を評価決定するときに使えない」
    と言うことだった。さて読者はどう思われたろうか。
     
    私から読者に以下ふたつ質問しよう。
     
    「そもそも職能基準書とは何のためにあるのだろうか。」
     
    「それは、等級をじかに評価決定するために用いるものなのだろうか。」
     
    お考え頂いただろうか。私は思う。職能基準書等は、資格等級の定義を表現するためにある。何を当たり前なと思われたかも知れない。続けると、だから、資格等級の評価決定のための機械的なモノサシではないし、そのように使うべきでないのである。
     
    そうすると昔から必ずこう言う議論になる。
     
    「では目に見えるモノサシがなければ等級が決定できないではないか。」
     
    この質問にイエスと応えれば、文字通り事細かな「基準書」をつくらなければならない。上記の役員会もその方向に沿った意見である。しかし、もう30年も40年も前から、大企業なら、びっしり細密な文字の詰まった何十ページもある文字通りの職能基準書をつくったはずだ。それが評価並びの人材の活性化に有効であったと言う話は、遂に聞いたことがない。だから実はこの問答は本当は歴史的な決着は着いているのである。組織は人が入れ代わると、容易に学習がつながらない。また、役員会に人事の専門家は普通いないだろうから、ちょっとボタンをかけちがうとこうなってしまう。ついでに言えば、アメリカ生まれの事細かな職務記述書などは、一層日本の社会には似合わない。それやこれやの理由も、既に拙著に色々述べたのでここでは述べない。
     
    他方、コンサルティングの専門業者も、はっきり言っていかがかと思われる場合がある。たとえばここ10年ほどは、コンピテンシーモデルと言うものが流行した。その概念や少々の項目を人事考課に適切な範囲にて応用しようと言うまではいい。が、昔の職能基準よりも一層精緻に網羅的にすると人材評価と活性化に大変な効用があるとうたい、およそ考えられる限り、機能別、職種別、部門別などに必要コンピテンシー項目を細分化し、「コンピテンシーディクショナリー」をつくりましょうなどと売り込む。細か過ぎる職能基準書時代のことを知らない人はそんなものかと思ってしまう。ディクショナリーとは辞書の事だ。いったい人間と言うものが、辞書を与えられて、それをそらんじよう、よしがんばるぞと動機づけられ、励みに思うものであろうか。
     
    だから、等級評価決定に目に見えるモノサシが必要だと言う、最初の前提に誤りがあるのだ。そのように機械的に評価を決められる道具をつくれるはずがないのだ。評価は、様々な要素を総合判断して人間が決めるのである。責任と情熱を持った上司が決めるのである。何と当たり前なことだろうか。そんなことを私たちはうっかり忘れる時があるのだから驚きである。
     
    それでは客観的で公平でないと言う前提がいつしか置かれ、精密機械のようなモノサシをつくりたいと言う話に転じてゆく。その思考プロセスの根本に誤りがある。人を評価する場面における責任ある自由裁量を、マネジャーに委譲できないようでは、組織や事業の運営とは言えないのだ。それを、辞書やら何やらでがんじがらめに縛り制限するのは、マネジャーに仕事をするなと言うに等しいくらいのことなのだ(現実のほとんどのマネジャーは縛られたふりをしているだけで、ちゃんと本質に基づいた判断をしているのだが)。およそ、自分の好き嫌いだけに評価が左右され、部下の能力を見ようとしない上司などは──そうめったにいるわけではないが──管理職の資格を問われ、その度を越したら──もっと少なくなるが──管理職を降りてもらうだけのことなのだ。
     
    話を等級決定基準に戻すと、もしも客観的な基準があるとしたら、どの等級にどういう社員がいるかと言う、その会社なりの相場観、序列によるしかないのだ。管理職になるような人だったら、社員全員を知らなくていいが、部下はもちろん、自分が仕事で関係した人物くらいは誰が何等級なのか、その適否はどうなのかといつも自分の頭の中に置いておくことが求められるのである。公平を期すならば、関係したマネジャーどうし、そうした情報と判断を持ち寄り、納得がゆくまで話し合うことしかない。そうした話し合いを、自律的かつ冷静、理性的に、なお情熱をもって行えたら、本当に自立したマネジャーと言うことになる。会社が労をかけるべきは、書類づくりでなくてそうしたマネジャーの育成である。
     
    そう言うちょっとした努力を管理職に求めないで、その自由裁量を奪い、不必要に膨大で精密な書類を持ち出して科学的な絶対評価を積み上げようとするなど、どだい無理だし無益である。上司は、人の運命を決める仕事をしているのだ。その重い責任を、分厚い書類に転嫁させることは決してできないのである。
     
    「あなたの言っていることはつまり全く相対評価ですね」と問われたら、「そうです」と言うしかない。私は、昇給賞与等の日常通例の人事考課は、最初に絶対考課の基礎を置くべきだと思っている。しかし資格等級となったらより全人的力量が問われるのだから、人と人を較べる以外に方法はない。だから少し長いが、「会社全体の相場観による絶対評価」と言っている。
     
    実は上述役員会の前に、プロジェクト内で審議したとき、いちばんベテランのメンバーが、こう助言していた。「この基準書はあくまで定義なのだから、どれだけ当社の人材に関する理念が述べられているかを役員に見てもらえばいいのであり、これで等級決定の評価をするのだと受け取られないように(役員会で)説明しないといけないよ。」
     
