カテゴリー: 人材アセスメントの基礎

  • その24:マネジメント能力要件

    さて次に、体験学習としてのアセスメントの進め方は以上述べた通りである。深いふり返りをもたらすには、自分の行動に自分で気づき、同僚間で相互にフィードバックをするとよいことを述べてきた。そうした事実そのものが雄弁に何事かを物語っているのだから、それを示すだけできわめて大きなインパクトはある。ただ、その上でさらに、そうした行動を取った個々の事実が、マネジメント能力のどのような部分のどの程度の過不足を示しているのかが明確になるならいっそう便利であり、有用である。

    ここまでマネジメント能力とかリーダーシップとかあえてばくぜんと言ってきたが、そういう意味で、ここでそれをばらばらにする必要が生じて来たようだ。マネジメント能力要件体系は、この必要から生じた。私のところでは、前述した名古屋大学大学院の若林先生に監修していただいた18の標準能力要件体系を用いている。もちろん標準であるから、お手伝いを依頼された組織に固有のマネジメント・コンピテンシー等があればそれを用いることもある。

    人事制度論としては、実は、問題はそうした体系の設計方法の巧拙にあるのではない。いまどきは情報も豊富だし、この手の仕事に任じるスタッフも昔よりずっと深く勉強している。だから奇をてらってわざとでもやらない限りは、そう的はずれなものはできないのである。

    真の問題は、会社として常にそうしたものを、本気で浸透させようとしているかどうかなのである。標準でも、オリジナルでも、そう大きく趣旨が異なるわけではない。たとえば、判断力や決断力を例にとると、その内容を何と表現するかは別にして、マネジャーにそう言うものは必要ないと言う組織にはまずお目にかかったことはないからである。マネジャーとして求められるマネジメント能力は、かなりの程度まで普遍的なのだ。だから、小さな違いをいちいち論じるよりも、大きな趣旨が自社の管理職、専門職、リーダー候補達に、深く浸透しているかどうかこそが問われれるべきことがらである。人材アセスメントの研修を行うこと自体が、会社として、本気で浸透させようとしているひとつの大きなあかしとなるのである。

    そういう前提なので、私のところでは、ごく普通に個人特性、対人影響力、業務遂行能力の3本立てにしている。

    個人特性と言うのは、多少資質に近いものも含んでいる。行動科学で言うリーダーシップの特性論の系譜を継承する用語でもある。と言って努力によって開発可能な範囲も充分ある。と言うより、企業変革のカリスマ型のトップマネジメントになるのだと言うことでもない限り、通常必要とされる範疇は、啓発による習得が可能である。活動性、積極性、ストレス耐性、インパクト、独自性の5つである。

    この個人特性がベースになって、次の局面では、人に影響が与えられなければ仕事は進まない。だから個人特性の上に対人影響力が乗っかっている。ここになると、資質よりも、たいぶ習熟可能なスキルが入ってくる。状況は千変万化だが、効果的な対人行動はある程度まで類型化できるし、それは、経験、書物を通じて学べるからである。この範疇には、感受性、柔軟性、コミュニケーション能力、説得力、統率力の5つがある。

    さらに、具体的に問題解決、意思決定をするとなると、他人に影響を与える前に、広く着眼し、深く考え、自分の内面と向き合い、決心しなければならない。業務遂行能力である。これは、理解力、計画組織力、統制力、人材の活用、分析力、創造力、判断力、決断力の8種類である。

    以上で18種類である。 

    これらは相互に掛け合わさって最終成果になる。どんなに立派な分析力を持っていても説得力がなかったら実際の効用にはならないだろう。どれだけインパクトと積極性が強くても、まるきり計画性がなければ周囲を振り回すだけで実を結ばない。そう言う意味では、本来マネジメント能力要件と言うのは、立体的構造的に掌握されるべきものである。しかし実戦上はそれでは不便なので、以下では並列的に説明する。

  • その23:ふたたび、性格と行動の区別

    ■ふたたび、性格と行動の区別


    少々閑話休題をゆるされたい。

    前々回、性格と取るべき役割行動が混同されることは、マネジメント上、なるべく避けた方がよい旨を書いた。日本の歴史の中で、この面の最大の失敗をしたのが、今年の大河ドラマの主人公である平清盛であったことを思い出した。今テレビで放映されている清盛像は、まるでのちの織田信長や豊臣秀吉のような武士による天下取りの先駆者であるがごとく、勇ましく、行動的で、実に荒々しい。清盛は後の言葉で言う統一された天下取りを指向したことなどなかったろう。院、朝廷、摂関家、有力寺社、力量ある地方武士、宋の大商人等の一切の重要関係者とうまくやってゆく中で平氏がイニシアティブを取りたかったのだと考えられる。中世と言うのはこうした混沌、多元、多層が特色で、ある面ではむしろ戦国期より今日のマネジメント状況に類似する。  

