カテゴリー: 人材アセスメントの基礎

  • その34:18の標準マネジメント能力要件…コミュニケーション能力

    ■コミュニケーション能力

      
    前回までの、積極性、活動性、ストレス耐性、独自性、インパクトの5つが、個人特性カテゴリーだった。今回から対人影響力のカテゴリーに入る。その最初がこのコミュニケーション能力である。と言っても、説得力や感受性は、別建ての能力要件になっているから(それらを含むと範囲が広くなり過ぎるので)、日常語感の範疇よりはやや狭く、簡単に言えば表現力のことだと思って頂いてよい。

    従って特に取立てて説明する内容はないのだが、要するに、説明やプレゼンテーションのじょうずな人がこの能力が高いと言うことである。ただし、それが統率力や、説得力になっているかと言うと、別次元である。

    私たちのまわりには、ひょっとすると「口は達者だが・・・・・」と言う人もいるかもしれない。


    その先は「ウデのほうはどうか」「行動が伴っているか」と続くのだろう。「ウデ」や「行動」は、ふつうは統制力決断力活動性などを指すのだろう。私たちは、別段行動科学を深く研究しなくても、いざと言う時に責任を取らずに逃げ出すような行動の類型がいつ生じるかは、ほぼ本能的に気づくものだ。これに気づくと言うのは、判断力が普通以上に作用していると言うことだ。判断力を支える経験が乏しいとつい実のない巧言令色にあざむかれる。


    と言って何を言っているかはよくわからないが、事実と行動をもってしっかりした影響力を持っていると言うのは、つまりコミュニケーション能力は苦手だが、統率力はあると言うのは、やや珍しい例だ。だから、「口先」だと言ってばかにしてはいけない。言っていることも明確だし、実行も伴っていると言う言行一致の姿が私たちの目指すところだろう。


    コマツの坂根正弘会長がご著書でこれをいつも、王陽明の言葉を引かれて「知行合一」と表現されている。なんだ経営者レベルの話かと言うと、これは実は、私たちのように第一線で働く者にとってのほうがよほど重要である。なぜなら地位の高い経営者なら、美辞麗句に過ぎないことを言っても、その地位ゆえにあとから誰がとがめるわけでもない。しかし、言行の全く一致しないマネジャーや監督者などは、すぐさま誰からも見向きもされなくなってしまうだろう。坂根会長の凄味は、言行が明確に記録に残ってしまう経営者でありながら、その実践を厳しく自らに課されているところだろう。


    どうも話は、言葉より行動のほうに重きがかかってしまうのだが、現実には何を言っているのかさっぱりわからない説明やメールにゆきあたることは少なくないものである。こういう行動の動機には、人に正確に伝えると言う関心や意欲がないのかもしれない。


    上述坂根会長に学ぶと、どんな複雑な脈絡の話にも、物事の全体をよく表す「端的な一点の事実」があり、そこから「一点突破のキーワード」編み出せば、浸透力が格段に高まると言う。その例として、今世紀初頭のコマツ社長としての経営危機克服の際の例を挙げられる。どうしてアメリカのライバル会社は利益を上げられるのに、当時のコマツは赤字だったのか。日本で操業しているから人件費なりコストが高いから利益が出ないと言うのが、当時も今も常識かもしれない。この常識に疑問を持った坂根会長は、いろいろ切り込んでゆくと、つまるところ、製品(建設機械)のコスト構造は、どこでつくってもさほどの遜色はなく、コマツがライバルにおくれを取っているのは、固定費に6%もの差があることがわかった。この自社が高い6%の固定費を解消すれば利益は出る、と言う端的な一点の事実を繰り返し訴えたのだった。この場合の固定費とは、本社経費、本業とは関係にない連結対象の関連会社の経費などである。自分の会社の事だと思えばよくわかる。もしもすぐさま6%利益率を改善できる方法があるのなら誰だってすぐに飛びつき、取り組むだろう。当節、1%や2%の利益を残すことすら、大変な会社が多いのだから。


    もちろんそのためには身を切ってリストラをしなければならない。ここで坂根会長は「リストラは1回限り」「必ず2年以内に結果を出す」、そのためには「ダントツ商品」を開発する、と次々と名フレーズを編み出した。こうしたフレーズは、関係者の心に深く刻まれたであろう。

  • その33:18の標準マネジメント能力要件…インパクト

    ■インパクト

    人に強い印象を与える能力である。対面影響力とも言う。

    どんなになかみの良いことを言ったとしても、印象に残らなければ決してそれが実行に移されることはない。つまりその人にとって成果が上がらない。たとえば会議を開いて多くの人が発言する。肩書による影響は別にして、不思議と何を言ったか記憶に残る人とそうでない人がいる。前者の方が目的を達する上で有利なことは明らかだろう。そこでふつうは、懸命にキャッチフレーズを練ったり、きれいな資料をつくる。もちろんそうしたものは、インパクトの補助具なのだが、そうした工夫に富むのは、どちらかと言えば創造力分析力の守備範囲である。マネジメント行動としてのインパクトは、基本的には、人間そのものの存在感である。

    どうしたらインパクトを高めることができるのか。

    第一はキャリアである。

    例えば西郷隆盛のような人がインパクトが強いと言うことは誰でもわかる。ではインパクトとは彼のように、巨顔巨躯とならねば得られないのか。そうだとすればインパクトはまったく天与の資質となり、学びようがない。しかし、西郷のインパクトの本質は、彼の高潔な人格、至誠一貫な信念、他人をいたわる仁慈から生じているのである。ただ巨躯であるからと言って大勢の有能な明治維新の志士たちが彼につき従うはずがない。そしてその本質の方は、どう考えても生得のものではなく、大変な克己と努力つまりキャリアに依ったものである。

    このように、私たちのまわりにいるいわゆるインパクトの強い人は、例外なく、そうした自助のプロセスを経てそのようになったはずである。そこにマネジメント能力要件としての意義がある。

    ではなぜ西郷はそのように高潔な人格たり得たか。無数の要因があるとしても、最も重要なのは、彼が若年時に志を得ず、奄美大島、沖永良部島と、二度も島流しにあったことである。特に環境劣悪な二度目の遠島から鹿児島に戻った時の西郷は、誰が見ても別人の観があったのではないか。その間彼は、自己の生死と向き合い、放下(ほうげ)の境に入り、天の命ずるところを待った。そして天はあたかも彼のそうした変容を待っていたかのように、革命家としての使命を改めて西郷に与えた。

    西郷と言えば、相棒は大久保利通である。この人のインパクトは、一般論で言えば西郷には及ばないだろうが、やはり常人を抜きんでる水準ではあったようだ。会う者をしておのずと粛然とさせる威厳は、まさしく「静かなること林の如し」と言う強いインパクトを人に与えた。西郷のインパクトがどちらかと言えば、慈愛からもたらされる親和性インパクトの典型とすれば、こちらは威信性インパクトの典型だろう。

    大久保のこれもまた生得のものではない。むしろ青年期までの大久保は、胃弱でむしろひよわな印象すら与えたかもしれない。彼が私たちの知る大久保利通へと変容を遂げてゆくのは、父親が藩の政変に連座して役職を解任され、一家が塗炭の苦しみにあってからである。

    より多くの艱難辛苦、今日風に言うなら自らリスクを取ったキャリアを、より多くくぐりる抜けるほどインパクトは向上するようだ。

    キャリアは、ただ年数が長ければ良いと言うものではないが、あまりにも短期間では形成できないのは明らかである。

    そこで、第二に、すぐに取り組めることはないかと言うことになる。

    自分の言った言葉に信念を込める、自分が心を込めたことしか言わない、自分の言葉が相手に届くよう深く意を用いる。これならそう思ってそうすればよいのだから今日からでもできる。言い方を変えれば、思いつきをすぐ口にする、長々と不必要な説明をする、と言った行動がインパクトをとても削いでしまうことは明らかだろう。言葉に信念を込めるには、深い思案が必要である。深い思案がこもった短い言葉と揺るぎの無い冷静な態度がインパクトを形づくる。もっともこうした時に「感受性」のない人だと誤解されないように気をつけなければならないが。