    至言というしかない。が、ご懸念の通りになった。実際の役員会では、この意図がうまく浸透、説明できなかった。
     
    「あなたの言う通りなら、等級の定義すらいらないではないか、結果としての能力評価の序列だけがあればよいではないか。」と言われるかも知れない。少々極論すればその通りである。だから最初に言ったように、「簡潔に、かつ良い意味で抽象的に表現すればいい」といつも言っているのである。簡潔はともかく、抽象的と言うのはいぶかしがった方もいらっしゃるかも知れない。
     
    一般的に、日本語の語感としてなぜか「具体的」はよいことで、「抽象的」は悪いこととされる。本来対等概念のはずである。だから「普遍的」と言い直すべきなのだろう。普遍的なら、解釈は、状況を超えて、時代を超えて、柔軟に行えると言うのが何よりの利点である。具体的であればあるほど、すぐに古びてしまい、状況に合わなくなる。だからと言って、そのような細かい定義が、ある一瞬ですら決して経験を積んで成熟した人間の総合的判断に代わりうる機械的な評価尺度にはなりえないし、そのようなものを求めるべきでないことを以上に述べた。一度でもその徒労を経験すればすぐわかる。できるだけそのような徒労を味わって欲しくないから、著書やこうした場で私は述べている。
     
    社員全員が仮に1等級から10等級まで並んでいるとする。なるほど上の方々は公平に人を見ているものだと、大方の社員が納得しているかどうか。職能基準書の細部の表現よりも何よりも、社員が見ているのはそこなのだ。それを私たちは忘れてはならないと思う。

  • 実戦問答No.10:評価における精密さと公正さの関係~やってみて意味ありましたか~

    (2011.4.24)

    ある時、久しぶりに人事制度の改善に手を着けようと言うある会社から、再度呼ばれて相談した。そこには、人事担当役員の他、旧知の人事部長と、その後昇進してきたマネジャーなどがいた。多くの論点があったが、やがて管理職等の業績評価の公平性をどう担保するかと言う話題になった。成果主義導入前後で論じ尽くされたはずのこのテーマが、どうして今さら論じられるのだろうか。そこには、人事制度、人材マネジメントを考える本質が含まれているからである。
     
    その何年か前の時には、業績評価のための目標管理をやりたいと言うお話だった。私は、「評価自体はなるべく簡素なシステム、運用とした方がよいですよ、但し評価の当否の話し合いは必要なら徹底的に行ってください。」といつもの持論を助言申し上げた。その折り、「しかしこのくらいはプログラムして置きたい」と言う事で、私の少し渋い顔を尻目に、会社側として、設定目標の各ウエイト(百分の何パーセントか)と、各目標の難易度を3段階設定して、掛け算と足し算をして、その結果を「尊重」して評価するしくみとした。
     
    「尊重」と言ったのは「機械的」でないと言う意味で、この柔軟さがそれでもずいぶん、後の運用を助けた。 今回の改善は、どちらかと言えば、管理職、一般職の活性化そのものが主眼で、ようやく本意と言うべき領域に移ってきたと言ってもよい。人も組織も、学ぶには時間がかかるものだ。が、こうした経緯を知らないその新しいマネジャーがここで意見を述べた。
     
    「もう少し精密な評価基準にしないと、いつまでたっても公平と言うことにならないのではないでしょうか。」
     
    その座にいた他の人は、経緯を皆知っている。皆一瞬黙った。私はにやりとして、旧知の部長に語りかけた。
     
    「部長、ご質問ですよ、いかがですか。」
     
    「いや・・・・・それは・・・・・」
     
    答えにくそうである。私がかつて渋い顔をした時に、そのウェイトやら、難易度やらを導入した実務担当者であり、今はいない彼の上司がそれを推進していた。
     
    「どうですか。こういうのは?やってみて意味ありましたか。」
     
    こう言う質問は少しも湿りけを残さずからりと言うのが、コンサルタントのコツでもある。「よいお勉強になりましたね」と言ってもよい。
     
    「そうですね・・・・・」
     
    「・・・・・意味なかったでしょう。」
     
    「そうです。いや、意味なかった・・・・・」
     
    言葉には深い実感がこもる。
     
    「わかりましたか。」
     
    マネジャーの方を見て私はまたにこりとした。
     
    「はあ・・・・・」
     
    論より証拠と言うが、どんな時にも経験にまさるものはない。誰も痛い目にあっていなければ、机上論が通ってしまう。不幸な事に、成果主義の初期にはそうした失敗例が山と積まれた。この場は、彼以外の全員が、無益な書類上の記入や計算を長々させられたと言う「痛い目」にあっている。論じ合う必要もない。指折って数えたが、7年間それを行った。
     
    ここでは、問答やその情景を伝えるのが目的だからあまり理屈の説明はしない(そうでないと長くなり過ぎてしまう)。この問題の当否に更にご関心のある読者は、恐縮だが拙著「ポスト成果主義の人づくり組織づくり」の関連箇所をご覧頂きたい。ひとつだけ言うと、物事を行う前に、全ての状況変化を折り込んだ、事前のとても便利な機械的尺度などは、誰にもつくることはできず、それをつくろうとするなどは全くの徒労だと言う事である。 では私たちには何ができるのか。まだ少し会話が続く。
     