    まあ、ドラマのストーリーは脚本家の自由だから置いておくとして、史家の論ずるところの共通項の清盛は、そのように、慎重で熟慮に富み(つまり勇敢とは言えない)、バランスの取れた判断をする一方で、しっかり物事を積み上げてゆく人物であったとされる。もっとも、藤原氏と同様、安徳天皇の外戚となった晩年の清盛には以上の評は少しあてはまらなくなっているかもしれないが。

    つまり、何事も力づくでの解決を図り柔軟性の足りないライバル源義朝などに比したとき、今日ふうな意味でもマネジメント能力がとても優れていたと言ってよいと思う。その清盛の最大の失敗が、平治の乱(1159年)で勝利した後、敵将義朝の嫡男頼朝の命を助けたことであるとしばしば言われる。のちに頼朝が平氏を滅ぼすことになったのは言うまでもない。

    この助命の経緯も、実に謎めかしく、このあと大河ドラマがどう描くか楽しみではある。が、大失敗を論じる前に、清盛が、かなりきわどい窮境であった平治の乱で勝ち抜けたのは、彼の政治力、マネジメント能力に負っている面がとても大きいことを見逃してはならないだろう。何しろ大きく先手を取られて、御所と天皇、上皇を先に義朝側におさえられてから、策と手順を尽くしての逆転勝利であったのだ。

    だから、戦いが終わって捕らえられた頼朝を当然斬るつもりでいただろう。それは当時の価値観として非情とかそう言うことではなく、ごくあたりまえなことだった。しかし、物語によると、ここで清盛の継母つまり亡父忠盛の後妻の池禅尼(いけのぜんに)が、頼朝を見て「自分が産んだ亡き一子とよく似ているから、供養と思いどうか助けてやっておくれ。」と言ったことになっている。その一子は、清盛にとっては母違いの弟にあたり、亡父もこの弟をとても愛しかわいがっていた。生きていれば、どちらが総領になったかわからなかったと言われる。むろん清盛は、「母上、武門の子は長じれば仇をなします。怖いものですよ」と言ってとりあおうとはしなかった。ところが、池禅尼はヒステリーを起こし叫んだ。「清盛殿は継母だと思って、わたしを軽んずるのですね。ああ、亡き殿(忠盛)がおわせばこのようなはずかしめは受けぬものを。」と袖を濡らせてわんわん泣き出したからたまらない。手に負えなくなってしまった。

    そして結局、頼朝を助命した。「こどもひとり助けたところでさしたることもあるまい。継母の願いを無視して、14才のわっぱを斬ったのでは、世の聞こえも悪かろう」と自分に言い聞かせた。こうした家族、一族郎党との情実、恩愛を大切にし、世間の風評をしっかり気にかけるのが、源氏一族にはない清盛の大きな長所とされる。他方、現代の価値観に照らして古代中世の人物の行動を評することもまたあまり適切ではないかもしれない。清盛の平安末期の「マネジメント」としての立場と役割は、ヒューマニズムや博愛社会の実現ではなく、どこまでいっても平氏一門の繁栄とそれを通じた朝廷と世の平穏安定だったはずである。鴨川原や羅生門に餓死者や行き倒れ人が累々重なっていたこの時代、それが精一杯だ。しかし、こどもひとり助けたために、20数年後、彼の妻、子息、その他の多くの一族は、一ノ谷や屋島で討たれて散り、最後はことごとく壇の浦の藻屑となって滅び海底に沈んだ。

    そう言う意味では、一代の意思決定を間違えた。あるいは正しい判断(頼朝を斬る)にいったん至りながら、継母の反対と言うきわめて家族的な理由で決断がつかなかった。つまり彼の優しい性格、好戦的ではない穏やかな人柄が、この場合、当時の武士としはごく普通の措置を取らせなかった。現に、清盛の轍を踏むまいと、酷薄な話だが、このあと敵将の忘れ形見を許した武将など誰もいない。

    こうした清盛の性格には、私を含め、あたたかみを感じる人は多いだろう。なかなか性格と行動を区別するのは難しいことだ。そしてこうした運命の岐路ともなるような場面で、いっそう、人の性格と言うものは表面に出てくるからやっかいである。

    六波羅に行くと今でも「池殿」と言う町名がある。池殿とはこの池禅尼のことである。きっと清盛が彼女のために建てた亭があったのだろう。800年を経て地名に残ると言うことは、やはりそれなりに立派な屋敷だったに違いない。継母思いな、あるいは浮世の当然の情義として、亡父の愛した後妻に礼を尽くした清盛であったようである。