    最近はテレビに政治家や経営者がたくさん出てくる。こうした信念が言葉にこもっているかどうかは、われわれ国民の目から見ると、キャスターの質問が適切である限りは、彼らの表情、反応の言動からたやすくわかるからテレビと言うのは便利である。つまりは、それがインパクトである。

    男子は四〇才を過ぎたら自分の顔に責任を持たなければならないと言ったのはリンカーンである。一般にマネジャーの顔には、上述のようなキャリアの集大成が、ありありと現れている。その度合いがインパクトなのである。

    塩野七生先生の作品に「男の肖像」と言うのがある。「中年以上の男の顔を観察するほど面白いものはない。」と言っていた。「それは美醜の問題ではなく、その人の生きざまそのものが現れてるからなのだ」と言う。塩野先生に観察されてはたまらないが、インパクトと言うことの本質が良く現れている。

  • その32:18の標準マネジメント能力要件…独自性その2

    さて、せっかくの独自性だから、少しだけカリスマ経営者の行動例に学んでみよう。上述渡辺美樹氏ご自身の例を挙げてみる。氏が最も独自性を発揮した場面は、それにふさわしく2度の真の自立を果たした場面であると思われる。

    一度目は、大学を卒業して会社設立の資本金300万円をつくるとき。彼ほどの才弁があればセールスマンをやって稼いでもよかったし、実際それは容易にできただろうとご本人も言う。しかし、どうあっても起業資金は自分が手を汚し、体を酷使してつくりたかったのだと言う。そして勤務条件の酷烈なある宅急便会社のセールスドライバーを勤めあげおカネをつくった。このくだりはベストセラーにもなった高杉良先生の小説「青年社長」に詳しい。読むと渡辺氏の凄まじく強靭な意志がよく伝わってくる。現代版「臥薪嘗胆」の趣である。

    「ガシンショウタン」とは、敗戦の屈辱を忘れないために、硬くごつごつした薪(まき)を枕にして眠り、苦い苦い肝(きも)をなめて、日夜その恥をそそぐことを自らに誓ったと言う中国古代の故事である。経営者としてその後数十年、難局に立ち向かう時には、この時の苦しさと志の原点を渡辺氏はいつも思い出されたに違いない。まるでわざわざそのようにしたかのようである。

     こうした渡辺氏は、自分には起業資金はまったくないがアイデアならあるなどと称して持ち込んでくる輩には絶対に会わないのだと言う。自立心(独自性)のない人物とはつきあわないと言うことだ。

    その後、居酒屋「つぼ八」のフランチャイジーとしてそれなりの成功を遂げ、かつ、つぼ八本部に、違う業態だからと言って今の「和民」(ワタミ)を立ち上げることを念願かなって了解してもらった。ところが、ある和民の店の近くのつぼ八の売上が激減してしまった。驚いたつぼ八側は態度をひるがえし、和民を続けるなら、つぼ八のフランチャイジー13店舗の看板はすべて返せと迫ってきた。上記はたまたまそうなったが、その時点では和民はまだ全体としては赤字なのに対し、つぼ八13店では、年間3億5千万の利益が出ている。それをすぐ取り上げられたら、時をおかずして会社がつぶれてしまうではないか。

    むろん、渡辺氏の夢は、自社ブランドとしての「居食屋」業態として上場企業となり、日本一の外食チェーンをつくることである。それを社員にいつも語っていた。つぼ八の優良フランチャイジーにとどまり続けることではない。だから、つぼ八で上がる利益を確保しながら、和民への投資を続け、これをじっくり大木に育てる。そういう皮算用だったはずである。しかしここで二者択一をいきなり迫られてしまった。運命の神はこうした時、真のアントレプレナーには、安全な道を許さず、なぜか非情な試練をお与えになることが多い。

    ここで氏の取った決断は、尋常なものではなかった。会社がつぶれるつぶれないより大切なことがある、和民が和民らしくなくなったら存在する意味はない、社員は皆自分をうそつきだと見透かすだろう。自分の言行を一致させる決心をして、次々つぼ八の看板を下ろし、いま私たちが知っている和民になった。独自性が問われる意思決定は、このように、主体の人格と運命そのものが問われる。そして渡辺氏は賭けに勝った。

    繰り返すが、このような行動は、独自性が最高レベルな状態である。そして子供のように、人に何か言われるたびにふらふらと影響されるのが、独自性の原初状態である。私たちはたいていのその途中のどこかにいることになる。そして組織上の役割の遂行において独自性が必要な程度は、置かれた環境により異なるようである。

    まとめると独自性には、幾つかの要素があり、その総合の程度となる。第一に自責性。これは既に述べた。第二に、自律性。これが最高度になると、渡辺氏のように使命感になる。自分が何に深くコミットメントするのかが不明確では、自主独立は完結しない。

    第三にそれを支える、生活力である。渡辺氏の力量がけた外れであるのは別にして、いくら自主独立の人でも、一人だけで仕事はできないのだから、業績を上げる力が裏打ちされていないと、誰も協力する気にならない。なぜなら自責、自律、使命感に富んだ主張や言行は、その種のものを見聞する人にとってはひどく違和感を与えることが多いからである。そうしたとき、業績を上げる力が人から感じられないと、誰もついてゆかない。変人奇人と独自性の差はここである。

    伊藤忠商事の経営改革を成し遂げた丹羽宇一郎氏は、ひどく端的に「カネの匂い」がしないようではビジネスマンとしては半人前だと述べておられた。表現はともかく、自主独立を成立させる不可欠の要素である。

  • その31:18の標準マネジメント能力要件…独自性その1

    この稿の執筆を、ずいぶん時間をあけてしまった。ひとつには少し忙しかったこともあるが、主たる理由は、この独自性と言う能力要件の説明の難しさである。

    私たち組織人やサラリーマンが最も発揮しにくいのがこの独自性である。独自性とは、深い経験に裏打ちされた自身のマネジメント上の信条に基づく揺らぎのない自主独立の意思決定と実行である。だいたい組織の中で、社長や重役でもないのにそうした主張をすると、よほどの条件が整っていないと、まず大変な目にあう。「出る杭は打たれる」ことはほぼ間違いない。場合により排除されてしまうかもしれない。その主張や言動の妥当性とは全く別次元である。物の本に何と書いてあったとしても、出る杭を望む上司は、せいぜい百人に一人だろう。どう見てもこの独自性が抜きんでて高く見える、セブンアンドアイホールディングスの鈴木敏文会長は、その自著に「私のように物をはっきり言う者は、大度量の伊藤雅俊オーナーのもとでなければ3日でクビになっていただろう」と言う趣旨をおっしゃっている。至言である。

    そういう行動がどれほど「危険」かは別にして、組織というものは、時にはそうした行動が現れないと、危機を克服できず、やがて衰亡することは確かだろう。先の福島の原発事故処理の初期段階で、やや軽率と思われる国の指示に断固従わずに自らの信念を貫いた現場の所長がいたことは、私たちの心に強く残った。あのような自主独立性に裏打ちされた行動がなければ、今も収束できないこの問題が、一層の混迷を深めていたであろうことは想像に難くない。

    かつて、アサヒビールの頽勢を救ったのは言うまでもなくメガヒット商品のスーパードライだが、 辛口でキレのあるビールと言う当時としては全く独自性に富んだ商品コンセプトを主張したのは松井康夫氏だった。当然、常識に反したそんなものは売れないと言う反対がたくさんあったが、それを乗り越え、文字通り救世主の商品となった。

    このように、組織の歴史を紐とけば無数の事例があるが、危機や衰亡の淵に瀕した時、組織には真に自主独立の行動が求められ、受け入れられる。本当は危機や衰亡に瀕しない、普通の時や成長期にそれが現れた方がよいに決まっている。かつて成長期だったソニーやホンダの物語のうち質の良いものを1冊2冊読めば、ああした風土にあってはそういう行動がごく普通であったことがよくわかる。