    「だから逆に、『難易度などのそれらはもう皆廃止して、業績評価は、目標設定に書いていない事も含め、一切合切の事実が確定してから事後的に総合判断してきちんと行う』と改めたら、どうですか。」 

    「そうですね。」
     
    「毎度同じ事を申し上げますが、部下の評価の適正さを担保するものは、上司の人間力、能力以外ないのですよ。」
     
    人事担当役員がここで深くうなづいて言った。
     
    「そう、制度はそれなりにつくりこまれているのだから、これからは本当にそこに力を入れないと。」

    部長が言葉を継いだ。
     
    「実は、組合員の評価についても、組合幹部からもそこを相当言われています。いくら評価表が立派でもそれを運用する管理職をしっかり訓練してくれないと、仏つくって魂入れずだと。これからもその辺をよくアドバイスお願いします。」
     
    何も管理職の業績評価だけでなく、一般社員の評価も理屈は全く同じである。
     
    最初に問題提起したマネジャーは、表情を見るとまだ完全に理解できてはいない。当然だろう。7年経験を積んで体でわかっているのと、今言葉で数分で説明されたのとで、すぐに同じになるはずがない。ただし、時間は有限なので、すべてを体験する事はできないから、他人の体験に学ぶ事は、何の分野でも最も大切である。いちばん若い彼がこの時の情景を忘れない限り、この会社の人事制度運営は、一応大丈夫だろう。
     
    人事制度の立案、設計も、他の専門分野と同じく、いちばん大事なものは経験であり、次は歴史に証明された客観的結果である。ところがなぜかこの分野だけは、そう言う事をさして踏まえず、頭の中だけ、机の上だけで考えたその時々の思いつきを言っても良いと思われている、誠に不思議な領域でもある。今後人事制度の改善をなさる企業は、自分の組織を人体実験の対象にするような結果に陥らないよう、どうか気をつけて欲しいと思う。薬の研究開発の情報ほどには精密膨大でなくとも、こうした治験の結果はそれなりに把握する事ができるのだから。

  • 実戦問答No.9:昇格はフレキシブルになりましたか~人事評価制度運用の質的メルクマール~

    成果主義と言う言葉が使われ出して、15年以上たった。成果主義が良いか悪いかと言う大上段の議論はさて置き、この十数年で何らかの人事制度改革を実施した企業はとても多い事だろう。そうした企業の方々が集まったセミナーなどでよく私が受講者に質問する点が、「昇格、場合により降格は、以前よりフレキシブルになりましたか」である。もっとはっきり言うときもある。「年功主義の頃より、力のある人は早く昇格していますか。」 
    これは今のところ、とてもよいメルクマール(目印)だと思っている。

    問いかけの背景
    まず質問の意図から先に述べよう。俗に言う年功主義にはもちろん良い面も悪い面もあったのだが、現象としていちばんよくない事は以下だろう。まず①力を発揮している人材に、厳重な滞留年数その他の昇格要件をそのまま適用して、力がついてきても、重い任務、責任を与えないこと、②裏を返せばあまり力を発揮していなくても、年令通り昇格して処遇されている人が大勢いることであった。もうひとつが、③評価要素とフィードバックがあいまいだから、結局は上司の好き嫌いで評価が決まりがちなことであった。


    ③は、つまりは上司自身の能力人格の問題だから、成果を共通一次入試のように機械的に測らない限りは、成果主義でも何主義でも本質は同じである。よって①②に吸収されそうである。公正さを幾ら叫び、どれだけ精密壮麗な考課表を設計しても、結局評価と言うことは、管理職の人材と訓練によるのだと言うことは、机上論ではなく、私は20年この仕事をしてきて骨身に染みているつもりである。部下に重要な課題を与え、あるいは部下の意欲能力を引き出し使いこなす、強い人材活用の姿勢が、上司の側にほぼ平均していなければ、評価の公平も納得も何もないのだ(だからこそ、たえまないマネジメント教育、考課者訓練などが重要と信じているのだが・・・)。

    残った①②も、長期的には表裏一体である。ただ、②の方が、ふつう手を着けにくい。だから変化を見るには①となる。そこで、冒頭の質問になるわけだ。
     
    もちろん私は、現実の厳しさを知らないこざかしい才子がどんどん昇格すればいいなどと思っているわけではない。しかし、われわれ中高年戦士が思っている以上に、ふつうの人の1年を、2年分、3年分経験を積んでいる人も、時にはいるのである。人の2年分としたら、10年で20年分である。だからそういう人がもしいたら、32才で課長にしたっていいではないか。
     
    それと、もうひとつは、いわゆる若手でなくても熟成タイプで、後半戦から力を発揮する人だって少なくない。そういう人を、もう「バスに乗り遅れ組」だとして放置していないだろうか。だから私は「若手抜擢、登用」とはやたらと言わないようにしている(部下にも時々注意する)。伊能忠敬が、人生の最終の自己実現たる日本地図作成に乗り出したのは、60才を過ぎてからではないか。今の感覚なら80才以上だろう。
     
    こうした感覚で昇格を行えば、少なくとも昇格の確率は、これまで社員1000人で30人だったら、たとえば40人、50人と増えるはずである。降格も、復活戦大いにありの前提で、今までよりは増えてもよいのだが・・・・・。 

    人件費管理と人材マネジメントの混同
    さてセミナーなどで、そうご質問すると、どうもはっきしない反応なのである。つまりあまりそうはなっていないと言うことだ。
     
    どうしてだろうか。いろいろな理由があるにしても、結局突き詰めれば人件費管理と、人材マネジメントが混同されている。と言うより、前者が優先されているからだと言うしかないようだ。
     