  • その22:問われるのは行動である③動機と行動の区別

    ■問われるのは行動である③ 動機と行動の区別 

    性格のもうひとつ外側には「動機」がある。動機は、行動に直接つながる接点である。その「動機」もまた、気質、性格の影響を受ける。内向的な性格の人は控えめな行動を取ろうと言う動機となり、外向的な性格の人は、積極的な行動への動機に結びつきやすい。ただし、前述のように、マネジメントを行う人は、性格のままの行動への動機でよいかどうかを、判断しているのである。

     
    この動機も、マネジメント行動との関係において、考えさせられる点がある。

     
    例によって面接演習もしくは日常の様子を思い浮かべてみよう。あなたが、能力はそれなりにあるが、性格的に少々やっかいな部下を持っていたとする。いろいろと日常話し合うこともあるだろう。意見が合わないこともあるに違いない。ともあれ、あなたはその部下に少しでも上司としての考えを理解してもらいたいし、その上で、一層意欲を持って仕事に取り組み成果を挙げて欲しいと思っているだろう。その思いがここで言う「動機」である。もしもこの時、似たような立場に置かれた同僚の管理職が、「日頃から気にいらない男だが、よい機会がめぐって来たので、ここはひとつがつんといためつけてやろう」と思って臨んだとしたら、あなたはどう思うだろうか。少なくとも感心はしないだろうし、あまり好ましいとは思わないだろう。

    誰しも、部下の意欲と能力の向上を願う。つまりマネジメントを論じる時は、その濃淡は別として、動機はほぼ適切であると言う前提に立たないとあまり話にならないのである。もしも明確に否定的な動機を持って臨めば、マネジメント以前の話になってしまう。かりに部下のやる気をなくさせてやろうと思って面接場面に臨むのであれば、それはマネジャーとして基本的な物の考え方(つまりは動機だが)が現時点では欠落していると言われてもしかたないだろう。

    まあ、そう言うことはまずあまりない。目の前に部下がいるとする。ついついやりあっているうちにカッカとしてくることはあるかもしれない。それは文字通り性格的な面が無意識に作用してそうなる。まあ、あまり適切ではない行動と言うことで、否定的な動機と言うほどではない。しかし、温厚沈着で決して事に臨んでカッカと感情的にはならない読者でも、時には天を仰いでこう言いたくなったり、実際に言ったことはないだろうか。

    「君ね、ぼくはそんなつもりで言っているのではないのだよ。どうしてわかってくれないかなあ・・・・・」

    つまりいくら言っても部下に上司の意図が浸透せず、適切な行動につながっていないようだ。私もこう言いたくなる上司の気持ちは痛いほどよくわかる。しかし、ここはまったく第三者の目から、つまり他人の目からこの情景をながめてみよう。そして端的に問いたい。この情景で、いったい悪いのは上司なのか部下なのか。

    「私はそんなつもりで言ったのではないのだ。」

    と言いたくなる気持ちは私も上司のひとりとして痛いほどわかる。その「つもり」と言うのがここで言う「動機」なのだが、それは上述のようにみな、基本は同じ方向なのである。動機がほぼ同じなのに、部下がどれだけやる気になったかと言う結果が時に厳然として違うのである。そうである以上、その結果を受け止め、なぜそうなったかを考えることが、マネジメントを行う者にとって大変重要なのだ。「動機」はさして変わりない以上、つまりは「行動」のありようが違うからそうなったのである。マネジャーは、動機ではなくて、結果と行動が問われるのだ。
     

    そう、この情景において、課題は上司の側にあるとしか言いようがない。いかなる時も意図を浸透させる責任は上司の側にあるだろう。このことは体験学習のふたつめの要素のところで述べた。大事な点だからもう一度言う。マネジャーや、リーダーと言うのは、その言葉が関係する人々からどう受けとめられたかがすべてなのであって、そんなつもりでなかった、実はこう言う意味だったなどとあとから言うのは益のないことなのである。

    以上が動機と行動の区別である。

  • その21:問われるのは行動である②性格と行動の区別

    ■問われるのは行動である②性格と行動の区別

    行動でないものの第二は、自分の内面である。内面は、単純に言えば、より内側から気質、性格、社会的性格、動機がある。


    人の行動は、言うまでもないが、その人の気質や性格に大きく影響を受ける。人間の内面のいちばん奥側にある「気質」と言うのは、その人そのものであり、生来のものだから変えようがなく、したがってよいもわるいもないものである。


