月刊人材マネジメント連載記事その1
「横山太郎が語る現場のアクションラーニング」その1
〜アクションラーニングに対する誤解をひもとく〜 (2011.04.16)
第1回 アクションラーニングに対する誤解をひもとく
最近アクションラーニングの導入のご相談と同じくらい、試してみたがうまくゆかないと言うご相談が増えてきた。お聞きしてみると本当に残念な経緯になっている場合が多い。何が残念かと言うと、人材育成の上で、適切に運用すれば、アクションラーニングほど速効性のある方法もないのであるが、その機会を大きく逸してしまっているからである。
混乱する理由は大きく言えば主に2つである。目的が不適切である事と、ファシリテート人材の不足、欠如である。
目的が不適切である場合
この場合話を複雑しているのは、コンサルタント達が、様々な目的を色とりどりに訴求する事である。例えば組織風土改革だとか、望ましい企業文化、学習する組織の形成のためにアクションラーニングが良いなどと唱導するものだから(さらに困った事にはほとんど、語る夫子ご自身にそれを遂行したご経験がない)、それはよい、と言う事で安易に取り組んでしまう。少しだけ冷静に考えればわかりそうなものだ。1度や2度、社員がアクションラーニングセッションを体験したからと言って、数十年積み重なってきた組織風土が変わるものだろうか。話し方教室や会議の作法を習うような講座に1,2度出ると、学習する組織ができあがるのだろうか。
アクションラーニングが、最終的に組織風土改革につながることはあり得るとして、それは大企業だったら途方もない根気のいる仕事である。多くの精鋭人材が、何年間もかけてコミットメントしなければならないだろう。それを貫くにはよほどの覚悟と、トップ自身のコミットメントが要るだろう。中堅企業なら、キーパーソンが限られるから、物理的ハードルは下がるが、それでもその方々が、1年や2年、仕事の合間にアクションラーニングにどっぷりと浸ってもらう必要がある。
こうした次元をいきなり目指せるならよい。が、難しい場合も多いだろう。
アクションラーニングは、まず何より、参加者個々人の意識改革、行動変容のために行われることが実戦的である。この点は他の人材開発手法と同じである。そこは同じだが、正しく用いれば効験がとても速く現れることが何より違うのである。どうしてそうなるのか。それはあまりにも平明な理由だが、一切奇をてらわず真正面からそうなるように取り組んでいるからである。この手法の創始者英国人レグ・レバンスのテキストを読めば、それがよくわかる。言い換えれば、まっとうにまっすぐ行えば良い事柄を、商業主義に基づく奇をてらった手法があまりにも多過ぎるのだ。彼ほど、現実世界のマネジャーの成長に心をくだいた先人はいない。訳のわからないカタカナ文字を並べて叫び、から騒ぎをして時間をむだにするよりも、人材と経営資源を預かる個々のマネジャー達が日常の実践レベルの行動を変えてくれたらどれだけ値打ちがあるだろうか。
レバンスは、受講者自身の固有の困難な問題解決を仲間や同僚と共有する事を通して人材育成を進めると言う、まっとうであるがきわめて卓抜した方法論を構築した。人は困難な問題解決を通してしか成長できない。が、そこをうまくくぐり抜けるには、仲間の真の共有と温かい支援が必須だからだ。その結果深いふり返りが生じ、本人のリーダーやマネジャーとしての境域が進むのである。レバンスはこうした苦境における心情の共有こそが問題解決の本質的エネルギーだと見ていた。彼の著書には、「コムレードシップ イン アドバーシティ」と言う言葉がしばしば出てくる。直訳すれば「危機における友情」である。そして、現実を知らずかつ仲間と苦楽など共にしたこともない行動科学者などの専門主義者には、こうした心境やプロセスは決してわからないし、現実世界のマネジャーに教条を垂れる資格などないのだと論じたのだった。
私たちはまずこの純正な方法に倣い、その大きな成果を自分の目で確認した上で、さらなる応用を図れば良かったのである。
しかし、レバンスとて、上記のような共有と深いふり返りの場づくりを、仕事のついでに行いなさいとは言わなかった。当然別な場で行う必要がある。恐らく最悪の取り違えは───これは目的が適切であるかどうかと別次元で、方法論としての完全な誤りであるが───、風土改革、リーダシップ改革と称して、このアクションラーニングをいきなり正規公式の会議に適用しようとすることだろう。これは決してうまくゆかない。これは次回の稿で詳しく述べたい。
問題解決だけに焦点が当たる場合
組織風土改革はともかく、大変効果的な問題解決手法だと唱えられていることも誤解を招く。これも目的が不適切な場合である。私もアクションラーニングが結果として、根深い難問に切り込む成果を挙げることが多い事はわかる。ひとたび問題が提示されたら、その解決を粘り強く追及しないようでは、成長も何もない。それはその通りだ。が、問題解決だけを強調すると、問題がばさばさと解決されればそれでよいと言う事になり、それを遂行した主体である人間が成長したかどうかは、極端に言えばどうでもよくなってしまう。
なぜかはわからないがともかく問題は解決した、が、そこに残った人は成長していない、と言うことがあったとしよう。これほどむなしいことがあるだろうか。アクションラーニングの最後の焦点はどこまでいっても人間である。そうでないものはアクションラーニングとは言わない。
