実戦問答No.7
アセスメントは評価のためか何のためか
~行動アセスメントによる自分への深い動機づけ〜 (2011.02.03)
同業者の集まりなどで時々質問されることがある。実は私はこうした会合が好きでないので、なるべく行かないようにしているが、しかたなく参加した時のことである。
「あなたの行っている人材アセスメントですが、人を評価するだけでよいのでしょうか。」
こう言う質問をされると、正直言って少しうんざりするのだが、「同業者」ではなく、私を支持してくれるお客様やクライアントの温かいお顔を思い出して、気を取り直し答える。
確かにアセスメントは、その成り立ちが、欧米の組織における、人材の評価選抜であったことは疑いない。だから「ヒューマン・アセスメント」と言った。しかし今日は、「自己行動アセスメント」とも称すべき内容となっている。少なくとも私の場合、主として意識改革、行動変容を主眼とした実戦的研修としている。それは、昇進昇格試験の一助として用いられる場合ですらそうである。この実戦問答のNo1、No4、No6などで述べた情景を、読まれた方は思い出して欲しい。これらのうちには昇進試験研修における情景も含まれている。
「自己行動アセスメント」は、体験学習として、行動変容に向けてのインパクトが相当強いものとなる。なぜなら、アセスメントは、演習の状況設定をいつもある種の「極限状況」にしているからである。
極限状況とは、何も断崖をよじ登れとか、孤島で自炊せよとか言うわけではない。つまりは仕事上の物事の節目、自分とチーム、組織の運命や利害の大きな分かれ目のことである。読者は自分の会社や職場を思い出して欲しい。必ず節目の時と言うものがあるはずだ。逆に極限状況の反対は「どうでもよい時」である。たとえば野球などのスポーツで言えば、大差がつくなどした「勝敗と関係ない場面」である。組織にあって、もどうでもよい時にいくら活躍したり立派な事を言ったとしても、そういう人が他者に影響を及ぼすことはあまりない。言い換えれば、私たちはそう言う人物をあまり尊敬しない。
人の真の姿は、この意味で、極限状況を設定しないと現れない。自分の真の姿が確認できなければ、評価はもちろんできないが、啓発として行動変容のためにふり返る内容も何も残らない。
アセスメントがどう役に立つかと言う前に、広く一般に、教育研修の善し悪しは、実はほとんどここで決まる。どうでもいいことを1日、2日論じ合って成果があると思う人はいないだろう。そういう研修が、コミュニケーションになってよかったと言うのは、20年か30年前の話だ。私の場合は、依頼された研修が何であれ、与えられた条件の中で、どのようにそうした深い振り返りが起こせるかどうかだけをいつも考えている。スカンジナビ航空を建て直したヤン・カールソン氏にあやかれば、それが私にとっての「真実の瞬間」である。このアセスメントと言う研修は、もともとの設計上、「真実の瞬間」ばかりになるようにできているわけだ。
人は、現実の場面で、自分の運命に大きく影響しうる関係者が、そうした時にどんな行動を取ったかは、一生忘れないだろう。ましてその人が、自分の生殺与奪を事実上握っている上司ならなおさらだ。アセスメントは、そうした節目に人がどのような行動を取るかを映し出す手法だから、確かに人材の「評価」と言う意味では、大きな威力を発揮する。ただしそれは、あくまで入り口である。
大切なことは評価というよりも、そうした場面を色々な形で自らが深くふり返ることができるようにしていることである。機縁が熟した人がこの手法に出会うと、そこで感じたことは、深く印象にとどめられ一生忘れない。この実戦問答No1で述べた通りである。つまり、「評価」だけでなくて、「動機づけ」において、一般的な手法よりも非常に強い効果、インパクトがあるのだ。
こんな例もあった。ある会社の社長は、自分が30年近くも前に受けたアセスメントが効果的であったことを忘れられず、社員に経験させたいとずっと思っていた。ある時拙著「ポスト成果主義の人づくり組織づくり」をお読み頂き、「我が意を得たり」と言うことで私に相談にお見えになった。30年間印象を保っているのである。しかもポジティブな印象を。
そこでまた問われるだろう。
「そんなに強い印象が残るなら、評価などしないで、動機づけだけをすればよいではないか。」と。
私の「同業者」でなくて、実務の責任にどっぷり漬かっている読者なら、こんな質問はまずしないものだ。自分で自分のことが正確につかまえられていないのに、何に向けて動機づけると言うのだろうか。そして、私も含め、ほとんどの人にとっていちばん見たくないもの、受け入れたくないものは、自分の姿の真のありようであり、弱点が現れた「真実の瞬間」なのである。こうした事を常時正確に、他人を見るように客観的に捉えきっている人にはめったにお目にかかれない。アセスメントの手法の力を借りて、そうしたものを受け入れた素地をしっかり固めて、初めてこれは改善しないといけないと言う深い動機につながるのだ。だからその後、5年も10年も忘れない。