    もうひとつ外側の「性格」は、一般に幼少期の生活環境に大きく影響を受けて形成されると言われる。が、これも良いオトナになってから今さらコロコロ変わるものではない。さらに外側になると「社会的性格、職業的性格」などと呼ばれるものがある。これは職業や長年の仕事を通じて形成されるいわば第二性格である。学校の先生らしい人、商売人らしい人などとよく言う。サラリーマンの場合は、サラリーマンらしい人でもいいが、その会社の社風、つまり企業風土に大きく影響を受けていることもある。これらは、皆行動の前提であり、行動そのものではない。

    ふつうは、生(き)のままの性格で仕事をしてもうまくゆかない。従って私たちは、愉快ではないがどうにか自分を環境に適応させようとする。本来の性格のまま振る舞っても、仕事が立派に勤まっている人がたまにはいる。お幸せな人と言ってよいだろう。しかし、仕事が変わればもはやそれは通用しない。一生自分の性格に合った専門職を貫ければとてもハッピーである。が、そういう人はごくわずかだから、私たちは好悪にかかわらず物事を「マネジメント」しなければならない。マネジメントを行うと言うのは、きれいに言えば多様なミッションに取り組み、転変常なき変化に適応し、必要な役割行動を取ることである。より平易に言えば種々雑多な混乱のるつぼに我が身を置くことでもある。よって、性格と役割行動とを、なるべく混同させないことが、一般にすぐれたマネジメントの前提であろう。もちろん、卓抜した力量を示す行動の中に、その立派なお人柄がしのばれると言うのが理想の境域である。しかし、なかなかそうはゆかないから、ここでは性格と行動はいったん区別する。単純な例を挙げよう。


    あなたの目の前で、とても不適切不具合な行動を取り、周囲の同僚にその場で迷惑をかけている部下がいたとする。あなたはどうするだろうか。考えるまでもない。注意して即刻やめさせるしかない。そうしないのだったら、上司として必要な、統制力、決断力を明確に欠いていると言われてもしかたないだろう。こんなときに、「自分は、人にネガティブなことを直接指摘するのは好きでないから、しばらく様子を見よう。そのうちやむかも知れない。」などと言う判断はまずあり得ないことである。こう言う状態が、性格と、役割として取るべき行動とを混同した例である。


    逆に言いたいことはすぐに言わないと気が済まないと言う性格の人だっているだろう。しかし、部下が大変な繁忙で混乱している時に、些細なミスを全部その都度その場で指摘して注意していたら、混乱に拍車をかけ、生産性も効率も一層落ちてしまうだろう。これもまた性格のまま行動して判断を誤った例である。


    性格と役割行動の混同とは以上のようなものだ。あえて単純な例を挙げたが、現実には、難しい意思決定の際、私たちが、性格と行動を区別峻別するのは存外に容易なことではない。人は困難な問題解決に直面し、苦しい時ほど、性格に密接に結びついた弱みが表に出やすいからだ。つまり、採るべき道を選ぶより、自分の好悪に従い選択をしてしまう。優れたマネジャーは、そう言う自分の心理状態をいつも自覚している人だと言ってもよい。私は、いつでも自分を殺すべきだなどと言っているわけではない。任務から離れた時、家族や友人と話す時には、自分らしくすればよいのである。しかし役割を与えられたら、それを遂行する時にはそれになりきるのがマネジメントの前提である。そういう意味では、マネジメントは、すぐれた役者、俳優と同じである。

  • その20:問われるのは行動である①結果と行動の区別

    ■問われるのは行動である①結果と行動の区別                 

    さて留意点を踏まえた上で、ひとつだけ研修上の「約束」ごとがありますと言っている。それは問われるのは行動であると言うことだ。

    正確に言えばマネジメント能力が問われるのだが、マネジメント能力と言っても目に見えない。それを可視化するには行動で表すしかない。繰り返すがその状況、節目の場面に最も適切な行動を選び、実行できることがマネジメント能力そのものなのである。

    問われるのが行動であると言うと「そんなことあたりまえではないか」となる。だから、マネジメント能力を論じる時に問われないもの、つまり「行動でないものは何か」と問われた時にそれが明確になって区別していないといけない。

    第一に、単純な結果や、一切のプロセスを見ない業績そのものは行動ではない。もちろん、日々の会社の実務で何より問われるのは結果であり業績である。これは当然である。

    会社ではまず大事なことは業績である。しかし、もっと大切なことは、長い間、安定的に立派な業績を上げ続けることである。そのためには、しっかりしたマネジメント能力を築き、堅忍不抜な態度で適切な行動を取り続けるしかない。ほんのちょっとだけ中期的に見れば、必ず適切な行動を取り続ける会社と個人が高い業績を上げる。逆に、この10年、「あんな立派な会社がこんなことになってしまったのか」と言う例を、読者は幾例でも思い出せるだろう。こうした企業は、例外なく目先の帳尻を糊塗するために奔命してしまった。ごく刹那的行動に陥り、長年の信用を一瞬で失うのである。