もっとひどくなるとどうなるか。へたな考えは休むに似たりとばかりに、社員に一律的な正解と標準手法を、無理やり押しつける。いっときの間は成果が上がったように見える時がある。が、やがて元に戻る。人が成長していないから全く応用が効かないからである。これは徒労である。最悪の状況は大切な社員達が書類上の報告のごまかしのテクニックにたけて来ることだ。こうした状況は「人間をいやしめ、おとしめるものだ」と既に10年前にドラッガーが、「ポスト資本主義社会」で難じている。
確かにだらだら時を過ごすのは時間のむだだが、人は自分の問題を自分で深く考え抜いて解決し克服しなければ絶対に成長しないのである。そして手法などは、隷属する対象ではなく、人間が使いこなすものである。しかし、キャリアが浅い人はそのプロセスを進んで行く速度が遅い。上司もまわりの者もいらいらするのはわかる。しかしじっと待ってあげなければならない。「早くやれ」とわめいたところで相手の能力がすぐに成長するわけではないからだ。もちろん、緊急時もあるから、いつでもじっと待てと言っているわけではない。が、少なくとも正社員で雇った人には、そうした機会とプロセスが、時に与えられてもよいのではないか。
ともあれ、見せ掛けの効率一辺倒の問題解決と、アクションラーニングとは全く別次元の効用をもたらすものである。詳しくは恐縮ながら拙著「アクションラーニング実戦術」等をお読み頂きたいが、アクションラーニングセッションを終えた受講者達の本当に心の底から出てくるような声がここでは何よりの証拠である。
「本当にすっきりしました」「迷いが晴れて挑戦する勇気が湧いてきました」「深く自分と向き合う事ができました」などなど。そのように心底から自分と向き合えた受講者は必ず速やかに行動する。ゆえに問題解決の大きな成果を得ることが多いと言う結果が現れるに過ぎない。結果が得られたのは、自分の方が変わったからだと言う事にこの場合の本質的意味がある。もし偶然得た成果なら、次は必ず手痛い失敗をするに決まっている。自分自身のありようと向き合わない限り問題は決して本質的な解決には至らないのだ。アクションラーニングは、そのプロセスを仲間と深く共有し、その支援の中で、より望ましい自分のスタンスをごく自然に形成してゆくのである。
読者の皆様は、本当に困難な問題を、自分と向き合わずに、つまり深い決心やある程度のリスクテーキングを伴わずに、解決できた事があるだろうか。私たちは、通常そんな事をなるべくしたくないので避ける。どうしても避けられない時だけ迫られて仕方なく行う。無我夢中に現実と斬り結んで過ごし、はっと気がついた時には自分も少しは成長したか、などと実感する。
効率の話ではないと言ったが、会社の人材の育成と言う観点からは、考えてみれば、これほど非効率な事はない。その間適切な支援がないために自信をなくし可能性を大きく狭めてしまう人、脱落してしまう人は、数えきれないほど多いだろう。アクションラーニングは、このプロセスを、より計画的、支援的に行うのである。
ファシリテート人材の不足
第二の主要原因は、このアクションラーニングをファシリテートすべき適切な人材の不足と言うより欠如である。会社の中で起きているなまなましい現実には触れた事もなければ考えた事もない、心理学や行動科学ならちょっとかじったと言うようなファシリテーター(講師、コーチ)に、あなたは自社の精鋭人材の何日もの時間を預けるだろうか。ファシリテーターすなわちアクションラーニングコーチは、よほど深く実施を依頼された組織の実態と人材にコミットメントしなければ、受講者の意識改革や行動変容は決して生じない。社内でコーチを養成するにしても、そのようなコミットメントは、通り一遍のセミナーを受け、何かのスキルの免許を講習会場で取るような事では決して涵養し得ない。
現場に出て、当初は敵意を含んだマネジャー達の視線にさらされながらも、彼らにやがて認められ受け入れられ、打ち解け合い、共有感を醸成する。こうした経験を何十度も何百度も繰り返して初めて真のコーチ、ファシリテーターが誕生するのである。
上記と正反対に、マネジメントの経験がない、組織に勤務してひとかどの範囲で責任を負った事がない、上司に仕えた事も部下を使った事もない人に、アクションラーニングコーチが勤まる可能性は極めて低い。現実にはそれに近いコーチが多い。アクションラーニングは、現象をぼんやり眺めている限りは、会議の司会とさして変わりないように見えるからだろう。時間管理と定型的なセリフを覚えれば誰でもできると思われてしまうのが大きな誤解の第二なのである。
そうした証拠に、冒頭に述べたように、私が受けるご相談の中に「(アクションラーニングを)ちょっとやってみたけどうまくゆかなかった」と言うものが増えている事である。たいてい組織勤務やマネジメントの経験ない外部の「コーチ資格者」やどこかで授業料を払って免許を取ってきた社内コーチに委ねた場合である。生身のからだにメスを入れた事のない免許取り立ての研修医に、いきなり難手術の執刀をお願いするようなものだ。残念ながら1度しくじると2度目のハードルはひどく高いものになってしまう。
真の目的と適切な運営を意識した時
以上のような、入り口の誤解を解き放って、真の目的と適切な運営を意識した時に、アクションラーニングには、他の人材開発手法に比して無尽蔵の豊かな水脈の流れを見いだす事ができるだろう。
あるきわめて切迫した問題を提示した受講者は、アクションラーニングを終えて言った。「重たいどろどろが、皆さん(他の受講者)のお蔭で、さらさらになりました。明日から少し開き直って行動したいと思います。」この受講者は、その問題を短時日のうちに解決したばかりか、周囲の人は言った。「どうもあの人は変わったようだ。前のあの人ではない。」
どうしたらこうしたプロセスが描けるようになるのか、次回以降述べてゆきたい。