    起業家、アントレプレナータイプを自認する人だったら、この独自性はふつうの人より飛びぬけて高くないと事業成功の見込はまずないだろう。たとえばスティーブ・ジョブスや孫正義氏の独自性が尋常でないことは、誰が見てもわかる。こうして独自性の典型的事例と言うのは、どうしてもパイオニア的にあらゆる困難を打ち破ってきた創業的大経営者によるものが多くなる。そうしたストーリーはもちろん痛快ではあるが、私たちの日常とは少々異なるようだ。そうした内容を書いても、この稿にあってはあまり実戦的ではないかもしれないと迷い、それでペンがつっかえていた。何とかふつうの会社員の日常に置き換えられないものかと思っていた。

    そう考えると、独自性は、その発露の初期段階では、ふつうの組織人が、まっとうな目的のもとに自分を守るためにも用いうる。

    比較的若手(と言っても30代後半くらいの人まで含めて)の研修をお手伝いしていてよく出てくるフレーズが、「上司にこういう言い方をされたからちっともやる気がしない」である。その気持ちはよくわかる。そしてこういう時は独自性の分かれ目である。

    「やる気がしない」から本当にやらない、力が入らないと言うことだとしたら、残念ながらその人の独自性は、現在は少し低い。これは典型的な他律性である。つまり自律性の正反対だ。

    自律性が高い人はそうは考えない。上司が何であれ、何を言おうと、自分が行うべき仕事や役割、追求すべき専門分野が変わるわけではないのである。つまりぶれない。だから上司にいろいろつまらないことを言われたらおもしろくないし、そういう上司を尊敬できないと言うところまでは誰でも同じだが、その先が違う。自分を磨く行動をいささかも変えないのである。もっと自立心の強い人なら「早くあの上司を追い抜こう」と思うだろう。

    話を上司の側に転じると、これを悪用して「やる気になるかどうかは部下自身の自己責任だ」などと言ってはもちろんいけない。上司はあくまで相手の状況、能力に応じて、動機づけを図らなければならない。これは当たり前である。プロ野球の名物監督だった野村克也氏は、やたらと選手をほめないと言うことをひとつの信条としておられた。が、それはサラリ-マンの世界とは前提の根本が異なることに注意が必要である。プロ野球なら、昔ほどではないにしても、入りたい人はいくらでもいるのだし、入った以上速やかに不可欠な戦力にならなければやってゆけない。そうした人たちをいちいち小さなことを見つけてほめて動機づけるなど言うのは、とりもなおさず相手を一人前扱いにしていないと言うことだ。他人から動機づけられなければ努力しないと言うような選手が第一線で活躍できる見込みはまずないのである。この場合、自律性は、職業の前提要件である。

    しかし私たちがごく普通の組織でごく普通の部下、つまり自律性が完成していない部下を預かったら、細心の注意を払い、動機づけ、励まし、時に注意したり叱責したりしながら使いこなし育ててゆく以外にない。

    話を戻すと、それほどやすやすと上司に言いたい放題の雑言を言われるのだとしたら、上司の人格の評価を論じる前に、自分の自立、独自性が足りないことに思いを致したほうがずっと生産的である。こうした場合、たいていは、部下のほうが、準備不足、思案不足、覚悟の不足等々、要するにすきだらけである。上司と部下とで、すきをうかがいあうのがよい関係だとは私も思わないが、そういう上司ならしかたない。まずは自存自衛のために、防衛的独自性を構築するしかない。それで自分の注意深さが高まれば、そんな上司でも、自分の向上に結果として益したのだ。

    以上に関連して、ワタミ創業者の渡辺美樹氏の著書「強運になる4つの方程式」に、面白い場面があったことを思い出した。読者からの質問に答える場面である。

    その質問は、要するに、いろいろあって上司とうまくゆかなくて悩んでいるがどうしたらよいかと言うことである。こういう悩みを持つ人は、日本中に何百万人もいるに違いない。こんな時多くの評論家、行動科学者、教育の先生は、「その上司の悪い点ではなく良い点はどこか」「相手を変えるのは難しいので自分を変えられる面はないか」などとアドバイスをするのが常である。こうした助言は、一時の気休めにはなっても、たいてい問題の根本解決にはならないと、実はほとんどのサラリーマンは感じている。お経のようなもので、何十年もそう念じていればその本当のありがたみがわかるのかも知れない。なかなかそこまで待ってもいられないので、「まあいずれ上司か自分かどちらかが転勤するまでのことだ」とそのくらいには割り切って勤務できれば、前稿の「ストレス耐性」はまずは普通以上に強いとは言える。人と人とは、特に利害と好悪の感情がからんだ時には、そう簡単にわかりあえるものではないのだ。

    しかし、渡辺美樹氏のアドバイスは、いかにも氏らしく、上記のような評論家的なものとは、およそかけ離れた雄渾なものだ。「上司のレベルがあまりにも低いために悩んでいる場合も、そういう上司しかいない会社を選んだあなた自身の責任なのです。レベルの低い上司が悪いわけではありません。」と、まず問題の本質を一刀両断している。そういう人ができることはふたつだ、と言う。第一に、その上司と戦い、2段上の上司と話し合い、自分のポジションを構築すること。第二に、そういう会社を選んだ過ちを認め辞めること。どちらにするかは、自分が決めればよいのだから「悩む必要などなにもありません。」「悩んでああでもないこうでもないと言っていること自体が人生の無駄なのです。無駄な時間を過ごせば過ごすほど、負のエネルギーがたまり、運が逃げてゆくのです。」

    これを読んで、「なるほど何と自分はつまらないことを悩んでいたのだ、明日から、いや今日からでもそのようにしよう。」と実行し、何らかの成果が挙がれば、それは独自性が少なくとも4点、いや5点に近い行動と言ってもよいかも知れない。

    しかしほとんどの人は、そうは思わないだろう。この質問者も、「上司とうまくやってゆく方法を知りたかったのだ」と感じているかもしれない。しかし独自性が高い人はそのようには考えないのである。「そんなことはもとより無理だし、無意味だ」と考える。なぜなら上司はパワーを持っているのであり、別段無理に部下である自分とうまくやってゆく必要性などは、特にこのような場合感じていないのが常である。だから自分が力を着けて局面を打開する以外にない、と。独自性の高い人は、状況に合わせようとはしない。状況を変容させるか、みずからつくりだそうとする。よって、「積極性」の高い人はなまいきなやつだと思われる程度で済むが、独自性が高いと一般に危険視されるのはそのゆえである。会社方針に「変化、挑戦、現状打破、破壊的創造」などといくら書いてあっても、独自性が高い人は煙たがられる方が、割合としてははるかに多い。住み慣れた職場環境をやたらとつくりかえられたり、壊されたりしたらたまらないではないか。その場合、決まり文句としてそして協調性を欠いた人物だと評される。しかし、これは協調性とは何ら関係ない次元である。

    力量が常人とかけ離れた渡辺氏が気づいていないか忘れてしまっているのは、そうした上司でさえ、今の自分よりはキャリアが上だから簡単には追い越せないし、そうである以上2段上の上司の支援も期待できない。と言ってそんなに簡単に会社を辞めるわけにはゆかないと感じている人がいちばん多いことである。

    ならばどうするか。一歩一歩力を蓄え、上司にほしいままに振る舞わせることをまずはやめさせたいと今までよりは深く決心すれば、「独自性」の入り口に立ったと言うことだ。

    堀場スプリングの創業者堀場雅夫会長がおもしろい事をご著書で言われた。「たたくやつより上回ればいいものを、半身に構えて少しだけ出ようとするから、すぐねらいを定めてガツンとやられる。」「たたく人間の背より高くなったら相手もたたく気がしなくなる。」だから人は「出過ぎた杭」になれば打たれることはないと。「半身に構えて」と言う表現が独自性の不足をうまく言い当てている。

    なお、渡辺氏の「あなた自身の責任なのです」と言うフレーズは、要するに「自責性」だが、これは独自性のひとつの基礎である。基本的に他責的な行動が多い人の独自性は高まらない。

  • その30:18の標準マネジメント能力要件…ストレス耐性②マネジメントにおける段階

    逆に言えば、人の力量は、つまり経営者やマネジャーの能力は、大きなストレスがかかった時に問われるのだと言ってもよい。引き続き、もう少し程度の高いストレス耐性を述べよう。