    年功主義の悪い面を払拭するためには、理屈だけで考えるときは、誰でも「良い人材を早く見つけ、登用しよう」と言う考えに賛同する。ところが、実行となると、それとは別次元な点である、「年数だけで等級を上げてはいけない」と言う意識の方がたいていの会社で強くなる。そこで、滞留年数は別としても、昇格要件、審査などの厳格化が図られる。そちらに力点を置くなら、「それでは、これまで年数だけで上がった人は下げるのか、放っておくのか」を根本的に思案しないといけなかった。そうでないと年功主義の打破と言うより、むしろ評価管理強化、既得権益の尊重と言う印象になってしまうからである。
     
    同じ会社である限り、ある年次から突然人材が変わると言うことは考えにくいから、内容が何であれ審査や試験を難しくすれば、合格者はふつう減るだろう。それを補うためには、昇格試験の上司推薦に依らない自由応募制などを併せて措置するとよいのかも知れない。が、なかなかそこまではと言う場合も多い。ならば、あくまで試験を厳しくしたのは意識改革のためにとどめ、合否は、実質旧基準にて決めればよさそうなものだ。従来の平均点が60点で、80点以上を合格としていたなら、今度の平均点は50点なので、70点以上を合格にすると言ったように、である。ここで、不思議と出てくるのが「人件費を抑えないといけない。だから・・・・・」と言うご印籠である。およそ会社勤めをしている人で、この言葉を出されたら、誰も反論はできない。
     
    そうなら、人事制度改革、能力主義採用とは言わずに、はじめから人件費の節約が目的ですと言えばよかったのだ。時にそうした厳しい要件をかいくぐって、出る杭になって進み出てくる候補者も、最後には「まだもう少し様子を見た方がいいんじゃないの、業績もかんばしくないし」となりがちだ。だから、われはと思わん人は「出過ぎる杭になれ、そうすれば誰も打つ事はできない」と喝破したのは、堀場製作所 堀場雅夫氏である。それはわかるがちょっと現実的には・・・・・と言うところだ。
     
    もっともここで初めて、自問自答する当事者もいる。「さて、私たちは何のために何をやろうとしていたのか」と。人件費管理と、人材マネジメントはもちろん不可分なものであり、どちらかが一方的に優先すると言うものでもないだろう。が、どちらかと言えば、人材マネジメントつまり人材の活性化こそは、経営、組織運営の本質であって、そのためにぎりぎりどれだけコストをかけられるか、と言うのが健全な思考の順序だと思う。もちろん各組織の考えで進めればよいことだが、おカネが大事なら経営理念に明確に「当社は利益が何より第一だ」と書いておいてもらった方がわかりやすい。これはこれで、心にもないビジョンを語るよりは大いに健全だ。 

    「何のこっちゃい」・・・損得だけをいうなら
    もっと細かな事を言うと、多くの会社で、昇給予算の中に、昇格昇給の分も合算統合しているのではないか。当然昇格時は、昇給幅が大きくなる。するとどうなるか。昇格する人が多くなると、他の社員全般の昇給予算が食われてしまう。だからもし所定の要件に達した人が多くとも、「やたらと昇格させるわけにはゆかないのですよ・・・・・。」
     
    「何のこっちゃい」とはこういう場面のための関西弁ではないだろうか。帳尻とは合わせるためのものではなく、経営の状態を知るためのものであり、取るべき措置の唯一が帳尻合わせではないとは思う。
     
    これをもう少し具体的に前後関係に照らすとどうなるか。まず少しくらい昇格する人が増えたからと言って経営が傾くとは思えないことだ。それに厳格化した試験をパスしているのだから、その分会社の収益力に貢献しているはずである。まあそう機械的ゆかないのはわかっている。それにしても、能力が伸びたと言う事を公に認め、励みにも動機にもしてもらうための人事制度ではないだろうか。
     
    第一、損得だけを言うなら、もう少し正確に見たい。たいていの会社が、同一等級への長期滞留者への昇給抑制(場合により減給)は、随分と図ったのではないか。その措置により、未来永劫にわたり、会社がどれだけ得をしたかを考えてみて欲しい。どうしても数字が好きな人なら、それほど難しくないシミュレーションで計算できる。そのおおきな利得に比して、少しくらい昇格者を増やすことなど、それと較べたらまず物の数ではない。


    降格の意味を考える
    ここで併せて考えておかねばならない問題は、昇格後の能力、パフォーマンスの停滞が起こることである。人は誰しも安住の場を求めたいからだ。なるべくそうならないような予防措置は大切である。それにはいろいろある。降格は、そのひとつの重要手段である。ここまで降格の事はあまり言わなかったが、降格は、むしろ組織の活力維持のために重要なのである。要するに、あんまりぼんやりすると降格があると言う緊張感が大切なのだ。それと降格=脱落者と言うレッテルを張らないで、敗者復活戦の機会を与え、もう一回出直してみてよと言う健全なメッセージを伝えるのである。そこで、響きが悪いので、等級替えとか洗い替えとかいろんな表現がされるようになった。
     