日常の利害がかかった場面にあって、そうしたことを都度受け入れながら、一方で仕事も進めることができれば研修などしなくてもよい。しかしそれは至難と言うものだろう(そう言う状態は真の自律と言ってよい)。だから日常から離れた研修としてのアセスメントが発展し、それを正しく用いる組織には、今日でも一層有効なのである。
仕事はできるのに、部下を育てるのがじょうずでないと言うマネジャーが、どこの会社にもおられると思う。この場合は例外なく、部下の動機の方向、気質、性格、能力、生活環境その他現に置かれた状況などを正確につかんでいない。つまり「評価」ができていないのだ。
たぶん、私への最初の質問者は、アセスメントの評価を「人事考課」と思い込んでいるのだろう。狭い意味で人事考課と言えば、単なる最終結果だから、誰でもそんなに大きく間違えはしない。ただ、評価される相手の、以上のような本質やプロセスを正確につかんでいるかと言うと、育成のじょうずな人とそうでない人とに、とたんに大きな開きが出る。アセスメントの評価というのは、こうした意味合いであり、さらにそれが自分に向けられるものなのだ。一般に言う人事考課の意味とは大きく異なる。
もちろん、アセスメントは、昇進試験の一助として用いられる場合もある。その時は、当初は通常の研修とは異なる緊張感に会場が包まれることは否めない。しかし、他人様のことはわからないが、私が関与して行なう場面では、やがて
「普段通りの自分を出せばよいのだ。と言うより、そうしかやりようがない。その点だけ悔いを残さないようにやろう。」
と言う明るく開き直った雰囲気になって来る。ある会社で、試験の位置づけのアセスメント研修につきっきりになっていた人事マネジャーに、終了直後に言われた。
「アセスメント(試験)なのに受講者が、講師に自発的に拍手するというのは・・・・・」
どうしてそう言うことが起きるのだろうか、と、最後は言葉を呑み込んだ。が、そのうれしそうな表情が
「うちの会社の受講者達は、この研修の真意をわかってくれたのだ。」
と語っていた。
人の意識や行動が急に変えられるわけがない。では何のために研修するのかと言えば、まずありのままの自分に気づき、そのあと半年、1年とかけて強みを伸ばし、弱みを補うための重要な契機をつかむ場なのである。それを研修の時だけ急きょとりつくろおうとすると必ず失敗し、悔いを残す。私はそれをよく知っているから、この実戦問答No5にも書いたが、「どうか受講者がふだんの力を悔いなく出し切って欲しい」と祈るわけである。私は、そうした気持ちが途中から受講者の方々に伝わって行くことが実感できる。
ここでひとつだけ人事制度の技術的な事を言うと、昇進候補者が百人も二百人もいると言うような場合はやむを得ないが、それほどの人数でもない時には、日常の実績、人事考課、他の面接試験等の各要素と、このアセスメントの「配点」を、あまりがちがちに決めないで、なるべく各要素を包括的に柔軟に総合判断した方がよい。
さて、こうした深いふり返りを行動変容につなげてゆくために、絶対に欠かせない要素が、各演習の「相互フィードバック」の時間をなるべくじっくり取ることである。そしてここが講師の技量がくっきり分かれる点だ。適切なフィードバック、受講者を深くふり返らせる質問を行う技術は、講師の側にも深い習熟を要する。
私は手がけなかったが、聞けば文字通り試験だけのアセスメントと言う運用がかつては少なくなかった。要するに受験風に言えば「答え合わせ」と「解説」がない。こうした運用をしている会社では、受講者達のアセスメントを見る眼は今度は一転してネガティブになる。当然だろう。何だかわからないままに取り組まされ、合否と言う結果だけが残るのだから。こうした運用は、どうあれ管理職になりたいなら会社の言う通りにせよと百パーセント言える場合でないと、妥当性は低い。現実にはこうした会社の割合がずいぶん減ってきたのは、皆様の実感の通りである。
最近は、効率優先でアセスメントをなるべく短時間で実行することを「ウリ」にする「同業者」が増えてきた。試験と評価だけが目的ならそれでもいいのだろう。しかし私はそう言うことにあまり手を染めたくない。フィードバックに相応の精力を注ぎ、真の目的は以上述べたように異なるところに置くべきと思うからである。
以上のようなことを説明していると、随分時間がかかる。が、わかってもらえた時はうれしいものだ。
そして、私が熱意を注ぐべきはこうした同業者の会合における質疑ではなく、あくまで現場だ。試験の意味を含むアセスメントの終了後であっても、感謝のこめられたまなざしをいつまでも受けられる自分であり続けとたいと願っている。それは自己満足ではなく、現実のマネジメントの修羅のちまたで戦う方々の何らかの支援になることができたと言う実感が得られるからである。つまりは私の職業人としての存在理由である。