実戦問答No.11
これでどうやって評価するんだ~職能資格等級の評価~ (2011.5.5)
職能基準書、等級定義書、名前は何であれ、何等級は、何ができる人と書いた文書がどこの会社にもあると思う。この30年間、これにまつわる論議は、いつも循環し、徒労をした会社が少なくないのではないか。
この種のものは、定義だけを、簡潔に、かつ良い意味で抽象的に表現すればいいと言うのが、私の年来の主張である。その理由は以下順次述べる。
かつて、ある関係先でこんな話になった。人事制度改革のひとつとして、職能資格等級を少し増やしたせいで、ちょっと古びてきた全体各等級の定義も書き直した。それを見て私はまずよくできていると思った。そしてその案を、担当マネジャーが、役員会にかけたのだが、否決されてしまった。どうしてだろうか。
「表現が抽象的で、これでは、等級を評価決定するときに使えない」
と言うことだった。さて読者はどう思われたろうか。
私から読者に以下ふたつ質問しよう。
「そもそも職能基準書とは何のためにあるのだろうか。」
「それは、等級をじかに評価決定するために用いるものなのだろうか。」
お考え頂いただろうか。私は思う。職能基準書等は、資格等級の定義を表現するためにある。何を当たり前なと思われたかも知れない。続けると、だから、資格等級の評価決定のための機械的なモノサシではないし、そのように使うべきでないのである。
そうすると昔から必ずこう言う議論になる。
「では目に見えるモノサシがなければ等級が決定できないではないか。」
この質問にイエスと応えれば、文字通り事細かな「基準書」をつくらなければならない。上記の役員会もその方向に沿った意見である。しかし、もう30年も40年も前から、大企業なら、びっしり細密な文字の詰まった何十ページもある文字通りの職能基準書をつくったはずだ。それが評価並びの人材の活性化に有効であったと言う話は、遂に聞いたことがない。だから実はこの問答は本当は歴史的な決着は着いているのである。組織は人が入れ代わると、容易に学習がつながらない。また、役員会に人事の専門家は普通いないだろうから、ちょっとボタンをかけちがうとこうなってしまう。ついでに言えば、アメリカ生まれの事細かな職務記述書などは、一層日本の社会には似合わない。それやこれやの理由も、既に拙著に色々述べたのでここでは述べない。
他方、コンサルティングの専門業者も、はっきり言っていかがかと思われる場合がある。たとえばここ10年ほどは、コンピテンシーモデルと言うものが流行した。その概念や少々の項目を人事考課に適切な範囲にて応用しようと言うまではいい。が、昔の職能基準よりも一層精緻に網羅的にすると人材評価と活性化に大変な効用があるとうたい、およそ考えられる限り、機能別、職種別、部門別などに必要コンピテンシー項目を細分化し、「コンピテンシーディクショナリー」をつくりましょうなどと売り込む。細か過ぎる職能基準書時代のことを知らない人はそんなものかと思ってしまう。ディクショナリーとは辞書の事だ。いったい人間と言うものが、辞書を与えられて、それをそらんじよう、よしがんばるぞと動機づけられ、励みに思うものであろうか。
だから、等級評価決定に目に見えるモノサシが必要だと言う、最初の前提に誤りがあるのだ。そのように機械的に評価を決められる道具をつくれるはずがないのだ。評価は、様々な要素を総合判断して人間が決めるのである。責任と情熱を持った上司が決めるのである。何と当たり前なことだろうか。そんなことを私たちはうっかり忘れる時があるのだから驚きである。
それでは客観的で公平でないと言う前提がいつしか置かれ、精密機械のようなモノサシをつくりたいと言う話に転じてゆく。その思考プロセスの根本に誤りがある。人を評価する場面における責任ある自由裁量を、マネジャーに委譲できないようでは、組織や事業の運営とは言えないのだ。それを、辞書やら何やらでがんじがらめに縛り制限するのは、マネジャーに仕事をするなと言うに等しいくらいのことなのだ(現実のほとんどのマネジャーは縛られたふりをしているだけで、ちゃんと本質に基づいた判断をしているのだが)。およそ、自分の好き嫌いだけに評価が左右され、部下の能力を見ようとしない上司などは──そうめったにいるわけではないが──管理職の資格を問われ、その度を越したら──もっと少なくなるが──管理職を降りてもらうだけのことなのだ。
話を等級決定基準に戻すと、もしも客観的な基準があるとしたら、どの等級にどういう社員がいるかと言う、その会社なりの相場観、序列によるしかないのだ。管理職になるような人だったら、社員全員を知らなくていいが、部下はもちろん、自分が仕事で関係した人物くらいは誰が何等級なのか、その適否はどうなのかといつも自分の頭の中に置いておくことが求められるのである。公平を期すならば、関係したマネジャーどうし、そうした情報と判断を持ち寄り、納得がゆくまで話し合うことしかない。そうした話し合いを、自律的かつ冷静、理性的に、なお情熱をもって行えたら、本当に自立したマネジャーと言うことになる。会社が労をかけるべきは、書類づくりでなくてそうしたマネジャーの育成である。
そう言うちょっとした努力を管理職に求めないで、その自由裁量を奪い、不必要に膨大で精密な書類を持ち出して科学的な絶対評価を積み上げようとするなど、どだい無理だし無益である。上司は、人の運命を決める仕事をしているのだ。その重い責任を、分厚い書類に転嫁させることは決してできないのである。
「あなたの言っていることはつまり全く相対評価ですね」と問われたら、「そうです」と言うしかない。私は、昇給賞与等の日常通例の人事考課は、最初に絶対考課の基礎を置くべきだと思っている。しかし資格等級となったらより全人的力量が問われるのだから、人と人を較べる以外に方法はない。だから少し長いが、「会社全体の相場観による絶対評価」と言っている。
実は上述役員会の前に、プロジェクト内で審議したとき、いちばんベテランのメンバーが、こう助言していた。「この基準書はあくまで定義なのだから、どれだけ当社の人材に関する理念が述べられているかを役員に見てもらえばいいのであり、これで等級決定の評価をするのだと受け取られないように(役員会で)説明しないといけないよ。」
至言というしかない。が、ご懸念の通りになった。実際の役員会では、この意図がうまく浸透、説明できなかった。
「あなたの言う通りなら、等級の定義すらいらないではないか、結果としての能力評価の序列だけがあればよいではないか。」と言われるかも知れない。少々極論すればその通りである。だから最初に言ったように、「簡潔に、かつ良い意味で抽象的に表現すればいい」といつも言っているのである。簡潔はともかく、抽象的と言うのはいぶかしがった方もいらっしゃるかも知れない。
一般的に、日本語の語感としてなぜか「具体的」はよいことで、「抽象的」は悪いこととされる。本来対等概念のはずである。だから「普遍的」と言い直すべきなのだろう。普遍的なら、解釈は、状況を超えて、時代を超えて、柔軟に行えると言うのが何よりの利点である。具体的であればあるほど、すぐに古びてしまい、状況に合わなくなる。だからと言って、そのような細かい定義が、ある一瞬ですら決して経験を積んで成熟した人間の総合的判断に代わりうる機械的な評価尺度にはなりえないし、そのようなものを求めるべきでないことを以上に述べた。一度でもその徒労を経験すればすぐわかる。できるだけそのような徒労を味わって欲しくないから、著書やこうした場で私は述べている。
社員全員が仮に1等級から10等級まで並んでいるとする。なるほど上の方々は公平に人を見ているものだと、大方の社員が納得しているかどうか。職能基準書の細部の表現よりも何よりも、社員が見ているのはそこなのだ。それを私たちは忘れてはならないと思う。