カテゴリー: 人材アセスメントの基礎

  • その14:他者からフィードバックしてもらうこと

    ■その自分の行動について他者からフィードバックしてもらうこと

    次に、その自分の(面接演習の)言動を他の受講者がビデオを見て観察する。当然いろいろなことに気づくだろう。それを本人に伝える。これはお互いに行なうから「相互フィードバック」と言う。体験学習の第二要素がこれである。自分で気づいた事柄とは少々違う内容を指摘されるのが常である。それが正しいとか正しくないと言うことを論じてもあまり意味は無い。なぜならビジネスマン、マネジャーにとって大切なのは、真意や動機が何であったかを論じるよりも、自分の行動が他人にどう映ったかを知ることだからである。と言うよりそれがすべてだ。あなたの言ったことは相手が理解した範囲でしか影響を及ぼさないからだ。
     
    これもふだんなかなかできない。
     
    昔の上司はこう言ってはなんだが、ずいぶんひまだったから、部下にこんこんとお説教をする時間があった。1時間お説教されたとして、私の経験上、7、8割はむだな話なのだが、2、3割はなにがしかの的を得ていて部下の血肉にずっと残るものだ。それがここで言う相互フィードバック当たっており、OJT(オンザジョブトレーニング)と呼ばれた。むだのほうの7、8割と言うのは、たいていすでに前提となる状況が変化してしまった上司の昔の自慢話である。が、そういう話をじっと耐えて聞かねばならないと言う意味では、あの時代(つまりは年功主義の時代)の人間形成、修養の一法だったのだろう。しかし今日そうひまな上司はいない。また上司の方で忙しい中で部下の指導をしようとしても、部下はもっと忙しい。読者が部下を持っていたとしたら、部下の行動上の難点に気づくたびに注意している人はあまりいなだろう。それでは混乱して仕事にならないからだ。と言うわけで、日本企業からOJT(オンザジョブトレーニング)の機能がそげ落ちてしまったと言われ出してから既に久しい。よって、こうした研修での相互フィードバックの重要性がかえって増したのである。
     
    上司ですらそうなのである。まして同僚が、日常の業務遂行において、他の同僚の不具合な言動、行動に気づいたからと言って、指摘などしないだろう。そう言う行動を取る人は、よほど変わった人だと思われてしまう。もしも全くの善意でそうした助言が行われたとしても、現実の利害をかけて任務を遂行している時に、そのような指摘を誰しもそのままおいそれと受け入れることは相当に困難である。
     
    研修のケーススタディは、現実感はなければならないが、現実そのものではない。だから現実の利害をひきずってきてはいない(そこが360度評価、多面評価にない大きな利点である)。だからこそ、自分がどんな行動を取ったかを相互に指摘しても、素直に受け入れる素地が形成されているのである。
     
    関連してもうひとつ大切なのは、動かぬ証拠を示せること。この場合は、面接のビデオである。現実の場面ではいちいちそんなになまなましい記録は取らないから、何かあとで指摘されても「そんなこと言ったっけ」となってしまえば啓発やふり返りは生じない。
     
    ところで、私は長年この仕事をしていて、人の成長の遅速は何が分かれ目かといつも考えるのだが、この点が存外重要と思えてならない。資質優秀と思われていながら、5年たっても10年立っても昔とあまり変わらないと言う人があなたのまわりにいないだろうか。そういう人は、たいてい、他人からのフィードバックを素直に受け止めないか、受け入れを拒むような姿勢が強いものだ(スティーブ・ジョブズのような、天才肌の信念居士は全く別論である)。そういう人は、他者からのフィードバックを、正しいとか誤っているとか、評価をしたがる。
     
    フィードバックと言うものは、他人が感じた事実をそのまま伝えるから意味がある。人がそのように感じたと言う事実によいもわるいも、ましてや正しい、誤っているなどと言うことはないのだ。そのような事実が愉快でないときがあるのは誰しも同じだ。が、それを正面から受けとめられる人は一般に成長が速い。

  • その13:体験学習の3要素

    ■体験学習の3要素                            

    アセスメント研修は、この4つの節目の場面で受講者がどのような行動を取ったかを自分自身で深くふり返る「体験学習」と言う方法論を取る、と述べた。演習を行い、自分がどのように行動しているかを鏡に映すようにして深いふり返り(リフレクション)を起こさせるのが体験学習である。
     