    ある会社で、アクションラーニングの研修をした時のことだ。ある営業課長の問題は、以前見積もった価格で受注が内定していたが、その後材料費高騰により、正式契約前の案件では、改めて値上げをお願いし、利益を確保しなければならないと言うものだった。こうきれいに言えばなんでもないが、現実はずっと苛烈である。

    ある重要顧客に出かけ、この値上げの旨を申し上げた。周囲に数十人は顧客企業の社員が執務していようかと言う大部屋の中の打ち合わせテーブルで、相手の購買担当の部長に、「ふざけるな、このヤロー、どのツラさげてきたんだ」と大声で面罵されたと言う。別段地方の零細企業の応接間での話ではない。どちらもごく普通の上場企業である。

    この営業課長は、これを半分にやにやしながら私を含むメンバーに語った。「こんなひどい目にあった私に同情してくれ」と言う態度ではない。つまり葛藤した事態をどう解きほぐすかなかば楽しんでいるのだ。私は感心した。こう言うストレス耐性の強い人はたいてい問題を解決できる。

    かつてドコモを立て直した大星公二氏の自伝的著書にも、こうした場面が出てくる。安易にソフトウエアの仕様追加を要求する顧客に、追加費用を請求すると言うと、相手の重役に

    「すぐ手を出す乞食の大星。このバカが。てめえなんかだめだ。」

    この重役は、相手の業界では名の通った人物らしい。大星氏はむろん逆ギレなどはしないし、むしろ相手の人格力量を見切って楽しんでいる風が見受けられるのである。これもストレス耐性がなせるわざである。

    戦争でも互角に布陣して対峙したときには先に動いた方が負ける例が多いと言う。将棋がお好きな方はよくわかるだろう。昭和期最大の将棋指しの故大山康晴名人は、相手の失着をじっと待つのが実に得意だった。必要もないのに先に動いてしまうのは、つまりストレスが少なくとも相手より弱いと言うことだ。

    重要な交渉事が煮詰まった時もまた同じである。今は中国大使になられた丹羽宇一郎伊藤忠元社長の著書を読むと、西友からファミリーマートの株を買う時に、相手の和田繁明西武百貨店会長(当時)との価格交渉が折り合わず、互いにひとこともしゃべらなくなった場面が描かれている。「絶対に動くもんか」と丹羽氏は思っていたと書いている。「辛抱しきれずに動いた方が負けだ」と思っていたと言う。結局丹羽氏の望みの額で交渉は妥結した。これなどは高度なストレス耐性の成せる至芸である。

    話を転じると、同僚よりも昇進が遅れたと言うような経験をした読者はいるだろうか。そんな時どうして過ごしたろうか。実は歳月が過ぎるほど明らかになるが、人生の分かれ目はむしろそうした時にあるのである。

    「なんだっておれが」とごく親しい人や信頼できる人にぐちを聞いてもらうために飲みに行くくらいはよいかもしれない。しかし、これとて、自分からでなく、状況を察知した相手から誘われる方がよい。

    もっと大事なことは、昇進遅れが明らかになったあとでも、あなたが以前と同様に、いや、以前以上に熱意と誠実をもって職務に打ち込んでいるかである。周囲の人はそうした様子を決して見逃さない。そのような時、怒りっぽくなったり、ぐちっぽくなっていたら、そこまでゆかなくとも明らかに熱意がうせてしまったら、「ああ、あの人はあそこまでの人だ」と昇進遅れにさらなる追認が加えられ、それがやがて定着してしまうだろう。

    しかし、言葉にこう書いても、実際にはそのような態度をとるのはむろん容易ではない。昨日まで親しくしていた人たちがよそよそしくなったり、距離を置いたりし始めるのだから。しかしストレス耐性を日頃から鍛えてあれば何とかできるかも知れない。いや、逆に、これこそストレス耐性、つまりは人間力を鍛え直し向上させるにはまたとない機会なのかも知れない。そのように「雌伏もまた楽し」と感じれば、ストレス耐性は卒業だろう。

    ここはパナソニック創業者松下幸之助翁にもう一度学びたい。氏は、第二次大戦後、軍需産業と関係なかったのに財閥解体、公職追放の指令を受け、個人財産も凍結された。つまりこの時点で丸裸になりかかった。丁稚奉公を振り出しにナショナルグループを築いた氏も既にこの時才。現在の年令感覚ではない。このまま追放されれば、のちの日本の家電産業の隆盛は、もっと小ぶりだったか、よほど違った形で現出したに違いない。

    この時、むしろ労働組合が公職追放の解除に立ち上がったのは有名な話で、その経緯はストレス耐性とは別に、氏の統率力」や「感受性」がいかにすぐれていたかを物語っている。が、この前後の氏の胸中にあっては、この生涯の難局と立ち向かうストレス耐性が試された。「宇宙根源の法則に乗って素直になることが大切だ」とその後ずっと言い続けた氏の信念は、このとき一層深く涵養されたように見える。

    氏は虚弱体質であったことや、その怒りっぽい気質からは、どう見てもストレス耐性の天分が恵まれていたようには見えない。しかし若いころからの克己の鍛練と、運も味方してこの試練を乗り切った後には、誰から見ても大経営者、経営の神様の風貌となっていった。ストレス耐性が、資質ではなく涵養されるものであるよい例である。

  • その29:18の標準マネジメント能力要件…ストレス耐性①初級的段階

    最近、ごく若手の研修を時に引き受けて感じるのは、日本人のストレス耐性の平均点が、たとえば私が新入社員だった時と較べたら明らかに下がってきたのではないかと言うことだ。

    原因は単純ではないだろう。

    情報技術の進歩、人手不足と人件費高止まりで、かつてより、新入社員で入った時からいきなり難しい仕事をさせられることが増えたから、若手にストレスがたまっていると言われる。不思議なものだ。昔は、ITが恐ろしく不備だったから、それゆえの下積みのつまらない仕事が山ほどあって、それを日々耐えるストレスは相当なものであった。私の同世代の方々が若手社員だったころは、いかにしてこの下積み仕事から脱するかが、たいていの人の実践的目標ではなかったか。

    他方、上司のほうが年功主義の時代のように時間的ゆとりがないから、ついつい部下にがちがちに枠にはめた行動や、厳しい成果管理を求めると言う面も感じられる。より正確に言えば、上司の力量や包容力の個人差がくっきり現れてきたようにも見える。それにしても若手にとっては、最初の頃に当たった上司次第である。あまり度量のない上司にあたってあれこれがちがちに言われると、一般にストレスに過敏になる。つまり視野が広がらない。

    それと、やはり感じるのは、少子化やゆとり教育のせいなのだろう、若手自身が評価や競争に慣れていないと言うことだ。ちょっと相手に評価的なニュアンスを嗅ぎ取ると過敏に反応してしまう。

    こうしてみると、作家の渡辺淳一先生の「鈍感力」と言う造語は本当に見事なネーミングだった。鈍感なだけで会社の中で成功するわけではないが、ここに述べたようなどちらかと言えば事柄にはあまり敏感でないほうが、少なくとも健康にはよい。

    特に最後の、若手自身の側の点である。残念ながら、この世は評価と競争から逃れられる日は1日もない。つまりストレスのかからない日は1日もないので、ストレスから逃れるのではなく、どう処理し扱うかが問題である。言い方を変えれば、ストレス耐性は慣れの問題に過ぎないとも言える。だから本当は少年期から親によって取り組まれるべきことだろう。慣れなのだから、早く慣れてしまえばよいのだ。たとえば、「計画組織力」を鍛練しようとしたら、マネジメントの場に身を置くことが不可欠だが、ストレス耐性は、子供の頃からの日常生活でいくらでも向上可能である。が、おとなになって急にそれに取り組むと、とてもつらいことになる。

    人間世界では力量相応に勝ったり負けたりするのが当たり前なのだが、負けて自分の非力さを見るのがいやだと言う人が昔より目立つわけだ。こうした態度の持続は、一般にその人のキャリア向上に益しない。だから勝ったり負けたり、負けた時にはくやしくて眠れないことも時にあるのがあたり前なのだと早く慣れたほうがよいに決まっている。