    しかし、現実には適切な行動を取るとすぐさま業績が上がるわけではない。逆に適切な行動を取っていないのに業績が上がることもある。アセスメントにあっては、ここをよく見通さないといけない。ここは実は受講者どうしの相互フィードバックがやや難しい点でもあり、アセッサー(講師)が必ずよく観察していなければならない。日常の例で言おう。たとえば読者が4月1日に転勤してある営業所長に着任したとする。知らない土地で、部下も全員初対面であり気心が知れない。お客様のことも何も知らない。であるのに、目標だけは、景気も冷え込んだ中で、前年比20%アップの20億円を売ってきなさいと厳命され、「困ったなあ」と途方に暮れていたとする。る。

    ところが、4月2日以降、何もしていないのに次々向こうから注文が舞い込み、あっと言う間に目標を達成してしまったとする。

    これが読者自身のマネジメント能力や適切な行動に基づく業績だとは誰も思わないだろう。では何のお蔭なのか。お客様に特需が生じた偶然かもしれない。競合会社が勝手に転んだのかもしれない。もっとも蓋然性が高いのは、きっと前任者が、粘り強く長年にわたりこつこつと種まきに努力していた結果なのかもしれない。あなたはちょうどその花が開いたときに転任してきたわけだ。それで賞与の評価が高くなったとしても、それは格別不公平とかそう言うことにはならないだろう。会社の中には、お互いさまのこんなことはありふれているからである。

    しかし、アセスメントにおいてマネジメント能力を論じるときにはこれではいけないのである。あくまで状況に対して適切な行動を取ったか、だけである。この場合、まだ何も行動していないのだから何も論じることはできない。

    ごく短期的な結果は偶然と運不運、外部環境に大きく左右される。しかしマネジメント能力とそれを表現する行動は、そのような次元を超えたより本質的な境域にあるのだ。しかし日常の環境は、以上述べたように人によって全く異なり、同一基盤に立ったマネジメント能力の比較は、膨大な労力をかけて情報収集と分析をしない限りまず不可能である。

    この人材アセスメント研修にあっては、そうした環境を共通の演習教材と言う形で同一に設定してある。そうなると、正解と言うのはないとしても、行動がマネジメント的に適切であったかどうかが、相互にひじょうに観察しやすくなるのである。しかしケーススタディ上の「勝ち負け」と言う単純な結果が、ここで言う行動の適切さとイコールではないことはすでに述べた通りである。

    ともあれ、まず、結果は行動ではない。

  • その19:正解指向にならないこと(自律と自己責任)

    受講者に演習前にご留意をお願いしている第三は、マネジメントに正解はないと言うこと。

    正解指向にかたよれば、マネジメントの幅が拡がらないことは言うまでもないことだが、正解依存症の上司が、存外に日本的経営の時代よりも漸増していることは、さまざまな論者に指摘される通りだと思う。言い換えれば、定まった正解がある仕事と言うのは、基本的に、次元の高くない仕事であり、リーダーやマネジャーがその役割にふさわしい付加価値をつけられない仕事である。

    例によって面接演習をイメージすると、自分に合ったやりかたと言うのは経験を踏まえ、自分が考え抜き選び身につける以外にない。どのように話し合いをじょうずに進めたらよいかと言う正解などはないのである。もし、このようにしゃべったら部下も納得するし問題も解決するなどと言うセリフのマニュアルがあったら大変である。

     
    逆に言うとその種の一般論のハウツー本が多過ぎるとも言える。何をどうしゃべるかは、問題の難しさ、状況(切迫さ)、相手の能力・性格、自分の得手不得手、関係者への影響の配慮、そして何よりその時点までの彼我の関係に依るのである。あっと言う間に5次関数、6次関数になってしまう。それに瞬時に対処しなければならない。定規を当てて方程式を解いたり、マニュアルを引いているひまなど一瞬間と言えどもないのだ。そういう場の瞬間瞬間において苦しみ、考え抜き、時に不本意不覚を取って深くふり返るしか説得がじょうずになる方法などはないのだ。逆にそう言うものだとわかった上で本を読むと役に立つのである。

    「困難な目標を部下に受け入れさせるにはどうしたらよいか」などと質問されるといちばん困る。そのような事柄にやり方などはないのである。今はJALの会長にもなられた京セラ創業者の稲盛和夫氏の著書を読むと、そうした論旨が随所に出てくる。「そう言う時は、どうあっても自分の考えを理解し、力を尽くして欲しいとあなた自身が全身全霊で説得する以外、部下を得心させる方法などと言うものはない。そこまで言うなら、ひとつこの上司のためにがんばってみようか、と相手が思うまで情熱をこめて話さなければならない。」と言うような趣旨である。学者の説を幾百ページ勉強するより、こうしたお言葉の方が、私たち実践者には有益である。要するに自分流にやるしかないのだ。