    より言えば、マネジメントは、経験、体験なくして決して学ぶことはできない。マネジメントの教科書を何百冊読もうと、ドラッガーを全巻何度読破しようと、経験に裏打ちされていない理解は現実には通用しない(もちろん経験を積んだ上で、理論を学ぶのは大いに意味があるだろう)。しかし経験体験は、各人固有のものなので、それを客観化、普遍化し、経験体験からさらに濃厚に学ぼうとするのがここで言う体験学習なのである。その要素は三つある。
     
      第一に、自分の取った行動を自分で気づくことである。

      第二に、その自分の行動について他者からフィードバックしてもらうことである。
     
      第三に、同じ場面の他者の行動を観察して学ぶことである。  
     
    ここではいちばんわかりやすい対人場面の面接演習をイメージして考えてみるとわかりやすい。                       

    ■自分の取った行動を自分で気づくこと

    演習が始まる前に、「この面接演習は全員ビデオにとっておき、あとでそれを全員で見ますよ」と言うと、少なからぬ受講者は黙りこくったりにやにや笑ったりする。ある程度経験を積んだマネジャーならそれがどんな様子になるかわかるし、「今日は見たくないものをみなければいけないのだな」と現実が直視できる人はここで笑うのだろう。既に体験学習の予行演習である。
     
    私は過去何千人とこの面接演習をしたかわからないが、自分が、重要な利害得失のかかった節目でどんな言動をしているかを10分間映像で見て、何も感じないと言う人は、まず、いない。体験学習による第一の要素は自分の行動を見て学ぶと言う気づきである。  

    私たちは日常そう言うことができていればよい。しかし果たしてどうだろうか。できていると言うためには、たとえばこうだ。あなたは家に帰ったら、鏡に向かい「今日の自分の、上司や部下に対する言動はどうだったろうか」などとしみじみふり返っているだろうか。なかなか難しいことだ。家に帰って仕事の事などはあまり考えたくはないものだ。それでも考えなければならないことが昨今多いとしても、自分の行動をふり返ると言うよりは、未来の事を考えるので精一杯であろう。

     「明日の会議をどう乗り切ろうか。」

     「あのクレームの処理は来週中が限度だな。」

     「来月の成果発表でうまく説明がつくだろうか。」

     と言うように、あれこれと先々を思うのが常だろう。それはしかたない。
     
    しかし、自分の行動を一切ふり返らないとして、今日から10年たったらあなたはどうなっているだろうか。極端に言うと、恐竜か、かのガラパゴスの生態系ように、外部適応力が全くなくなってしまうかも知れない。そこまでゆかなくても、あなたのいないところで関係者が内々に打ち合わせているかも知れない。
     
    「あいつに話すのは最後にしよう。そうでないと話が長くなってどうしようもない。」
     
    こうしてカチカチのこりかたまりになってからではもう気づきもふり返りも何もない。そんなことにならないために、
    「5年か10年に一度、こうして見たくないものを見る日があってもよいでしょう。」
    と私は受講者に語りかける。
     
    ここで大事なことは自分で気づくと言うことが、他者からの指摘やフィードバックを納得づくで受け入れる大切な素地になることだ。
     
    「君、そう言う仕事の進め方は困るよ。」
     
    と上司がこんこんとお説教しても、なかなか浸透しないのはなぜかと言うと、いちばんの理由は実は上司の説得力や人間性ではない。本人が自分で気づいていないからである(もちろんそれをじょうずに気づかせるのが、人材活用のじょうずな上司とは言える)。しかも現実の利害がかかった場面では、自分悪くないのだと、本人もしっかり防衛機制を張っているから、そこに何を言っても気づきにはいたらないことが少なくない。しかし自分が面接している様子をビデオで見ながらまだ気づかない人など決していないのである。

