実戦問答No.31
成果評価における事前事後 (2013.5.26)
以下最近ある場所で書いた文章の一節を引用する。
「ひとつ重要であったのは成果評価における態度でした。多くの受講者が、事前の目標設定に載っていない重要達成事項を成果評価に加え、ポジティブに処理していました。これは事前基準のみによる誤った機械係数的評価手法が数多く流行し、かえって評価の妥当性を維持できなくなっている例が多い中では、むしろ珍しいほどです。従ってこれは、これからも大切に維持してゆかなければならない姿勢であり文化です。今後目標管理などを導入することの当否を論ずる際、かえってこの活力を損ねないよう留意が必要です。」
これは、ある組織における人事考課者研修の際の情景の点描である。
本当に珍しいと思った。必ずと言っていいくらい、今どきはどこの会社でも、事前の目標設定が何であり、それが何パーセントできたかを、ほぼ反射的にどの受講者も計算する。そしてそれで終わりになってしまう場合も少なくない。ざっと半分の人はそうだろうか。残りの半分の人は、上記のような変化に富んだごくふつうの事例に遭遇した場合、「何か変だな」と思っていったん迷う。たとえば期中に入ってから、大変な問題が生じ、その解決に大きく貢献したが、それは事前の目標シートには書いていないと言った場合だ。どちらの会社でもきわめてふつうに起きる事態である。迷った人のうち過半は、「まあしかし、ルール上そうなっているのだからしかたない。」とあきらめる。こうした評価の運用が、どれだけ公平でないか、納得性を欠くかはこれまで随分論じてきた。
何か変だと言ってくる人がいても、会社側の回答は、「何が何でもルール通りにしてください」と言うのはやや少ないにしても、「ルールを尊重しながらうまく解釈、運営してほしい」とまで言うのがせいぜいである。言われた方はどうしていいかよくわからない。よくわからないことをいつまでも考えているには多くの管理職は繁忙すぎるだろう。結局うやむやになって、つまりは不公平な結果になる(だからそれを避けるために考課者研修が大切なのだが)。
ところが上記の組織では、逆にほとんどの受講者が事前目標に何と書いてあるかは、参照した程度で、ごくおおらかに被考課者(管理職でなくて一般社員)が期間中に成し遂げた総量を事後的に見積り、総合的な判断に基づき結論をくだした。当然ながらたいへん妥当な結果となった。
この場合考えさせられるのは、この組織が、成果主義が流行した時期も、理由はいろいろあるにしても、それを追わず、あわてて「最新」の評価システムを導入したりしなかったことである。だからマネジャーたちは、他人が与えた(不必要に精密な)モノサシによらず、自分の意思で自律的、主体的に判断をする。考えてみれば、成果主義以前には、それが年功主義か何主義かは別にして、すぐれた上司は皆そのようにしていた。その判断が狭くなるといけないから、時には客観的に比較してみようと言う事で研修が開かれた。誠に健全な研修開催動機である。
人事制度は、運用の方がずっと重要であることがこうした時に痛感される。幸いこの組織のマネジャーの方々は、おおむね妥当な判断プロセスを経て部下を評価し、指導している様子が伺えた。もしめいめいに判断させたら、当社には未成熟なマネジャーが多いのだから、不公平極まりないことになると言うことを前提に置き、そうしたブレをなくすために「最新」の「精密」な評価システムを導入し、「勝手な解釈」をさせないほうが方がよい、と言うのが、成果主義流行時代に限らず、今もやや主流に近い考えではないか。
実際にはそんな未成熟なマネジャーばかりの組織にはまず遭遇しないものだ。もしそういう組織があったとしたら、仕事がちゃんと回っているのか、が何より優先なので、評価のことなど論じていてよいのかと言うほどこっけいな話になってしまう。それとスキルが未成熟だからと言って手足をがんじがらめに縛ると、未来永劫に習熟はしない。それは他の仕事と全く同じである。その上、前述のように、従前には、アナログ的ながらそれなりに健全で妥当な評価の判断をしていたのが、不必要に精密なデジタルシステムにしたため、かえって、混乱し公平性を損ねかねないと言う例の方が多くなってしまった。よく聞かされた上記の前提は、事実の上でも理屈の上でも根本的に誤りなのである。
これも毎度言うのだが、評価は計測処理と言うデジタルの世界ではなく判断と納得と言うアナログの範疇のテーマである。だから訓練がいる。これをデジタル化、つまり機械化して手間を省こうと言うのは、会社の中から人間性や情熱を排除しようと言うほど味気なく、むなしい話になる。
「おおむね」妥当な判断プロセスと申し上げたように、全員が成熟して完成されたマネジャーであると言う組織もまた、まず現実にはあり得ない。だから練習してある程度そろえる。そういう事を繰り返し努力した上で、「さて、考課者のほうばかりでなくて、人事制度もそろそろ改善だね」と言う順序にするのが大切である(実際この組織ではそういう軌跡をたどった)。
そういうプロセスを経ないでやたらと制度や評価要素をいじりたがると、そういう精密な道具を与えられた現場の方が全く受け身になってしまい、「使いにくい、合わない」と言い、つくったほう(会社、人事部)は「理解が足らないのでは」と言う。不毛の論議の最たるものと言うべきだろう。
さて、話を最初の点景に戻す。
政治家の行動の評価は後世の史家がすべきであるとか、人の評価は布が棺(ひつぎ)を覆った時に定まるなどとよく言われる。至言と思う。
組織の中の人事考課はそこまで気の長いことを言ってはいられない。と言って、何もかも事前基準を決めて即時に機械的評価しようなどと言う事がどれほど無益であったかはもう十分実証は済んだ。そんなにあわてる必要、実益がどこにあるのだろうか。
変化が生じない組織や職場などはない。高位の役職者が低業績の弁明のために環境変化をやたらに用いるべきでないのは当然だが、考課訓練の対象となる一般社員の行動は、それこそ毎日が自分の意思では抗しえない変化に押し流されてゆく。事前の目標設定は、ごく特殊な組織を除き、評価の上ではふつうは参考にしかならない(では何のために目標設定をするのかと言えば、ドラッガー先生の教科書に書いてある通り、人と組織を成長させるためであり、精密な評価のためではない)。
3月31日の期末を終えて、ほんの数日、1年間をふりかえって、所期の目標と、重要な変化と想定外の事柄を加え、事後的に冷静に評価すればよいだけのことだ(これに「成果」という言葉を使うと機械的な目標管理を連想するから、私は、なるべく「貢献度」「実績」その他の、事後的判断を連想させる言葉を用いている)。部下も、上司がそのように、大局的かつ公平に部下の行動を見ていることに安心感があるから、引き続き仕事に打ち込んでゆくことができる、と言うのが理想の納得感であり信頼関係である。妙ちきりんな事前計算式を与えられて電卓やエクセルと首っ引きになり、加減乗除とその確認を繰り返して幾日も費やしてしまうより、ずっと上司も部下も、そして会社にとっても健全きわまりない。評価と育成に関しては、そうした組織運営を指向したいものだ。