    述語を使って言いかえれば、マネジメントにおいては、そうした各自固有のコミットメントが自分の基盤にしっかり備わった上で、傾聴だとか感情移入だとか、長所をほめよとか相手の立場への配慮などと言った、そうした少し普遍的な技術、スキルが活きるのである。


    いつも面接の例ではとも思うので、たとえば戦略的意思決定の場面を思い浮かべて欲しい。アセスメントでは、分析発表演習や、案件処理演習において、重要な岐路に立った時である。どのような結論を採るかに、あらかじめ定まった正解などはないのである。採用された方針、戦略とその実行において、一貫性、妥当性、現実性などがあるかが問われる。その問われ方は全く多様であり、正解や規則通りに行ったかどうかなどと言う機械的なものではない。そうしたデザインを自由に描き、かつ結果は描いた人の責任であると言うのがマネジメントの世界であると思う。表題に自律と自己責任と付したのはこのことだ。正解やルールが決まっていると、それに従いさえすれば結果がまずくてもそれは自分のせいではないと言うことになる。そう言うのは事務処理ではあってもマネジメントではないのである。

  • その18:「役割になりきること」への付言

    アセスメントの手法がお嫌いな同業者にいちばん批判を受けるのが、実はこの部分である。ケーススタディの疑似性とでも呼べばよいか。「ふだんと違う仕事上の役割では、誰しも調子が出にくいのでは」と言うわけだ。しかし、そう批判する方々は、一層深く自分をふり返ることのできる人材開発、啓発の技術、手法をお持ちになって言わないと、あまり実益はないかも知れない。

    ただ、時にそう言われるので、私見を答えておきたい。

    マネジャー候補やマネジャー、成熟した専門職に問われる行動の本質的側面は、実はどのような職種にあっても同質である。本質を相互啓発するための入り口を共通化するために、多少普段と違う役割を演じるケーススタディを読むことくらい、そんなに目くじらを立てるような話ではないだろう。ビジネススクールの卒業成績席次を競うのではないから、そのケースをどれだけそらんじ、深く分析したかを問題にしているのではないのである。各人なりの背景を持った理解の上に立って、どれだけ効果的な実戦行動が取れたかを、互いに観察し、フィードバックしてくださいとお願いしているのである。前稿で述べたように、ゲームの勝敗は、絶対的なものではない。

    そうした本質を浮き彫りにするために、このアセスメントは、切迫した状況と場面をつくりだす。そうしないと、前述したが、素(す)のままの行動が出ないからだ。もたもた考えている時間がない時に人は必ず日常と同じ行動パターンを取る(不必要な時間があると不必要なことを考え形を崩す人も少なくない)。それをありのままにふり返るゆえ、受講者の印象に強く残るのである。そのような切迫性を生じさせるために、ケーススタディの製作、選定、運用において深く意を用いている。

    切迫した場面と言うのは(幾度も言うが節目の場面である)、人の素(す)の実力と力量がありありと表れてしまう。研修ではそれを自分の目で見て確かめる。誰だってそんなものは見たくない。見たくないと言う感情を、「ふだんの役割と違う」と言う不満に言い換える人も時にいらっしゃると言うことだ。そう言いたいのは無理もない面もあるから、会社側に立つ方々はその解釈を考えなければならない。

    マネジメントが必要でありながら、自分の現時点のマネジメントのありようを見たくないと言う気持ちはもちろん理解できる。が、「見たくない」ことと、「必要でない」でないことは同じではない。そこを取り違えて、ぬり絵をなぞるような研修をいくら行っても自分自身への何らふり返りにはならず、マネジャー、専門職、その候補者の変化のきっかけは決して生まれないだろう。

    もっと現実を言えば、日常の役割もまた、職名によって機械的固定的に定まるわけではなく、実に多様である。開発課長だって、技術開発ばかりやっているのではなくて、困った行動をする部下と向き合って話し合い、それを矯正しなくてはならない時もあるだろう。営業課長だからと言って、日々敵と切り結んで戦い、売りさえすればいいと言うことではないだろう。3年後、5年後の顧客や市場がどうなっているかいつも考えていなければならない。一般にマネジメント適性が高い人は、こうした多様な役割を好悪にもとづいて選ばず、その時点で必要な役割にすぐになりきって遂行している。つまりは、日常も研修も、この意味では同じようなものなのだ。