  • その12:案件処理演習(インバスケット)とは

    ■案件処理演習(インバスケット)とは

    案件処理演習(インバスケット)とは、特定の状況下にて、正味2~3時間ほど、数十の未決案件書類を決裁処理をする演習である。特定状況下とは、誰とも相談できないような状況設定である。なぜそような状況にするのかと言うと、上述のように、意思決定の局面で、その人がどんな動機やスタンスでどんなプロセスをたどったかを浮き彫りにして、あとでそれを自分でくっきりとなぞって深くふり返るためである。未決案件は、部下からの意見具申、報告、要望、不満のたぐい、上司からの指示、他部門からの依頼、連絡、催促、顧客からのクレーム、外部機関からの要請と実にさまざまな案件が飛び込んできている。それが未決箱に収まった状態をイメージした演習なので、インバスケットと言うのである。
     

    この演習を行うと、人はどうして同じ書類を読んでいるのに、こうも着眼が違うのか、反応が異なるのか驚くばかりである。ある人は、このような案件は、今すぐ取り組む必要はないと保留にする。そうではなくておおらかに「君がよきにはからえ」と部下に指示する人もいる。別の人は、「大至急こうせよああせよ」とたいへん事細かに指示を書く。同じ取り組むにしても、自分には決裁できないのでなどと上司に回す人もいる。私の部署の問題ではないと、他部署に依頼する人もいる。むろんこれらの反応は、例として述べただけで、一般論としてどれが正しく、どれが適切でないと言うことはあり得ない。与えられた状況のもとで適切であったかどうかが問われるのである。
     
    部下の能力を信頼しきれる状況ならば重要案件であっても緊急度が低ければ「君がいったんよきにはからい報告せよ」でも良いだろう。しかし、やり直しが決してきかない、しくじったら終わりと言うせっぱつまった緊急場面で、「組織とはまず部下がどうしたら良いか上司に具申すべきで、上司はそれを待ってから決裁すればよい」などと形式論を言っていたら、決定的なロスを招いてしまうかも知れない。指示は詳細な方がよいか、簡潔な方がよいかなどと言う一般的議論も実際はほとんど意味がない。複雑な背景で微妙な状況判断が必要な時の指示は、趣旨をよく伝えるために、手厚い指示にならざるを得ない。あまり重要でも緊急でもない件なら、当然簡潔になる。
     
    何が妥当で適切かは、常に状況によるのだ。このようなことは、むろんちょっとしたリーダーシップの書物をひもとけば必ず書いてある。問題はそのようなことを知っているかどうかではなく、現実の場面で状況に符合した妥当な判断、意思決定ができるかどうかなのである。そう言うことができる人のほとんどは、机の上で行動科学などは勉強したことがないだろう。厳しい実戦の試練の中で努力と成果を積み上げてきた人々である。
     
    この案件処理演習を行うと、そうした意思決定の多様さ、質的妥当性が、まるで鏡に映すように自分でよくわかるのである。そうした仕事の進め方、業務遂行の質的差異を、相互フィードバックを通じて、受講者は深く自覚するのである。

  • その11:個人場面とは意思決定の場面である

    ■個人場面とは意思決定の場面である                                 
    次は、個人場面である。対人場面、集団場面に比して、ひとりの場面だから、こう言う言葉を用いているが、意味から言えば意思決定場面である。
     
    読者が職場に戻った時に、現時点で抱えているいちばん困ったやっかいな問題を思い浮かべて欲しい。思い出したくはないかも知れないが、ここの説明にいちばんわかりやすいのでご容赦願いたい。そのような問題は、あなた自身の責任で、どう対処するかを決めなければならない。それをきれいに言うと「意思決定」と言う。この場面における対処のしかたで、結果が大きく変わって来ることもまた自明である。物事は、最初になかばが決まってしまうのだ。と言って、リスクが恐いと言ってずっと放置すれば(つまりマネジメント上は決断力がないと言うことだが)、より大きな悪い結果をいずれもたらすことも必定である。
     
    最近は何でもコンプライアンス、ルール遵守とふたことめには出てくるので言っておくと、意思決定と権限の所在は、直接関係はない。自分の問題を解決するために、たとえば予算承認権限を保有する上司なり役員なりに申請をするのはごくふつうだが、だからと言って自分の問題解決の責任が上司に振り替えられるわけではない。手続き上承認を得るだけのことで、「いかにしてこの問題を解決するのか」はどこまでいっても当事者である自分自身に問われることである。
     