    ふつう、降格はかわいそうだと言う。確かにその時点だけ取ればそうだ。しかしもっとかわいそうな、忘れてはいけない面が2つある。第一に、かわいそうだと言って放置して、ある日経営状態が悪くなると、まっさきにリストラの対象になるのは、そうした方々である。寝耳に水であろう。そうなったらもっとかわいそうだ。降格は、むしろ雇用の維持のためだと言われるのはこのゆえんである。
     
    もうひとつは、例によって人件費の配分論だが、そうして活力をなくした方が、上位等級にいすわれば、その分だけ勢いを持って伸びてきた方々の昇格の割り当てが減る。伸び盛りなのに、ペイも責任も向上しないのは誠につらいことだ。こっちをかわいそうだと言う声があまり聞こえて来ないのはどうしてなのだろうか。こうしたことを続けていると、前途有為な人ほど離職してしまうと言う最悪の循環を招きかねない。  さて、いろいろ述べたが、以上の論旨と似たようなことは、拙著「ポスト成果主義の人づくり、組織づくり」に書いてある。ある時、招かれたある会社の人事担当役員に「(こうしたくだりを)読んだら目からうろこがおりました」と仰って頂いた。「私たちが考えるのは、経費管理でなくて、どう社員に活き活きと働いてもらうかなのですよね。」
     
    普段は話の長い私も「いやそうなのですよ・・・・・」と少し照れながら短く奉答させて頂いた。

  • 実戦問答No.5:受験者への「愛情」~昇格試験における試験官の鏡としての役割~

    昇進昇格における人材評価は難しい。日常の人事考課なら、大量の情報を持つ直属上司が、一定期間内の昇給や賞与の評価をする。昇進昇格の評価は、それと別に、上司よりずっと情報が少ない会社側としての、しかも未来にわたっての責任ある評価を行わなければならない。こうした時の方がずっと難しいわけだ。昔は折々の断片の観察を総合し、「あいつもぼちぼちいいか」「いやまだもう少し」と言う禅問答のような昇格考課だった。

     
    そうした場面の評価の正確性、公平性がどの程度あるのかは別にして、この10年では、やはりそうしたことだけではいけないと言うことで、様々な客観的な昇格審査を採り入れる試みが増えた。どう考えても、日常の人事考課よりは、節目となる昇進昇格の評価の方が重要である。個々の方法の善し悪しは試行錯誤するとして、この方向は当然な流れだろう。まだまだ、「人事考課」に比して、この「人材評価」にかけるエネルギーが足りない会社の方が多いと言うのが私の実感である。
     
    こう言う時、私が依頼されるのは、各種のアセスメントそのものの実施以外では、そうした試験の際の試験官、面接官を遂行するための教育が時折ある。そこでは私は、こうした試験官、面接官の心得として大切と思う事柄を幾つか述べることにしている。
     
    最近、割合重視しているのが、受験者への「愛情」である。愛情とは、およそ企業戦士に似つかわしくない言葉に聞こえるかも知れない。それならせめて受験者への「支援」と言ってもよい。
     
    こうした試験官になるのはたいてい役員や上級管理職である。つまりそれなりにえらい人達だ。そうした方々も昔は必死にキャリアを登って来たはずだが、いつしかその苦しかった日々を忘れているかもしれない。それとそうした時代とは経営環境も変わった。それゆえ、幾つかの心得のうち「愛情」や「支援」を重視するのである。
     
    具体的に述べよう。そうした試験官教育の時、たいてい、面接前の受験者に書いてもらった論文をサンプリングして読んでもらう。もちろん最終的には採点と面接の質問の練習のためではあるが、私は最初に、「読んでどう感じましたか」とわざとぼんやり聞く。そう言う時に多い反応が、「何を言いたいのかよくわからない」「文章がまとまっていない」「趣旨が不明確だ」と言ったものである。誰もが秀才官僚である会社も少ないだろう。まして、昇格試験の場の限られた時間と言う極限状況の中で相手は書いている(私は、こうした論文試験は、幾つかの理由で事前提出にしない方が良いと思っている)。当然、「明晰で論旨一貫している」ことのほうが少なくなる。
     
    そうした場で、典型的には試験官たちと以下のような会話になる。
     
    「まずい点が、文章がじょうずでないのはわかりましたが、この人の昇格前の活動内容として、よい点は何か読み取れましたか。」
     
    「こう文章が、すっきりしていないと読み取れと言っても・・・」
     
    「これを書いた彼になりかわった気持ちで、言いたいことを読み取る、感じ取ることはできませんか。」
     
    「はあ・・・そう言われても、採点すると言う目でしか見ていませんでしたから・・・」
     
    「と言うことは、よい点があるのかないのかわからないと言うことですね。」
     
    「・・・まあそうですね・・・と言って、それをきちんと表現できないようでは困るのではありませんか。」
     
    この例は、むろん役員や上級管理職の登用ではない。そう言う時にあまり作文など課さないだろう。まあ主任が係長になるような試験と思って欲しい。
     
    「まずい文章は読んではいられないと言って目を切ってしまったら、貴社にとって何か大切なものが失われませんか。」
     
    「はあ・・・・」
     
    「ちゃらんぽらんな態度で書いていて文章がまずいと言うのなら別ですが、何百通読んだってそんな例はまず出て来ないでしょう。」
     
    「そうですね。」
     
    「それと、文章がまずいだけでなく、試験官と言うものの性質上、自分が詳しくない部署の人の論文を見ます。それゆえに、もともとわかりにくいと言う面もありませんか。」
     
    「・・・そうですね。」
     
    「内容に詳しくないからわかりにくいと言うことと、文章がじょうずでないと言うのは、別な次元の話ですよね。」
     
    「はい、そうです・・・。」
     
    もちろんあなたはそれをごっちゃにはしていませんよね、という無言の質問の間合いを取る。ここで注記すると、もちろん試験官の当て方としては、自分の専門外の内容を見させる方が妥当である。その意図もご理解願えよう。
     