    ストレス耐性がある意味で重要なのは、これが弱い人は、ストレスがかかった時には、他のよい持ち味まで消してしまうと言うことだ。要するにあがりやすい、緊張しやすいタイプの人は、本番で本来の力を出しにくいと言うことである。それならまだ他人様には迷惑を掛けていないが、たとえば緊張するといらいらしてやたらと他人に攻撃的になるような現れ方をするパターンもある。どんな上司でも、そういう部下を重要な局面で使おうとは思わないに違いない。つまりストレス耐性が弱いと、仕事を有効にこなせる範囲がその分狭くなる。それも程度によっては極端に狭くなる。

    あの名物監督野村克也氏は、選手が長髪にしたり、ピアスを着けたりすることをひどく嫌った。「野球選手は野球で目立てばよい。野球で目立てないから他のところで目立とうとするのは全く間違っている」といつも著書に述べている。これなども私の分野から見ればストレス耐性が弱い行動のある種の典型例である。だいたいにおいてサラリーマンの世界もいっしょで、会社の中での奇抜なファッション、容装は、概ね上記と同じと見てよい。いたずらに奇をてらう言行もまたほぼ同じである(前稿の積極性との区別は多少専門的観察を要するにしても)。

  • その28:18の標準マネジメント能力要件…積極性

    積極性は人に先んじて行動することである。イニシアティブと言えばもう少しもっともらしい。

    いちばん原初的な積極性は、ともかく人よりも前に出たがること。これはこれで大切なことだ。が、どう言うわけか、この種の積極性は、日本人が中心の多くの会社ではいまだにあまり好まれないようだ。人事考課要素には、たいてい「積極性」が入っているにもかかわらず、である。だいたいにおいて私たちは、他人を見る時に、成果に裏打ちされていない積極性をあまり好まない。しかし必ず成果を伴う積極性などと言うものはない。あくまで行動の傾向のことを言っているはずである。

    この初期的積極性が、会議などで実質議論の呼び水となるわけで、組織運営に与える影響はさほど小さくない。それに最初に口火を切って物を申せば、それだけ賞賛、批判いずれであっても受け取るフィードバックは深くなり、その人の実質成長をもたらす。

    先般ある会社の管理職候補の30代の若手の研修の末尾で、これが講師としての最後の質問だとして言った。

    「今日のケーススタディから自分は何を学びどう活かしてゆきたいか、誰か発言していただけませんか。もちろんこんな質問に正解などはないので、自由に自分の考えを述べてもらえばよいのです。」

    場がしんとして誰も発言しない。うしろに数人すわっていたオブザーバーの役員の中には祈るような顔をしている方がいたのが印象的だった。 

    「どうかだれか進み出て立派な意見を言って欲しい。」

    とお顔にくっきり書いてある。が、手が挙がらないので語調をゆるめて私がぼやいた。

    「さてこれでは研修が終わりませんねえ、遠くから来た人は大変だ。」 

    すかさず、誰から見ても、力が一頭抜きんでた受講者が手を挙げて所論を述べた。

    そのご意見は、そして発言のご態度は言うまでもなく誠に立派なものだった。が、私にはやや不満である。彼ほどの力があれば、やや緊張感を残していた私の最初の質問に対し、間髪入れずに同じ応答ができたはずだった。そうしなかったのは、やはり同僚達の前で自分だけが目立つような振る舞いはどうなのかと言うためらいがあったからだ。そうした「感受性」は別な時に用いればよいのだ。ともあれ積極性と言うのは、発揮のしかたが難しい。

    もう少し質の高い積極性は、いわゆるチャレンジ精神になる。困難な事には挑戦せずにはいられないと言うことだ。この辺は「決断力」の範疇に入るリスクテーキングとの境界は流動的になる。あえて分ければ、テーマ選択の困難さをいとわないのがチャレンジ精神であり、それを遂行するうちに、大きなリスクを伴う意思決定を迫られた時に、いたずらに避けずにそれを行うことがリスクテーキングである。

    しかし、いつまでも成果が伴わないのでは困る。ただ、長い目で見れば、全くの安全志向で守りにしか意識が向かず、変化を忌み嫌えば、人も組織も必ず衰亡することはさまざまな歴史が教えてくれる。どの段階の積極性にせよ、積極性の高い人は、必ず人より多くの失敗をする。そこで大切なことは何も行動しない人よりもはるかにみのりのある深い経験が蓄積されて、次から一層質の高い行動が取れることだ。この差は少し長い目で見れば決定的なのである。

    最高のセールスマンは最も断られた回数の多いセールスマンであると言う至言はこの場合正しい。それはセールスと言う仕事の特殊性だと言うのは当たらない。研究開発でも、多くのの試行錯誤を経由しないで、一発必中でヒット商品になるなどと言う話は聞いたことがない。

    もちろん致命的な失敗はいけない。それを避けるのは、「判断力」の働きである。が、取り返しうる失敗の積み重ねなくして、一度も傷を負わずに大きな成果を得る道などと言うものは残念ながらないのである。そう言う苦難を少しもいとわない行動を「積極性」が高いと言うわけだ。

    何もみずから行動しない人は、書評を読むように他人の行動を知識としては知り得ても、実はほとんど何も学び得ない。他人の経験から学び得るのは、自分も程度は別にして、似たような行動を取っている場合である。

    こうして、当初は、人目に立ちたいと言う程度の積極性であっても、やがては自分と組織を衰退からしっかり守るためのものとなるのである。

    もちろんいくら経験をしてもそれに学ばない人もいないではない。しかしそう言うことを繰り返すと、もはや積極性そのものがやがて全く通用しなくなってしまうだろう。

    あるいは、いわゆる悪い意味でのパフォーマンスとして、擬似的なイニシアティブ行動を取る例がないとは言えない。そのあとの地道なフォローアップ活動を遂行する意思がないのに、人の注意を引き評価を高めるために、あたかも進取の精神を謳い上げるような場合だ。そう言う積極性をながめることを楽しまない人は少なくないだろう。が、そう言う行動は、実は誰しもわかっているので、あまりここで論じる必要もないとは思う。

    ただし、正確にいえば、そのような場合であっても「積極性」は少々評価してよい(議論の呼び水にはなっているのである)。が、他の能力要件が足りないとされることが少なくないだろう。たとえば、はなばなしく花火は打ち上げたがその後の具体的構想が何もないなら「計画組織力」を欠く。言ったはいいが、うしろを見たら誰も着いて来ていないと言うなら「統率力」が足りないのだろう。気に入らない事柄に、ひとつ瑕疵を見つけたからと言って何もかもに多重に減点するのは、典型的な「ハロー効果」というもので、フェアーではない。能力要件体系は、それを行動ごとに正確に区分けするためにある。

    「そういうことは、いつもいっしょにいるからわかるので、2、3日のアセスメント研修でそんなことがわかるのか。わからなければ、そうしたパフォーマンスに幻惑された評価(アセスメント)の妥当性に問題が残るのではないか。」

    などとよく聞かれる。わかる理由を、分析的に述べようとすれば紙数はいたずらに増え、読者は興を失うだろう。もう一度言うが、そんなことは少しばかり組織の中で人間関係にもまれた経験がある人なら誰にもわかるのである。それがわからないようでマネジメントの先生など1日も勤まらないと言う理由がいちばんわかりやすいだろう。

    ついでに言えば、私も含め、私が活用するアセッサーに組織経験がない人と言うのはいない。人に使われ、人を使い、人と競争して勝てば少しは良い気分になり、負ければ嫉妬も浮かぶ。すばらしい職務機会もあったかも知れないが、とんだくだらない仕事もさせられたこともある。組織経験とは、ありていに言えば、そう言うことだろう。だからよその団体のことまでは知らないが、私の場合にはそうした経験が活きている。