    そういう意味では、意思決定場面と言うのは孤独なものである。もちろん重要な意思決定に際して、他人の意見を何も聞かないのではいけないが、と言って誰も助けてはくれない。自分自身の責任で決めなければならないのである。マネジメントを行う人は、その孤独を楽しむくらいがちょうどよい姿なのだろう。が、係長職制をなくした会社では、管理職になる前に、この孤独の予行演習をする機会がぐっと減ってしまった。最近自動車の大手企業などで係長職制を復活する動きが見られることは、その意味ではとても喜ばしく思う。
     
    そうした意思決定をするとき、読者は「いろいろ考える」だろう。大切な問題であれば、熟慮する。「いろいろ考える」を、きれいな言葉で言うと、状況を「分析」し、「判断」を行い、「計画」だてて物事を進め、その進み具合によっては「調整」したり「統制」をかけたりしなければならなない。最後はリスクを計算し、それが甘受できるかどうか「決断」しなければならない。こう言う流れになる。実はそうは言っても、以上はそんなにきれいにステップを踏むものではなく、渾然一体となっている。だから「いろいろ考える」と言う方が、マネジメントの本能的実戦的動態をうまく表現しているわけだ。いろいろ考えるにも、ずいぶん質的上下があることを私たちは経験的に知っている。その場面のことだ。
     
    個人場面とは、言いかえれば、いかにしてことをはかるかと言う場面である。そういう意味では、わざわざ手の内をさらけ出す人も少ないから、これは対人場面、集団場面と異なり、人の胸中奥深くにしまわれている内容だから、ふだんは他人からは、よくうかがい知れない場面でもある。そこで、研修において、その場面を浮き彫りしようと言うことで開発されたのが、案件処理演習(インバスケット)である。

  • その10:討議演習における相談役、委員などの質問役

    ■討議演習における相談役、委員などの質問役

    面接演習の運用において、相手役部下役の重要性をさきに述べた。この討議演習では、そう言う役割はないので、ふつうは、受講者だけで討議をする。しかし私はこの仕事を始めてから数年して、気がついたことがある。面接なら、部下役の質問、反論に適切に応対できなければ、それが効果的な面接になっていないことが、誰の目にも明らかになる。しかし討議だと、たとえば新任課長研修だとして、もしも新任課長にふさわしい質的討議になっていないとしても、「まあ、こんなものだよ」と言うことでそのまま誰も気づかずに終わってしまうかも知れない。中には、議論が核心に迫ることをなぜかあえて避ける討議者がおられて、その人に引っ張られると当然、迫力を欠いた審議になってしまう。そう言う場面を私は折々目にした。そして何より「そのような討議ではいけないのでと講評のとき、もっとどうしたらよかったか話してください」とクライアントの人事や教育担当者に討議後に言われることが折々あった。もちろんあとで指摘しても良いのだが、それだと面接演習のビデオを見るようにはなまなましくないため、効果は半減以下になる。
     
    そこで、私はある時期から、必要により討議者にその場で質問できる講師側の役割として、ケーススタディ上の会社側相談役、○○委員会委員長などの役割を設置した。要するに質問役である。この結果、もしも討議がとても安易な結論に流れそうになったり、明らかに不十分な観点しか審議されていないような場合は、リアルタイムに受講者に気づいて頂くことができるようになった。もちろん、私たちの観点が特別に警抜であるなどと言う気はない。私たちがつくったケーススタディであり、多くの会社で討議を見るのだから、その瞬間では、私たち講師の方が観点が広いのはあたりまえである。私たちの役割は、それをひけらかすことではなく、もしも討議の展開が不十分なら、それを受講者にみずから気づいていただくことである。
     
    が、この質問役も、面接の部下役と同等以上の訓を要する。面接の部下役なら、そこにいるのは受講者たる相手の上司役だけだが、この討議演習会場には、全受講者がいるのだから、よほどクリアに、一聞了知の本質的質問ができなければならない。これもアセスメント研修の質的向上を図るため、努力してきたところである。

  • その9:面接と会議はどちらが得意ですか

    ■面接と会議はどちらが得意ですか

    個人面接も集団討議も、同じく人を相手にしているのだが、場面を別々にして研修を運営しているのは、人によって得手不得手が違うからである。読者はどちらが得手でどちらが不得手だろうか。
     