    「・・・ですから、この彼のいちばん良い所が出ているのはどこなのか、うまいまずいと食べ物のように言わずに、見つけてあげましょうよ。」
     
    「試験官の役割とはそうしたことなのですか。」
     
    「私はそう思っています。少なくとも当社では、作文力、文章表現力のテストをしているわけではないのでしょう?」
     
    「まあそうですが。」
     
    「私は、論文の目的は、事前には、実務の遂行能力の評価と伺いました。私流に言えば等級昇格後の成果の再現能力を見ることだと思っています。文章のうまいまずいは、その中のごくほんの一部に過ぎません。それでいいですか。」
     
    「ええ、わかりました。」
     
    「文章がそれほどじょうずでなくても、なにもよいところがない人は、こういう場には、まず来ないはずですから。」
     
    「そうでしたね。」
     
    「同じ会社の中で選ばれてきた人をまた選ぶ場なのですから、あまり早い段階で、『何言ってるのかわからない』と言う門前払いは、なるべくしない方がよいのではありませんか。」
     
    「・・・どうも私が自分の役割をあまり深く考えていなかったようです。」
     
    「全員のよい所が確認されて、それでも差がつく、これはしかたないですね。そうなら誰だって受け入れるでしょう。人の能力は同じではないのですから。」
     
    「わかりました。・・・それで、先生、この人のよい所はどこに出ているのですか。」
     
    「ですから、それを探してくださいと、最初に皆さんに私がお願いしたではありませんか。」
     
    場にいた全員が笑った。もちろん各自の意見が出た後は、私がサンプルを読んで感じた諸点を述べる。それは答え合わせと言うことではなく、私も一メンバーとして意見を述べているつもりである。  以上は論文の採点だったが、面接でも原理は同じである。どうしても面接官は、無意識のうちに自分が関心を持った聞きたいことだけを聞く。それがその人の評価をする上でたまたま的に当たっていればいいが、そうとは限らないのだ。的が当たっていないことを聞いた反応が明確か不明確かを評価しても、つまり「わかる」「わからない」と言ってもあまり意味がない。また、的が当たったとしても、表現力が達意でない受験者の発言は、上手に傾聴しないと、やはり同じように「何を言いたいのかわからない」となりかねない。名門大学の弁論部ではないのだから、そんなに雄弁な人ばかりな会社と言うのは見たことがない。
     
    やはりここでも、面接官が、一連のプロセスの中で、その受験者がいちばん創意工夫努力した点をうまく探し当てて、自分を鏡だと思って写し取り、時間が限られているのだから拡散せずに、その内容を集中して質問するようにしなければならないと私は思っている。面接後の試験官とのふり返りでよくこんな会話になる。
     
    「そう、やたらと『わからんなあ』なんて言わないで、どうしたら『わかってあげられるか』の方が大切ではありませんか。」
     
    「先生、でも試験なのだから、主旨一貫してきちんと言えなければだめでしょう。」
     
    「そんな人の評価は、誰が見ても別に難しくありません。よくわからない人をちゃんと評価してあげるために試験官の皆さんがいるのでしょう。」
     
    「まあ理屈はわかりますが、わしゃ、そんな甘ったれた考えは好かんのですわ。」
     
    「ご自分の部下の大変重要な評価をなさる時、10分間のスピーチで決めますか、それとも1年間の努力を重視しますか。」
     
    「いや、先生、それとこれとは違うでしょう。」
     
    「どう違うのでしょうか。」
     
    「いや、ですからここは試験ですから・・・。」
     
    「そう、1年中見て上げられないから、短い面接試験の中でその人のいちばん良い持ち味が出るような環境をつくってあげるのですよ。その方が、社員はずっと公平かつ適正な昇格試験だと思うのではありませんか。」
     
    「・・・いや、まあそうですね。」
     
    「こう言う試験は、試験官がわかりやすくするために行うのではなく、受験者の社員が、日頃の力がなるべくそのまま発揮できるようにはかってあげるためのものではないかと私は思っています。」
     
    「はあ・・・」  

    「その方が、結局評価もわかりやすくなるのです。」
     
    「どうしてですか。」
     
    「だってよくわからんやつは、ばっさばっさと、皆不合格だ、と言うことでいいのですか。」
     
    「まあそう言うわけでは・・・」
     
    「としたら、よくわからないまま合否を決めることになる。」
     
    「・・・・・・」
     
    「そういう人も、どこがよくてどこが改善を要するのか、ちゃんとつかまえて置かないと、こっちもたくさん時間をかけて何をやっているのかわからなくなってしまうでしょう。」
     
    「それでは困りますね・・・。しかし、そんなことが20分やそこらの面接でわかるものなのですか。」
     
    「百パーセントわかるとは言いませんが、全身を鏡にしていれば、相当の確度でわかると思います。」
     
    もちろんきちんとした人材評価手法にのっとった「コンピテンシー面接」などを行うのが理想である。しかし、それは最低で1人1時間はかかる。そんなに時間を割けない会社が多いだろうから、現実的な対処をここでは述べている。
     