    むしろ重要なことは、私も含め、世の上司の、そのようなくすんだ積極性ではない、若芽のような清新な積極性に対しての態度だ。「あいつは前向きでいいじゃないか」となかなか言わないものだ。それよりも「あいつはまだ未熟なのになまいきだ」と言って、せっせと他の欠点を探す確率のほうが一般にずっと高い。これは本当に気をつけないといけない。これは、何十年もマネジャーの方々と研修そのほかのさまざまな場面でごいっしょすると、自分も含めた上司の「習性」と言うより「通弊」がよくわかるから言っている。人と言うものはやっかいで、自分と同程度に相手が苦心惨憺して来ないと認めたくないわけだ。それと積極性とは何の因果関係もない。

  • その27:18の標準マネジメント能力要件…活動性

    年度末の繁多のため、この稿がすっかりお休みになってしまった。読者の皆様におわび申し上げたい。

    今回以降しばらくの間、標準18のマネジメント能力要件の内容を述べる。

    その第一は活動性。これはどう考えてもあらゆるマネジメント活動の原点である。エネルギーが感じられない言動に他人が影響されると言うことは起きない。また一定のエネルギーを注ぎ込まなければ、物事が結晶して果実となることもない。

    体力、気力旺盛な人は、この活動性には資質的に恵まれていると言える。そうしたエネルギーに富んだ人の行動が、活動性の高い第一の典型である。歴史に名を残した人物にはこれに恵まれた人が多いことは言うまでもない。

    と言って、エネルギーに恵まれた人が誰しもそれを有効活用しているかは全然別問題である。いつも最後のがんばりでどうにか帳尻を合わせている人もいるかも知れない。そういう人は、活動性は高くとも「計画組織力」が苦手なのだろう。逆にあまり考えずに膨大な分析に真っ先に取り掛かったが、多大な時間をロスしてから実はむだなことをしていたと気づかされる人も時にいる。これは活動性は高くとも、「判断力」が不足した。自分が体力気力に恵まれた人の中には、つい長時間の活動が苦にならないから、きっと誰しもそう言うものだと思い込むくせを持った人もいる。そう言う上司を持っては部下はたまらない。こうなると「感受性」「人材の活用」も少しあやしくなるかも知れない。

    もう20年も前だが、あるアセスメント研修の終わりぎわにアセッサーミーティングを行った。これは各受講者のプロフィルや評定を確定する専門アセッサーどうしの会議である。私が担当したある受講者は、部長兼務の役員だったが、ともかくバイタリティがあり、熱心そのもので、諸事飽くことをやまない。よって、その人の最強点を「活動性」としたら、深く尊敬していたその時の上席のアセッサーがなかばつぶやくように言った。

    「活動性ですか・・・・・役員になっていつまでも活動性で仕事をしているって言うのはどうかな・・・・・」

    役員にもなるような人は、バイタリティがあるからなる。たいていそうだろう。しかし、能力要件は18あって土俵が広いのだから、いつまでも活動性だけが表看板では仕事の進め方が狭くなるかも知れない。どうか活動性に恵まれた人は、3年後、5年後には、別な強みのほうが自分の看板になるよう工夫して欲しいものだ。逆に言うと活動性だけがたよりの人は少しでも体力が落ちるととたんに輝きを失ってしまう。私はその意味でこれは入り口能力要件だと言っている。

    エネルギーそのものは資質に近い。それが少し不足している場合には、どんな補い方になるだろうか。たとえば有名な例では、松下幸之助氏は健康に恵まれなかったことがよく知られている。と言って、氏の活動量が少なかったなどと言う人は誰もいない。虚弱な体質なのに物に憑かれたように事業を進めることができたのは不思議と言えば不思議だ。それも少々な成功ではない。日本を代表する企業グループを育て上げたのだ。これを詳しく書き出すと、氏の一代の伝記の模倣になってしまうからそれはやめておくが、ここで言いたいのは、そのように資質恵まれない人でも、工夫次第で活動性を高めうると言うことだ。

    工夫は、突き詰めて言えば執着と集中だろう。

    松下幸之助氏の場合の執着は、深い深い使命感に裏打ちされたものであった。私たちは、氏のように「産業報国」と言う使命感までは持てないかも知れない。しかし、少なくとも家族や大切な部下の生活を守ると言うような使命感は持てる。だいたいにおいて、始めから生活がかかっていない人の仕事ぶりは手ぬるく、粘りを欠くものだ。どうあってもキャリアを上げてゆきたいと言う執着は、最近は中国人韓国人の後塵を拝する感もするが、それでも実際はまだ多くの日本人が持っているだろう。そうした粘り強い仕事ぶりを続けていればやがては生活のためと言うより、自分ならではの仕事ぶりやプロセスには執着を持つことができる人は少なくないだろう。

    もうひとつは集中力。高い成果をあげ続ける人は、節目の時を心得ている。そしてその節目の時に力を尽くす。日経新聞の経済人の「私の履歴書」を読むと、ああした方々には、不思議なくらい、2度や3度は、ここが勝負どころと、寝食を忘れて打ち込む時が出てくる。たとえば日清食品の創業者安藤百福氏が、毎日わずかな睡眠時間で数カ月を過ごし、ついにチキンラーメンの開発に成功したのは、47才の時である。昭和30年代前半の47才は今と違って、だいぶ引退も近づいた年令感覚だし今日のように快適な生活環境の背景などないから、凄まじいものだ。と言っていくら安藤氏でも、ずっとそんな過ごし方をしていたらあのようなご長寿を保てたとは思えない。活動性が高く保てる人は息の抜きどころも心得ている場合が多いのである。

    ちなみに、その創業者安藤百福氏を継承した二代目安藤宏基氏の「カップヌードルをぶっつぶせ!」は、マネジメントの勉強のためには誠に活きた題材を数多く提供していただいている。中でも面白いのが、前半百ページほどである。そこには、けた外れたご力量の創業者にして実父の百福氏と、著者とのなまなましいやり取りが描かれているからである。

    百福氏の「私の履歴書」は経済人としては、例外的なくらい部下が登場しない。よほどご自身の力量、エネルギーをもって成し遂げた割合が高い証拠でもある。ご本人も、自分は現場の人間で組織だったことに向いていない旨を述べている。氏の七転び八起きの人生は、ふつうの人の幾百倍も活動性、ストレス耐性、独自性に満ちている。

    私たちは、安藤氏のまねはできなくても、ここが商品開発やプロジェクト成功の切所だと言う節目には時として巡り合う。そうした時にがんばりぬくかどうかは、資質と言うよりは自分の意思、つまりはマネジメント行動の問題に近くなる。その時々の勝敗は運の要素にも左右されるが、そう言う折々に自分の力を出し切らないと、まず次の機会が巡って来なくなってしまう。

  • その26:マネジメント能力要件からみる平清盛 その2

    さて平治の乱を乗り切ってしばらくの間、御所の内で、清盛は「あなたこなたしける平中納言殿」とあだ名された。つまり、院、朝廷、公卿のあちこちに気を回し、いっしょうけんめい政治的調整を図る日々が続いた。そしてどんどん位階は出世した。やはり「柔軟性」、そして「活動性」が相当高いとみて間違いない。あたかも平治の乱後は、清盛は独裁権力を得たかのように言われる時があるが、それは全く後世のイメージから来た錯覚である。せっせと二条天皇、そして天皇崩御ののちは「治天の君」となった後白河上皇に、こまめに奉仕した。この柔軟性は「組織感覚」と言い換えてもよい。

    ところで、十訓抄(じっきんしょう)に出てくる清盛の有名な逸話がある。朝早く目覚めたら、宿直(とのい)の郎党がうたた寝をしている。清盛は、彼を起こさないようにそっと寝室を立った。武家の棟梁の護衛である。普通なら手打ちにされるか少なくとも殴打されてもよい場面である。このように、弟、子息、郎党ら一門の人々をことのほかかわいがった様子は随所に伺える。彼のいちばんの持ち味は実はこうした「感受性」のようである。