    ここで私は時々受講者にクイズを出す。「面接は一対一ですが、討議になると、一対まわりに5人です。相互関係、利害関係がずっと複雑になりますが、一体何倍複雑になりますか。」
     
    この問いに5倍であると、すぐ答えられる人を、私はうらやましくなる。人生はできればあまりつまらないことはくよくよ考えずに自分の得意とすることに打ち込めた方が良いに違いないからだ。現実には5倍ではない。お手もとに六角形を書いて、全メンバーから全メンバーに向けて線を引いてみて欲しい。15本でできる。だから15倍である。相互の利害は15倍複雑になるのである。10人だと45倍になる。
     
    面接よりも集団討議の方が幾重倍か関係が複雑になり、瞬時に状況判断をしなければならない。つまりその面では、集団討議の方が難しいのである。では必ず面接の方が簡単かと言えばそうではない。なぜなら、公の会議に出席していきなりホンネをぶちまける人はめったにいないだろうが、面接となれば、相手の思いのたけがぶつかってくる葛藤がすぐに待ち受けているからである。面接演習を行なうのは、そうした心情的葛藤をどう解決するかを見るためなのである。
     
    ところで上記15本のコミュニケーションの線の話だが、ここにはマネジメントの本質がのぞいている。自分が日常において5人の部下を率いるチームリーダーだとすれば、その六角形から自分がはずれて真ん中にすわり、残った五角形との一本ずつの線だとすると計5本でよい。もちろん部下どうしが前向きなコミュニケーションを取ることは良いことだが、ここでは効率だけの話をする。つまり6人のチームにリーダーをひとり置くと、そのリーダーが機能すれば、15本の線が5本になるのだから、仕事は3倍効率よくならなければならないわけだ。管理職を厚遇し、ボーナスや手当を余計に払うのはこのためなのである(もっと当節、管理職は処遇が、人事制度上の大きなテーマになっていることは別途痛切に存じている上でだが・・・)。

  • その8:集団場面と討議演習

    ■集団場面と討議演習

    さて対人場面の次は集団場面である。この場面は、会社の中で言えば、言うまでもなく会議、ミーティング等を指している。これもまたマネジメントの節目の場面であることは言を要しないだろう。集団の中での存在感や影響力は、マネジメント現象のうちの根幹である。
     
    この場面を模して行うのが討議演習である。通例6人一班で行なう。討議演習は文字通り会議、ミーティングのイメージである。例題は、どこの組織、会社にも起きそうな課題解決、集団としての意思決定である。しかし、マネジメントの啓発のための研修であるから日常に比して、以下の点をより純化している。
     
    第一に、演習例題は、常に具体的な集団コンセンサスによる意思決定を求めている。逆に言うと日常では、報告するだけ、連絡するだけ、一方的に方針が伝達されるだけと言う場面も会議と言う呼称をつけられるかも知れない。そういうものが必要ないとは言わないが、これはマネジメントが問われる場面ではない。厳しい利害や心情が葛藤した中で、チームとして進むべき方向を決することを集団場面と言っている。従って、私のところの研修で用いられるケーススタディは、グループメンバーの利害が食い違っていたり、二律背反的な状況が設定されている。そうしたときに、集団の効果的な合意を形成するのはまさにマネジャーの最重要役割のひとつだからである。                                  
    第二の点だが、読者の会社で、日常の会議における最終決定がどのように行われるか、ちょっと様子を思い浮かべて頂きたい。あなたのチーム、部署の全メンバーにとって、とても大きな利害がかかった重要事を、今日はもう決めなければならないと言う会議だ。こうした時は、時間があまるなどと言うことはふつう生じないだろう。めいめいの意見を言い尽くすにはいくら時間があってもたりないと言うほうがふつうではないか。しかし刻限はきてしまう。そんな時最後にどう決まるだろうか。会議の中でいちばん序列の高い人、つまりいちばんえらい人が、会議を打ち切り、「みんなの意見は聞いたので、最後は私が決めたい。決めた以上は、みんなもそれに従ってもらいたい。」と言うだろうか。そう言えば、やはりふつうである。「みんなどうしようか」などと刻限を過ぎても言っているとしたら、それは不決断と言うのであって、民主的でもなんでもない。
     