    もっとはっきり言う時もある。

    「今回はせいぜい研修です。」

    と私、つまり研修の先生が言うと、受講者にはきょとんとする人もいる。
     
    「現実の方がずっと厳しいでしょう。」
     
    それはその通りだと言う表情をする方も少なくない。

    「私は何十年もこうした仕事をやっていますが、せいぜい研修で、役割になりきれない、調子が出ないと言っている方で、もっと厳しい現実場面では、恐るべき力量を発揮しているなどと言う例は見たことがありません。」

    ただし、以上にはふたつ留意を要する。

    第一に、アセッサーや講師が技術未熟で、じょうずにそうした切迫した場面をつくれなかったら、むろん有益な研修にならない。これは普段の役割と同じとか違うとかと言う話ではない。受講者はまのびした時間を過ごすことになってしまう。これは別次元であるとご理解頂けよう。

    第二に、ある研修の受講者集団にあっては、経験力量ともにあまりにも抜きんでている人がいると、普段の役割と違うからではなくて、ファイトがわかずに、つまりゆとりをもって、もっとはっきり言えば手抜きをしたまま終わってしまうこともある。まあめったにあることではないが。こういう人に、少しは本気になって他の受講者のお手本となるように、うまく刺激するのもアセッサー、講師の技量のうちである。こうした時の正確な評価と言う面でご心配になる読者がいらっしゃるかも知れない。しかし めったにいないこの種の人を、短い時間の中で見抜けないようでは、プロのアセッサーとは言えない。

  • その17:役割になりきること

    第二の、演習開始前のお願いは、役割になりきること。

    全員共通の体験とするために、アセスメント研修は、同じ教材を使う。そこで普段の実務上の役割とは異なる役割を遂行してもらう必要が出てくる。だからそれに速やかに溶け込んでなりきってもらわないといけない。言い換えれば、体験学習と言うのは、受講者全員が同じ役割を担ったとき、どれほど違う行動を取るかと言うことを相互に確認観察するために行うのだ。

    もちろんたまたまあたったケーススタディに、溶け込みやすかった場合と、それほどでもなかった場合と、その限りでは幾分かはあたりはずれは生じるだろう。だが、臨時の役割にどれだけ速やかに溶け込めたかのみを直接評価しているのではない。反射神経テストをしているわけではないからだ(そうした迅速な溶け込みは後述「能力要件」のうち、柔軟性が高いと認められることは少なくないだろうが、それは能力のうちのほんのある部分と言うことである)。だから、各演習をゲームに見立てた時には、その「勝ち負け」自体に、私たちアセッサー(講師)は、さほどこだわっているわけではない。その人のスタートラインがどこにあったかをよく見定められるのがよいアセッサーだと言ってもよい。

    より言えば、ある受講者の言動は、日頃の職務経験、価値観を色濃く反映したものとなるのは当然である。そのこと自体はよいもわるいもない。それらの経験や価値観を十分に踏まえて捨象し、その受講者の本質的行動特性を浮き彫りにするのが、アセスメント研修そのものなのである。よいアセッサーとは、それを受講者本人が深く気づくような投げかけ、質問がじょうずな人だ。

    と言っても、そうした本質的な気づきに至るためには、受講者に「本気」でその役割になりきってもらわないといけない。切迫した状況設定を次々に行うのはそのためであり、もう一度改めて受講者に以下のように言ってお願いするのである。

    「こんな会社のこんな役割はやったことがないと言うのは全員同じでしょうから、せっかくのこうした貴重な機会なので、あまりそう言うことは言わずに、なるべく早く役割に溶け込んでください。その方が得られるものがぐっと多くなりますから。ぜひ役割になりきってください。」

  • その16:自然体でのぞむこと

    ■自然体でのぞむこと

    お願いしたい第一は、それは各演習に臨む際に、どうかふだん通り自然体でやって欲しいと言うことである。
     
    研修に出てくると、少々意識過剰になってしまい、ふだんやっていないことを、つまりいいところを見せてやろうとする人もいる。そう思うことじたいはわるいことではないのだろうが、この行動アセスメント研修では、ふだんやっていないことはまずうまくゆかない。
     
    もう一度面接演習で考えて欲しい。
     
    現実的に重要な利害や心情のからんだ場面で、自分でない自分を10分間でも、いや5分でも演じきれるものではないのである。そんなことをすると、みるみるつじつまが合わなくなって、態勢が崩れ、話し合いは破綻してしまう。もちろん前述のように、例題に現実感があり、部下役の応対が適切であると言う前提が必要である。いったい、ふだんの自分通りにビデオに現れるからそれをふり返る意味がある。そうでないものをふり返って何の意味があるだろうか。ふだんやっていないことをやると、ビデオを見ても何の勉強にもならない。その上、それを見ている他の受講者に「あれはおれが映っているけど実はおれではないのだよ」と弁明もしなければならない。まああまりよいことはないのである。
     