    ブログに以前書いたが、後に平氏の棟梁を継ぐ次男宗盛は、武将としてはことのほか不決断な人物で、実は出入りの職人の子を、男の子に恵まれない正室時子がもらいうけてきたのだと言う風聞が当時からあった。これを聞くや清盛は、宗盛は間違いなく自分の子であり、そうした風聞を語る者は以後厳しく罰すると言った。これも深い「感受性」であるし、ここまでくれば「統率力」でもある。

    多くの弟や血縁者を次々殺していった頼朝と較べると違いがよくわかる。

    宋との貿易により巨利を得ようとしたのは、門閥貴族にはない「積極性」「計画組織力」が見て取れよう。これも若き日に海賊討伐を進め、西国の国司、要職を兼ねた頃からずっと積み上げて進めて来たものであり、営々と今の神戸港を開き、福原の新都を建設した。「統制力」「活動性」もまず高い。清盛の活動性は、源氏武者と違って、戦働きよりもこうした面に出る。まさに脂がのりきった。

    さて、あなたこなたして一門の春を築いたが、そのおこぼれに預かれない側には不満と嫉妬が宮中に黒く渦まいた。1177年、後白河法皇も加わった平氏転覆の密謀が発覚した。鹿ヶ谷の変である。今回も、こうした陰謀がだいぶ進んでから知るなど、やはりリスク感知と言う面においての「判断力」は弱点なのだろう。と言うことは、存外にお人好しで人を信頼するたちであったと言うことでもある。特に後白河法皇には、「これほどお尽くし申し上げてきたのに」と、本当に悔しかった。怒りのあまり法皇を幽閉しようとした。これを諫めたのは、この時既に家督を継いでいた嫡男重盛と言われる。

    この時の親子の対面は、平家物語の中でも最も有名な場面のひとつである。法皇の身柄にまで事が及ぶのを見過ごすことは、「親(清盛)に孝ならんとすれば君(法皇)に忠ならず、君に忠ならんとすれば親に孝ならず」と名句を吐き「かくてそれがしの進退はきわまった」と重盛は涙ながらに父の暴挙を諫めた。最後にはどうしても法皇を押し込めると言うなら「この重盛の首をはねてから父上のお好きになさればよい」と言った。清盛は屈せざるをえない。

    どうも義母、池禅尼に頼朝助命を迫られた時と言い、このたびと言い、まなじりを決して迫る相手に困惑しかねて「わかった、もうよい」と言わされる場面がこの人の生涯には多い。活力旺盛で頼もしい棟梁だが、一族へのごく凡夫らしい情愛からつい失敗をする。このたびも武士の権力の構築と言う面から見れば不徹底な行動に終わった。「決断力」がやはり得意とは言えないのである。後白河法皇の平氏に対する行動は、平氏に支えられた院政を維持してきた前後関係から公平に見て、とうていほめられたものではない。

    実際、この会話の40年数年後、やはり乱を起こした後鳥羽上皇(後白河法皇の孫)を、鎌倉幕府が隠岐島に流して生涯ついに都に戻さなかったことを不敬のきわみと言って批判する人はむしろ少ないだろう。そうしたバランスを見ないで清盛の意図や行動を評するのは不公平であろう。

    こうした平家物語の会話内容の史実性の程度の検証は学者の範疇として、ここではっきりわかることは、息子重盛のほうがずっと雄弁で態度が立派であったことだ。清盛はどちらかと言えば、言説が非論理的で一貫しない。つまり「コミュニケーション能力」や「説得力」は息子の方が上だった。しかし、事件処理の全体を通じての政治的着眼は、清盛の方がずっと現実的で、つまり「判断力」は父の方が上だったと私は思う。重盛の言動は、文学的には立派でも、何千何万の一族郎党の命を預かる者の判断とは言い得ない。今風に言えば「ひとりええかっこしい」と言うものに見えるがどうだろうか。

    しかし清盛は、けむたいながらもこのしっかり息子を頼りにしていたことは間違いない。その重盛は2年後に親より先に亡くなる。その後さらに後白河法皇に、政治的に冷酷な仕打ちを続けざまに受けて怒り狂った清盛は、ついに法皇を幽閉する。これは、一般に暴挙とされるが、評価はさほど単純にはできないのは上述の通りだ。武士の至高権力を普遍的に確立する結果が伴えば、たいへん優れた「判断力」、「決断力」だった言われたのだろう。しかしまたしても不徹底だった。

    そして誰しも免れ得ない老耄の陰が深く差し込んできた。娘徳子の産んだ幼児の安徳天皇を立てて溺愛し、一門だけで高位高官を独占して、相当独善的な印象が濃くなっていった。こうした晩年には、上述のこまやかな「感受性」ははげ落ちていってしまったようだ。そして、藤原摂関家のように、結局はあくまで朝廷内部に自らの権威と勢力を保持しようとした点においては「独自性」(自主独立性)が頼朝より劣ると言うのは、しばしば言われるところである。

    赤直垂(あかひたたれ)の禿(かむろ)と言うわらべを京の街々に放ち、平氏の悪口を言う者をいちいち捕え、その居宅を打ち壊したりしたのは、壮年期までの彼には考えられないような「柔軟性」「感受性」の喪失である。こうして平氏の繁栄にのみ心を奪われて地方武士の利害をすっかり忘れ、「統率力」はみるみる失われた。

    1180年、頼朝を含む各地の反平氏勢力が旗揚げをする。手を焼いた清盛は、その年の暮れ、近畿の反対勢力の代表でもあった南都(奈良)の寺院に攻撃をかけた。折からの冬の季節風にあおられ、聖武天皇の天平の御世以来の東大寺大仏殿を始めとする、多くの大寺院の伽藍が焼け落ちてしまった。むろん僧俗の死者無数である。直接攻撃をしたのは、清盛の四男重衡である。が、攻撃命令はむろん清盛がくだした。凱旋した重衡に「大仏殿までは焼かずに賊徒をこらしめることはできなかったのか」と益のないくりごとを言ったようだ。こうした事後評価は今日のまずい人事考課といっしょで、まったく「説得力」を欠く。

    この一挙は、当時においては巨大であった寺社勢力と2度と妥協できない関係に陥ることとなり、このばくぜんとした南都攻撃命令においては、若き日に調整の人だったことが信じられないくらい情勢に対する「分析力」やそれに基づく「計画組織力」が落ち込んでしまった。老いが深い。「人をやたらと殺傷せず名刹伽藍には火をかけるな」と言うなら、若い重衡には当初から厳命しておかなければならなかった。あの飛鳥時代の蘇我入鹿ですら、聖徳太子の嫡男山背大兄皇子を討ち果たした時に、兵達に法隆寺にだけは指一本触れさせなかったのだ。

    清盛が急病に倒れ亡くなるのは、この2か月あまりのちである。平氏の滅亡を見ずに黄泉路に旅立てたのはまだしもの幸運であろうか。

    以上が、清盛の世人に広く知られた事蹟、行動に基づく私流のアセスメントである。アセスメントの全体像の半分である行動の評価の面を、てっとり早くご理解頂くため、このような稿を著した(もう半分は、自分で気づいて動機づけ、行動を変えることである)。

    人生の時期によって異なるとしても、総括すれば、清盛の強みは、判断力、柔軟性、感受性であり、弱みは、決断力、説得力、ストレス耐性と言ってよいだろう。読者のご意見があればお伺いしたい。

  • その25:マネジメント能力要件からみる平清盛

    たわむれに、前々回にご登場頂いた今年の大河ドラマの主人公平清盛を、この18能力要件でもう一度評してみよう。よく知られている彼の後半生の行動と事実から採取したい。

    1159年暮れ、42才の清盛は、熊野詣に出かけた。そのすきをねらって、都で藤原信頼、源義朝が京で挙兵して御所を占拠し、多くの役人、女官を殺傷した。平安遷都四百年の中でこんな蛮行をした者はいない。平治の乱の始まりである。むろん清盛の留守をねらっての挙兵である。