    さてこの最高序列の人の最後の行動は、何なのだろうか。リーダーシップや、マネジメントがあると言うのかどうか。これだけではよくわからない。なぜならいちばん肩書のえらい人なら、ふつうそうすると言うだけで、その行動が、真に自律的なものかどうかわからないからである。言いかえると、マネジメント能力やリーダーシップと言うのは、肩書、地位、経験、専門知識その他一切を取り払った時に、丸裸になったときに何の影響力が残るかと言う意味でもある。学者は、それに「パーソナルパワー」と言う名を付けた。
     
    演習においては、それが互いにわかるようにしなければならない。だからこの討議演習では、だれが議長で、司会で、リーダーでと言うことは決めないで進める。あなたが議長ですと決まってしまえば、誰でも、統制行動を頻繁に取るだろう。そう言うふうにせず、各メンバーが対等な立場で討議に参加する。パーソナルパワーの影響力がくっきりと互いに観察できるからである。 
     
    だから、ふだんの会議より、少しばかりやりにくい。しかし、それはそういう目的のためにわざとそうしているのである。会議を効率的にやるのが目的なのではなく、受講者のリーダーシップがどう現れるかを互いに観察し、ふり返るために行うのである。だから「やりにくかったからふだんの調子が出なかったとあとでおっしゃっても、以上のような理由でわざわざそう言う状況にしているのです。その上で、全員同じ条件でやっているのですからね。」と演習前に受講者に念を押す必要がある。  

    この討議演習も、面接演習同様、ビデオにおさめ相互観察を行う。自分がどんな様子で討議に参加したかよくわかるわけだ。もう少し正確に言うと、このアセスメント研修は、受講者は12人なり、18人が標準人数である。仮に12人としよう。6人がまず討議演習を行う。他の6人は、その演習を観察し記録を取る。フィードバックを行うためである。それもぼんやりメモを取るのではなく、あらかじめ、誰が誰を観察するのか役割が決められている。

  • その7:面接演習に関する今日的視点

    ■面接演習に関する今日的視点

    ここで、今日的な指摘を幾つか述べたい。 

    まず、よい表現ではないが、一応借用すると「無免許管理職」。拙著「ポスト成果主義の人づくり組織づくり」でも述べたことだが、この面接演習に臨んでくる受講者の姿勢が、昔と今とで少し変わってきた。要するに人と面と向き合う葛藤に不慣れな人の割合が増えた。マネジメントの仕事は、実際にはほとんど人と向き合う仕事である。当然利害が食い違うことも多いし、「イヤなやつ」ともうまくやってゆかなければならず、言うことを聞かない部下だっている。  

    しかし、色々な原因が重なり、入社後十数年、資料づくりその他個人の担当仕事を指示された通り、受動的に黙々とこなしてきた人が、年次の順番が来たと言うことで、急にこうした研修に出て来られることがやや増してきた。そうした方が「さあ面接をやってください」と言われてとまどう場面が「昔」より増えたと言うことだ。本当にどうしていいかわからない人もいるのだろう。
     
    こうした状態に「無免許管理職」などと言う言葉があてられたのであった。あまり感受性のある表現とも思えないが、内容はそうしたことだ。わるいのはそうして突然研修に行けと言われた受講者ではないだろう。そのような事態を生じさせたことを会社としてどう考えるかと言う問題である。アセスメント研修は、そうした状態を浮き彫りにすると同時に、訓練にもなっている。もちろん前回述べたように、運営側に、こうした面接を適切に行う技術が構築されていないとうまくゆかないのだが。  

    次にもうひとつ、別な最近の傾向を指摘しておきたい。コーチングが流行したせいか「君はどうしたら良いと思うか」とやたらに質問する受講者が増えてきた。このこと自体わるいことではない。むしろそれなりに能力経験ある部下と前向きな中長期的課題を考えるときには大変良い事だと思っている。しかし、万能の道具と言うものはない。コーチングはマネジメントの優れた道具のひとつに過ぎず、コーチングによってマネジメントがすべてできるなどと考えたら大変な誤りである。
     