    逆に言えばふだんできていないことを、研修の時だけ演技して、できているように見せられるとしたらそんなばかばかしいものはない。誰がそんなことのために仕事が忙しい中で時間を費やす気になれるだろうか。ふだんの「真実の自分」しか現れないようにするためには、例え研修であっても、一種の極限状況をつくるしかない。と言ってマネジメント研修で、フィールドアスレチックやロッククライミングをするのもいかがかと思う。やはりビジネスマンらしく、問題解決の極限状況がふさわしい。
     
    極限状況とは切迫した場面であり、これまで何度も述べたが「節目の場面」である。われわれの日常では,これは今決めなければならない、手を打たねばならない、あとから間に合わないと言う場面が折々めぐって来る。マネジメント能力が問われるのはそうしたときなのである。急ぎはしないし、いつ決めてもよいのだし、放っておいてもさしあたって特別困ることは生じないと言うような案件では、マネジメント力の差など現れない。 
     
    従って、各演習場面は、例外なく時間が少し足りない設計になっている。そうでないと、つまりよけいなことを考える時間があると、ふだんの自然な行動が現れなくなってしまうからである。しかし、よく考えてみれば日常も全く同じである。マネジャーや専門職で、いったい時間が余っている人などいるだろうか。1時間の仕事を考え込んで2時間かける人にすぐれたマネジメントは決してできないだろう。案件処理を例に言えば、誰しも日常膨大な仕事、つまり案件を抱え込んでいるはずで、ごく短い間に、何から手を着けるのか判断、決断をしなければならない。そうした時に、よけいなことをあれこれと迷って考えている時間はない。そう言う意味では日常とまったく同じである。例えば課長研修であれば、受講者の方々には、今日は演習中部長にじゃまをされることはないのだから、ふだんよりずっとましでしょうと申し上げることにしている。
     
    逆にこんなことを言う。面接演習の前だとする。  

    「演習に臨む際、自分はアタマがいいのだ、と自信のあるかたはかえって気をつけてください。」
     
    受講者の中にはけげんなお顔をされている方もいる。きっとアタマのよい方なのだろう。
     
    「アタマのよい人は、ほかの人よりも早く課題を読めてしまうでしょう。つまり時間があまる。そのあまった時間を前向きに使えばよいのですが、案外そうならない。この課題のこの部分には落とし穴があるに違いないとか、ここに教材作者の意図が込められているに違いないとか、ついついよけいなことを考える。」
     
    ここで少なからぬ受講者が笑う。
     
    「それで、よし、こうやって応対すればフィードバックのとき、みんなからよいスコアがもらえるにちがいないなどと考えると、もうふだんの自分にはならない。」
     
    その結果、上述のように破綻してしまう。
     
    「だいたい受験勉強じゃあるまいし、忙しい皆さんを集めて、ここで引っかけてやろうとか、そんなばかげたことをやるための研修ではありません。どうかふだんの力を出しきってくださるようお願いします。」

  • その15:同じ場面の他者の行動を観察して学ぶこと

    ■同じ場面の他者の行動を観察して学ぶこと

    体験学習によるリフレクションの第三要素は、「人のふり見てわがふり直せ」のことわざ通り、他人の行動の観察である。当然何十人も受講者がいれば自分よりじょうずに面接や説得をできる人もいるだろう。あるいは部分的には学ぶ点もあろう。こうしたものを、上記のように現実の利害がかかっていないから、比較的素直に認め、受け入れるのである。こうした場面は、一般に人の「手の内」であるから、めったにお目にかかれるものではない。それだけ貴重な情報が得られるのである。そして、アセスメントの、会社側からの人材評価の側面としては、この点がひじょうに重要となる。同じ状況設定の面接演習を行った場面を、相互に見るのだから、ずいぶんといろいろわかってしまう。つまりは納得感だ。それが4つの節目の場面に及ぶのだから多くの情報がフィードバックされることになる。

    ■時間割

    前述の4場面を体験学習することがアセスメント研修そのものである。時間割としては、3日か2日である。4場面全部をみっちり体験すると3日である。なかなか3日間時間が取れない場合には、演習場面を圧縮して2日にする。本質は同じだが、むろん3日の方が、ゆったりと自分をふり返る時間は長く取れる。

    ■実際の演習に入る前の留意点                                                   
    やがて前置きの話を終えて、このあと研修が実際の演習に入る前に、受講者にお願いしたい三つの留意点、心構えをお話している。
      ①   自然体でのぞむこと
      ②   役割になりきること
      ③   正解指向にならないこと(自律と自己責任)