    「先生わかりました。何とかやってみますよ・・・」
     
    もちろんある試験官が、何十年、自分が取ってきたマネジメントスタンスを急激には変えられるものではない。逆にそのスタンスが、事業の運営にはどれほど利したかも忘れてはいけない。ただ、ここは場所が違うのである。場所が変われば役割が変わる。そうした自在さと変化適応性を持つのが真のマネジャーであると、リーダーシップの「状況理論」が私たちに教えてくれた。
     
    この人は、そのあと、ある受験者に、
     
    「君、私が君の仕事を何も知らないと言うつもりで、順々にもう少しわかりやすく話してくれないかな。」

    と、やさしくある受験者に語りかけたそうである。人は似合わない行動をする時はぎこちなくなるものだ。きっとユーモラスな雰囲気になったことだろう。
     
    私が、「愛情」または「支援」と言った意味がおわかり頂けたであろうか。
     
    ここは超難関の国家資格の試験会場ではないのである。あくまで既に同じ利害と運命を共にしてゆくと決まっている人達の間の選考が、昇進昇格試験である。そうした意識をもって運営した方が、彼らの能力を磨き、ロイヤルティや帰属心の強い社員を育てる道につながるのだと思っている。
     
    もちろん私は、受験者を良い気分にさせることが唯一の目的でこんなことをしているのではない。質問が的に当たると、当然受験者の取った重要な行動が浮き彫りになる。するとそのよしあしの程度がくっきりとするような、何の予断も先入観もない、客観的で真っ白な質問を、試験官がさらに行うことができる。つまりはエクセレントな質問である。受験者が自らを深くふり返り、とても勉強になるわけだ。合否がつくのはしかたないとして、そうした立派な質問をした試験官に、受験者が敬意を払うのはごく自然だろう。それがどれほど会社の利益になるか、その正反対の結果になったときと較べて考えてみて欲しい。その上、評価も一層公平になる。「愛情」をもって接するのは「実利」も伴ういいことずくめなのだ。

  • 実戦問答No.3:評価要素でなくて頭の中身を入れ換えないといけないのだよ

    ~人事考課制度と上司のリーダーシップはどちらが先か~

    仕事がら、評価・動機づけ・育成の一連の関連性をいつも考えていないといけない。最近開催の公開セミナーや人事考課者研修などでもいつも問われる普遍的な論点である。それを考える大きなきっかけになった場面がかつてあった。
     
    もう随分前のことだ。私があるクライアント企業で、プロジェクトの役員報告会を行った。さまざまな行動変革のための人材アセスメントのプログラムを実行した結果、その会社では、ある種の能力要件、マネジメント行動が不足であることが浮き彫りになった。たとえばそれが積極性と説得力であったとしよう。その場にいた役員の間のやり取りが、のちのちまで、私に強い印象を残した。
     
    ある専務がいた。技術畑のお人で、ご自分の領域では、高度な専門能力をお持ちである。そうした報告を受けて、社長と人事担当役員を交互に見て言った。
     
    「この結果を受け止め、苦手な能力を向上啓発させるために、人事考課要素を変えていった方が良いですね。いつも教育で集まると言うのも大変ですから。」
     
    そうした苦手な能力を、人事考課要素に採り入れたり、一層強調しようと言う意図である。役員のうち幾人かはうなづき、
     
    「それはよい。いちばん日頃意識できるものだから。」

    と発言した人もいた。人事担当の役員は「はて、それはどうなのか」と言う表情で黙っている。
     
    ここで、この時は相談役となっていた前社長が発言した。そのキャリアとお人柄から、影響力はいまだに大きい。専務と年はひとまわりほど離れている。どこか欲得を離れた仙人めいたようなお顔をにこにこさせながら言った。
     
    「いやあ・・・・・評価要素でなくて、その前にまず、君らの頭の中身を入れ換えないといけないのだよ。」
     
    「・・・・・」
     
    見事なアクションラーニングセッションのように、場がしばしの間、静まった。相談役は、このあと少しも温顔を崩さず、ぽつりぽつり語った。
     
    「君ね、評価要素を変えたら社員の行動が変わるなんて、そんなに単純に思ってもらっては困るのだよ。相変わらず君はまるっきりの技術屋さんだね。もう少し人間性の本質に関心を持ってもらわないといけない。」
     
    「はあ・・・・」
     
    「だいたい君だって、積極性と説得力が苦手だと言う診断結果が出ているじゃないか。」
     
    この会社では、社長が、そうした人材アセスメントのプログラムは、自分も含めて役員全員が受けなければならないと言ったので──それは素晴らしいご判断だが──この場にいる役員も全員、自分の得手不得手が載った報告書を目にしているのである。
     
    「・・・・」
     
    他の役員達の多くは黙ってうつむいている。「君もそうだったね」とお鉢が回ってきてはかなわない。
     
    「君自身が、そうしたことをしっかり受け止めて自分の行動を変えてくれない限り、おおぜいる君の部下が行動を変えるわけがないじゃないか。彼らは人事考課要素ではなくて、みんな君の背中を見てどう行動するかを決めているのだから。」
     