    まず第一に、自分の信条やマネジメントに関する考え方がないのに、やたらと部下に質問するのは無意味である。問題はそうしたものをやたらと押しつけたり固定観念になってはいけないと言うだけで、自分の考えが無い人になど誰も着いて行かない。
     第二に、上記のようにコーチングが有効な場面はそれなりに限定されている。だからこそその場面では強い力を発揮するのである。一般に、コーチングが適しているのは「重要だが緊急ではない事柄」であり、「重要かつ緊急な事柄」はコーチングには適しないとされる。そうしたことは優れたコーチングの教科書には必ず書いてある。考えてみれば当然なことだ。こういうことをわきまえないで、いつでも質問ばかりすれば良いと言うものではないのだ。
     
    だいたい部下をわざわざ呼び出して面接し、問題の決着を図らなければならない場面と言うのは、ほとんどがトラブルが起きているなど「重要かつ緊急な」節目の場面である。こうした場面で、マネジャーは、部下に質問し、その言うところを傾聴はするのもいいが、最後は自分自身の責任で物事を決めなければならない。そのリスクが取れない人は決してマネジメント能力を高めることはできないのである。自分自身が決心をしなければいけない場面の心理的負荷を部下に委ねようとするような上司に誰が心服するだろうか。
     マネジメントは、コーチにも慈母にも鬼にもなるよう、状況の必要により態度を選ばなければならないのだ。大変である。だからやりがいがあるのだが。  

    もうひとつ言うと、上記の逆に何とか部下を言い負かそう、その非のあるところを立証しようとする受講者の割合も「昔」より少し増えた。このブログの人づくり実戦問答4「部下を屈伏させてやろうと思って臨んでいませんでしたか」に、その様子をやや詳述している。  

    「昔」も屈伏させてやろうと言う人はいた。が、それは、上司の権限、沽券(こけん)に賭けて、小生意気な部下の鼻っ柱をへし折ってやろうと言う、ほめられたものではないが、それはそれでからりとしたものだった。今はそう言う上司像はややかげをひそめ、何とか、自分の立場と役割を守ったエビデンスにでもしようかと言う傾向が少し増えた。つまり、部下の行動に落ち度があったことを一生懸命発見し、立証するような面接である。 

    立証はさほど難しくあるまい。欠点や弱みのない人間などはあり得ず、上司にはそれを認定して裁く公式の権限があるのだから。しかし、そうした行動がどのような作用をもたらすかは全く別論である。そう言う上司に心服して、この先どんな艱難辛苦にも、ともに耐えようと思う部下は誰もいないだろう。
     
    どうしてこのような態度が増えてしまったのだろうか。ひとつには、細か過ぎる目標管理の4半期毎の達成率だとか、何事もまずコンプライアンスだとか言い過ぎ、自縄自縛になって、組織みずからマネジャーのスケールを小さくしていないだろうか。目標もルールも、もちろん守ってもらいたい。が、部下を育てるふところの深さは、別途持つよう、○○ウェイなり、○○行動指針に明確に載せて欲しいものである。どのようなしくみも人が活性化しなければむなしい。

  • その6:面接演習における相手役、部下役の重要性

    ■面接演習における相手役、部下役の重要性

    この面接演習の部下役は、通常、講師達が行う。この部下役を適切に行うのは、楽屋裏の話で恐縮だが、それほど簡単な技術ではない。たださからえばいいと言うものでもないし、と言って、受講者上司役が言うことを皆「おおせごもっとも」では面接にならない。そのあんばいが大変微妙で、あとでビデオを見た時に、深い学びが残るような面接になっていなければならないからである。要するによほどまともな部下役───ただし、しっかり自分の意見を持っている───を演じなければならない。これを習熟させるには、相当な訓練を要する。

    聞けばアセスメントの「業界」にあって、この面接演習の部下役を遂行できる講師が減じて、面接演習を実行しない研修をもアセスメントを称していると言う。これは申し訳ないが、マネジメント行動のアセスメントに関する限り正道とは言えない。なぜそのような状況になったかと言うと、講師自身にとって、一方的に講義をするより、この面接相手役を適切に遂行するほうがある意味でははるかに難しく、その訓練は、資質もしくは組織勤務の経験を欠いている場合にはまず無理であるからである。言い換えれば、申し訳ないが、そうした要件を欠いた方々がいささかこの業界に参入いや乱入され過ぎた。
     