    南紀でわずかな供しか連れていない清盛は窮地に立った。清盛は日頃から、信頼の無能や義朝の粗野を軽蔑していたことは間違いない。が、その仮想敵が、先例なしとは言え、このような暴挙に出るとは読んでおらず、のんびりと一族で物見遊山をしていた。だから、リスク感知という意味での「判断力」は少し甘かったかも知れない(結果的は相手が自滅し、彼の権勢が築かれると言う幸運を招いた)。このあと、取って返してどうにか堺まで戻ってきた清盛は、情勢を掌握しかねた。敵の威勢を恐れる余り、自信なさげに「四国にわたって兵を整えたい」と言った。これは武将としては、「説得力」や「インパクト」も不足気味だった。

    そう言えば、この3年前の保元の乱の時も、うっかり日本一の豪傑源為朝(鎮西八郎)の持ち場に攻めかかってその強弓に射すくまされ、どうせ勝ち戦なのだからと別な持ち場に「転進」したことがある。いかにも清盛らしく勇気と言う意味での「決断力」は欠いているように見えるが、この場合はむしろ「柔軟性」に富んだ態度であると評価するほうが至当か。為朝ひとりがいくらがんばっても、勝ちはこちらだから、きちがいじみた豪傑を相手に大切な家の子郎党を損じてもつまらないという「判断力」もなかなかしたたかかも知れない。こうしたちゃっかりした処世が、清盛のいちばんの特色である。今日サラリーマンをやっても立派に勤まりそうだ。

    つい少し前で、私は、同じ判断力でも、リスク感知の面はやや弱いと言った。同じ人物が、同じ能力要件において正負両方の行動が現れることは少しも珍しくなく、大切なことはその人物の行動を総合一貫して捉えることである。

    しかし、さて、堺でのことだが、「今回はここで逃げては平氏も終わりだ、覚悟を決めて都に上るべきだ」と言う息子や弟の進言を結局は聞き入れて、上京を決心した。「決断力」はあまり得意とは言えないが、それを「人材の活用」で補っていたようである。それでも清盛は都に行くことがよほどこわかったと見える。なぜそんなことが私にわかるかと言うと、彼はこのとき堺の大鳥神社と言う古大社にいて、歌を一首詠み、その歌碑が残っているからである。

    かいこぞよ 帰りはてなば 飛びかけり 育み立てよ、大鳥の神

    今は、かいこ、つまり幼虫のような平氏であるが、京の都に帰ったあかつきには羽化した蝶のように空かけて飛べるように、大鳥神社の神よ、育んで欲しい、と言う意味である。都にはなみいる源氏の荒武者達が待ちかまえている。その恐ろしさを何とか打ち消そうと必死な思いがよく伝わってくる。そういう意味で、「ストレス耐性」は、武将としてはさほど強い方ではなかった。

    しかし、それにしても何とまずい歌だろうか。かたわらにいたに違いない、嫡子重盛も、教盛、頼盛などの弟たちも、思わず下を向いて笑ったかもしれない。和歌の巧拙はマネジメント能力とは直接関係はないが、どうみても「創造力」があるようには思えない。そう言えば、この平氏一門は、歌舞音曲と和歌などに優れた人材を輩出したが、清盛はその経済的政治的基盤を整えただけで、自分はそうしたものにとんと関心が薄かったように見える。創造力はやはり薄いか、少なくとも恵まれてはいない。

    まずい歌を、不安を隠せぬ正直な表情で、と言ってなかば虚勢ながら「おれの命はおまえたちに預けた」と言う態度を示されて、むしろ「こんな心のおやさしい棟梁だからわれわれが盛り立ててゆかないと」と結束を高めたかも知れない。その意味では、結果的に「人材の活用」もしくは「統率力」に転化したと言える。少しお人好しで臆病で、しかし、ちゃっかりと実利を取って、それを気前よく配分し、血縁者や家来を大切にする壮年までの彼は、よく人に慕われた。

    後に源頼朝は、大江広元や三善康信といった京にいてはうだつのあがらない下級公卿のテクノクラートを現実政治に大いに活用し、また梶原景時のようなある種の毒物も、その能力面だけを見事に使いこなした。こうした組織的で冷徹な人材活用なら頼朝のほうが一枚上手だ。清盛の人材活用は、当時としてはきわめて普通だが血縁姻戚が多く、情感のこもった活用である。そう言う包容力、つまり「統率力」は清盛が上だ。頼朝の特徴は、何と言ってもそうした情感を排して統治機関になりきった「統制力」の方にある。

    さて、この時実は、敵の信頼は決定的なミスをする。義朝の長男義平が、「自分が阿倍野(大阪府)まで進み出て、清盛の首を挙げてまいろう」と進言したのを退けたのだ。信頼にとって絶対に生かしてはおけない仇敵はまずは信西入道だった。まっさきにその信西を討ち取った以上、「清盛も自分に従うならそれでよい、事を無理に荒立てなくてよいのだ」。恐るべき「判断力」の甘さであった。清盛が、信頼、義朝コンビに最終的に従うわけがないではないか。

    それにしても、上記の鎮西八郎為朝亡き後この時点の日本一の豪傑は、この鎌倉悪源太こと源義平である。わずか数百でも完全武装の兵に待ち受けられたら、まず間違いなく義平の言う通り、清盛は、義平の薙刀のさびとなっていたであろう。ここで、少しはまともな武将なら、悪源太義平のように考えるのがふつうである。従って四国に逃れたいと言った清盛の「理解力」、情勢「分析力」、状況「判断力」は、実はまず普通かそれ以上だったのである。重盛ほかの平氏一門の人々は、清盛ほどは責任がないから、積極策を主張した。それをついに容れて好結果を産んだ。人間の運命は古来こうした運命の分かれ目で、理知の判断を超えて怯懦を避けた時に光芒を得る。「決断力」は得意でないが、行動としては不決断ではない。

    清盛は京都に戻ってからは、恭順を装い、信頼に家の子郎党の名簿を差し出してそのあかしとした。信頼はまんまとだまされた。その上で、警備のすきをついて敵の「玉」、すなわち二条天皇を奪取し、本拠地六波羅に迎えた。いろいろな物語ではこのあとの合戦開始以降が華々しいが、実質の勝負はこれでほとんど着いた。天皇を擁した側に弓引いて勝った例など日本の歴史に一例もない。日和見をしていた多くの武士が、清盛側に着いたことは言うまでもない。信頼の性格的な甘さを読み抜いての策略であり、機に応じての「柔軟性」、物事の先を読み通す「判断力」、術策をやり抜いた「統制力」はいずれも見事である。どうやらリスク感知が少々甘くとも、清盛の判断力は総合的には相当高いと言ってよさそうだ。

    それでも、源氏勢は、天皇のいなくなった御所から、清盛の六波羅館まで攻め寄せてきた。驚いて思わず兜を前後さかさまに着けたと言う逸話はこの時のものである。その真偽は別にして、やはり「ストレス耐性」がさほど強くない清盛をよく物語っている。この時清盛は「背後の奥の間に主上がおわすのでご無礼ゆえかぶとをうしろ向きにかぶったのだ」と言ったという。この機知も「柔軟性」の一種である。

    戦そのものは、数ではるかにまさった平氏が勝つ。例の悪源太義平は、戦に敗れたあとも単身清盛をつけねらい、彼ひとりを捕らえるために清盛自身ずいぶん大騒ぎをする。やはり「ストレス耐性」は苦手だ。義平はむろん捕らえられて、何の思案もなくすぐ斬られたが、三男頼朝は助けられた。人の運とは不思議である。

    前々回述べたように、継母に押し切られ、頼朝を助け、他方、常磐御前の美貌に魅せられてその子牛若(義経)など三兄弟を助けてしまった。これは、「決断力」が足りないと言えば一応その通りだ。が、何しろ、ああした壮大な歴史絵巻上のかたき討ちは、この清盛と源氏兄弟がわが国で最初だから、それを先々まで読み通せと言うのは無理かもしれない。つまり当の本人にはそれほど重大な意思決定だと言う意識がなかったように思える。だからマネジメント能力を評価すべき行動としては除外したほうが、本当は公平とも思える。よって、ここで評価すべきは、マネジメントではなく、情けの厚い清盛の人柄だろうと言うのが私見である。しかし、結論は一応「通説」に従って、「決断力」の不足としておく。

    長くなったので、平治の乱後の続きは次回としたい。