    「はい・・・・・」
     
    「それを忘れて、あたかも人事部の管掌事項のように、この課題を語ってもらっては困るよ。部下を育てるのは君であって、人事部でも人事考課表でもないのだから。」
     
    人事担当の役員がほっとしたような顔をしてうなづいている。「変な話にならずに済んでよかった」とその表情に書いてある。
     
    「どうだね、頭を切り換えて、明日から、そのような行動が取れるかね。」
     
    「はあ・・・・」
     
    「別に現在の人事考課制度が、積極性や説得力のある人を低く評価せよと正反対に書いてあるわけではない。だから、君がそうした研修プログラムを通じて変化の必要性を痛感して実行できるなら、人事制度など少しもさわる必要なく、本来の目的である社員の行動の変化や向上につながるのだよ。」
     
    「はい。」
     
    「それとも、君自身が訓練したりないと言うなら、もっと先生にお願いしてトレーニングしてもらうかね。」 

    「いや、それは・・・・・」
     
    どうかごカンベンをと言う言葉を専務は呑み込んだ。座がげらげらと笑った。むろん相談役は、全役員に向けて言っている。ひどく落ち着いたトーンはこの間全く変わらない。  
    この話は、成果主義流行以前の事である。が、その本質は、いまだに普遍性を少しも失っていない。と言うより、現在が、少々成果主義の行き過ぎた喧騒に踊らされた後だけに、一層私の胸に情景がよみがえる。
     
    もちろん、会社全体の価値観を変更するような時は、人事評価要素を必要あれば変えればよい。ごく日常的場面では、人材を育てたり、部下の行動を変えたりするのは、相談役がおっしゃったように、人事考課要素ではなく、上司の行動、態度によるのだ。
     
    逆に、評価の精密化を目的に壮麗な大伽藍のようなコンピテンシー考課体系などを整備した会社が、そのせいで社員が元気になったと言う話は寡聞にして知らない。会社が人事考課要素をいじる頻度と社員の活性度とは、まるで反比例するのではないかと思われるような現象が、その後の成果主義流行の時期には現れた。人事考課の要素を深く研究し体系づけることは、本来学者の仕事であろう。そう言うことより、現実の会社では、上司その人の指導力を底上げするよう図ることの方がはるかに重要なのである。かの世界一のコーチ、ゴールドスミスも、論文の中で言う。

    「出かけて行くたびに人事考課要素をレベルアップしたと自慢する会社があるが、それではそのたびにそれに伴って社員のパフォーマンスや行動はレベルアップしたのかと問うと少しもはっきりしない。」。
     
    部下を適切に評価し、使いこなし、成長させている上司は、どのような人事考課要素のもとであれ、それを行うだろう。自分の狭い経験の範囲でしか部下の行動を評価、判断できない上司がもしもいたら、その人に、世界最新の人事考課要素体系を導入説明したとしても、やはり自分の限定された価値観の範囲でしか部下の行動を見ないだろう。私は過去、人事考課訓練、評価者研修において、膨大な数のマネジャーが、評価に関して取ってきた言動を見てきてつくづくそう思う。重要なことは、素晴らしい人事考課要素を設計することではなく、部下をフェアーに評価し、能力を引き上げられる上司を増やすことである。
     
    考課訓練等の研修はそこを目指すなら大いに意義がある。もし、自分のマネジメントの姿勢とは一切向き合わず、実験室のデータ採取のようにただケーススタディ上の部下の行動を観察評価し、ごく他人事のように評点を入れて「答え合わせ」をするだけでは、意義が乏しい。自分が日常、部下を十分に使いこなしているかが問われなければ、上司としての指導力向上にはつながらない。部下の意欲と能力を向上させられれば、実は評価などあまり問題にはならなくなるのだ。逆に何年も同じ部下とつきあって評価は正確この上ないが、その意欲も能力もさっぱり向上していないと言うことがあるとしたら、それほど寂しい話はない。
     
    実際、年功主義でも成果主義でも、事業の運営に一層貢献して欲しいと言う、社員に期待された行動は、別段たいして変わってはいない。つまり考課要素の本質はさして変わっていないのだ。ただ、評価の報いとしての昇進や原資配分の基準が、程度問題として勤続年数より、実績、能力重視に変わったに過ぎない。どちらにしても、ごく日常の適切な評価や動機づけ、育成こそが根本である。
     
    読者の会社ではどうだろうか。私の経験では、人事考課要素の検討と、社員の行動変革に対する直接の働きかけとの、それぞれへのエネルギーの配分が、1対10以上には、つまり10倍以上は、後者に重きが置かれていなければ不均衡である。  さて、情景に話を戻すと、相談役よりはずっと若い社長は、ずっとにやにやとして話を聞いていた。ここで、相談役の話を引き取り、初めて口を開いた。
     
    「ええ、ですから、先生のところでは引き続き、うちのマネジャー達の行動が変わるような教育研修を、折々にお願いしたい。」
     
    どう変わって欲しいかと言う内容は、この会合以前の話し合いで既に伺っている。この社長は、部下だけでなく、外部コンサルタントの活用にもたけたお方らしい。それが次の言葉によく現れた。
     
    「一度や二度の研修でみんなががらりと変わるとは私も思っていません。ですから、先生も手がけた以上は、もうこんな会社の社員は手に負えないからと途中で投げ出してもらっては困りますよ。」
     
    もう一度一座が大笑いした。このように言われて大いにやる気にならないコンサルタントなどいないだろう。これまでこうしたクライアントに数多く出会えて私は幸せであった。