    後述する分析発表演習は、時間の都合で省かざるを得ないことはある。が、この面接演習は省けない。が、面接演習を省くような運営は、たいていその代わりに、そうした発表などに時間を相当費やす。しかし、発表場面よりは、対人場面の方が、順序から言えば基本であり、優先度が高い。  

    その理由は理論的にも説明できるがこう思えばよい。あなたが休日の政治討論番組など見るとする。あなたは、練達のニュースキャスターが、要職にある政治家に、私達国民に代わって聞きたいことをずばりと聞くから、その問答、つまりは面接を見たくなるのである。その時の政治家の反応、対処、一切の表情、態度、しぐさによって、私達はその政治家の力量、真に国民を思ってその地位にあるかどうかを見きわめ、私たちがこの人に生命財産を預けてよいかと、判断、つまりは「アセスメント」することができる。しかし、これから1時間、演説をするから全部聞いていてくれと言われても、よほどその人のファンでもない限り、多くの人はチャンネルを変えてしまうだろう。マネジメントにおける「面接」と「発表」もそのくらい順序の差があるのだ。  

    私たちの日常にあっても、ひとりひとりの大切な関係者や直属の部下の意見を受け止めてきちんと説得できない人の演説などは聞いてはいられないのだ。一般に部下には言わば「正当に葛藤した心情」がある。これを適切に表現する部下役を演じるのはさほどやさしくはない、とこの項の冒頭で言ったわけである。 

    ついでに言えば、営業マンの訓練などでも、すぐプレゼンテーションスキルだとなりがちだが、私の経験上、顧客と人間的信頼関係を構築できた上で、適時適切に質問を行って重要な情報を入手できる能力───つまりは面接能力───が備わっていない人に、プレゼンスキルを訓練するのは、徒労であり、エネルギーの空費である。判断の前提となる重要な事実を得られないのに、発表会の設営がじょうずにできたからと言って顧客が発注をするわけがないからである。 もちろん発表(プレゼン)スキルが重要でないと言っているのではない。物事の順序を言ったのである。

  • その5:面接演習において「見たくない」ものを見る学び

    ■面接演習において「見たくない」ものを見る学び

    この面接演習は状況設定がわかりやすく、マネジメント経験の習熟の深さに関わりなく、受講者の心に永く残ることが多いことは、人づくり実戦問答1「とくに、先生、あの面接ですね」においても述べた通りである。 

    別な例を挙げる。ある会社では、人事制度改革を機に、全管理職に意識改革を求めるため、このアセスメントを実施しようと言うことになった。ほとんどが私と同じように、いいトシをしたオヤジたちである。それがこの面接演習のフィードバック、つまりビデオ観察になると、「見たくない」「見るのがいやだ」とコドモのように口々に言うのである。なぜ見たくないかは読者にもご理解頂けるだろう。「これってまるきり人格が出てしまいますね。」と笑いながら語った人もいる。ここで言う「人格」は情緒的な意味合いではなく、マネジャーとしての素朴な力量と言うことだろう。それをありのまま見たいと思う人はまず少ない。ちなみに笑いながら語れると言うのは、ストレス耐性がけっこうお強いと言ってよいかもしれない。 

    つまりふだんは、そうしたことを見ないで済んでいると言うことだ。ふだん見ずに済ませている「見たくない」有意義な内容をわざわざお見せするから、忙しい人達を研修に集める意味があるのである。しかし、そんなものを毎日見ていたらたまらない。だから5年か10年にいっぺんは見たらよいのだ。「それが今日なのですよ」とお伝えしている。そうして「見たくない」ものを見た人は、10年でも20年でも、覚えているものなのだ。それは、その年数のあいだじゅうずっと組織運営上必ずポジティブで有益な作用をするのだ。
     
    別なある会社では、自己診断のため、このアセスメントを何年かおきには受けてくださいと定めている。すると不思議なことに再受講者の多くが、「今度こそあの部下役を説得してくれよう」と明るいファイトを燃やして意気込んでやって来るのである。日常の意識の中にどれだけこの演習が浸透しているか、よく伝わってくる。現にこうした人は、あとで聞いてみると必ず日常の言動が変わっているものである。それが組織運営にどれだけプラスになるかはご理解願えよう。